高架下をくぐる様になっているが、
その手前に彦根方面へ右折する道路がある。
その右向こう角に「中山道 原町」の石碑があり、
植え込みの中に「五百らかん」の石碑がある。
五百羅漢については、
井伊直弼の父が造らせた木像の五百羅漢像が、
天寧寺にある。
(「中山道番外記」を参照願います。
(http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2011/12/post_b206.html参照)
彦根インターチェンジの出口入り口の
高架道路をくぐり過ぎると、
左手に大きな常夜灯があり、その先は(正法寺町)の信号になっている。
道路工事のため寄せ集められたのであろう、
いくつかの道標がある。
(北八丁 多賀大社)の碑、
(安産観世音 是より四丁 慶光院)の碑、
(金毘羅大権現 是より〇〇)の碑、
(是より多賀みち)の碑、がある。
多賀大社へ東参道のしるしである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/b4/20d4bd7f461706145b9a7df970daa595.jpg)
(正法寺町の信号)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/fd/5a1a154fcd5cd179c3242d49e025e1ff.jpg)
(常夜灯)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/a3/75922e295012a0c3ec21b105db61c11e.jpg)
(北八丁多賀大社)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/2f/5b36095c061da165dab0dd69766da5a6.jpg)
(これより多賀みち)
信号を渡ると右側に神社の森があり、
森が切れたところが入り口で、「春日神社」の石の鳥居がある。
さらに進むと右手に「勝満寺」があり、
門前に「矢除けの地蔵堂」がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/8b/9be8222c8454a57886ae841a3587283f.jpg)
(神社の森)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/0a/349a7a4594fee3abb504754b3d6bbcb9.jpg)
(春日神社)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/aa/514ba39411c708eff8f3cebe8bb6d121.jpg)
(勝満寺)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/db/9821047355b729f79f9170cb1c6ea451.jpg)
(矢除け地蔵堂)
説明によると、
(地蔵町勝満寺の門前に地蔵堂がある。
この地蔵堂には地蔵菩薩と聖徳太子が祀られてあり、
通称矢除け地蔵尊と呼ばれ親しまれている。
元は旧中山道の松の畷手にあったものを現在地に移されたもので、
以後松の畷手を地蔵畷手と呼ぶようになり、
以来現在の集落を地蔵村と呼ぶようになった。
この地蔵さんは、西暦570年三十代敏達天皇のころ、
仏教が伝来した。
当時疫病が流行し、仏教の信仰によるものと、
これに反対する物部守屋と争われた聖徳太子が、
守屋からの難を避けてこの地方に隠れておられた。
――中略――
守屋の軍勢が聖徳太子を発見し、
矢を射かけたところ、突如金色の地蔵菩薩が立たれた。
あとになって松の根方に、
小さな地蔵さんが右肩に矢を射込まれて血が流れた後があった。
世人はこれを尊び一宇の堂を建て、
往来の安全を願った。――後略)とある。
それで地蔵堂の前の松ノ木の下に沢山の地蔵尊がある。
なるほどバス停の名は「地蔵」である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/29/fba0ab374eb6b0f6c5f403a654905a17.jpg)
(地蔵のバス停)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/32/f230459bc2a2c98634f65906616d0edc.jpg)
(左手のこんもりした山)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/2a/31b52434b2e4e157f8975ea7533651dd.jpg)
(大堀橋)
中山道を進むと左手にこんもりした山があり、
山が切れるところに芹川に大堀橋が架かっている。
橋から川を覗いていると、
左手の山すそに石碑が二つ建っている。
橋から降り、近寄ってみると、一つには
「鳥籠山(とこのやま)(大堀山) 不知哉川(いさやがわ)(芹川)」
と刻んである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/8e/66fb46ddb57c37619d4888c311616c05.jpg)
(とこの山 いさや川の石碑)
もう一つには二首の万葉歌碑が、
・淡海路の(おうみじの)
鳥籠の山(とこのやま)なる
不知哉川(いさやがわ)
日(け)のこのころは
恋いつつもあらむ
・犬上の
鳥籠の山なる
不知哉川
不知(いさ)とを聞こせ
我か名告らすな
とある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/72/d7f3830b34a0e16ccb000395017fa2a2.jpg)
(歌二首の万葉歌碑)
この先にいさや川、今では芹川があり、
大堀橋を渡ると右手にこんもりと山がある。
そして建っている石碑に、
「中山道旧跡 床の山」とあり、
(鳥籠山については異説がありますが、
ここを床の山として碑を建てた)と刻んである。
