何年か前、信州へ旅する途中、時刻表を読み間違え、乗り換えしそこない、貴重な旅の半日を、ただ駅の周辺で、ウロウロ過ごすという失敗をしたことがある。
「オバカなあたし!」と悔やんでみたものの、諦めて、4時間の待ち時間を、その見知らぬ小さな町で過ごすことにした。今となっては、その名前も思い出せない。
本来なら、立ち寄るはずのなかった田舎町、もう二度と来ることもないだろう死んだような町、そこで私は、思いがけず、美味しいお蕎麦を食べることができ、初めて「蕎麦がき」というものを口にした。
低い屋根のついたさびれた駅前商店街を歩くと、床屋があって、その入り口に、ステンドグラスがはまっていた。都会では、もう見ることができないレトロな鳥の模様が連なっていた
その先の味噌屋には、えんじ色の暖簾がかかっていた。濃いえんじ色で、風に揺れる布の動きも、穏やかだった。
その前に犬がいた。忠犬ハチ公のようなポーズで味噌屋の前にいた。顔をのぞくと、はにかんでうつむいた。田舎の犬らしく内気な感じだった。こういう犬って好き。背中をポンとたたくと、犬からぼわっと埃が立った。
それから、坂道を行くと、桜の木が両側に植わって、アーチのようになっていた。毎日ここを通って家に帰れる人は、幸せだと思った。
瓦葺の民家の軒先に、かわいい赤い三輪車がひとつ。ところが、「早くしなさい」とお母さんらしき人の金切り声の後に、「うぇーん」という泣き声が聞こえてきて、思わず笑ってしまった。
駅前にある「パーラー」の「ラ」の字が抜けている喫茶店で、コーヒーを飲んでいたら、いい時間になった。駅に向かい、待ちかねた列車に乗った。シートに座って、安堵感がこみあげた。
その町がしだいに遠ざかる。列車は、山の中に入る。緑の木漏れ日が、私の顔にもかぶる。ガタンゴトンと、列車の振動に、身を任せ、目を閉じた。
まだ旅先に着いていないのに、何だかとても旅をした気分になっていた。