由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

福田恆存に関するいくつかの疑問 その9(西尾幹二の「不満」から・中)

2020年03月20日 | 文学
小林秀雄旧蔵勾玉

 小林秀雄も福田恆存も、戦後すぐに盛んだった「文学者の戦争責任論」には批判的だった。
 この問題自体を知る人が今ではそんなに多くはないだろうから、ごく大雑把に記すと、昭和20年、敗戦の年に、戦前弾圧によって壊滅したプロレタリア文学の作家たちが再結集して、新日本文学会を結成し、翌年、「文学者の戦争責任追及」が会の公式活動として採択されたのが始まり。戦中に日本文学報国会や文芸懇話会など、官と密接に連動した組織で活動した者だけでなく、個人的に戦意高揚や戦時翼賛体制に資する文章を発表した文学者も糾弾する、とした。
 糾弾されるべきとされた対象の一人に、小林秀雄もいた。この時、新日本文学会とは一線を画した文学者たちが同人誌『近代文学』を創刊し(ただし、両方に参加していた者もいる)、小林はその二回目の座談会に呼ばれている(「座談 コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」『近代文学』昭和21年2月号)。小林の「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」という揚言はこのときのものである。
 これについて小林は後に自ら何度も言及している。昭和26年の「政治と文学」では、「放言など嘲笑されて然るべきもので、そんな事は何んの事でもないが、当時の私の感情は、今日も変らず、これを口にすればやはり放言とならざるを得まい」云々と言っている。以下に、この文章から、『歴史の真贋』にも引用されている部分を少し長く挙げる。

あれほど歴史の必然といふ言葉が好きだつた知識人達が、大戦争は歴史の偶然だつた様な口の利き方しか出来ないのである。日本人がもつと聡明だつたら、もつと勇気があつたら、もつと文化的であつたら、あんな事は起らなかつたのだと言つてゐる。私達は、若しあゝであつたら、かうであつたらうといふ様な政治的失敗を経験したのではない。正銘の悲劇を演じたのである。悲劇といふものを、私がどう考へてゐるかは既に述べました。悲劇の反省など誰にも不可能です。悲劇は心の痛手を残して行くだけだ。痛手からものを言はうと願ふ者は詩人である。そして詩人が、どんなに沢山の、どんなに当り前な人間の心に住んでゐるかを知るのには、必ずしも専門詩人たるを要しないでせう。(昭和42年版小林秀雄全集第九巻より引用)

 「悲劇といふものを……どう考へてゐるか」について、同文中の前の箇所で言われていることは、とても抽象的でわかりづらいのだが、ポイントはこんなところか。「一方に人間の弱さや愚かしさがある、一方これに一顧も与へない必然性の容赦のない動きがある」からといって、それだけでは悲劇は起こらない。「悲劇とは、さういふ条件にもかゝはらず生きる事だ」。
 それだけではない。上のような条件で、「若し生きようとする意思が強ければ」、「このどうにもならぬ事態そのものが即ち生きて行く理由である、といふ決意に自ら誘われる」ので、「悲劇の魂は、さういふ自覚された経験の裡にしか棲んでゐない」。
 できるだけ自分の言葉に置き換えてみる。人間の愚かさや錯誤、あるいは外部の「必然」から一方的にもたらされた、個人にとっては全く不条理な現実であっても、それを自分のものとして懸命に生きる。たいがいは悲惨な結末に至るので、生き延びれば心の傷が残る。ゆえにこれを「悲劇」と呼ぶ。しかし、全力で生きた以上、反省(≒後悔)などは成り立たない。そして、人間の「真実」とは、そういうところにしかない、少なくとも、「詩人」である自分にはそれにしか興味が持てない…
 …やっぱり抽象的ですな。具体例を、小林が発表のために尽力したことで知られる𠮷田満「戦艦大和ノ最期」に求めましょう。
 昭和20年4月6日、巨大戦艦・大和は、護衛艦隊とともに徳山沖から豊後水道を通って沖縄に向かった。沖縄は既に米軍の手に落ちており、大日本帝国海軍最後の最期の防衛策としての、特別攻撃(菊水作戦)、即ち航空機による敵艦への体当たり攻撃と連動した海上特攻(天一号作戦)のためだった。つまりは米軍の目を惹きつけて特攻をしやすくする、囮に使われたのだ。沖縄まではまず行き着けないことは、大和に座乗した伊藤整一第二艦隊司令長官を含めた海軍首脳部の共通認識だったし、下士官にも知れわたっていた。
 こんな「作戦」を実行せねばならぬくらいなら、戦はもう負けなのだ。そのこともわかっていた。𠮷田満もその一人である学徒兵の懊悩は深かった。自分たちは結局なんのために闘い、なんのために死ぬのか。船内で激論が起こり、ついには殴り合いになった。【この部分は後に書き加えられたもので、「事実」かどうかについては疑念の声もある。後述参照】。
 もちろん万人を納得させる答は見つからない。どのみち、彼らに残された時間はほとんどなかった。
 翌7日午後12時40分より、米軍による波状攻撃が開始され、約2時間後に沈没。その過程の戦闘場面の描写は、正に他の追随を許さぬ迫力で、乗組員たちは、事前の思い如何にかかわらず、自分の持ち場で懸命に闘い、大部分が死んでいった。傷つき、怒号し、時には笑い(!)ながら。
 講談社文芸文庫版『戦艦大和ノ最期』(平成5年)の「解説」で鶴見俊輔も言うように、𠮷田の叙述には「あと智恵によってこうしたらよかったというふう」なところは全くない。また、大和に乗った兵士たちの文字通り必死の働きにとって、そんなものは全く相応しくない、と直ちに納得される。
 後智恵によって検証されるべきなのは、戦争に勝つ(勝てないことがわかったら、すぐに終わらせる、まで含む)ための合理性より、大日本帝国海軍の栄光(せっかくの虎の子である世界一の戦艦を、全然役立てないまま終わるより、戦いで華々しく散らせほうが栄える、などということ)を優先させた「作戦」を、立案して実行させたほうだろう。それはつまり、政治的な判断である。
 一方、どんな判断によってもたらされた状況であろうと、人は生きる。迷いも議論も戦いも、すべてが「生きる」ということなのであって、人間の生そのものを否定するのでない限り、それに対する「反省」などありようがない。これ自体は不合理で不条理だと言い得るが、ここに示された生の厳粛さの前では、我々は頭を垂れるしかない。
 小林秀雄の文章をもう一つ、昭和27年に改稿のうえ創元社から出版された「戦艦大和ノ最期」の跋文から引用しておこう。

(前略)そんなおしやべり(引用者註、自分の過去を他人事の様に語ること)は、本當の反省とは関係がない。過去の玩弄である。これは敗戦そのものより悪い。個人の生命が持続してゐる様に、文化といふ有機体の発展にも不連続といふものはない。
 自分の過去を正直に語る為には、昨日も今日も掛けがへなく自分といふ一つの命が生きてゐることに就いての深い内的感覚を要する。従って、正直な経験談の出来ぬ人には、文化の批評も不可能である。(
小林秀雄全集第八巻)

 福田恆存は上のような点ではほぼ全面的に小林秀雄を継いでいる、と言える。
 『新潮』昭和31年11月号から連載された「一度は考へておくべき事」の第一回は「戦争責任はない」(後に「戦争責任といふこと」と改題)で、次の「自己批判について」(「自己批判といふこと」と改題)と併せて、戦後十年を経て再燃した「戦争責任論」を捉えて、その批判を展開している。
 福田もそうであるような戦中派にとって、「戦争責任」とは、戦争中の我が身の言動が追求されることを意味する。だいたい、最初に責任追及を呼び掛けた文学者のうち何人かからして、戦争協力とみなし得る文章を書いていたのだから(というか、戦中に文章を発表していた著述家で、そうみなせることを一度も書かなかった者のほうが珍しい)、この運動が尻つぼみなるのは当然だった。
 一方、この年に出た吉本隆明・武井昭夫『文学者の戦争責任』(淡路書房)や前出の鶴見(吉田満の一年上)など、戦争中はまだごく若くて国家に逆らいようがなく、脛に傷がない世代(西尾幹二はさらにその下の世代)は、後顧の憂いなく年長者を論難できる。それに応じて「戦争責任」を「自己批判」する者も出てきた。そんなの、見苦しいばかりだから、「おやめなさい」と福田は言う。

