中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

観音坂と十三峠の終着地(旧中山道を歩く 227)

2011年02月01日 10時30分34秒 | 6.美濃(岐阜県)の旧中山道を歩く(210~2



(峠は十三以上ある)


(昇りの石畳、この上が峠?)


(三城峠)

(大井宿 7)
峠らしいところから石畳が始まる。
(三つ城峠)である。
土と落ち葉の道を下るとアスファルト道に出て、
登り坂になる。
この辺りで坂道にうんざりし出す。
(大久後の向茶屋跡)を抜けると、
草の上り道。(大久後の観音坂)というらしい。


(大久後の向茶屋跡)


(観音坂)


(観音坂の霊場巡拝碑、四箇所の岩場はあった)

瑞浪市の案内によれば、
(ここは「観音坂」と呼ばれ、瑞浪市の東の端、
釜戸町大久後地区に位置しています。
坂の途中の大岩の上には、道中の安全を願う馬頭観音像が立ち、
坂の西には天保二年(1841)銘の「四霊場巡拝記念碑」が建っています。
さらにその西に連なる権現山の山頂には、刈安神社が祀られ、
山麓には往時駕籠などを止めて休息した、
大久後・炭焼きの二つの立場跡が残っています。)(瑞浪市)とある。

しばらく進むと左手に「観音坂の霊場巡拝碑」があり、
ついで、右手に「中山道」の青色の案内看板が、
さらに左手に「灰くべ餅の出茶屋跡」と標柱を順次見ていくと、
少し開けた集落が左手に見える。


(灰くべ餅の出茶屋跡)


(大久後の観音堂と弘法様の標柱)


(心地よい杉林の山道)


(刈安神社の石柱)

さらに進むと、「大久後の観音堂と弘法様」の標柱があり、
観音堂とお手洗いがある。
その後の登り坂は「権現坂」で心地よい(?)杉林の道を登る。
やがて右側に「刈安神社」の石碑と石の階段がある。
少し登ると集落があり、昔の「炭焼き立場」跡の名残である。

瑞浪市の案内版によると、
(立場というのは、馬のつなぎ場を備えた休憩所のことです。
小さな広場と湧水池があり、旅人や馬の喉を潤しました。
大田蜀山人が享和二年(1802)に表わした「壬戊紀行」には、
「俗に炭焼の五郎坂というを下れば炭焼の立場あり
左に近くみゆる山は権現の山なり。」という記述があります。
ここは眺望に恵まれていたので、
十三峠の中では特に旅人に親しまれた立場でした。)(瑞浪市)


(炭焼き立てばの集落)


(草道に入る)


(通行止め?道路中央は瓦礫がみえる。)

集落が切れると、舗装道路も切れ、土の草道の先の真ん中に、
杭を二本打ち、通行止めのようになっている。
他に脇道もなく、誰かに訊くにも、人っ子一人いない山道。
どうしたものか悩んだ挙句、進むことにした。

道は瓦礫の中を進む道で、急な上り坂である。
これが「中山道だろうか」と疑いながら瓦礫の急坂を進む。
頂上らしき所に出ると、右に石畳があり「山の中の中山道」の道に見えた。
「これでよし」と内心ホッとする。
石畳の道路の左手を見ると、道路は草道で下りになっていて、
ぐるっと半円を画いている。


(瓦礫の道を登りきった場所は石畳の中山道であった。)

つまり「杭で通行止め」になっていた所は、
「直進は通行止め」の意味だったのである。
ボクが歩いた直進の瓦礫の道は、中山道のショートカットで、
本来の中山道は、左に進みその後右にぐるっと半円を描いて、
曲がっていたのである。

石畳を進むとすぐ、
右手に(十三峠の内 中山道 樫の木坂)の石碑があり、
その後ろは小高い山になっている。
これが「権現山の一里塚」である。
一里塚は左右にあり、当時のまま原形を保っているようで、
江戸から90番目の一里塚である。


(樫の木坂の石碑)


(権現山の一里塚)


