モー吉の悠悠パース留学絵日記

この日記では、パースでの留学生活での出来事を中心に、心象風景を交えて、写真とエッセイにより、絵日記風に綴っています。

パンデミックの予兆 - 海を越えて

2020-05-03 21:50:20 | 今日を旅する
 今年も、確定申告のため、1月21日、日本へ旅立った。
 折しも、オストラリアは、去年から全土に広がったプッシュファイアーがようやく収まりつつあった時期であったが、飛行機の翼の下に広がった大地の上空には、まだ、ファイアーの煙の残骸と思しき黒っぽい雲が覆っていた。それは、いつも目にする、どこまでも澄み渡った大気を通して見える、あの赤い大地ではなかった。その印象的な情景をカメラに収めたかったが、あいにく、カメラをスーツケースに入れてあったので、そのイメージを記録することができなかった。それで、そのイメージを脳裏に焼き付け、いつの日か、絵にしようとスケッチをすることにした。
 それは、不吉な未来を暗示しているのだろうかと、ふと不安がよぎった。それは、いつもフライトのたびに感じる不安感、それは、大地に暮らす人類が、大地を離れるとき感じる共通の不安感であるが、それとは少し違っていた。それは、すでにその時、中国に広がりつつあったコロナウィルスの猛威を知っていたからかもしれない。そういえば、フライトの前日、妻が、それを心配してか、医療用マスクを一箱買い揃え、私に持参していく様にあてがってくれていました。

                              






 乗り継ぎのため、シンガポールのチャング空港で、いつも通り待ち時間を過ごしていたが、いつもに比べると、人の数が少ない様に感じられたが、相変わらず、中国人が多く、まだ、人の往来が禁止されていないことを物語っていた。
 私は、マスクを着用していたが、彼らのほとんどがマスクをしていない状況だった。チャング空港は世界一のハブ空港で、そこから世界のほとんどの国へ行くことができる空港だ。それで、その時、その後に世界各国へコロナが伝播した発端を見た様な気がした。
 そして、翌朝、中部国際空港に着くと、いつもより、少し少なめではあったが、相変わらず、中国人観光客が沢山たむろっていた。中国武漢から脱出してきた人たちであるかもしれないと思うと、その時、少し心配になっていました。後々、そういった人々から、日本の各地へコロナが伝播していった事実を、その後知ることになりました。







 久しぶりに、名古屋の自宅に着くと、庭には、水仙と寒椿の花が咲いており、主人のいないこの場所にも、毎年、命の花を咲かして待ってくれていて、旅の疲れを癒してくれることに感謝しました。。
 今年の名古屋は暖冬で、一度も雪が降っていないといっていた、タクシードライバーの言葉通り、到着の日以後も大変暖かい日が続きました。それで、まず、家の掃除や、車の点検などを済ませることにしました。
 その後は、年金の手続きなどの用事をまず済まし、郵便物の転送先になっている税理士事務所へ赴き、郵便物を受け取り、近況報告などをしました。いつも、彼とは、積もる話で、楽しい時間を持つことができ、また、彼の話から、日本の、また、名古屋の状況を知ることができ、助かったてます。
 また、今年は、姉が、腰の手術をするということで、名古屋の市大病院へ豊田から連日検査通院しており、私の家から近いため、その都度付き添うことになりました。その後、入院し、股関節を人工骨に変える手術をすることとなりました。そして、手術は成功し、手術後ほぼひと月ほどの入院生活をしていました。
 その一方で、その間に、心配していたコロナウィルスが世界中で徐々に広がり始めていました。
 日本では、最初は、2月はじめに、横浜港に入港したクルーズ船ダイヤモンドプリンセス号内での感染でしたが、その後に続いて、徐々に国内での感染が広がり始めました。国内での最初は、北海道でした。それは、おそらく、二月始めの札幌雪まつりにおとづれた、たくさんの中国人観光客から持ち込まれたウィルスに由来するものだと、確信しました。それは、私が、シンガポールのチャング空港で感じた不安があったからです。その当時、まだ、中国からの渡航禁止をシンガポールも日本もしていなかったからです。唯一していたのは、台湾ぐらいでした。北海道での感染拡大に対して、北海道鈴木知事は、勇敢にも、国とは独自に緊急事態宣言を発し、拡大の阻止に対処しました。彼のこの英断は、海外でも大いに賞賛されました。その後、その措置により、北海道での感染の第一波は食い止められることにつながりました。その後、次々と、感染の波が、大阪、名古屋を始め、その後東京へも直撃することとなりました。




 それにつれて、各地で、外出自粛要請や休校の措置が取られることになりました。私が暮らす名古屋においても、二つのクラスター(集団感染)が発生し、全国でも2番か3番目のたくさんの感染者が発生することになりました。私がよく行くイオンのショッピングモールでも一人の感染者が出たため、それまで混んでいた駐車場が大変空いた状態になっていました。



 それで、私も、安心な場所を選んで、食料品の購入などを済ます様になりました。例えば、それは、昔から地元の人が利用している食料日用品店や、古くからある笠寺と言われる由緒ある寺の境内で毎月の六の日に開かれる青空市場です。特にその市場は、各地からやってきて、テントの店を開いているいろいろな人や店があり、楽しい雰囲気のため、毎回通う様になりました。









 そんな状況であったため、あまり外出しない様にしていましたが、市役所時代の友人で、写真を趣味とし、クラッシックカメラの収集家でもあるKくんからの誘いで、名古屋駅のカフェで互いに写真集を持ち寄り、写真談義をすることになりました。
 彼は、写真を題材に本のデザインと制作を計画しており、私も、留学生活の記録を綴ったブログの記事をまとめた本の制作を計画をしていたため、大いに話が弾みました。私が写真学校の卒業に際して制作印刷した写真集について、その苦労話を披露することになりました。
 そのカフェは、近年の駅前再開発で新築されたビルの中にあり、駅周辺や遠くまで見渡せるベランダを併設しており、そこから遠くに名古屋のシンボル名古屋城を見ることができます。