自分の弱さを告白するといふのは、一見しほらしいやうに見えますが、じつは一種の思ひあがりにすぎません。誠実さうに見えて、じつはずるいのです。個人は「戦争責任」を背負へるほど、それほど強いものではない。(中略)それに少々意地悪くいへば、「戦争責任」を告白するほど、知識人は戦争協力の効果をあげはしなかった。あげたと思ふのは、うぬぼれです。とすれば、告白はたんに自分の気をすませるものであり、より以上に世間の思惑にたいするものにすぎません。
 (前略)第一、あやまられたところで、私たちはその「罪」を許すことも救ふこともできはしない。こちらで救へぬものをあやまらせるなど、まことに悪い趣味です。また罰しも救ひもできぬ国民を相手に、あやまつて見せるといふのもいんちきです。もし告白が、死か社会的追放かをその告白者にもたらすものとすれば、誰も告白などしますまい。「戦争責任」の告白がそれほど厳しいものでないことを承知のうへの「自己批判」だとすれば、国民もずゐぶん甘く見られたものです。
(「自己批判といふこと」文藝春秋社昭和62年刊『福田恆存全集 第四巻』より引用。以下、同全集は『全集』と略記します)

 二つ並べると、断定をリズミカルに積み上げていく小林に対して、論理の筋をじっくり辿る福田という、両者の文体上の特色がよくわかる。論難されている側から見たら、一発づつ殴ってくる感じの小林に対して、ジリジリ首を絞めてくる福田、ということになろうか。読者に与える爽快感は小林のほうが上かも知れないが、批判のキツさは福田が勝るように思う。
 こういうところからくる福田の名声、というより悪名は、既に2年前の昭和29年『中央公論』に発表された「平和論の進め方についての疑問」(後に「平和論にたいする疑問」と改題)以下の、一連のエッセイ(翌30年『平和論にたいする疑問』として文藝春秋社から一書にまとめられた)によって既に確立されていた。
 これも今では知る人ぞ知る話になったようだから、ちょっとおさらいする。
 戦後の平和運動は、まず、日米安全保障条約によって国内に設置された米軍基地への反対闘争として顕在化した。米軍機による騒音と危険、米兵の起こす不祥事など、現在では沖縄に特有の問題のような観があるが、初期には首都圏も含めた全国各地で問題が起きていた。
 昭和27~28年の内灘事件、32~34年の砂川事件などは、昭和35年のいわゆる60年安保闘争にまっすぐにつながっている。もっともこの最後の運動時には基地問題は傍流になってしまった観があるが、これは基地問題の根底には安保条約があり、そのまた根底には東西冷戦構造があり、これをなんとかすべきなんだ、まで話が広がったからだ。これによって反政府の市民運動は、空前絶後の高まりに達し、6月にはデモ隊が国会を連日取り囲む盛り上がりをみせた。
 福田恆存によると、この拡大戦術がそもそもインチキなのだった。
 基地問題は、その周辺の住民にとっては、それこそ毎日の生活に直結する目前の厄介だが、そこから離れたら他人事である。そこで、もっと「大所高所から見た」問題意識が訴えられた。アメリカに軍事的に支配されていれば、そのうちかの国の世界戦略に巻き込まれ、再び戦争をせねばならないようになる、とか(今から見ると驚くべき話だが、この頃はソ連を筆頭とする共産主義国は「平和勢力」であって、すぐに武力に訴える「戦争勢力」は、アメリカを筆頭とする資本主義国だ、なる「常識」があった)。
 一般庶民がいつまでも真剣に懸念するにしてはいかにも雲を掴むような話だが、知識人にとってはむしろ都合がよかった。「(前略)まづ第一に、問題は自分との直接の関係から離れます。第二に、自分ひとりだけの問題ではなくなるので荷が軽くなります。第三に、さしあたつてどうかうできる事柄ではなくなるので行為への責任からまぬがれます」(「平和論にたいする疑問」『全集 第三巻』)。
 天下国家の問題を気にかけるそぶりをするのは知識人として当然である。といって、東西冷戦の問題をどうにかなんて、できるわけがない。それはみなさん承知の上で、敢えて大いに憂慮し、さらには自分の無力さを恥じたり嘆いたりして見せる。……本気だとしたら、もはや一種の病気であろう。福田はこれを「自己抹殺病」と呼んだ。
 もっとも、「こちらで救へぬものをあやまらせるなど、まことに悪い趣味」だというのは、現在ますます、わかりずらくなっているかも知れない。TVをつければ、事故・事件の責任者やら、不倫などの不道徳なことをした芸能人の「謝罪」であふれかえっている。彼らは、不特定多数の世間に謝ってどうしようというのだろう。見ている世間の側は、謝られてどうしようというのだろう。どうしようもない。だからこそ、できる謝罪。
 謝罪も反省も、このように、「世間体」のための儀式にすぎなくなっているとしたら、本当に責任を担うべき主体的な自己など、もはや全く無用の長物になってしまったということだ。【いや、この日本では、そんなものは最初から重んじられてはいなかったのかも知れないが。】
 即ち、「戦争責任」も「平和運動」も、せいぜい「臭い物に蓋をする」程度の効果しかない。それなのに、「主体的」にそこに関わることを求めるかのような言論と、関わっているかのような言論。それは畢竟、贋物なのだ。小林秀雄はごく短く、福田恆存は執拗に、それこそ身も蓋もなく指弾し、ために論壇で完全に孤立した。

 西尾幹二は上記のことについて、特に福田恆存の場合は、リアルタイムで見聞していたろう。それも含めて、思想家として自己を形成するうえで、ニーチェに匹敵する影響を受けた証拠に、『歴史の真贋』中で、小林・福田について、詳細に、情熱的に語っている。三島由紀夫や竹山道雄など、他の言論人も取り上げられているが、重点は明らかにこの二人にある。ただし、不満がある、とも。
 彼らの言論に反対だというわけではない。戦後的な考え方を批判し否定したのはいいし、正しい。その彼らにしてなお、「戦後的価値観で戦後を批判する域を出なかったのではいか」というのが彼の疑問である。

戦争責任について小林さんは「反省なんかしないよ」と言いました。福田さんも戦争責任なんて無いと言いました。その通りだと思います。でもそれは戦後の話ではないですか。戦争に立ち至った時の日本の運命、国家の選択が正当であったか、正当でなかったか。果たしてこの両名は問いましたか。自己責任を持って世界を見ていたあの時代の「一等国民」の認識をもう一度吟味しようとなさいましたか。これをもう一回やらなければ、米中の狭間に立ち竦む現在の日本の立ち位置は危ういことになるのですよ。(P.238)

