中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

鷺田橋と「呂久の渡し」(旧中山道を歩く 258)

2011年08月04日 09時57分52秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(富有柿畑)


(千躰寺を左折)

(美江寺3)
美江寺宿から赤坂宿までの道のりは、
ここから少し複雑で、案内書でも説明しきっていない。

千躰寺の枡形で左折して、
道なりに進むとあたりは一面の富有柿畑。
やがて右手に真新しい「神明神社」がある。
なお進むと右手に広いJA(農協)とその駐車場があり、
多数の車が駐車している。
駐車場の先で道路は巣南中学の校舎で突き当たり、
弧を画いて右にカーブすると、広い通りに合流する。
合流する時に左に折れるが、その先が赤い欄干の「ちょうごじばし」で、
一級河川 長護寺川を渡る。
欄干が赤いのは、長護寺に関係があるのだろうか?


(神明神社)


(道路左は水田、右側はJAの駐車場、突き当たりは巣南中学校)


(弧を画いて右へカーブ、正面は中学校の建物)


(広い通りへ出る)


(左折すると「ちょうごじばし」の赤い橋、右手は瑞穂市西部複合センター)

橋を渡るとすぐの信号を右折するが、信号左手には巣南中学校があり、
交差点の右先には交番が、右手前は瑞穂市西部複合センターがある。
右折するとすぐ左折する道路に入る。
左折する手前右側には(アクアパークすなみ)があり、
その土手に(旧中山道)の杭が二本建っている。
この土手を右に見て左折する。
これぞまさしく水田地帯の中で、交番の裏手も良く見える。
先の方に鷺田橋のある揖斐川の土手も見える。
見晴らしが良いので道に迷うことは無さそう。
迷ったら、とにかく鷺田橋を目指せばよい。


(瑞穂市西部複合センター)


(左手巣南中学)


(右側信号の先 交番、手前の道路へ右折して入る)


(右折したらすぐ左折する。その右側が「アクアパークすなみ」)


(「アクアパークすなみ」の石碑)


(旧中山道の標柱)


(左折し水田地帯)


(道路わきにある旧中山道の案内)

道路を少し進むと(この道は 旧中山道です)の案内看板がありホッとする。
あたり一体は見渡す限りの水田の中をしばらく進む。
「小簾紅園(おずこうえん)」左折の案内が道路端にある。
この先中山道は「小簾紅園」の前を通ることになっているから、
この案内に沿って進めばよい。
次から次へとある「小簾紅園」の案内に沿って(鷺田橋)まで進む。
鷺田橋は揖斐川を渡る大きな橋で、
渡り終えた所にある「小簾紅園」の案内に従って左折し陸橋を渡る。


(小簾紅園の案内で左折)


(皇女和宮の小簾紅園の看板拡大)


(一面の水田地帯、はるか先に鷺田橋はある)


(最初の信号で左折の案内、左に鷺田橋へ)


(鷺田橋)


(鷺田橋を渡り終えたところの陸橋も案内に沿って渡る)


(陸橋の様子)

「小簾紅園」まではこの案内が役にたつ。
良縁寺と白鳥神社を右に見てすすむと、
途中、石を積んだ石積みの家並みがあり、
揖斐川から遠ざかるにつれ石積みが低くなる。
揖斐川氾濫に備えて組まれた石積みが低くなるのは、
溢れた水が川から遠ざかれば水かさが浅くなる為であろう。


(良縁寺)


(白鳥神社)


(石積みの家)


(石積みの家を案内に沿って右折)

この辺り、昔は揖斐川の流れの岸にあたり、
「呂久の渡し」があったところ。
今は、木曽川上流の改修工事で現在の流れに変わった。
「小簾紅園(おずこうえん)」の案内看板で右折すると、
右側に真宗大谷派 蓮正寺があり、
続いて真淵家の長屋門がある。
真淵家は織田氏の支配の頃から呂久の渡船業の権利を持っていた。

真淵家の先の左手には、大きな駐車場を持ったバス停「呂久」がある。
バス停にこんな大きな駐車場があるのを見るのは初めてである。
交通の不便な場所にあるからであろう、
このバス停まで自家用車で来て、バスに乗り換えて行くための
駐車場であるに相違ない。


(蓮正寺、石積みが低くなっている)


(蓮正寺隣の真淵家の長屋門)


(「呂久」のバス停、大きな駐車場の中にある)

その先に地蔵堂と観音堂が並んであるが、
地蔵堂は元「呂久の渡し」にあった地蔵堂という。
観音堂の裏手は広場になっており、ここが「小簾紅園」である。
しかし「小簾紅園」の入り口はこの先にある。
その入り口には「揖斐川呂久の渡船場所」の石碑がある。

瑞穂市によれば、
(天正時代織田信長が岐阜に在城し、
天下統一のため京に近く交通の要衝である近江の安土城に居所を移した頃から
美濃と京都の交通が頻繁となり、
赤坂―呂久―美江寺―河渡―加納の新路線が栄えた。
これが江戸時代の初頭に整備されて五街道の一つ中山道となり、
この呂久の渡しもそれ以来交通の要所となった。
 慶長15年(1610)頃、この呂久の渡しの船頭屋敷は、十三を数え、
中でも船年寄真淵家には、船頭八人、助務七人が置かれた。
その頃の川幅は、平水で90m、中水で120m、
大水では180mに及んだといわれています。
 文久元年(1861)には、皇女和宮親子内親王が中山道を御降嫁の折、
この呂久川を渡られ、
その折船中から東岸の色鮮やかに紅葉した楓を眺め、
これに感懐を託されて、

「落ちていく 身と知りながら もみじ葉の
          人なつかしく こがれこそすれ」

と詠まれた。
 後に、和宮様の御遺徳をしのび、
昭和四年(1929)この呂久の渡しの地に歌碑を中心とした
「小簾紅園」が建設され昭和45年(1970)には、
巣南町指定史跡となった。

この地「呂久の渡船場」は、大正14年(1925)木曽川上流改修の
揖斐川 新川付け替え工事完成により、
この地より東へ移り、
現在の揖斐川水流となり長い歴史を閉じることとなった。)
と詳しく説明されている。

さきほどの地蔵堂は「呂久の渡し」の「東の地蔵堂」で、
西には西の地蔵堂があって、
その間を川が流れていた往時を偲んでみよう。


(写真右が観音堂、東の地蔵堂は写真左側)


(読めるでしょうか、右側の「揖斐川呂久の渡船場跡」の碑)


(「小簾紅園」の碑と後ろ側にある公園の池)


(紅園の中はもみじで一杯)


(壇上は皇女和宮の歌碑)


(・・・もみじ葉の人なつかしく こがれこそすれ」の歌碑)














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