2011年11月4日(金)
今日は、ラウンドダンスの先生がラウンドダンス界から表彰されたお祝い会。
先生は、25年もラウンドダンスの指導をされてきて、活動が認められたんだ。
弟子の我々としては嬉しいけれど、ぐ~たら弟子ですみません。
サプライズだから、先生には、お食事会と言って、ひみつ。(^^)
金曜日、ウィステたちの午前サークルと午後のサークルの合同なので、
今日は、午後の人たちと一緒に午前、昼食、午後とすることになっている。
午前のレッスンは無事済んで、さあ、お昼ご飯~♪
お寿司をとって、先生には、お祝いのお花~♪と、サプライズ。
先生おめでとうございますと、お茶で乾杯~。(^^)
女性の集まりだから、手作りの差し入れも・・。
トウガンの煮物は、シーチキン入り。・・・こういう煮方もあったのか・・。
チョコケーキも、簡単なのよと作って持ってきてくださったり・・。
体調が優れず、お休み中のGさんは、おはぎ30個を作って持ってきてくれた。
餡が良いお味。
Tさんはお庭の柿をむいてきてくれた。
甘い・・。(^^)
ウィステの子供の頃、庭に柿の木があったんだ。でも、渋柿・・。
ハハの心にも深く残っているようだ。
そこで、ハハと渋柿のエッセイを思い出した・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「渋柿」
母が六月半ばに肺炎を起こし隣の市の病院に入院してから、二ヶ月が過ぎた。当初の肺炎は治まり、
病室のベッドの上で、
「ここにも、すっかり長くなったね」という母に、そろそろ家への里心がついていると分ってはいる。
だが、八十五歳になる父が、入院生活ですっかり足腰の弱った母と二人で一つ屋根の下に暮らすとなると、
ストレスから共倒れの危険すらある。母はしばらくは療養型病床群という病棟に居られることになったが、
早急に次の落ち着き先を決めなくてはならない。父自身、
「生活するとなると難しい」と、母を近くのリハビリ施設(介護老人保健施設)に入所させ、毎日見舞いに
行くという介護方法を望んでいる。それが良いと私も思う。実際、
〈なんとしても父と暮らしてきた家に母を連れ帰ってあげよう〉
という踏ん張りが湧いてこないのだ。入院するまでは、隣に住む私が着替えもままならなくなった母の身の
回りの世話をし、父母の食事を作り、母をデイケアに週三回送り出していた。母が入院し、そのような
慌しい日常がプツンと切れると、どっと疲れが出てきた。母が家に戻るや前にも増して慌しい日々が
再び始まるのかと思うだけで、体の芯が重くなる。それでも、心の滓の中から、
〈母は、家に帰りたがっているのに〉と、泡の様に湧いて来る苦い言葉は、ある。
〈母のために、やれるところまで、やってもみないで〉という後ろめたさに付きまとわれながら、
夏の最中、何箇所もの施設を父と、あるいは一人で見学してまわった。
〈父や母、私自身のためにもベターな方策だから、これでいこう〉と、自分に言い聞かせてきた。
結局、父と、家から車で二十分ほどで行けるリハビリ施設に決めて申し込みをした。そのことは、さらっと
母に伝えたが、痴呆の気もある母はどこまで理解したろうか。
リハビリ施設巡りの慌しさも過ぎ、あとは施設の入所の順番が来るのを待つだけとなった夏の終わりに、
台風が千葉県を直撃し、私が住む街も一晩嵐が吹き荒れた。病院の建物には雨戸はなくガラス窓だけだし、
母はどうだったろうと、次の日、母の病室へ行くと、母と話をしていた言語訓練士が、
「お母さん、柿ノ木の心配をしていましたよ。お家の庭に大きな柿ノ木があるそうですね」
と、言う。「庭の柿ノ木」と、言われ、一瞬戸惑った。そんな木はない。いや、ある……。
弟と私が育った東京の家の話だ。その庭には、大きな柿ノ木があり、私の掌に余るほどの大きな朱色に
輝く実が成った。生憎、渋柿だったけれど。渋抜きの方法を近所の人に聞いてきては、母は、家の柿の
実をお米に埋めてみたり、焼酎を吹きつけたりしてみたが、残念ながら渋は抜けなかった。干し柿も
試してはみたが、カビが生え上手くいかなかったようだ。ぐずぐずになるほど木で熟れさせた実を啜るように
口に含むと、甘い。だが、喜ぶ間もなく、すぐに口の中いっぱいに渋みが広がってくる。それほど、
しつこい渋みだった。小学生の頃、訪ねて来た叔父に、弟と二人で、「甘いよ」と、熟れた実を騙して
食べさせるという悪さをして、後で母に叱られたこともあった。だから、実はもっぱら鳥専用となり、
家族からもそんなに大切にされた木でもない。普段の暮らしでは物忘れが激しいのに、なんの加減で
母はその柿ノ木を思い出したのだろう。