 私は西尾のこのような思いがどこから出てきたか、できるだけ理解しようと努め、ある程度はできたと思っている。その上で言うのだが、小林・福田にこんなことを求めても、無理だ。端的に、「お門違い」なのだ。
 小林秀雄は大東亜戦争を悲劇と呼び、「悲劇の反省など……不可能」と言う。悲劇にはいいも悪いもない、ということだ。しかし、戦争を政治上の大イベントとみれば、その開始から終結までの計画(作戦)と実行のすべての範囲で、その適否を、その意味の「よい・悪い」は判定可能だし、それが非常に難しいとしても、判定するように努力すべきでもあろう。今後似たような状況に至ったとき、よりよい選択の参考にするために。
 戦争の道義性、つまり大義名分ということになると、さらにずっと難しくなるが、理屈上はできるだろうし、大東亜戦争についてそれは、現に今日も盛んに論じられている。そこでは、日本には理も利もない戦争だった、というのがいわば標準的な見方で、西尾たちはこれをなんとか変えようと努力している。
 しかし、小林・福田にはそんなことにはあまり興味がなかった。それは彼らの仕事の範囲にはなかった、ということだ。

 では、彼らの仕事とは何か、もう一度振り返っておこう。
 小林秀雄は前出「政治と文学」で、「私は機会ある毎に、歴史に関する自分の考へを書いて来ましたが、歴史家としても歴史哲学者としても物を言つたことはありませぬ」と言う。例えばヘーゲルがどんなに精緻な歴史哲学を唱えようと、そこに歴史はなく、ヘーゲルのほうが歴史上の一人物である。「そしてさういふ常識が、私達めいめいの生活経験のうちに、どれほど強く根ざして、貴重な意味合ひを湛へてゐるかに注意しようと努めて来た」と。
 こういう言葉を正確に捉えようとするのはまたしても難しいが、小林の仕事の太い柱を辿ると、生身の肉体が巨大な観念に出会ったときの、芸術家たちの運命に最も心を惹かれていたようである。観念、という言葉は、他に思いつくものがないままに仮に使ったのだが、具体的には詩・音楽・美術・小説、の形をとり、最後に、いにしえの言葉を文字通り蘇らせようとした学者の、大和心(日本的なるもの)発見のドラマを描いた。
 それが「客観的に」正しいかどうか、つまり、本居宣長以外の人にとっても「大和心」と言えるかどうか、などとは小林は問わない。とりあえずそう呼ばれる得る何ものかが、宣長という一個人の心を捉え、当時誰も読めなくなっていた「古事記」の解読という大仕事に赴かしめた。小林が感応する人間の、また歴史の真実とはそういうところにしかない。
 だから小林は宣長の先蹤によって古代人の心に直接分け入ろうとはしないし、宣長自身の思想史的位置づけなども述べなかった。「ドストエフスキイの生活」(昭和14年)にはまだしもあった社会状況への目配りも、「本居宣長」にはない。
 これに不満を感じて西尾幹二は『江戸のダイナミズム』(文藝春秋平成19年)を書いたのだ、と、当初から言っている。これによって小林は「とどめを刺」(P.227)されたかどうかは措くとして(それは冗談だ、と本人が言っている)、大東亜戦争の世界史的位置づけは、小林以外の、例えば西尾や彼の後継者がやらねばならぬ事業なのは明らかなのである。

 福田恆存になると、日本社会への言及は多い。現在だけでなく、過去についても。近い過去のみではあるにしても。
 『文藝春秋』昭和38年10月号から連載された「日本近代化史論」は当初十回の予定が六回で終わってしまって、その中の各回も密接に繋がっているというより、その都度特徴的な問題を扱っているので、このシリーズ名でまとめて出されたことはない。しかし全体として、福田という思想家の問題意識の根源はここに明瞭に出ている。
 その五番目の「軍の独走について」には、『全集 第七巻』所収の年譜によると昭和17年、奉職していた日本語教育振興会の視察旅行の一環として旅順を訪れたときの感慨が記されている。

私は爾靈山の頂上に立ち西に北に半身を隠すべき凹凸すら全くない急峻を見降した時、その攻略の任に当つた乃木将軍の苦しい立場が何の説明も無く素直に納得でき、大仰と思はれるかも知れませんが、眼頭が熱くなるのを覚えました。(下略)
 それにしても、未だに消えぬその時の私の感慨は、今日の侵略戦争批判などといふ理屈で処理できるものではないし、微温的なヒューマニズムを以て戦争の残虐を説き聴かされた處で、全く余所事としか思へぬものであります
。(『全集 第五巻』)

 べトン(コンクリート)で塗り固められた要塞に、旧式の村田銃のみをかかえて突進しては、機関銃の一斉射撃で斃される兵士たち、その作戦の無謀を知りながら、他に有効な手段が見出せず、職責として命ずるだけの将軍、この悲痛は譬えようもない。これを近代日本の一つの象徴として、福田の「史論」は展開される。
 キーワードは「適応異常」(「日本近代化試論」の二番目のタイトルは「適応異常について」)。西洋の要請によって急激に開国した日本が、急激なゆえになかなか身につかない「近代」という衣装を無理に着た結果、何やら滑稽にも悲惨にもなり、それに焦ってやきもきしたり、逆に癇癪を起して破り捨てようとしたり、大きく見ればその繰り返しが明治以降の日本の姿だった、ということ。
 これは、初期の「近代日本文学の系譜」(昭和21年)から福田がずっと抱いてきた史観である。「史観」なるものが小林秀雄にはほとんど無縁だったことを思えば、「人文科学者」としての歴史家に近いようだが、決定的な違いがある。「過去を他人事の様に語る」だけだとしたら、彼らが散々批判した進歩的な歴史論者と変わらないことになってしまう。
 もっとも、福田が、特に近代日本文学者を論ずる目は非常に犀利で厳しいので、冷たい印象を受けるときもある。しかし、適応しそこないであるにもせよ、そうならざるを得なかった近代日本人の運命を見つめる彼の目の底には、前述の熱い共感が流れている。「個人の生涯にせよ、民族の歴史にせよ、その必然の線を描き出すものは策や計算を超えた、或はそれらの与り知らぬ無意識の仕事」(同前)だ、などと言うところでは福田は完全に小林秀雄と一致する。彼はただ、前任者より扱う対象を広げて見せただけである。

 それでは飽きたりない、と西尾が思うのは自由だが、『歴史の真贋』では、後になるにつれて彼らへの批判が強まる。悪く言うと、悪く絡んでいるような調子である。それも、西尾の小林・福田への愛着の裏返しであろうか。
 例えば、日本軍による「戦中起こった残虐事件」とされるものについて。【ちょっと待てよ、と言いたくなった。大東亜戦争が当時の国際情勢から見て正当であったか否かと、個々の戦場で兵士たちが正しく振舞ったかどうかは、次元の違う問題である。しかしとりあえず、日本は現在主に後者の点で非難されていて、ゆえに前者も不当、と判定されているので、これもしかたないのか、と思い返した。】
 福田恆存はここでは竹山道雄と並べられ、彼らはもちろん戦中の日本・日本人を現に見聞して、よく知っているはずなのに、外国人から言われると、弁解するばかりで反論しなかった、どうして「そんな馬鹿なことは無い! 我が皇軍に限ってはあり得ない!」と言ってくれなかったのか、と(P.346)。……また、冗談ですか? しかしここにはそういう断りはない。
 西尾が挙げている福田と外国人との問答とは、「日本および日本人」(昭和29~30年)中の次の箇所だろう。アメリカで「日本人は和を尊ぶ」という話をしたら、かの地の人にただちに反問された。それでは軍閥の超ナショナリズムやら日本兵の残虐性はどうなるのか、と。福田の答えは、

残虐行為は日本兵だけのものとはおもはぬが、日本兵のそれが常識を逸したものがあつたらうことは私も認める。だが、それは和を原則とする仲間うちの生活習慣と矛盾はしない。戦争が利害のかけひきの手段であり結果であるといふ近代的な考へかたにかれらは馴れてゐないのだ。(中略)和になれてゐればこそ、戦ひとなると、すぐかつとなつてしまふのだ。(『全集 第三巻』)

