2011年9月23日(金)
実は、ウィステは、結婚指輪をしていない。
それには、訳が・・・。
そして、その訳を以前、エッセイに書きました・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「結婚指輪談義」
主婦仲間で作った月に一度の読書会は、今月も、ついつい本の話から横道にそれては、
賑やかに盛り上がる。
「だからね、ペンチで指輪を切っちゃったのよ。」
と、にこにこ笑いながら言うAさんの声が、テーブルの向こう端から聞こえてきた。
「えっ、どうして、また」
と、話を途中から聞いたので、今ひとつ様子が分からない私が尋ねると、
「きつくなった指輪を、無理矢理指にはめたら、指がふくれて来ちゃって、これはヤバイと抜こうと
するんだけど、どうしても抜けなくなったのよ。氷で手を冷やしても、石鹸をつけてつるつるさせても、
だめだったの。痛くなってきて、これは、救急車でも呼ばなくちゃならないかと焦ったんだけど、
近所中にサイレンを響かせてやって来られるっていうのも恥ずかしいし。
とうとう、小さなペンチをなんとか指との間に差し込んで、えいやっと切ったの。切れて、ほっとしたわ。
危なかったわ。指は、なんとか無事だったし、指輪は、ポイと捨てちゃったわ」
「え、あの、結婚指輪を・・」
と、私が恐る恐る聞くと、
「違う違う。昔、買った指輪よ」と言うAさんのまるっこい指には、指輪はなにもない。
「そう言えば、みなさん、結婚指輪って、してますか」
と、私は聞いてみた。
「ああ、結婚一年くらいで、どこかで、なくしちゃった。」
と、Bさん。
「手を洗ったときに外して、それから行方不明になってしまったの。」
と、Cさん。
「二十四金だったんだけど、子供の運動会の応援に行ったときに、ブチッて、千切れちゃったのよ、本当に。」
と、情けなさそうに言ったのは、Dさん。ほっそりと上品な感じのDさんなのに、いったいどんな応援ぶり
だったのかしらと、みんなでひやかした。そんな意外な一面を聞くことが出来るので、横道談義は、捨てがたい。
そして、なんと、その場にいた九人全員、ほらと見せあった左手の薬指には結婚指輪はすでになかったのだ。
もちろん、私の指にも。別に、夫婦仲の悪い人の集まりってわけでもないのだが。
「外したときは、ものすごく解放感があったわね・・」
と、私がしみじみ言うと、みな、
「うん、うん」
と、頷いていた。
結婚式で夫がしてくれた結婚指輪。あの頃は、指輪をしているということがうれしかったのだ。結婚生活も
長くなり、家事に育児に忙しい毎日を送るようになるにつれ、私にとって指輪は特に意識するでもない
「空気のような存在」になっていった。
しかし、時の流れの中で、私は変わった、いや、太った。すると、指輪も、
<このままいけば私の指が危ない>
と焦るほど、指を締め付ける存在へと変わってしまったのだ。
「別に、抜けなくたっていいじゃない。」
と、夫は暢気なことを言っていた。
数年後、幸い少し痩せた時期がきて、そのとき、
<今を逃したら、もう一生外せないわ>
と、えいっと外したのだ。だから、結婚からの解放感というよりも、私の場合は、とにかく私を締め付けるもの
からの解放感と言える。自分の都合で外してしまうところが、伝統あるキリスト教の結婚指輪への態度とは
異なるのだろう。
「外したってことに、ご主人は、気づいているの」
と、みんなに聞くと、
「さあ、気づいてるのかどうか」
との声が返ってくる。重ねて、
「ところで、ご主人は結婚指輪してらっしゃるの」
と聞いてみる。
「してないわよ。」
と、いっせいに否定の返事。我らが夫殿は最初からしていなかったのだ。その分、私たちも自分の気持ち次第で
外し易かったわけだ。
Aさんだけは、
「主人は、仕事で外国の方と会う機会が多いので、既婚者と分かるように結婚指輪をしてるのよ。」
と、まるで仕事の都合上しているのだと言わんばかりの口調だったのが、仲間たちの笑いを誘った。
サイズが合わなくなった私の結婚指輪は、箱に入れてしまってある。そして、はやばやと結婚指輪をなくした
Bさんも、私も、自分の好みで選んだ、軽やかなファッションリングをはめて楽しんでいる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日は、休日で、ダンスパーティに行ってきたんだ。
ダンスって、ネックレスやイアリングはするけれど、指輪って邪魔でやっぱりしないわね・・・。(^^)
指が太いから、指輪をしなくなるのか、指輪をしないから、指はのびのびと、さらに太っていくのか・・?(^^;)