(権現山の一里塚、もう一方の塚)


(一対の一里塚)


(中山道を横切るゴルフ場の道路)

ここからは下り道。両側を山に挟まれて進む。
間もなくゴルフ場の道路を横切る。
左右でゴルフに興じる人を横目で見ながらなおも下る。
両脇の土手にはグリーンのネットが張ってある。
ゴルフボールが旅人にあたらないようにであろうが、
道路の隅に真新しいゴルフボールが何個も落ちている。
ボクの前に少なくも二組は通過しているから、
その後飛んできたものであろう。
ボールに当らないよう、なるべくネット際に沿って歩く。
それにしても、ゴルフボールは全部で6個拾ってきた。

しばらく下ると、右側に「中山道巡礼水」の石碑がある。

説明によれば、
(昔、巡礼が病み伏したが、この清水で助かる。
八月一日に水の切れた事が無い。)という。
ボクが通った時には水は出ていなかった。
本当に8月1日には出るのだろうか?
原爆に遭った人たちは「水、水・・・」
と言ったそうであるが・・・


(中山道巡礼水の碑)

その先へ下ると右手の岩屋の中に「三十三観音」が祀られている。
瑞浪市の案内看板によると、

(ここには、道中安全を祈って
天保十一年(1840)に建立された観音石窟があり、
馬頭三十三体の観音は、大湫宿内の馬持ち連中と
助郷にかかわる近隣の村々からの寄進です。――後略――)とある。
(瑞浪市)


(三十三観音の石窟)

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(三十三体の観音像)

(三十三体の観音像2)


(左手奥が尻冷やし地蔵尊)


(お尻を冷やしている地蔵さん)

さらに下ると今度は、「尻冷やしの地蔵尊」が
左手の道路からやや奥まった場所にある。
説明では、
(山の中では水は大変大切なものでした。
山坂の多い十三峠では特に貴重なものであった。
こんな清水に対して建てられたものですが、
ちょうど清水でお尻を冷やしているように見えることから、
こんな愛称で親しまれてきました。)(瑞浪市)


(舗装路の向こう側中山道は上り道)


(しゃれこ坂の名号碑)


(山ノ神坂の石碑)


(中山道十三峠 童子ヶ根の石碑)


(寺坂の石仏群)


(「是より東 十三峠」の碑)

その先で舗装路に出るが、これを反対側に渡ってのぼりの道を行くと、
「しゃれこ坂(八丁坂)」の名号石碑がある。
その先に(中山道 山ノ神坂)の石碑があり、
(童子ヶ根)の石碑を抜けると、
右手に「寺坂の石仏群」が、
左手に(是より東 十三峠)の石碑がある。
坂道は下りきっているわけでなく、
見渡すと街並みが一望できる所にいる。
まだ坂道は途中である。

その先に(中山道 大湫宿 右京へ 四十三里半)の石碑があり、
左手が広場になって、奥に「宗昌禅寺」がある。

ここから大湫宿に入る。

(「中山道 大湫宿 右京へ 四十三里半」の石碑)

(宗昌禅寺)





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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
通行止めと思われるところを、よく行かれましたね。 (salasala)
2011-02-03 19:45:22
通行止めと思われるところを、よく行かれましたね。

今さらながら思うのですが、こんなところを歩き続けられて、ほんとに根気のある方だと、驚きます。
ますます身体に気を付けて進んで下さいね。
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以前碓氷峠入口が判らず迷い込んだ経験があります... (hide-san)
2011-02-04 10:36:26
以前碓氷峠入口が判らず迷い込んだ経験があります。また、望月宿に出る前の瓜生峠のくだりで、
道に迷い込んで熊笹に胸まで浸かり、熊笹の中を泳いで脱出したことを思えばたいした事はありません。旧中山道は少なくも誰かが歩いた跡を行くのですから、歩いた形跡の無い所だけ気を付け、山の中を迷わないことです。
迷ったことが判ったら、すぐ引き返すのが肝要です。
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