 これがつまり「近代への適応異常」の具体的な一例である。謬見かも知れない。また、事実問題として、日本兵が外に比べて「常識を逸して」残虐であったかどうかには疑念が持たれて当然だろう。また、本人から、これは「冗談」だった、ただその割には、その時話をしたアメリカ人の一人は納得した、とも言われている。
 しかし、どこから見ても「弁解」ではない。日本人の残虐さ、と呼ばれるものについて、あってもなくても、弁解しなければならない必要性など、福田は感じていなかった。そんなことで日本および日本人に絶望したり、逆に誇りにしたりする人ではない。そういうことは西尾が一番よく知っているはずだと思っていたので、我々は戸惑うのである。
 人、あるいは言はん。そういうのは福田が西洋主義者で、日本を外から見ていたからだ、日本人としての自覚がきちんとしていたら、「日本兵は残虐だった」などと言われて平気なはずはない、と。
 これに対しては、上で縷々述べたことを読み返していただきたい、としか言葉はない。ただ、このように言いたくなる西尾の側の事情も考えておくべきだろう。ここまででまたしても多くの言葉を費やしてしまったので、次回改めて述べます。。
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福田恆存に関するいくつかの疑問 その8(西尾幹二の「不満」から・上)

2020年02月29日 | 文学

バルトロメ・デ・ラス・カサス「インディアスの破壊についての簡潔な報告」(1552)のためのヨース・ファン・バインヘンとセオドア・ド・ブライによる挿画

メインテキスト:西尾幹二『歴史の真贋』(新潮社令和2年)

 本書を読んで、近年折々仄聞する機会があった西尾幹二先生の、戦後日本の、いわゆる保守派に対する批判的な姿勢に直面し、とりわけ、西尾先生にとって文芸上の師匠だった福田恆存先生への「不満」が明確に書かれていたので、けっこう動揺しました。全く個人的な心情でしかありませんが、これについて一言しないわけにはいかない気分になりましたので、今回述べます。
 以下、敬称は略します。

 順序として、著者の立脚点についての私なりのまとめをまず掲げておく。
 『歴史の真贋』は、西尾幹二が平成23年から令和元年の間に各地で行った講演の草稿を基に、新たな書下ろしを加えて成ったものである。すべて「です・ます調」の話し言葉で書かれているので、内容の割には親しみやすくわかりやすい。おかげで、この年月、よりもずっと以前から、著者の目指しているものが明瞭にわかる。
 それは「日本中心の世界像を回復」し、「日本の主体性を取り戻す」(P.48)ことだ。途方もなく難しい試み。どこにどれくらいの難しさがあるのか、それを理解するのがそもそも難しいほどに。著者もまた、様々に迷いつつ、現在に至る長く厳しい道程を辿らねばならなかった。本書は全体として、その際の、内面のうねりを伝える、一種の精神的自叙伝になっている。前述の「目標」に到達しているとは言い難いが、むしろこのような読み物こそがスリリングなのだ。

 前半では、ニーチェの研究者として出発した著者の、西洋観が語られる。
 周知のように、唯一にして全能の神がこの世界を作った、という神話的枠組みが西洋精神を規定している。この信仰の根底には、虐げられた人々の鬱積した復讐感情、いわゆるルサンチマンがあることは、ニーチェが夙に指摘した。元来ユダヤ人という単一民族はなくて、エジプトで奴隷として差別されていた人々がモーゼの掲げた神のもとに団結したのが始まりで、つまり、ユダヤ教が先にあってユダヤ人が後に出来たのである(P.103)。
 多様な人種・民族をまとめるためには、地上のすべてを超越した存在を措定しなければならなかったのだろうが、また、日陰者の集まりであったからこそ、そこから外れている者たちを排斥する敵愾心は凄まじく、イエスが登場して慈悲と許しを説き、キリスト教へと転換した後も、それは人々の奥底に隠れた、言わば裏の心理として残ってしまった。
 表にはこういうことがある。唯一絶対神を信じるのであれば、「神の視座」はどこかにあるはずであり、それからして、真と偽、善と悪、美と醜、は明確に分けられるはずである。そもそもキリスト教を知らない異教徒は、明らかに正しさからも善さから遠いのだから、人間扱いすべき謂われはない、ということにもなる。
 かくして15世紀以後の、キリスト教世界となった西欧の、アフリカ・アジア・アメリカへの仮借ない侵略が始まる。これが慈愛を説く宗教の影の部分であり、その上に近代西洋文明が成立した。
 しかしこの過程で不思議なことが起こった。それはニーチェが「神の死」と呼んだできごとである。「我々が神を殺した」、しかし、その本当の意味はまだ理解されないので、「私は早く来すぎた。……この恐るべき出来事はまだ進行中なのだ」と(「悦ばしき学び」)。
 西尾が与えてくれたヒントを基に、自分なりの言葉で、たぶん21世紀の今日でもまだ進行中であるこの出来事とは何か、考えてみる。
 近代科学の草創期に活躍したガリレオやニュートンは皆敬虔なキリスト教徒であり、神が作ったこの世界の仕組みを解明しようとするのは、神の意志に沿ったふるまいであるはずだった。しかしそれがうまくいくと、人間は客観的な世界の真の姿を、即ち「神の視座」を手中にしたような錯覚に陥る。
 一方では18世紀までにカントなどが、人間には(「物自体」などの)世界の究極の実相は知り得ないことを証明したのだが、ものごとが生起し消滅する過程(即ち、現象)なら、かなりの程度正確に記述することができ、普通はそれで充分なのだった。
 前回の記事(小説もどき)で書いたことを例に挙げる。万有引力とか重力とかいうものがあることはみんな知っている。しかしそれが本当はなんで、どうしてそんなものがあるのか、は誰も知らない。知らなくても、ともかくあることにして、地上でリンゴが樹から落ちる現象も惑星の運行もすべて単一の法則で記述できるなら、どういう条件ならどういう動きが生じるか、正確に予測できる。ならば、それを使って、飛行機やロケットやミサイルや大砲の玉を飛ばすことができる。つまり、戦争に強くなるなど、現実の役に立つ。
 電気も同じこと。どのようにすれば電流と呼ばれるエネルギーが生じ、どのようにすればそれを熱や光などの他のエネルギーに転換できるかわかるだけで、人間の生活は格段に便利になる。それでよい。そこを踏み越えて、「電気とはいったい何か」などと考える人など、いつでもどこでもめったにいるものではない(考えれば、それは決してわからないことだけはほぼ確実にわかる)。
 ならば、神など、いらないんじゃないか?
 ニーチェの寓話中で、神の死を告げる「狂人」を嘲る男たちは、確信をもって神があるともないとも思っていたわけではない。そんなことはどうでもよくなっていたのだ。
 神父さんたちに代わって科学者が、この世界について隈なく説明してくれるようなので、自分たちは正しい認識を得ているはず。それだけで、自分たちこそ優れた人種であり、正しいことを知らない異教徒・異人種は劣っていることは明らか。神様そのものについては、忘れていたほうが、余計な「良心」などを顧慮しなくてすむ分、都合がいい。近代科学はまた、航海術などの交通手段や殺戮兵器を圧倒的に進歩させたから、物理的に侵略や支配はやりやすい。
 かくて西欧社会の暴力的な拡大は続いた。それも、一部族・一民族を殲滅するか奴隷にするかの苛烈さで。【ただ、モンゴル帝国もずいぶん残虐だったようだから、この点は西欧社会やキリスト教のみのせいにするわけにはいかない。】近代ヒューマニズム(「人間一般」を価値あるものとする)のおかげで、後には穏やかなものにはなったが、二十世紀の半ばまで西欧諸国による他の地域の植民地支配は続いたことは周知の通り。
 第二に、精神的な問題。明らかに、ニーチェの力点はこちらに置かれていた。
 神がない、とはつまり、世界の中心的な拠所が失われたということである。ならば、社会も自然も、それを一定の「世界」として眺める「自己」も、すべては仮象、と言いたいが、実際は、仮象なりに一定の方向・意味を与えるものをどこかに措定していない限り、それこそ仮にも秩序だったイメージ(象・像)が成り立つはずはなく、世界はすべて、混沌、という言葉も無意味になる完全な混沌しかないことになる。そのような、徹底したニヒリズムに耐えられる人間などいない。それ以前に、「人間」なるものが存在し得ない。
 だから、自然の見方としては自然科学が真理の座につかねばならなかった。そのためには、繰り返すと、世界の「真実在」に至るというような野心は捨てなければならいのだが、逆に言えばそれさえあきらめればけっこううまくいく。
 社会、と呼ばれる人間たちの世界はどうか。ここでも同じようなことが言える。確固不動の事実などない。あっても、人間にはわからない。人間が手にすることができるのは、ここでも、「事実」と「自己」の関係の織りなす過程であり、それについての「解釈」だけなのだ。
 と言っても、これは、各人が勝手に解釈してさえいればいい、ということではない。それではやっぱり人間社会全体としては混沌になってしまい、すると「自己」なるものが成り立つ現実的な立脚点もまた、失われてしまう。
 そもそも自己もまた、単一の、不動のものとしてあるわけではない。「「自分が外を見る」ことと「外を見る自分を見る」という、そういう格闘の挙句の果ての自己」でなければ、外と繋がることはできない。まして、歴史という最も大きな世界については、「歴史の世界に没入していって自分を無くしてしまう」ところまでいかなければ何も見えてはこない。見えてきても「それは客観世界ではありません。歴史はそうやって、こちらが動くことによって新たに動いて見えるそのつど変化した世界なので」(P.74)ある。
 「過去との果てしない対話をする歴史家」(P.75)にとっては、歴史はそのまま自己になる、とも言われる。思うに、このような過程を経て、語るに足る、即ち他者とも共有可能な世界(歴史もその一つ)も形成されるのだろう。

