中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

妻籠宿の伝統的建造物群(旧中山道を歩く 200)

2010年07月06日 10時30分08秒 | 5.木曽(長野県)の旧中山道を歩く(157~2

(妻籠城から見た妻籠宿)

(妻籠宿 2)
妻籠城址をあとに山を下って中山道に戻る。
三叉路の内中央の草道を下って妻籠宿に向う。
林の中の道を抜け、妻籠宿まで0.7kmの案内を左に見て道を進む。
江戸時代の建物か、古い家が何軒か見え、妻籠宿が近いことが分かる。

(林の道)

(妻籠まで700mの案内)

(何軒か古い家が)

やがて左手に妻籠宿の名所の一つ鯉岩のある所に出る。
これが「鯉岩」と案内板があるが、
(鯉の形)を想像するには、かなりこじつけないと鯉に見えない。
写真をご覧になって、鯉を想像できる人は素晴らしい。

それも其のはず鯉に見えにくいのは、その昔の大地震で岩が崩れ、
鯉の頭の部分が落ちてしまったからだそうです。
「木曽路名所図会」には滝登りをするような形をした鯉が居たらしい。

(鯉岩)

(ボクが想像した鯉)

ここから妻籠宿が始まる。
南木曽町の説明によると、
(妻籠宿は慶長6年(1601)江戸幕府によって「宿駅」に定められ、
江戸から42番目の宿場として整備された。
明治以降は宿場の機能を失い、衰退の一途を辿ってきましたが、
昭和43年歴史的町並みの保存事業により宿場の景観を甦らせている。
昭和51年には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。)とある。

(昭和43年歴史的町並みの保存事業により宿場の景観を甦らせている。)と
一行で説明は終わっているが、
昭和43年以降、江戸時代の景観を残そうとした自治体の方々の苦労は
並大抵なものでなかったと、
自分が住んでいる役所の方から聞いたことがある。

(山に囲まれた妻籠宿)

中山道沿線の各自治体は、戦後の経済成長に伴い、
若者は都会に誘惑される中、過疎を食い止めるための雇用確保に、
工場、会社の誘致を盛んに行った。
妻籠馬籠は「夜明け前」の原風景を残している地域ではあるが、
深い山の中にあって、鉄道からも遠く取り残された不便な所で、
際立つ産業も無く、誘致するにも立地条件が悪く、
工場会社は誘致できず、
過疎が進むのを食い止めるために立案されたのが、
時代物の建造物を整備しこれを利用して観光産業への転換を計ることであった。

しかし最早何の価値もなくなりつつある古ぼけたあばら家を、
一軒一軒手を入れ改修してゆく作業は大変苦労があったと聞いています。
そんなものを修復して果たして過疎の解決になるかの疑問があったからです。
しかし、信念の基に行われた事業が成功して、
今では沢山の観光客が押し寄せている状況です。
特に、ボクが中山道を歩いてみて、
これほど沢山の外国人(白人、中国系の人)にすれ違う経験は、
今までの所、ここ妻籠宿でしかないのですから。

伝統的建造物群保存地区の指定を受けているのは、
他に奈良井宿がありましたが、
そこで外国人に出会ったことはありませんでした。

話を元に戻して、
中山道沿い妻籠宿の鯉岩の真向かいには、
南木曽町有形文化財の熊谷家住宅が解放されており、
往時の生活の様子を垣間見ることが出来ます。

その少し先左側に「妻籠口留番所之跡」がある。
口留番所とは、人や荷物の動きを見張る。
殊に妻籠宿では木曽ヒノキの持ち出しを見張った、
木曽福島の関所の出先機関のようなものであったと思われる。

(熊谷家住宅)

(妻籠口留番所跡)

(高札場)

口留め番所のすぐ先の右側に、妻籠宿の高札場がある。
高札場は、住民や宿場を通行する人たちが守るべき規則
(法令)が記されており、その周知徹底を図った。
高札場を管理する人は、庄屋がこれに当り、
旅人は笠をとり、読んだといわれ、
文字が読めない人には読み聞かせたと言う。

