中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

熊谷次郎直実(旧中山道を歩く 49)

2005年07月19日 08時46分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(熊谷次郎直実の雄姿)



日本橋をスタートして10日目(10月29日)

(熊谷宿)
熊谷はその名が示すように、鎌倉武士として歴史に名を残す
武将 熊谷次郎直実の出身地であり、熊谷市では
武将の熊谷次郎直実が一番の著名人であることは言うまでもない。

JR熊谷駅前には、熊谷次郎直実が馬にまたがる
勇壮な銅像が建っている。
そして熊谷宿には熊谷次郎直実に関係する
史跡がいたるところで見られる。

「熊谷」は土地の名前になると読み方が(くまがや)で、
苗字になると(くまがい)と言う。こんなことは埼玉県では他にもある。
埼玉県入間郡(いるまぐん)で埼玉県入間市(いりまし)となり、
ボクの友人の苗字は(いりま)と呼ぶ。

中山道へ出て、すぐ右側に高城神社の石の鳥居が見えるので
右折する。神社正面あるもう一つの鳥居をくぐると、
すぐ右側に青銅製の見上げるばかりの常夜灯がある。

(高城神社の鳥居)

熊谷市指定有形民俗文化財で説明によれば、
(この燈籠は高さ275センチで青銅製の大きなもので、
天保12年(1841)に建てられた。台座には、
県内はもとより、江戸、川崎、桐生、高崎、京都など、
広範囲に及ぶ150名の紺屋(藍染業者)の名前が
奉納者として刻まれている。
このうち熊谷の奉納者は40名に及ぶ。
この常夜灯は高城神社が藍染業者から厚い信仰を
受けた事実を物語る資料として、また熊谷の地の
藍染業の盛況を知る記念碑とも言える。)
(熊谷市教育委員会)

(青銅製の常夜灯)

また神社入り口に熊野神社が合祀されており、
熊谷の地名の由緒が記されている。

(永治年間この付近一帯に猛熊が往来し、
庶民生活脅かした。熊谷次郎直実の父
直貞がこの猛熊を退治して熊野権現堂を築いたと
伝えられる。明治維新後は熊野神社と称し、
その御祭神 伊邪那岐命を祭り明治40年
当高城神社境内に遷し祭られた。
この熊野神社と千形神社そして円照寺の関係は深く、
直貞によって築かれ、熊谷の地名を生んだとも伝えられる。)
とある。

熊谷の地名の由来である。

(左手にある熊谷神社)

中山道を進むと、「市駐車場入口」交差点左側
歩道上に「札の辻」の石碑がある。
埼玉県の指定史跡でもと「高札場」のあったところだ。

(熊谷宿の高札場は、本町長野喜蔵の前の道路中央にあり、
木柵で囲まれ屋根が描かれており、この説明板付近に
あったと思われる。
高さ 約 3,3メートル
長さ 約 5、0メートル
横  約 2、0メートル
とある。
高札は本陣であった竹井家に14枚が残っている。)
(熊谷市教育委員会)

その先バス停脇に「本陣跡」の石碑がたつ。
竹井本陣跡の碑である。本陣は明治17年(1884)の
火災と昭和20年の戦災で焼失した。

(札の辻跡の石碑)

(本陣跡の石碑)

右前方に八木橋デパートがあり、その奥にお寺が見える。
それが熊谷寺(ゆうこくじ)である。
出家した熊谷次郎直実が住んだところで、直実の墓と
伝えられる宝篋印塔があるとされるが、あいにく
境内は閉じられており境内に入場できるのは、
日曜日だけに限られているので、入場希望のかたは
曜日を選んで訪問されることをお勧めする。

(山門のうしろに見える本堂、山のような屋根から本堂の大きさが伺える)