 以上は、あまりに理想的に、綺麗に言い過ぎているきらいがある。実際は、個人意識が現れてくる前に、すべての人が自分の生まれ育った社会の、歴史(観)を含めた既成の有様から「自己」が規定されているのが当然であり、後天的な「対話」によってそこを多少とも踏み越えることができる人など、ごく少数の、天才と呼ばれてもよい存在に限られるだろう。
 地球上の社会の多様性は、文明観や宗教観と同様、歴史観の違いに根ざす。というか、これらは互いに密接不可分であって、善悪美醜の基準もここから来る。たとえ一番根底の神及び神的なものは見失われたとしても、その範型は残る。ある社会が続く、とはそういうことであり、範型が異なる二つの社会が正面からぶつかるとき、のっぴきならない対立を惹き起こしもする。キリスト教国とイスラム教国の相克は、今日見られるその代表例。
 そして、本書の前半で私が教えられた最大のものは、アメリカは現在に至るまでヨーロッパよりはるかに一般の信仰心が強い国だ、という指摘である(P.107)。1898年の米西戦争に勝ち、太平洋におけるスペインの旧来の覇権を完全に奪った時こそ、日米海戦の端緒である、とされる。
 つまり、太平洋戦争(大東亜戦争のうち、太平洋方面に限定したものとしてこの呼称を使う)とは、20世紀の十字軍として、太平洋の深奥まで、自分たちキリスト教徒の「正しさ」を拡げようとする大国と、その大洋の片隅にいて、どうも西洋世界の支配を脅かしそうな野心と実力を示した島国の、宗教戦争であった、というのだ。
 興味深い解釈であり、いつかこれに沿った20世紀日本の通史が書かれることを期待せずにはいられない。

 では、現在までの日本の歴史語りはどういうものだったか。
 「愚管抄」や「神皇正統記」のような、歴史哲学と言うべきところまで踏み込んだ書物は、いずれも支那を意識して、我が国独自の、皇室中心の歴史の正統性を主張いている。【こういうものが書かれた背景には、動乱の時代で、その正統・正当が危殆に瀕しているという認識があった。幸にして皇室自体は生き延びて、今日まで日本の歴史の連続性を証するものになっているが。】
 江戸時代にこの傾向を最も強く押し進めた国学者に本居宣長がいて、ほぼニーチェの同時代人なのだが、例えば「古事記傳」中に述べられた古代日本人の自然観や宇宙観には、ヘラクレイトスに関するニーチェの解釈に似たところがある。世界は、神と呼ばれる得る存在が作ったのではなく、自然に「成った」ものであり、現在まで生成を続けている、というところが。
 近現代でこのような古代観の独自性を認めた和辻哲郎や丸山眞男は、しかし、それこそ自然に、西洋のフィルターを通して物を言う。「日本人は原理がない、定まらない、影を抱いている精神の中空構造で、どこかに空虚なものをかかえながら、しかしそれがまた日本人の強さだ」云々。
 「もうこのような論は沢山です」(P.158)と西尾は言う。両方を立てておこう、という感じの、いわゆる「仲人口」のいやらしさもさることながら、固定した観念や概念でピン留めしたような歴史は、畢竟贋物なのだ。「大切なのは存在ではなく生成なのです。精神が展開し続けている運動だけが肝心なのであって」(P.159)、そのような生命のダイナミズムに自ら身を置いた歴史観だけが真だと言える。
 だからまた、西洋の短所に対して日本の長所を言い立てる、なんぞという行き方もダメ。それは結局のところ、近代日本特有の、西洋コンプレックスの裏返しに過ぎない。第一、明治以降西洋をモデルにして近代化の道を進んだ日本で、西洋を頭から拒否するような行き方があり得ると考えるのは、全くの錯覚である。「欧米が世界を描こうとしているときの姿勢や精神をしっかりと自分なりに解釈し直」(P.61)したうえで、日本なりの世界観・歴史観を打ち立てなければならない。
 戦前の思想家の中には、そういうことができた人もいた。仲小路彰・大川周明・平泉澄・山田孝雄ら。彼らの業績は戦後アメリカによって封印され、忘れ去られた(後述)。それはつまり、大東亜戦争は日本の犯した悪であった、少なくとも失敗であった、という彼の国にとって都合のいい歴史観が日本を覆い尽くしていることの一つの証左である。

 こここから、若き日の西尾が直接学んだ保守思想家、中でも特に小林秀雄と福田恆存が検討される。この部分については次回にまわします。今回は、私が依然として強く惹かれている西尾の歴史観について、思わず長く語ってしまいましたので。
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福田恆存に関するいくつかの疑問 その7(二元論について)

2019年11月21日 | 文学



【以下に本年11月17日に実施いたしました「福田恆存没後二十五年シンポジアム」での口頭発表に基づき、少し加筆訂正したものを掲げます。当日はまず福田の昭和45年の講演「塹壕の時代」の録音テープを聞いてから、私を含めた四人の講師により発表に進みました。
 以下の記事中の「講演」はこれを指します。この講演録は『文藝春秋』平成7年1月号に発表されていますが、全集未収録です】

 私は最近福田恆存の話をすると、まず、彼は保守主義者ではない、と申します。まして国粋主義者ではない。西洋近代主義者とか、個人主義者とか、言ったほうがまだしも近い。もちろん、「まだしも」であって、そう言ってしまえばやっぱり違うんですけど、それは「~主義」というような固定した呼称が彼には相応しくないからです。それでも敢えて「まだしも」を強調する必要があると感じるのは、福田恆存と言えば戦後日本の保守派の大立者、という思い込みがあって、それがどうもよくない影響をもたらしている、と個人的に思っているからです。
 先ほどの講演中にも、戦時中の御自分を「リベラル」と表現なさったところがありましたが、戦後の福田に関しても、主義、というより、思想的な傾向ということなら、リベラルが多分一番よい。しかし、現在の日本では、個人主義とか以上に、この言葉を使うのはためらわれる。本当に困り者ですからね、今の日本でリベラルと自称している人々は。左翼崩れのことでしょう? 
 それで、福田のような正統的なリベラリストは、リベラルではない、どころか、それに反対の立場のように見えてしまう。ここに、戦後日本の思潮、思想状況の問題点が一番端的に現れているように思います。今回はそれに詳しく立ち入る余裕はないですが、いくらかでも伝わればいいな、と期待しています。