「柿ノ木ね……。それ、今の家の木じゃないんです。こっちに引越してくる前、二十五年も前に住んでいた
東京の家の話なんです」と、言うと、訓練士の女性は、はっと目を見張った。それから、ベッドの母の上に
屈み込んで、
「ハハさん、柿ノ木ね、今のお家じゃないんですって。前のお家の木ですって」
と、話かけた。だが、母には通じなかったのか、彼女をじっと見上げているままだ。そこで、
「あの柿は、渋柿だったね」と、私が声をかけた。すると、今度は母が、目を大きく見開いて
私の顔を見詰めた。渋柿ということまでは思い出していなかったのだろう。悪いことを言ってしまった。
母を安心させようと、私は、母に微笑み返した。
帰り道、ハンドルを握っていても、母の驚いた顔が浮かぶ。母の中では、昔のことと今のことが
ごっちゃになっているようだ。そういうことなら、もしかしたら、母が一番帰りたい家は、今はもう無い
東京の家かもしれない。その家で母は家族のご飯を炊き、言う事を聞かない弟や私を追いかけ、
テキパキと家事をかたずける主婦としての盛りの日々を過ごしたのだ。母の思いの中では、そこは今でも
きっと過ぎし日の自分が居る大切な家なのだろう。だが、その家に連れて帰ることは出来ない。
いや、かつての東京の家であろうと今住んでいる千葉の家であろうと、どちらにしても出来ないことは
出来なくて良いのだ、きっと……。
〈母は家に帰りたがっているのに〉という縛りが少し緩んだ。そうだ、ようやく車椅子に乗れるまでに
回復したことだし、せめて一時帰宅で母を家に連れて帰ろう。勿論、父と二十五年住む今の家にだ。
居間で父とおやつを食べ、ポチを抱けば、母はひととき寛ぐだろう。久しぶりに孫達の顔も見せてやりたい。
それには、仕事に学校にと忙しいみんなの日程を合わせなければならないから、夜にでもメールで都合を
聞こう。それから、外出届けもナースステーションに出すこと。介護タクシーの会社へ予約する必要もある。
私は、手配することを考えながら、台風の吹き返しの風を切って家へと車を走らせた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ハハが入院・施設入所生活を始めて、もう6年になるんだなあ・・。
さて、午後のレッスン、お腹がくちくなって、お昼寝タイム。
もう眠くって、眠くって、眠気をかき分けながら踊ったわ・・。(^^;)
今日は、ラウンドダンスの先生がラウンドダンス界から表彰されたお祝い会。
先生は、25年もラウンドダンスの指導をされてきて、活動が認められたんだ。
弟子の我々としては嬉しいけれど、ぐ~たら弟子ですみません。
サプライズだから、先生には、お食事会と言って、ひみつ。(^^)
金曜日、ウィステたちの午前サークルと午後のサークルの合同なので、
今日は、午後の人たちと一緒に午前、昼食、午後とすることになっている。
午前のレッスンは無事済んで、さあ、お昼ご飯~♪
お寿司をとって、先生には、お祝いのお花~♪と、サプライズ。
先生おめでとうございますと、お茶で乾杯~。(^^)
女性の集まりだから、手作りの差し入れも・・。
トウガンの煮物は、シーチキン入り。・・・こういう煮方もあったのか・・。
チョコケーキも、簡単なのよと作って持ってきてくださったり・・。
体調が優れず、お休み中のGさんは、おはぎ30個を作って持ってきてくれた。
餡が良いお味。
Tさんはお庭の柿をむいてきてくれた。
甘い・・。(^^)
ウィステの子供の頃、庭に柿の木があったんだ。でも、渋柿・・。
ハハの心にも深く残っているようだ。
そこで、ハハと渋柿のエッセイを思い出した・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「渋柿」
母が六月半ばに肺炎を起こし隣の市の病院に入院してから、二ヶ月が過ぎた。当初の肺炎は治まり、
病室のベッドの上で、
「ここにも、すっかり長くなったね」という母に、そろそろ家への里心がついていると分ってはいる。
だが、八十五歳になる父が、入院生活ですっかり足腰の弱った母と二人で一つ屋根の下に暮らすとなると、
ストレスから共倒れの危険すらある。母はしばらくは療養型病床群という病棟に居られることになったが、
早急に次の落ち着き先を決めなくてはならない。父自身、
「生活するとなると難しい」と、母を近くのリハビリ施設(介護老人保健施設)に入所させ、毎日見舞いに
行くという介護方法を望んでいる。それが良いと私も思う。実際、
〈なんとしても父と暮らしてきた家に母を連れ帰ってあげよう〉
という踏ん張りが湧いてこないのだ。入院するまでは、隣に住む私が着替えもままならなくなった母の身の
