(宗昌禅寺の石塔)
(禅寺の本堂)
(寺坂の石仏群)
(大湫宿)
十三峠の山道が終り、
「中山道 大湫宿(おおくてじゅく)」と「宗昌禅寺」の石碑が左手にあり、
「大湫宿」に入ったことを教えてくれる。
「宗昌禅寺」の石塔のある道路を左に折れお寺に向うと、
登り坂になっており、もう一度左へ折れる。
つまり正四角形の二辺を行くのだから、さっき見た広場の左手に出る。
広場は中山道と今歩いている道に囲まれていることになり、
「寺坂の石仏群」を右手に見ると、
その反対側の左横にこの宗昌禅寺は立地しているのだ。
臨済宗妙心寺派のこの宗昌寺は慶長三年(1600)、
大湫宿を開いた保々宗昌が開基したと言われる。
大湫宿の脇本陣が「保々」(苗字)の表札がある所を見ると、
開基した保々宗昌の子孫の方かも知れない。
中山道を進むと突き当たりに小学校が一段高い所に見える。
道を左折すると右手に大湫公民館、コミュニティセンターがあり、
その裏手の高い所が小学校である。
ここが大湫宿本陣跡になり、
皇女和宮が文久元年(1861)将軍家茂に嫁ぐため江戸に向う途中、
一夜を明かされた場所になる。
学校に入るには坂道を登るが、校庭の隅に和宮様の歌碑が建っている。
・遠ざかる 都と知れば 旅衣 一夜の宿も 立ちうかりける
・思いきや 雲井のたもと ぬぎかえて うき旅衣 袖しぼるとは
の二首が刻まれている。
旅立つ時に詠んだ歌が
・惜しまじな 君と民との ためならば 身は武蔵野の 露と消ゆとも
と詠んだ歌を考えると、御年15歳の皇女の想いが身に沁みる。
(大湫公民館)
(公民館上の小学校、本陣跡)
(校庭入口にある皇宮の女官像?三人官女?)
(校庭脇の和宮歌碑)
その先に産土の白山神社、大湫宿問屋場跡、脇本陣家が続いている。
脇本陣家のその屋敷は、門を初めとして、
長く風月に耐えたという感じが良く出た古色漂う建物であった。
今も子孫の方が居住されていると言うその家の門には、
「保々和男」の表札が掲げられていた。
旅立つ時に詠んだ歌が
・惜しまじな 君と民との ためならば 身は武蔵野の 露と消ゆとも
と詠んだ歌を考えると、御年15歳の皇女の想いが身に沁みる。
(大湫公民館)
(公民館上の小学校、本陣跡)
(校庭入口にある皇宮の女官像?三人官女?)
(校庭脇の和宮歌碑)
その先に産土の白山神社、大湫宿問屋場跡、脇本陣家が続いている。
脇本陣家のその屋敷は、門を初めとして、
長く風月に耐えたという感じが良く出た古色漂う建物であった。
今も子孫の方が居住されていると言うその家の門には、
「保々和男」の表札が掲げられていた。
その先には大湫宿のシンボルとなっている神明神社の大杉がある。
この杉は樹齢推定1200年で岐阜県の天然記念物になっている。
大湫宿の外れには、大湫観音堂があり、
大湫宿高札場跡が復元されている。
(白山神社)
(問屋場跡)
(問屋場跡から見た神明神社の大杉)
(脇本陣)
(脇本陣家の長屋門、表札に「保々」とある)
(神明神社と背景の大杉)
(樹齢1200年の大杉)
(観音堂)
(高札場跡)
宿場はこの高札場跡を最後に家並みは途絶え、
道路は二つに分かれるので右側に向う。
すぐ左側に「小坂の馬頭観音様」二体に、
道中の安全を祈ってもらいながら進むと、
道路先に小公園らしきものを発見。
道路はやや登り坂になっているが、
ここに「大湫宿大洞・小坂」の石碑が建っている。
ここから見た景色を広重が「木曽海道69次之内 大久手」を
画いた場所だろうと推定されている。
(小坂の馬頭観音二体)
(小公園で広重の浮世絵の場所とされる場所)
(広重画「木曽海道69次之内 大湫」)
その先に進むと、大湫の二つ岩なるものがある。
一つは母衣岩(ほろいわ)と言う。
母衣(ほろ)とは、戦国時代の絵巻物を見ると、
馬にまたがる鎧兜の武者の背に、
大きな袋状のものを着けているのがあるが、
この袋状のものを母衣(ほろ)と言う。
背後から弓矢が当らないようにした防御袋である。
この巨石には、真ん中にスジが入っており、
昔の人はこれを女性の性器に見立てた。
古来、男女の性器はこれを交合させることにより、
新たな生命を生み出す神秘で不思議なものと崇められてきた。
この地だけでなく、日本の各地、いや世界の各地で尊崇されてきた。
街道を進むと、もう一つの巨岩があって烏帽子岩(えぼしいわ)と呼び、
これは男性性器(どちらを向いているかは想像にお任せします。)を表わすと言い、
これで「二つ岩」とされた。
この二つの岩を、昔の人は信仰心を持って
眺めたものと思われる。
(母衣岩)
(烏帽子岩、左向きと見る?)
間もなく道路は左へカーブしていくが、左手の大湫病院を過ぎる頃に、
右手に入る旧道が見える。
琵琶峠の登り口で、坂の途中に
「中山道 琵琶峠東上り口」の石碑がある。
また、山の中だ。
(大湫病院)
(琵琶峠入口)
(琵琶峠東上り口)
普通、お付きの者は人知れず消えているのに、こうして祀ってあることがとてもうれしく感じました。
最近は「JR東海ウオークラリー」などで、中仙道を「歩いて楽しむ」方々が増えてきました。
皆様にお越しいただくことで、過疎の「村」も徐々に近代化【生活感・精神的・社会感・・・・】
されてきています。 中々、風習とか慣習とか長老の一声 等々が強いことがありますが
通貨経済も法律もルールもマナーも同じ日本ですから、都市部からの「移住」「都市部への
通勤」など、よき「里山・都市部のベッドタウン」で繁栄していければ良いな!と思います。
現在は、大阪に居住しておりますが2か月に1度は2~3日の頻度で大湫におります。
また、機会がありましたらお越しください。
10月の第一日曜日は「秋祭り」など行事に遭遇すれば、清々しい未だ残された里山・田舎の
良さ・寂しさも合わせて感じて頂けると思います。 保々
コメント有難うございます。
大阪にお住まいとか、
ひょっとして脇本陣家の「保々」さんのご一族の方でしょうか。
父の実家が岐阜県(今の関市)にありました。
子供の頃、小2~小4まで疎開した体験があります。
大湫宿の方には大変親切にしていただきました。
東京に帰るのに,どうしたら良いかと悩んでいると、
公民館の女性がタクシーを呼んでくださいました。
乗ったタクシーの運転手さんに駅まで運んでもらい、
次は、大湫宿から歩くため、公民館までタクシーを利用したいがと話した所、
名刺を頂き「名古屋から来る時に電話をください。駅でタクシーがお待ちしています。」
とのことで、次回、大湫公民館前に難なく到着した記憶が残っています。
この稿は、その時のものです。
有難うございました。皆さんによろしくお伝えください。