 講演中に「個人の自覚」というものも出てきましたね。日本人には元来これが稀薄である、と。これとか、「自我の確立」とか、私の若い頃にはまだけっこう聞いたような気がするのですが、最近ではどうですか? トンと聞かないなあ、誰かに言ったら、「何、それ?」という反応が返ってきそうな気がするのは、私がもの知らずだからですか?
 そうでないとしたら、それこそ「塹壕の時代」であることの証拠です。右でも左でも、みんな軋轢をいやがる。議論をいやがる。狭い仲間内に立て籠もって、その中でのみ通じる言論を使って、のんびり愉快に過ごせればいい。「それって、本当にそうなのかい?」なんて言い出すのは、その場の雰囲気を壊す、野暮でしかない。
 KYって言葉がちょっと前にありましたね。空気を読まない、っていう。近代的個人というのはKYなんですよ。自分の信念たらいうものがあり、それにあくまでこだわって、敢えて場の空気を読まず、「真実」を追求しようとする。そんな鬱陶しい奴、つきあってらんない、ということに今はなりがちです。
 逆に言えば、他との軋轢、もっと激しくなれば対立、を経験して、個人意識は強くもなり、鋭くもなる。講演中にもこの主旨は言われていたわけですが、もう少し別の角度からこのへんのことに触れられているものを、後年の福田の著作から取り出して、それに即して愚考を述べておこうと思います。昭和55年に発表された「近代日本知識人の典型清水幾太郎を論ず」の、最後の辺りの文章です。

 (前略)私達はたとへ軍人でなくても、善き国民として「自分を超えたもの」即ち国家への忠誠心を持たなければならない、同時に、善き人間として「自分を超えたもの」即ち、良心への忠誠心をも持たねばならず、その両者の間に対立が生じた時、後者は良心に賭けて前者と対立する自由がある、たとへその自由が許されゐない制度のもとでも。

 できるだけ自分自身に引きつけて、単純に、具体的に考えてみますね。「国家への忠誠心」と言われても、私のような平凡人は、そもそも国家なるものをふだん意識することがめったにありません。せいぜい、税金を納めるとか、交通規則みたいな社会的な決まりは、やっぱり守ったほうがいいな、とかですね。国家なるものを強く意識するとしたら、そういった決まりごとが、どうも当然ではないんではないか、まちがっているんではないか、などと感じられるときです。
 もちろん、その「感じ」が必ず正しいなんていうことはできません。エゴイストというほどではなくても、我々はこの小さな肉体の中に閉じ込められていて、そこから世界を眺めて、いろいろ感じたりやったりするものだ。ごく自然に、自己中心的になる。そして、自分の自己中心性と他人の自己中心性が衝突したとき、その個人同士のレベルですべて解決できる、なんてあるわけがない。ルールを決め、強制力をもってそれに従わせる力、いわゆる権力が必要になります。多数の個人から成るこの社会の安寧秩序を守り、ひいては個人を守るために。そして現在のところ、最も強い権力は国家からくる。国家権力ですね。それも、必要があって存続が認められているものです。
 ごく単純な話ですよ。例えば、皆が自分の気分と都合だけを考えて車を運転したとしたら、これはもう道路状況が滅茶苦茶になって、危なくて運転自体ができなくなる。ここで改めて注目しておきたいのは、権力は個人の得手勝手、つまり自分の気分や都合にのみ従って動こうとするのを制限するものだということ。制限する、とは部分的に否定することです。権力は、個人を否定するものだ。戦後日本では、権力はアプレオリに悪なる、思想、というほどよく考えられたものではないと思いますけど、なんとなくの思い込みがありましたが、一応説得力があるようなのは、これがあるからでしょう。個人と国家とはそもそもの最初から対立の契機を孕んでいるのです。

 一応断っておいたほうがいいでしょう。今のは統治機構としての国家の話であって、国は、それだけの存在ではない。母国、というのは、言語を初めとする文化が、雲散霧消してしまわないように、一定の枠を嵌めて、持続せしめるもので、我々国民はその中で生まれ育って、人となる。そういうものだから忠誠心も湧いてくるのです。このいわば文化としての国家と、政治上の、権力機構としての国家は、意識的にも無意識的にも混同されがちなんですが、なにしろ私たちは、権力には、必要性は認めても、普通の意味での愛着を抱いたりはできない。【私が当ブログで時々開陳している権力―エロス論は、もちろん「普通の意味の愛着」ではありません。】
 できないけれど、必要ではある、のですが、またしかし、権力を行使する側が間違っていることは現実にあります。だって、同じ人間なんですから、先に述べたような限界を完全に免れるはずはないのです。それでも権力は権力として、暴力を含めた強制力を保つ。これは非常に不条理だし、逆の方向から社会を壊してしまうこともあり得る。そう考える自由は個人にはあるし、なければならない。

 ここで注意しなければならないのは、これは「自由」であって、「権利」ではないところです。権利というものは、他人も認めなければ成り立たないんですが、自由は「自らに由る」という字義で、あくまで自分一個の問題なんです。ですから、たいてい無力です。
 例えば、この10月から消費税が10パーセントに上がりましたね。今の時期にそんなことをすべきではない、という人は少数ながら存在していて、私もそう思うんですが、じゃあ「俺は消費税は8パーセントしか払わないぞ」と言って、実行できますか? 残念ながら、私にはできません。できる、という人は、尊敬しますけど、難しいですよね。そういう抵抗が認められる制度はないですから。そんなものがあったら、権力が無効になってしまいますから。言うまでもないことを言いますと、物理的な力からしたら、国家と個人とでは最初から勝負になりませんしね。 
 でも、それくらいなら、個人がどういう批判意識を持とうが無意味ではないか、自由なんてないも同様ではないか、と言いたくなる気持もわかります。

 人間の自由については、さらにもう少し別の困難もあります。先ほど引用した福田の文章の、後の部分を読んでみます。

とはいへ、後者(この場合、国家に対する)の忠誠心は目に見える仲間、同志の集団に支へられてゐるのに反して、前者の(良心に対する)忠誠心は、目の前には見えない、後ろから自分を押して来る生の力の自覚に対する強烈な意識そのものを信ずる以外に法は無い。

 自由を主張すると孤立してしまうんです。KYなんだから、当然なんですけど。

 「近代日本知識人の典型清水幾太郎を論ず」は、晩年になって右傾化して「戦後を疑う」だの「核の選択」だのを書いた清水幾太郎批判を看板に掲げたものでしたので、ここで例にされているのは、一番先鋭な、戦争の問題です。国家は、危急存亡の時には、国民の中のある者を兵士としてリクルートする権限がある、のでしょう。
 それに対して、この戦争はまちがっているから、【ところで、あらゆる戦争は悪、というのが戦後普通に言われていることでして、その悪をやるのが国家だから、国家は悪なんだ、と言う理路よりは観念連合みたいなものがあるみたいなんですが、理路としてみたら非常に極端な考えであって、そこをあまり深く考えさせないようにするために、平和主義と呼ばれる言論が戦後膨大に積み上げられてきたようです。それはともかく】、この戦争はやらないほうがいいものだから、自分は今回は国家の要請には応じられない、と思ったり言ったりする自由はある。