回りの世話をし、父母の食事を作り、母をデイケアに週三回送り出していた。母が入院し、そのような
慌しい日常がプツンと切れると、どっと疲れが出てきた。母が家に戻るや前にも増して慌しい日々が
再び始まるのかと思うだけで、体の芯が重くなる。それでも、心の滓の中から、
〈母は、家に帰りたがっているのに〉と、泡の様に湧いて来る苦い言葉は、ある。
〈母のために、やれるところまで、やってもみないで〉という後ろめたさに付きまとわれながら、
夏の最中、何箇所もの施設を父と、あるいは一人で見学してまわった。
〈父や母、私自身のためにもベターな方策だから、これでいこう〉と、自分に言い聞かせてきた。
結局、父と、家から車で二十分ほどで行けるリハビリ施設に決めて申し込みをした。そのことは、さらっと
母に伝えたが、痴呆の気もある母はどこまで理解したろうか。
リハビリ施設巡りの慌しさも過ぎ、あとは施設の入所の順番が来るのを待つだけとなった夏の終わりに、
台風が千葉県を直撃し、私が住む街も一晩嵐が吹き荒れた。病院の建物には雨戸はなくガラス窓だけだし、
母はどうだったろうと、次の日、母の病室へ行くと、母と話をしていた言語訓練士が、
「お母さん、柿ノ木の心配をしていましたよ。お家の庭に大きな柿ノ木があるそうですね」
と、言う。「庭の柿ノ木」と、言われ、一瞬戸惑った。そんな木はない。いや、ある……。
弟と私が育った東京の家の話だ。その庭には、大きな柿ノ木があり、私の掌に余るほどの大きな朱色に
輝く実が成った。生憎、渋柿だったけれど。渋抜きの方法を近所の人に聞いてきては、母は、家の柿の
実をお米に埋めてみたり、焼酎を吹きつけたりしてみたが、残念ながら渋は抜けなかった。干し柿も
試してはみたが、カビが生え上手くいかなかったようだ。ぐずぐずになるほど木で熟れさせた実を啜るように
口に含むと、甘い。だが、喜ぶ間もなく、すぐに口の中いっぱいに渋みが広がってくる。それほど、
しつこい渋みだった。小学生の頃、訪ねて来た叔父に、弟と二人で、「甘いよ」と、熟れた実を騙して
食べさせるという悪さをして、後で母に叱られたこともあった。だから、実はもっぱら鳥専用となり、
家族からもそんなに大切にされた木でもない。普段の暮らしでは物忘れが激しいのに、なんの加減で
母はその柿ノ木を思い出したのだろう。
「柿ノ木ね……。それ、今の家の木じゃないんです。こっちに引越してくる前、二十五年も前に住んでいた
東京の家の話なんです」と、言うと、訓練士の女性は、はっと目を見張った。それから、ベッドの母の上に
屈み込んで、
「ハハさん、柿ノ木ね、今のお家じゃないんですって。前のお家の木ですって」
と、話かけた。だが、母には通じなかったのか、彼女をじっと見上げているままだ。そこで、
「あの柿は、渋柿だったね」と、私が声をかけた。すると、今度は母が、目を大きく見開いて
私の顔を見詰めた。渋柿ということまでは思い出していなかったのだろう。悪いことを言ってしまった。
母を安心させようと、私は、母に微笑み返した。
帰り道、ハンドルを握っていても、母の驚いた顔が浮かぶ。母の中では、昔のことと今のことが
ごっちゃになっているようだ。そういうことなら、もしかしたら、母が一番帰りたい家は、今はもう無い
東京の家かもしれない。その家で母は家族のご飯を炊き、言う事を聞かない弟や私を追いかけ、
テキパキと家事をかたずける主婦としての盛りの日々を過ごしたのだ。母の思いの中では、そこは今でも
きっと過ぎし日の自分が居る大切な家なのだろう。だが、その家に連れて帰ることは出来ない。
いや、かつての東京の家であろうと今住んでいる千葉の家であろうと、どちらにしても出来ないことは
出来なくて良いのだ、きっと……。
〈母は家に帰りたがっているのに〉という縛りが少し緩んだ。そうだ、ようやく車椅子に乗れるまでに
回復したことだし、せめて一時帰宅で母を家に連れて帰ろう。勿論、父と二十五年住む今の家にだ。
居間で父とおやつを食べ、ポチを抱けば、母はひととき寛ぐだろう。久しぶりに孫達の顔も見せてやりたい。
それには、仕事に学校にと忙しいみんなの日程を合わせなければならないから、夜にでもメールで都合を
聞こう。それから、外出届けもナースステーションに出すこと。介護タクシーの会社へ予約する必要もある。
私は、手配することを考えながら、台風の吹き返しの風を切って家へと車を走らせた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ハハが入院・施設入所生活を始めて、もう6年になるんだなあ・・。
さて、午後のレッスン、お腹がくちくなって、お昼寝タイム。
もう眠くって、眠くって、眠気をかき分けながら踊ったわ・・。(^^;)