![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/1b/45c3e920ef6a4ca32da5c8d7d0d6f41e.jpg)
(もう一つの「中山道」の案内看板)
(垂井宿)
中山道の案内のある道路には垂井町平尾とあり、
いつの間にか垂井町へ入ってきている。
少し歩くともう一つの「中山道」の案内看板がある。
何の変哲もない町中を歩いて、「中山道」に間違いないだろうかと、
気になり始める頃この案内看板は立っている。
少し先に「平尾御坊道」の自然石の道標がある。
右に行けば、願證寺・平尾御坊(*)へ出る。
(*)筆者注=平尾御坊とは地名平尾にある僧院、寺院を敬って言う言葉。
平尾の願證寺というお寺さんのこと。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/94/ccd575aba2e860fc9bd9a18e84ea423e.jpg)
(平尾御坊道の道標)
少し進むと(追分)の信号に出る。
信号を渡った左にコンビニがある。
と言うことはコンビニを利用する人口も多く、町の中に入ってきている。
信号が(追分)というから、
別の街道への分かれ道がなくてはおかしいと、
キョロキョロするもそれらしい道路は無い。
丁度歩いてきた、小母さんに
「垂井の駅はどちら?」と訊くと、
「少し行くと、この先に橋がありますから、
その橋を渡って左へ行くと駅ですよ」と回答。
「相当ありますか?」
「いえそれほどでもありませんよ」と仰る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/45/7a50077e928d92c6aa4c08f952e057d8.jpg)
(追分の信号、左側にコンビにが見える)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/a1/caa76edf26cbf660fc6c6742cc2af0f6.jpg)
(ずいぶん先まで直線は伸びて橋など見えそうもない)
お礼を言って分かれたが、道路は直線で先の方まで見える。
まだ相当ありそう。橋などありそうもない。
諦めて歩くことにした。
田舎の人の少しは、都会の人には計り知れない。
現役時代に、足立区の支店から東京都西多摩郡の支店に転勤になった。
その時、お得意様の挨拶に何軒か車で訪ねた。
「今日はもうこれでお終りにしよう」としたら、案内する人が、
「数分ほどですから、あともう一軒」というので頷いたら、
その数分が距離にしたら7~8kmあったと記憶している。
東京都足立区では、車で数分といえば混雑で2~3kmも走れればよい方、
西多摩郡では信号もなければ、田舎道で混雑もないから7~8kmは走る。
基準となっている物差しが違うのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/7e/1ab69b5cbd1b36da677159b76167beff.jpg)
(杭で支えられた地蔵堂)
中山道を進むと、右側に地蔵堂があり、お堂の両側が杭で支えられている。
支えが無ければ、ひっくり返るかもしれない。
道路は先の方で少し左へカーブしている。
近づくとカーブした道路は道にぶつかってT字路になっている様子。
T字路の左手の1画が垂井町の指定史跡になっている
そこには「垂井追分の道標」があり、
(是より 右 東海道大垣みち、左 木曽街道たにぐちみち)とある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/f2/2393a97b6c34392ed2da7c30b3962df3.jpg)
(追分の道標)
垂井町教育委員会の説明では、
(垂井宿は中山道と東海道を結ぶ美濃路の分岐点にあたり、
たいへん賑わう宿場でした。
追分は宿場の東に当たり、旅人が道に迷わないように、
自然石の道標が立てられた。
――中略――
この道標は宝永六年(1709)垂井宿の問屋 奥山文左衛門が建てたもので、
中山道にある道標の中で七番目ほどの古さである。)とある。
説明にあるように、昔から、道に迷う人のために道標は作られたのだ。
ボクが迷ったのは、はるか手前に(追分)の信号があるからで、
あの信号が(追分東)にでもなっていれば問題はなかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/86/7bbc329d0f9449acedf3cfa67d428665.jpg)
(昔は人足渡しであった相川橋)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/67/687feef72c495c85afd4ebb4c1aab6ac.jpg)
(垂井宿東の見付の案内看板)
T字路は川の為で、T字路を右折するとすぐ橋があり、
これを渡ると垂井宿である。
橋を相川橋といい、江戸時代には人足渡しであったと、案内がある。
橋を渡り終えた所が垂井宿の(東の見付)で、
垂井町の説明では、
(垂井町は中山道の始点江戸日本橋から約440km、
五十八番目の宿になります。
見付は宿場の入り口に置かれ、
宿の役人はここで大名などの行列を迎えたり、
非常時には閉鎖したりしました。
ここ東の見付から約766mにわたり垂井宿が広がり、
広重が描いたことで知られる西の見付に至ります。)とある。
ここで問題は五十八番目の宿場と書かれたことだ。
ボクは五十七番目であると記憶していたが、
これでは大津宿は70番目となり、
中山道69次が中山道70次になってしまう。
人が書く案内だから、こんな間違いがあるものだが、
毎日 目の前を通っている垂井町の住民は気が付かないのだろうか?
住民はともかく垂井町の観光協会や、
観光ガイドの方たちは、
こんな案内を見もしないのであろうか?
小学生や中学生が、住まいの歴史を調べる時に、
間違ってしまう。
すぐ横には、(中山道 垂井宿)の標柱があり、
さらに垂井町商工会青年部が造った立派な(垂井宿案内図)が掲示されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/1e/d51e6c2f3044c6126ecda3840e176c9e.jpg)
(中山道 垂井宿の標柱)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/34/9738c9855799154c9247f468afd032b7.jpg)
(垂井宿 案内図)
時計を見ると17時近い。
赤坂の金生山明星輪寺で時間をとられ、思わぬ時間が掛かってしまった。
いつもなら16時前後に切り上げる所なのに・・・
相川橋を渡り、左折してJR垂井駅に向かい今日の宿泊場所 大垣駅へ帰る。
本日の歩行数56876歩=約33kmであった。
なお、帰宅後、垂井町役場へ電話して、
江戸から数えて「58番目の宿場」の案内の間違いを、
「57番目の宿場」に訂正して頂くよう
依頼したことは言うまでもない。
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