 と、言っても……ですよねえ。権力からの直接の弾圧はないにしても、いや、あるに決まってるんですが、それは別にしても、周りのあの人もこの人も戦場へ行くのに、自分だけは行かない、と言えるものか。これはよほどの精神の強さが必要になる。他人の目というのも、集団になった場合にはかなり強力な権力として作用するわけでして。
 こういうとき個人を支えるものとしては、「後ろから自分を押して来る生の力の自覚に対する強烈な意識」以外にはない、と福田は言います。ちょっと難解ですね。
 だいたいはこうじゃないでしょうか。我々は、たとえ平凡であったとしても、様々な体験や思索を重ねて今ここにいる。この自分を形成し、未来に向かう力を与えてくれているものは、伝統と言ってはまだ狭すぎる、過去の全体である。それはもちろん自分一個のものではなく、他のとの関わりが不可欠だ。そうであるなら、さっき言った文化としての国全体に、さらには人類全体の巨大な過去に、一筋の細い糸で繋がるものだろう。
 即ち、我々は、今ここの社会の中では孤立するとしても、過去から連綿として続く歴史の中に、連帯を感じることはできる。我々の善悪美醜の価値基準ももちろんそこに根ざしていて、それこそが良心でしょう。だから、

それを信じさえすれば、自己疎外だの、身元証明などと言つて辺りをうろうろ見廻す必要はあるまい。自己欺瞞だと言はれれば、それまでだが、少なくとも、この場合、清水氏の様に過去を振返り辻褄合せをする手数も要らなければ、破綻も起らない、なぜなら、過去と黙契を取交してゐる以上、連続性、一貫性は自づと保たれてゐるからである。

 どうですか? 素直に納得できますか? なぜ「自己欺瞞だと言はれれば、それまで」なのかと言うと、そうではないという証明はできないからです。最初から自分が納得するかどうかだけが問題なんですから。そんなの、インチキか、よくても、自己満足に過ぎない、と言われたら、それはだって、そう思う人には実際そうでしかないんですからね。分かる人にだけ分かる、そういうもんだとしか言えない。
 そういうもんを、敢えてまとめますと、個人というものを成立せしめるためには、ざっと二つのものが必要になる、ということになります。一つには、その個人を縛る制度、もう一つにはその個人を越える価値。普通逆だと考えられているようなんですが、こっちが本道だと、福田恆存は言うのです。納得できますか?

 どうも、こういうことは言葉を重ねれば重ねるほど、「辻褄合せ」のように見えてくるもののように感じます。もっと簡潔に、言える言葉はないものか。
 あるんですね、西洋には。唯一絶対神というやつです。今の社会の全体も、これまでの過去の全体も、すべてを超えるところにある、普遍の、究極の価値。これを信ずるためには、自分という個人は相対的な存在でしかない、と、まずそれを徹底的に知らねばなりません。そう感ずるとき、言わば反対側に、絶対不変なるものが立ち上がるのです。その前では、国家だって畢竟相対的な存在であるしかない。だから個人と国家が対立したとき、国家のほうが必ず正しい、と考える必要はない。
 また、個人は弱いものですから、正しことを知っていたとしても、必ず正しく振舞える、とは限らないのですが、「絶対のもの」を心のどこかで感じていて、そことの距離を気にかけることで、自分とはなんであるか、一番根本のところをはかることができ、また、自らの人格の一貫性を保つよすがになるのです。因みにこういうのが、近代文学が扱うべき近代的個人というものです。

 さてしかし、この日本でこれを言うのは難しい。西洋なら、どんなに信仰心が薄れたとしても、それこそ長い過去から連綿として続いてきたキリスト教の伝統が、生活の中、文化の中に痕跡を留めていますので、一応はピンとくることもあるでしょう。日本は、そんな、絶対不変の唯一神なんて、昔から観念の中になかったですからね。
 ついでに、少しだけ、ついでに言うにしては大きすぎる観念上の問題を申します。
 最近保守派の方々が、キリスト教に対する日本的宗教観の優位をよく言うようです。前者は、あまりにソリッドであって、きついし冷たい。キリスト教徒に非ざれば人に非ずで、奴隷にしてもいいし、殺したっていい。アフリカでもアジアでも南アメリカでも、現実に、そのような考えの西洋諸国による侵略と大量殺戮(ジェノサイド)の被害に合っているわけです。
 それに比べて、多神教の中でも日本は、非常に寛大で柔軟性に富んでいる、と言って喜ぶのもいいが、その代わり、だらしない、というところは意識しておいたほうがいいのじゃないか。この論点は福田恆存に終始ありました。
 先ほど、権力は少なくとも部分的に、個人を否定するものだ、と申しました。一方、個人意識のほうも、権力否定を一つの前提として、ある。そのせめぎ合いのバランスの上に、この世界は常に生成変化しながら、存続し続けているのです。

 福田恆存が最も大きな影響を受けた作家・思想家のD.H.ロレンスのエッセイ「王冠」The Crown(1915年)によると、イギリス王家(と政府)の紋章に描かれている、王冠を乗せた盾の両側に掴っているライオンとユニコーンは、前者が闇と力を、後者は光と純潔を現します(歴史的にはライオンはイングランドを、ユニコーンはスコットランドを示す)。この二者は永遠に対立し、その対立状態において均衡を生み出し、盾の上の王冠を支えているのだ、とロレンスは言います。どちらかがどちらかを滅ぼしてしまうなら、王冠は落ちてしまうでしょう。そして、勝ち残ったほうも、存在意義をなくして、滅んでしまう。

 福田の名訳で知られるロレンス最後の著作「黙示録論」(1930)を参照すると、この両者は集団、それをまとめるための権力、と個人とに読み替えることが可能であることがわかります。二つは相俟って、王冠=人間社会を支えている。ただし、相争うことによって。
 なぜそうなるかと言うと、我々は不完全だからです。不完全なままに、肉体的にも精神的にも、力を拡大していこうとする。しかし力の無限拡大は、結局その肉体なり精神の破滅を招く。そうならないように、相容れないもう一方の力が必要なのだ、とおおよそロレンスは論じています。
 彼によると、西洋でもこれが忘れられ、危うくなっているようですが、我々日本人にはもともとこういう考え方、原理的に妥協不可能な二つのものの、永遠の対立による共存、なんて厳しい思想がどうにも馴染めない。「和をもつて尊しとなす」お国柄ですからね。
 それが直ちに日本の弱点だ、とは言いません。しかしおそらく、前者のような考え方は、個人意識の尖鋭化もたらし、もって近代を生み出したものの一つでしょう。多少は気にかけないと、近代社会がうまく回っていかないんじゃないでしょうか。しかも戦後日本は、ますます「戦い」を意識の表面から消し、そのために各々塹壕の中に立て籠もって、対立する者の姿を見ないようになっているようです。結果、人間は不完全であり、個人は相対的だという観点が曖昧になるため、国家も個人も不定形の、なんだかわけのわからない姿になっている。そう思えます。

 福田恆存は、若い頃の文章では盛んに絶対とか全体とか、言っていたのですが、後年になると、そんなの西洋かぶれにしか見えないと思われたのでしょうか、先ほど見たような、生命とか、自然とか、より抽象的な言葉を使うようになります。
 それとともに、フィクションという言葉もよく使うようになりました。人格も国家もフィクションである、こしらえものなんである、と。こしらえものだからどうでもいい、というのではない、逆に人々は絶えず努力してその一貫性を保つようにするべきなのだ。そうでなければ、すぐに跡形もなく壊れてしまうだろう。
 せめてその自覚からすべてを始めること。これが私が福田恆存から教わったと思える一番大きなことなのです。

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大人になる困難 その2

2019年10月24日 | 文学

St.Basil the fool For Christ of Moscow, around 1700

メインテキスツ:大江健三郎「不満足」(初出は『文學界』昭和37年5月号、新潮文庫『空の怪物アグイー』昭和47年所収)/同「個人的な体験」(新潮社昭和39年刊、新潮文庫昭和56年)

