中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

戸田橋から蕨宿まで(旧中山道を歩く 27)

2005年04月07日 09時33分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65

(戸田橋から蕨宿まで)’04.04.07.

戸田橋を渡った荒川の対岸の戸田市には、
舟渡し場所を示す案内板がある。

橋を渡り終わったところに、埼玉県の交番があり、
その右脇に土手を下りる階段がある。
道なりに歩くと左側に「水神社」がある。
境内にある「水神宮」の碑には、寛政8年(1796)の
銘があり、荒川の岸辺に住む人たちの氏神様であった。
(水神社)

その先の車道を登って、今来た方角へ戻ると、
「中山道戸田渡船場所」の石碑と
「戸田の渡し」の案内看板がある。

案内によれば、
(中山道は慶長7年(1602年)
街道として設置されましたが、江戸防衛の意味で
橋は架けられなかった。人々はここを越えるのに
渡しに頼らざるを得なかった。
これが「戸田の渡し」です。)
渡船場の管理は下戸田村が行っており、
天保13年には、十三艘の船があり、
組頭(渡船場の支配人)一人、船頭8人、
小揚人足31人が居ました。
―途中省略―
明治八年 木橋が出来上がり、「戸田の渡し」は
廃止になりました。
       (戸田市教育委員会)

(戸田の渡船場跡の碑)

来た道を戻り「水神社」の前を通り越して、
最初の道を右折すると、右側を入ったところに
いかにも古めかしい赤い色のお堂が見えます。
「地蔵堂」です。

戸田市内では最古の木造建造物という。
建築技術はお堂の大きさからは、
不似合いなほどの木組みを使用しての建築技法は、
注目すべき点が多い建造物とされている。
お堂の軒下の半鐘は1713年の銘が、
また境内の庚申塔には享保13年(1731)の
銘が刻まれている。
(戸田市教育委員会)
(地蔵堂)

古い板碑もあると記されているが、
境内を見回したところ見当たらない。
「地蔵堂」の脇の砂利道を行くと広い通りに出る。
左折して菖蒲川の川岸橋を渡る。

(菖蒲川)

戸田市内の旧中山道は見当たらない。
なお進み交差点に出たら左折する。
国道17号に出る手前を右折し、
これを旧中山道に見立て進む。

すこし先に行くと、右側がケヤキ並木となり、
よく整備された通りとなる。
「下前公団通り」とある。
ケヤキ並木の終わりに信号があり、
正面が川口信用金庫、その左手にポケット公園があり、
公園の左奥に旧中山道について案内がある。 

(ケヤキ並木)

(道標)

案内によれば、戸田市内の旧中山道の大部分は失われており、
僅かこの公園から17号線までの80mが残るのみで、
蕨までは17号と一緒になっているとのこと。

(公園にある案内看板、戸田の渡しから蕨宿までの旧中山道の地図を示す)

ひたすら17号を歩き、17号が左手に折れる地点の正面、
道路の真ん中に、「中山道蕨宿」の石碑がある。
ここから蕨宿である。



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