 彼との楽しい時間を過ごした数日後、毎回帰国の折には集まって、旧交を温めている市役所仲間とも、名古屋駅のいつも利用している居酒屋に集まり、お互いの近況を報告し合い、楽しい時間過ごすことができました。
 今回の帰国では、まだ、本格的に日本に戻る予定ではなく、三月にオーストラリアへ戻る予定でした。そこで、いざ戻るために、飛行機を予約しようと、シンガポール空港の予約サイトを開くと、すでに予約がクローズになっており、すでに予約済みのチケットも六月以降に変更されることになっていました。全日空のパースと成田の直行便も減便されていました。まだ、この時には、出入国禁止にはなっていませんでしたが、オーストラリアでは入国できたとしても、二週間の自宅隔離という措置がなされていました。その後、しばらくして、出入国禁止の鎖国状態になりました。日本も、徐々に出入国の管理が厳しくなり、ついには、オーストラリアと同様に、鎖国状態になりました。オーストラリアの状況については、娘や妻からもメールで知ることとなり、また、日本領事館からも同様の内容のメールが届いていました。
 オーストラリアは日本ほどの感染状況ではなかったにも関わらず、早くから出入国の管理を厳しくしていました。オーストラリアは、昔から、固有種の生物保護のため、国内への生物の持ち込みには、厳しく管理をしてきた歴史があり、その様な姿勢からか、今回のコロナウィルスに関しても、特に厳しく対処していました。また、それは、去年から続いていた森林火災のクライシスを体験していたため、続いて起こりつつあったコロナクライシスに対しても敏感に反応し、対処できたのではと、思いました。
 そして、その時点で、学校では、すでにオンライン授業になっており、妻の英語学校も同様の様でした。スーパーでは、みんなが買い漁るため、すぐに紙類がなくなるようになり、手に入れるのに、妻たちは大変苦労している様でした。
 この様な状況下なので、日本での滞在が長期(六ヶ月ほど)に渡ることが予想されたため、腰を据えて、名古屋での単身生活を送る覚悟を決め、その準備に取り掛かりました。
 まずはじめに、歯医者に通っていたため、医療費のことも考え、また、コロナはもちろん、その他の病気のことも考え、留学を終え、完全に日本へ戻ってからと考えていた住民登録を、早々に済ませ、国民健康保険に加入する手続きも済ませました。そして、交通費が無料になる敬老パス取得の手続きも済ませました。それに関連した一連の手続きをすませると、少し安心しました。
 そして、今まで、一時帰国の折には、毎回簡単に済ましていた日常生活についても、少し、改善することにしました。それは、具体的には、例えば、食生活においては、自炊を中心にし、ご飯を炊飯器で炊き、料理もできるだけ作る様にし、シャワーで済ましていた風呂も、、湯船に入る様にしました。そして、気になっていた障子や網戸の損傷したところを、業者にたのみ、修繕してもらいました。また、留学をはじめてから七年余り、整頓していなかった自室の整頓に取り掛かり、勉強しやすい環境を整えることにしました。
 そんな日常生活の改善とともに、外出自粛で運動不足になることのない様に、毎朝の体操とともに、カメラを持って、近所によく散歩に出かける様になりました。








 それは、私が住んでいる近くには、由緒ある笠寺観音を始め、弥生時代の遺跡を再現している見晴台考古資料館とその周辺を取り巻く笠寺公園という散策に適した大きな公園があるからでした。
 そして、この近辺は、万葉集の時代には、古代の笠寺台地の縁にあたり、その東方には、万葉集の歌に読まれている年魚市潟(あゆちがた)を見下ろすことができる場所でした。古代には、年魚市潟を望むことができたその場所は、今は、笠寺公園の縁にあたり、年魚市潟の代わって、家並みやビル群を見下ろすことができます。




 キンモクセイや雪柳の花とともに、早咲きの桜が咲き始めた三月の初め、笠寺の六の市で野菜や果物を買い求めた、その後、その笠寺公園へ写真を撮りに行きました。
 折しも、コロナによる外出自粛、学校の休校の時期とあって、子供達が、家族とともに、また、友達と一緒に、その公園に遊びに来ていました。その広々とした見晴らしのいい台地の縁に立つと、心が開かれ、ストレスが発散される様です。
 それは、はるか万葉の時代、古代の民が、その同じ大地の縁に立ち、年魚市潟を眺めたときに感じた、驚きと感動で、その心が伸びやかに解き放たれ、歌を読み上げた時と、同じ様な心の高揚を感じることができる証かもしれません。
 また、そこには、この地で百歳まで生きたあの金さん銀さん姉妹の名を持つ桜の木が植えられており、その碑が建てられています。










 そこでは、今、子供達は、風に乗せて、空高く凧をあげるのに熱中していました。彼らの願いを込めた凧は、なかなか風に乗ることができずに悪戦苦闘している様でした。それでも、彼らは凧につながる糸を必死になって引っ張っていました。彼らの願いを込めた凧が天高く登る様に。





 その姿は、現在ある我々の状況、日本の状況、そして、世界のこのコロナウィルスのクライシスの状況を映し出している様でした。
 それで、その時、私は、その情景を写真に収めながら、彼らの凧が天高く揚がっていく様に、思わず応援していました。
 そして、これから開花するであろう子供達の桜が、金さん銀さん桜の様に、長生きできる様にと。





















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