床の山については、橋の右か左かはっきり分からないということだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/48/c2f0929ee0bcbcd84f9d8f6891004a7e.jpg)
(大堀橋と右側の山)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/ac/cf6a6a832547777f25ec515369c43e64.jpg)
(床の山碑)
この碑の後ろが広場になっており、
その横に沢山の地蔵尊が肩を並べている。
広場の先が「石清水神社」である。
神社は階段を登った上にあるが、階段の途中に「扇塚」がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/54/be8f9b74dd37bae381fb984572d06247.jpg)
(沢山の地蔵尊、この後ろが石清水神社)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/cc/a6cdb67bd059f3834ceeba90850a515a.jpg)
(石清水神社)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/51/0fa77154621eecd518b4f652a8f912dd.jpg)
(石清水神社本殿)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/60/1e6a3dc8a80b3708dec6df64b2584b94.jpg)
(扇塚)
「扇塚」について、
(能楽喜多流は、江戸時代井伊藩の手厚い保護を受け、
この地で発展した。九代目家元、健志斎古能は隠居したのち、
数年間彦根にいて多くの門人を育成と能楽の発展に力を尽した。
いよいよ彦根を去り江戸に帰るとき門人たちの所望に応じて、
記念に「面と扇」を与えた。
その面影を残すために、門人たちはこの地に塚を立てたのである。
もともと一対だったと思われるが、「面塚」の行方はわからない。
右側面 享和元年(1801)酉夏 喜多古能
左側面 豊かなる 時にあふぎの しるしとて
ここにもきたの 名を残しおく)
その手前に彦根方面へ右折する道路がある。
その右向こう角に「中山道 原町」の石碑があり、
植え込みの中に「五百らかん」の石碑がある。
五百羅漢については、
井伊直弼の父が造らせた木像の五百羅漢像が、
天寧寺にある。
(「中山道番外記」を参照願います。
(http://hide-san.blog.ocn.ne.jp/bach/2011/12/post_b206.html参照)
彦根インターチェンジの出口入り口の
高架道路をくぐり過ぎると、
左手に大きな常夜灯があり、その先は(正法寺町)の信号になっている。
道路工事のため寄せ集められたのであろう、
いくつかの道標がある。
(北八丁 多賀大社)の碑、
(安産観世音 是より四丁 慶光院)の碑、
(金毘羅大権現 是より〇〇)の碑、
(是より多賀みち)の碑、がある。
多賀大社へ東参道のしるしである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/b4/20d4bd7f461706145b9a7df970daa595.jpg)
(正法寺町の信号)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/fd/5a1a154fcd5cd179c3242d49e025e1ff.jpg)
(常夜灯)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/a3/75922e295012a0c3ec21b105db61c11e.jpg)
(北八丁多賀大社)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/2f/5b36095c061da165dab0dd69766da5a6.jpg)
(これより多賀みち)
信号を渡ると右側に神社の森があり、
森が切れたところが入り口で、「春日神社」の石の鳥居がある。
さらに進むと右手に「勝満寺」があり、
門前に「矢除けの地蔵堂」がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/8b/9be8222c8454a57886ae841a3587283f.jpg)
(神社の森)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/0a/349a7a4594fee3abb504754b3d6bbcb9.jpg)
(春日神社)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/aa/514ba39411c708eff8f3cebe8bb6d121.jpg)
(勝満寺)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/db/9821047355b729f79f9170cb1c6ea451.jpg)
(矢除け地蔵堂)
説明によると、
(地蔵町勝満寺の門前に地蔵堂がある。
この地蔵堂には地蔵菩薩と聖徳太子が祀られてあり、
通称矢除け地蔵尊と呼ばれ親しまれている。
元は旧中山道の松の畷手にあったものを現在地に移されたもので、
以後松の畷手を地蔵畷手と呼ぶようになり、
以来現在の集落を地蔵村と呼ぶようになった。
この地蔵さんは、西暦570年三十代敏達天皇のころ、
仏教が伝来した。
当時疫病が流行し、仏教の信仰によるものと、
これに反対する物部守屋と争われた聖徳太子が、
守屋からの難を避けてこの地方に隠れておられた。
――中略――
守屋の軍勢が聖徳太子を発見し、
矢を射かけたところ、突如金色の地蔵菩薩が立たれた。
あとになって松の根方に、
小さな地蔵さんが右肩に矢を射込まれて血が流れた後があった。
世人はこれを尊び一宇の堂を建て、