妻籠宿の伝統的建造物群はここから始まる。
高札場の前が江戸側の枡形になっており、口留め番所から道は右折し、
高札場前で左折する。左折した所に、
今ではなかなか見ることができない水車が動いている。

(高札場脇の水車)

古い家並みが続き沢山の観光客が、地図を片手に建築物を見て歩いている。
しばらくすると右手に「脇本陣奥谷」と大書した門柱があり、
入口を覆うようにして見越しの松が枝を伸ばしている。
ここは「夜明け前」の島崎藤村の実家の隣にある大黒屋、
そこの娘「ゆう」さんの嫁ぎ先の林家である。
藤村の詩集若菜集にある「初恋」の主人公が
おゆうさんであった。

(脇本陣奥谷)


(脇本陣正面入り口)

(脇本陣側面)

林家なのに「脇本陣 奥谷」って?と思われるが、
脇本陣は造り酒屋を兼ねており、その屋号が奥谷であった。
国の重要文化財に指定されている脇本陣の
内部が見学できるので寄って行きたい。
見学に当っては、知識豊富なガイド嬢が素晴らしい案内をしてくれるので、
忙しいからと言わず、しっかり聞いていただきたい。
明治以降に再建された脇本陣は、禁止されていた木曽五木の伐採が、
明治以降解禁になった関係で総桧造りになっている。

明治天皇がお休みになった場所でもあり、
高貴な方のお手洗いやお風呂、明治初年にテーブルを造るようにいわれ、
テーブルの意味が分らず、台を造って、その上に板を載せ、
テーブルとしたという、当時の調度品など貴重なものが見られる。

(高貴な方が入ると言うお風呂、焚口は無く、湯を入れた)

(頭上に水滴が落ちてこないよう工夫された風呂の天井)

入場料は、脇本陣、歴史資料館、本陣と3館併せて900円の所、
共通入場券は700円、さらに町内に宿泊されると二割引560円になる。

歴史資料館も見て表に出る。

伝統的建造物群は続くが、すぐ左手に妻籠本陣がある。
ここは島崎藤村の実兄 広助が養子に入った家である。
室内の貴重な部屋(上段の間など)をご覧いただけるので
是非お立ち寄りください。

(妻籠宿本陣)

(本陣の玄関の敷台、お駕籠を横付けに出来た)

(殿様の部屋である上段の間)

島崎藤村の「夜明け前」の初めのほうに、
馬籠宿を次のように記している。
「街道の両側には一段ずつ石垣(いしがき)を築いて
その上に民家を建てたようなところで、
風雪をしのぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる。」と
文面が続くが、実際歩いてみると屋根に石を乗せた家は、
今となっては、なかなか見つけることが出来ない。

しかし、ここ妻籠本陣はその文面通りの屋根に石を載せた建物である。
人は物を見るとき、膝から下と目の高さより上は見落としやすい。
ここだけはしっかり屋根の部分を観ていただきたいものである。

(板の上に石を載せた屋根)

その先に京都側の枡形があり、その先は寺下地区で、
妻籠宿の伝統的建造物群が最も良く保存されている場所であるが、
妻籠宿の建造物については、あまりにも有名であるので、

ここでの紹介はこの程度にしておきたい。

(枡形、常夜灯の手前を右へ折れる)

(左へ折れる枡形)

(妻籠宿の寺下地区)

(妻籠宿の寺下地区2)

(妻籠宿の寺下地区3)

(広重画「木曽路69次之内妻籠」)











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1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
あ~と湯船に浸かって、上をみるとステキな天井が... (salasala)
2010-07-11 10:40:24
あ~と湯船に浸かって、上をみるとステキな天井が。いいでしょうねえ。

石を置いた屋根、横に置いた桟は落下止めでしょう。なんだか趣がありますね。
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