実は、ウィステは、結婚指輪をしていない。
それには、訳が・・・。
そして、その訳を以前、エッセイに書きました・・。
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「結婚指輪談義」
主婦仲間で作った月に一度の読書会は、今月も、ついつい本の話から横道にそれては、
賑やかに盛り上がる。
「だからね、ペンチで指輪を切っちゃったのよ。」
と、にこにこ笑いながら言うAさんの声が、テーブルの向こう端から聞こえてきた。
「えっ、どうして、また」
と、話を途中から聞いたので、今ひとつ様子が分からない私が尋ねると、
「きつくなった指輪を、無理矢理指にはめたら、指がふくれて来ちゃって、これはヤバイと抜こうと
するんだけど、どうしても抜けなくなったのよ。氷で手を冷やしても、石鹸をつけてつるつるさせても、
だめだったの。痛くなってきて、これは、救急車でも呼ばなくちゃならないかと焦ったんだけど、
近所中にサイレンを響かせてやって来られるっていうのも恥ずかしいし。
とうとう、小さなペンチをなんとか指との間に差し込んで、えいやっと切ったの。切れて、ほっとしたわ。
危なかったわ。指は、なんとか無事だったし、指輪は、ポイと捨てちゃったわ」
「え、あの、結婚指輪を・・」
と、私が恐る恐る聞くと、
「違う違う。昔、買った指輪よ」と言うAさんのまるっこい指には、指輪はなにもない。
「そう言えば、みなさん、結婚指輪って、してますか」
と、私は聞いてみた。
「ああ、結婚一年くらいで、どこかで、なくしちゃった。」
と、Bさん。
「手を洗ったときに外して、それから行方不明になってしまったの。」
と、Cさん。
「二十四金だったんだけど、子供の運動会の応援に行ったときに、ブチッて、千切れちゃったのよ、本当に。」
と、情けなさそうに言ったのは、Dさん。ほっそりと上品な感じのDさんなのに、いったいどんな応援ぶり
だったのかしらと、みんなでひやかした。そんな意外な一面を聞くことが出来るので、横道談義は、捨てがたい。
そして、なんと、その場にいた九人全員、ほらと見せあった左手の薬指には結婚指輪はすでになかったのだ。
もちろん、私の指にも。別に、夫婦仲の悪い人の集まりってわけでもないのだが。
「外したときは、ものすごく解放感があったわね・・」
と、私がしみじみ言うと、みな、
「うん、うん」
と、頷いていた。
結婚式で夫がしてくれた結婚指輪。あの頃は、指輪をしているということがうれしかったのだ。結婚生活も
長くなり、家事に育児に忙しい毎日を送るようになるにつれ、私にとって指輪は特に意識するでもない
「空気のような存在」になっていった。
しかし、時の流れの中で、私は変わった、いや、太った。すると、指輪も、
<このままいけば私の指が危ない>
と焦るほど、指を締め付ける存在へと変わってしまったのだ。
「別に、抜けなくたっていいじゃない。」
と、夫は暢気なことを言っていた。
数年後、幸い少し痩せた時期がきて、そのとき、
<今を逃したら、もう一生外せないわ>
と、えいっと外したのだ。だから、結婚からの解放感というよりも、私の場合は、とにかく私を締め付けるもの
からの解放感と言える。自分の都合で外してしまうところが、伝統あるキリスト教の結婚指輪への態度とは
異なるのだろう。
「外したってことに、ご主人は、気づいているの」
と、みんなに聞くと、
「さあ、気づいてるのかどうか」
との声が返ってくる。重ねて、
「ところで、ご主人は結婚指輪してらっしゃるの」
と聞いてみる。
「してないわよ。」
と、いっせいに否定の返事。我らが夫殿は最初からしていなかったのだ。その分、私たちも自分の気持ち次第で
外し易かったわけだ。
Aさんだけは、
「主人は、仕事で外国の方と会う機会が多いので、既婚者と分かるように結婚指輪をしてるのよ。」
と、まるで仕事の都合上しているのだと言わんばかりの口調だったのが、仲間たちの笑いを誘った。
サイズが合わなくなった私の結婚指輪は、箱に入れてしまってある。そして、はやばやと結婚指輪をなくした
Bさんも、私も、自分の好みで選んだ、軽やかなファッションリングをはめて楽しんでいる。
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今日は、休日で、ダンスパーティに行ってきたんだ。
ダンスって、ネックレスやイアリングはするけれど、指輪って邪魔でやっぱりしないわね・・・。(^^)
指が太いから、指輪をしなくなるのか、指輪をしないから、指はのびのびと、さらに太っていくのか・・?(^^;)