往来の安全を願った。――後略)とある。
それで地蔵堂の前の松ノ木の下に沢山の地蔵尊がある。
なるほどバス停の名は「地蔵」である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/29/fba0ab374eb6b0f6c5f403a654905a17.jpg)
(地蔵のバス停)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/32/f230459bc2a2c98634f65906616d0edc.jpg)
(左手のこんもりした山)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/2a/31b52434b2e4e157f8975ea7533651dd.jpg)
(大堀橋)
中山道を進むと左手にこんもりした山があり、
山が切れるところに芹川に大堀橋が架かっている。
橋から川を覗いていると、
左手の山すそに石碑が二つ建っている。
橋から降り、近寄ってみると、一つには
「鳥籠山(とこのやま)(大堀山) 不知哉川(いさやがわ)(芹川)」
と刻んである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/8e/66fb46ddb57c37619d4888c311616c05.jpg)
(とこの山 いさや川の石碑)
もう一つには二首の万葉歌碑が、
・淡海路の(おうみじの)
鳥籠の山(とこのやま)なる
不知哉川(いさやがわ)
日(け)のこのころは
恋いつつもあらむ
・犬上の
鳥籠の山なる
不知哉川
不知(いさ)とを聞こせ
我か名告らすな
とある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/78/72/d7f3830b34a0e16ccb000395017fa2a2.jpg)
(歌二首の万葉歌碑)
この先にいさや川、今では芹川があり、
大堀橋を渡ると右手にこんもりと山がある。
そして建っている石碑に、
「中山道旧跡 床の山」とあり、
(鳥籠山については異説がありますが、
ここを床の山として碑を建てた)と刻んである。
床の山については、橋の右か左かはっきり分からないということだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/48/c2f0929ee0bcbcd84f9d8f6891004a7e.jpg)
(大堀橋と右側の山)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/ac/cf6a6a832547777f25ec515369c43e64.jpg)
(床の山碑)
この碑の後ろが広場になっており、
その横に沢山の地蔵尊が肩を並べている。
広場の先が「石清水神社」である。
神社は階段を登った上にあるが、階段の途中に「扇塚」がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/54/be8f9b74dd37bae381fb984572d06247.jpg)
(沢山の地蔵尊、この後ろが石清水神社)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/cc/a6cdb67bd059f3834ceeba90850a515a.jpg)
(石清水神社)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/51/0fa77154621eecd518b4f652a8f912dd.jpg)
(石清水神社本殿)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/60/1e6a3dc8a80b3708dec6df64b2584b94.jpg)
(扇塚)
「扇塚」について、
(能楽喜多流は、江戸時代井伊藩の手厚い保護を受け、
この地で発展した。九代目家元、健志斎古能は隠居したのち、
数年間彦根にいて多くの門人を育成と能楽の発展に力を尽した。
いよいよ彦根を去り江戸に帰るとき門人たちの所望に応じて、
記念に「面と扇」を与えた。
その面影を残すために、門人たちはこの地に塚を立てたのである。
もともと一対だったと思われるが、「面塚」の行方はわからない。
右側面 享和元年(1801)酉夏 喜多古能
左側面 豊かなる 時にあふぎの しるしとて
ここにもきたの 名を残しおく)
(大堀町史跡顕彰委員会)とある。
中山道のこの先に、
中山道のこの先に、
鳥籠山(ちょうろうざん)唯称寺(ゆいしょうじ)がある。
ここには「絹本着色浄土変相図」ならびに
「刺繍阿弥陀来迎図」の二幅の掛け軸があり、
彦根市の指定文化財になっている。
(残念ながら拝観は叶わなかった。)
この先、しばらくして中山道は高宮宿に入って行く。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/98/571367fe82dbdee4cba628d69a8ae61c.jpg)
(鳥籠山(ちょうろうざん)唯称寺)
ここには「絹本着色浄土変相図」ならびに
「刺繍阿弥陀来迎図」の二幅の掛け軸があり、
彦根市の指定文化財になっている。
(残念ながら拝観は叶わなかった。)
この先、しばらくして中山道は高宮宿に入って行く。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/98/571367fe82dbdee4cba628d69a8ae61c.jpg)
(鳥籠山(ちょうろうざん)唯称寺)
いつも遊びに来て頂きありがとうございます。
1つお願いが
http://blog.ocn.ne.jp/blogparts/detail/080108183042/1.html
cafek皆様と繋ります設定して頂けないでしょうか
よろしくお願いします<(_ _)>
コメント有難うございます。
足跡の使い勝手が今ひとつ理解できないでいます。
理解でき次第仰せのようにしたいとおもいます。