亡き母に捧ぐーメッセージー 10月14日小雨のち晴れ
今日は、おふくろの葬儀の日です。
おふくろの死を知ったのは、12日の深夜で、めいからのメールでした。
メールは日本時間の午後6時から三回届いていましたが、その日は忙しい日で、メールと電話をチェックしたのが、深夜になってしまったからです。午後から新しく引っ越すrent houseの立ち会いがあったので、午後から学校を休み、それが終わり、鍵のチェックなどをしていたら、7時過ぎにになっていたからです。午前1時過ぎに返信メールをうち、電話は深夜でしたので、明るくなってからにすることとし、今後の対応の仕方などを調べていましたら、4時過ぎになっていました。パースから名古屋への直行便がないことと、学校への届出が必要なのですが、あいにく週末で学校が休みのため、葬儀にはおそらく間に合わないだろうと思いましたが、帰国するつもりで準備を始めました。11時ころ、実家に電話連絡し、兄と相談した結果、葬儀に間に合わないのなら、49日の時にした方がよいのではないかということになり、葬儀へ行くことは残念ながら見送ることとしました。
おふくろの最後の表情を見れないことを悔やみ、おふくろにも申し訳ないと心の中でお詫びをしました。
今想うと、先日のブログ「写真の友K君に捧ぐ」で書いた、数日来のかもめのの奇怪な行動は、おふくろからのメッセージもあったのだろうかと、想うようにもなりました。
そのメッセージはなんだったのだろうか。
自分の死が近いことを告げるものなのだったのか、私の留学を喜んで励ましてくれているものだったのだろうか。
おふくろは、94歳まで生きたのであるから、天寿を全うした人生として、おそらく幸せな最後を迎えたものと想いますが。
おふくろの人生は、どんなものだったのだろうか。
岐阜の山あいの村の庄屋の長女として生まれ、若い頃母親を亡くしたため、長女として兄弟の面倒を見ることになり、苦労したと聞いています。
私が幼い頃、おふくろの病弱な弟が、頼って何か相談に来ていたことを覚えています。食料不足の戦争中は、兄や姉たち子供を抱え、苦労したことも聞いております。
戦後も、父が始めていた工場の関係でも苦労したものと思います。
ただ、そのころ、日本の復興とともに、地元の自動車産業の繁栄の礎を築いたその時期が、おふくろにとっても、一番良い時代ではなかったかと思います。
今程生活も便利ではなく、豊かではありませんでしたが、人々が、共に働き、共に遊び、共に喜び、共に悲しんだ良き時代ではなかったかと、思っています。
その故郷の廻りには、まだ田園地帯が広がり、田畑の小川には、めだか、オタマジャクシ、どじょうなどの生き物がいて、しじみやたにしなどをとることもでき、初夏の夕べには、蛍が舞う、生きとし生けるものが共存していた時代でした。
私はその時代を、「共立(ともだち)の時代」と呼び、私のホームベージの「あの日を旅する」で印す予定です。
私が「共立の時代」と命名したその言葉は、奇しくも、親父が創業した工場「共立製作所」の名前でもありました。親会社の自動車工業は、その創業者の名を冠していましたが、私は、その「共立(友達)」の精神を宿したその名の方が好きでした。
ただ、そのころ、日本の復興とともに、地元の自動車産業の繁栄の礎を築いたその時期が、おふくろにとっても、一番良い時代ではなかったかと思います。
今程生活も便利ではなく、豊かではありませんでしたが、人々が、共に働き、共に遊び、共に喜び、共に悲しんだ良き時代ではなかったかと、思っています。
その故郷の廻りには、まだ田園地帯が広がり、田畑の小川には、めだか、オタマジャクシ、どじょうなどの生き物がいて、しじみやたにしなどをとることもでき、初夏の夕べには、蛍が舞う、生きとし生けるものが共存していた時代でした。
私はその時代を、「共立(ともだち)の時代」と呼び、私のホームベージの「あの日を旅する」で印す予定です。
私が「共立の時代」と命名したその言葉は、奇しくも、親父が創業した工場「共立製作所」の名前でもありました。親会社の自動車工業は、その創業者の名を冠していましたが、私は、その「共立(友達)」の精神を宿したその名の方が好きでした。
その頃、おふくろは、地元の奥さんたちとともに、工場の手伝いをしたり、おやじがよく遊びに連れて行った地元の子供たちや、九州、四国からやって来て親父の工場で働いている若者たちの面倒までみていました。その頃のおふくろは、まさにその言葉どおり、われわれをそのおおきなふくろ(心)で包んでくれた存在だったと、今想っています。
その「共立の時代」の精神が徐々に失われ、変貌していったのは、いつの頃からだろうか。
今想えば、それは、私が中学生の頃、私たちの住んでいた街の歴史ある名が、親会社のその名に変わった時期からではないだろうか。
その頃から、親会社の急成長とともに、町も発展することになり、生活は確かに豊かにはなりました。それとは裏腹に、共に働き、共に遊び、共に喜び、共に悲しんだ「共立の精神」は徐々に失われ、生きとし生けるものが共存していた豊かな自然を失うこととなりました。
その変貌は果たしてよかったのだろうか。
その変貌は果たしてよかったのだろうか。
そんなことを考えながら、14日の葬儀の日、私は引っ越しの準備を終えて、アパートメントへの帰りの途についていました。
その折、バス停で東の空を見ると、パースでも珍しい程の鮮やかで大きな虹がかかり、ビルの窓から人々が歓声をあげていました。私は、その虹を眺めながら、きっとおふくろも成仏してくれたものと想い、少しほっとしました。
そう言えば、おふくろの死を聞いてから、私が沈んでいると、妻が、「お母さんは、教育熱心な方だったから、この地で、勉強をしっかりすることが一番の親孝行ではないのかな?」と言って励ましてくれたことを思い出し、私も、虹のかなたに向かって、決意を新たにしました。
そう言えば、おふくろの死を聞いてから、私が沈んでいると、妻が、「お母さんは、教育熱心な方だったから、この地で、勉強をしっかりすることが一番の親孝行ではないのかな?」と言って励ましてくれたことを思い出し、私も、虹のかなたに向かって、決意を新たにしました。
空には、あのカモメたちが、おふくろの安らかな成仏を見送るように、優雅に飛び交っていました。
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