(桜「フクロクジュ」2005.Apr.15.荒川土手で撮影)
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(三学院)
蕨城址を後に旧中山道に戻る。
三学院(真言宗智山派のお寺)に入る道がある。
三学院は金亀山極楽寺という。
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(格式ある三学院の山門より)
本尊は平安時代後期の作といわれる木造十一面観音像である。
天正19年(1591)には徳川家康から寺領二十石を寄進する
朱印状を与えられた、関東七ヶ寺の役寺として格式が高い。
(蕨市教育委員会)
蕨本陣家、岡田氏の菩提寺で、仁王門と本堂など立派な寺院であるので、寄り道をしたい。
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(三学院の入り口)
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(京都にありそうな荘厳さを持つ三学院本堂)
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(三学院の境内)
参道中央の山門前の右側に馬頭観音塔がある。
塔身正面に梵字で「ナム・カャグリーバ」
(南無・馬頭観世音)と陰刻されている。
銘文から、江戸後期寛政12年(1800)
2月に蕨宿の馬持講中により、宿場の安全を願って
造られたものという。(蕨市教育委員会)
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(梵字の馬頭観音)
山門をくぐって右側の一角に「子育て地蔵」
「六地蔵」「目疾(めやみ)地蔵」が安置されている。
「子育て地蔵」は元禄元年(1695)三学院住職が
中心となって造立された身の丈七尺(2.4m)の
見上げるほど大きな地蔵尊で、火伏・子育・開運を
願う人々に、現在も信仰されている。
その手前左側に「六地蔵」が安置されている。
基礎の上に蓮台と地蔵菩薩が丸彫りにしてあり、
蕨市内最古・最大の六地蔵。
六地蔵とは、
地蔵菩薩が六道(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)に
分身し、人々を救済する姿を現している。
(蕨市教育委員会)
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(子育て地蔵)
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(六地蔵)
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(目疾地蔵)
ボクが訪ねた4月10日には、この六地蔵が誰に貰ったのか
寒さ避けの赤いマフラーをしていたのが可愛らしく、
季節の暖かさと共に、ふんわりとした暖かさを振りまいていた。
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(赤いマフラー暖かそうな地蔵さん)
六地蔵の手前に「目疾(めやみ)地蔵」が安置されている。
万治元年(1658)念仏講を結んだ人々が、「この世」と
「あの世」の安楽を願って造立したもの。
地蔵菩薩立像と舟形光背彫り上げており、高さ1.9mの
大きな地蔵尊である。
「目疾(めやみ)地蔵」として、地蔵尊の目に味噌を
塗ると目の病気が治る、あるいは目の病気にかからないと
言われており、訪ねた時には片目(左目)に赤い味噌が
塗ってあった。どなたかお祈りをされたに違いない。
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(目の廻りに味噌が残った地蔵さん)
境内に入ると、広場の右手に「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」が見える。
「宝篋印塔」は、宝篋印陀羅尼経を納めるための塔で、
後には、供養塔、墓碑塔として建てられました。
三学院には二基並んで建っているが、
江戸時代中期 寛政9年(1797)に、
蕨宿の町田氏により造立されたもの。
三学院住職が銘文を書き、江戸霊岸島の石工
栗屋勘兵衛が製作した。
切石積基壇に基壇をすえ、塔身には金剛界四仏の種子、
基壇の各側面には唐獅子が刻まれ、笠には風鐸(風鈴)を
つるした青銅製の金具が残されている。
(蕨市教育委員会)
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「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」
その「宝篋印塔」の左手は墓地になっている。
一番手前に、蕨宿本陣家の岡田氏代々の墓がずらっと並んでいる。
代々本陣を勤めた「加兵衛家」と「五郎兵衛家」、
脇本陣を勤めた「新蔵家」などのものがあるので、
丹念に見ることをお勧めする。
お墓は「蕨宿関係墓石群」の看板(蕨市教育委員会作成の)があって判りやすい。
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(本陣家 岡田氏の墓)
暖かい気持ちがします。
ご無沙汰している間に、もうNo.32まで出来ていてびっくり!です。
桜の名前が「フクロクジュ」あの七福神の福禄寿ですか?八重の花びらに「そうか~」とうなづけます。
お地蔵さんがいろいろですね。
目疾地蔵に味噌を付けるのはなぜか、と検索してみましたがいわれはわかりませんでした。