![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/38/8977c7a8608d8705dc0ec66eff8f8dc2.jpg)
(一里塚のケヤキ)
(熊谷宿3)
八木橋デパートを右に見て左折すると、すぐY字路になるので
右側の道をとる。旧中山道である。途中旧街道らしく古びた
神社を右に見て、17号に合流する。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/20/ce46f0282e6c193faa23c7926be9b3d6.jpg)
(古びた神社 八坂神社 謂れがありそうだが素通りする)
しばらく17号と平行に歩く。石原一丁目交差点に新しく
歩道橋が出来ている。歩道橋を渡り終えて前を見ると、
公園らしきものが見えるので進む。
公園に入ったところに、
「秩父道しるべ」
「秩父観音巡礼道」
「寶登山道」
など三点が建っている。
室町時代に始まった秩父観音信仰は、
江戸時代に入ると盛んになり。順路としてこの地
石原村で中山道から別れるので「道しるべ」が出来た。
以前は信号の左下にあったが、歩道橋新設により、
この公園内に移設された。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/9d/fc787ab4d5063fd2f6e868f0b53f390f.jpg)
(三つの道しるべ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/46/d18d5872c626940922e869614c7535c8.jpg)
(ちちぶ道)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/75/fc/1895179e656b1b1989303f3ce4b364cd.jpg)
(観音巡礼道と宝登山道)
建設世話人の中に血洗島 渋沢宗助なる名前があるが、
明治になって西欧の株式会社の仕組みを取り入れた
渋沢栄一の縁者と思われる。
中山道を17号に沿って進むと、道は二手に分かれる。
左の道をとると、すぐ右側に高さ12メートル、樹齢
300年に及ぶと言うケヤキの木がある。
ここは一里塚跡で慶長9年(1604)五街道が設置された時、
日本橋から一里(4キロ)ごとに設けたもの。
宝暦6年6年(1756)の道中絵図には、榎木二本ずつとあるが、
現存する大木は不思議なことにケヤキの木である。
考えるにケヤキと榎木は葉の形も似ており、
植えたときに職人が間違えて植えたのではなかろうか・・・
(表題の写真がその大木)
すぐ左側に「忍領石碑」が建っている。安永9年(1780)
忍城主が他藩との境界争いを避けるために、領地の境界を示そうと
建てた石碑「ここより南 忍領」の文字が見える。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/94/e20ee66299c3a80b3a011fd0b3f8c8e3.jpg)
(忍領の石碑)
しばらく進むとまた17号と交差する。土手に上るような感じで
17号線を渡ると、中山道はすぐまた右に分かれる。
中山道をどんどん進むと、左に深谷幡羅郵便局、その右側に
石作りの鳥居があり熊野神社に出る。奥まったところにある
この神社の参道はよく整備されており、美しい。
もう深谷である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/0d/73b806c150453738c6d79d1f23a506d0.jpg)
(熊野神社の二の鳥居)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/51/ffb0fc8d000cca3789018f0f108ad3ff.jpg)
(熊野神社の三の鳥居と本殿)