 初期の大江健三郎もまた、終戦直後の「青春」を描いた代表的な作家である。しかしそれは常に、脱出すべき不毛で閉塞的な状況としてある。

 鳥(バードとルビがふられている。二十歳)、〈僕〉(十六歳)、菊比古(十五歳)の三人が汽車に二時間乗って地方都市に着いたところから短編小説「不満足」は始まる。彼等は定時制高校で同じクラスだった。リーダー格の鳥は、年下二人に仕事(肉屋)を世話することになっていた。
 車中鳥は大人ぶった態度で、「興味と無関心と嘲弄とを交互にしめしながら」なぜ仕事をする気になったのか二人に訊く。

そこで僕と菊比古は逆に子供の領分に閉じこもって、鳥にそれを結局子供の気まぐれなのだ、と感じさせようとした。
 僕と菊比古は自分たちの体のなかに蜂のように巣をつくり、ぶんぶん唸る怖れ、ずっしりと重い恐怖について、鳥にうちあけることが羞恥のあまりとてもできなかったのだ。

 なぜなら鳥は、「あらゆる種類の恐怖心から自由な男」として崇拝されていたのだから。

 菊比古と〈僕〉とは週末にも退学になることが決定的だった。鳥が持ってきた、(たぶん非合法部分の)共産党が刷った反戦ビラを、米軍基地へ配りに行ったからだ。その内容について二人は何も知らない(鳥も、政治活動にさほど深入りしていたとは思えない。少なくとも、それについては作中では何も語られない)。鳥自身は、これより前に、学校の体育館で下級生の女の子と寝たことで、退学になっていた。
 昭和25年、朝鮮戦争が始まり、警察予備隊が創設されようとしていた。学生でもなく仕事もない若者(今風に言えばNEET)は強制的に徴兵され、朝鮮へ送られるという噂が流れていた。「こういう噂を信じることはなかったのかもしれない」ことはわかってはいたのだが、そんなものにも脅えるほど、社会の中に公的な居所をなくした彼等の不安は強かったのだ。
 前回述べたことを繰り返すと、青春とは、学校という社会制度によって作られた人工的な期間である。そこに属している学生だから、呑気に遊んでいても許される、という黙契がある。少なくとも、彼らはそう思っていた。それがつまり「青春を謳歌する」ための条件なのだ、と。因みに、今の若者もけっこうそう思っている。
 駅に着くと、急行列車の寝台車に乗った、顔の下半分のない若いアメリカ兵を目撃する。二人の恐怖は倍加される。

 三人は駅から市電に乗る。その中で菊比古と〈僕〉とは、肉屋になどなりたくないことを打ち明ける。そこで肉屋のある繁華街を乗り越し、終着駅の精神病院まで行く。無礼な態度の運転手を鳥が殴り倒す。少年グループのタフなリーダーとしては相応しい振舞で、菊比古は満足するが、結果、彼等は運転手の仲間であるこの街の不良少年達(蝮団)につけ狙われるようになる。

 鳥は精神病院の知り合いから、脱走した気ちがい(原文のママ)を連れ戻すことを依頼され、受ける。三人は自転車を無断借用して探索のため街へ赴く。
 運河に人だかりがあるのに出くわし、鳥たちは、彼等の探す者がそこにいたことを知る。彼はずっと橋の下に寝ていて、夕暮れに橋の上に出てきて、通行人に、「この世は地獄かそうではないか」などと訊いていた。そして、女の子が溺れかかったのを見て、ガラスの破片で一杯の河原で、足や尻が傷つくのもかまわず、水に入って救う。

 その後鳥と他の二人は別行動で探索を続ける。
 菊比古は〈僕〉に、鳥に対する不満を初めて口にする。鳥は自分たちとは別の友だちを作っている。その男は「勤勉に生活しているもと詩人といった自己満足ぶりさ。鳥もああいうふうに満足した大人になりたがっているんだよ、いつも不満足なおれたちと別れて」(下線部は原文傍点。以下同じ)
 彼等は屋台で呑んでいる足を怪我した男を見つけるが、菊比古は「可愛らしいお嬢ちゃんのよう」だとからかわれたので、腹を立てて怪我をしている足を蹴る。「あいつは会社に行きたくなくて、わざわざバタ・ナイフで踵を切ったんだよ」。
 いい年をして仕事をろくにせず飲んだくれているような男は、彼の目から見ても軽蔑すべき者なのだ。「青年」もまた、このような社会の「べき論」から離れたところで生きているわけではない。だからこそまた、その「べき」によって、彼ら自身が脅かされることになってしまう。
 これをきっかけに、二人は人探しの意欲をすっかりなくす。

 鳥は一時間遅れて待ち合わせの場所に現れる。彼は気ちがいに出会ったおかまいんばいの、二人の人物から話を聞いてきていた。
 おかまによると、

その男が極端だけど心底からこの世界を恐がっているのを見ていると、その男をつうじて真実の世界がみえてくるようなんだといっていた。しかも恐ろしい現実世界にひとりぼっちでいる勇気もあたえられるみたいだといってたよ。おれたちが安穏と生きていられるのは、かわりにあんな男がこの世界の地獄について考えているからじゃないかとおかまはいうんだね。

 まるで子どものようないんばいは、気ちがいに無償で自分を差し出さなかったことを強く後悔していた。
 菊比古は、鳥の話を遮り、「汚い連中のことはもういいじゃないか。ほっといて帰ろうよ」と言うのに対して、鳥は、菊比古がCIEのアメリカ人と寝ていることを暴く。彼等の友情は壊れる。菊比古と〈僕〉とは私鉄の終電で帰る。「鳥、おれは恐かったんだよ!」という言葉を残して。
 鳥は気ちがいを見つけて逃がす気になっている。その述懐。

いままでおれが自分を勇敢だと思ってやってきたいろんなことが、本当は卑怯な無責任なことだったという気がしてきたんだよ。運転手を殴ったりしたことがなあ。おれは無責任は厭になったんだよ。唯、自分のまわりに不満足で暴れている無責任がな。

 「不満足」の〈1〉はこれで終わり。〈2〉になると、〈1〉では語り手だった〈僕〉は消え、三人称によって鳥の探索の顛末を描く。また、〈1〉に比べるとごく短い。このような手法は何を意味するか、今のところ興味がない。
 内容。深夜に、あと少しで気ちがいにたどり着きそうになった時、鳥は蝮団に襲撃される。凄惨なリンチから目覚めると、病院が捜索のために放ったシェパード犬に脅えたその男は、既に首を吊って死んでいた。病院の知人がオート三輪で迎えに来ていた。それに乗せてもらいながら、「鳥はもう、菊比古たちの不満と恐怖の世界に戻ってゆくことはないだろう」と、思うのだが、やがて、そうではなかったことが明らかになる。
 二年後の「個人的な体験」に鳥は再登場し、不満と恐怖の世界を、まさに「この世は地獄だ」と実感される時間を過ごすことになるのだ。

 そこに移る前に、「大人になること」とはどういうことか、愚考をまとめておこう。
 他者との具体的な関係の中で、あるいは関係を通じて、最広義の「善」を実現すべく、ある役割を、自己の「責任」として、積極的に、できれば持続して、引き受けること。
 上がある程度認められたとしても、面倒なのは、「善」とは何か、必ずしもいつも自明ではないところだ。
 病院を脱走した精神病患者を逃がしたりしたら、犯罪になるのかどうか、よく知らないが、普通の感覚で「いいこと」だとは言えないだろう。しかし鳥は、自分が捜索を依頼された男が、監禁されたり監視されたりするのは相応しくない、どころか、不当な行いになる者だと確信する。
 この人物は、ロシア文学に出てくる宗教的畸人(ユロ-ジヴイ)としての救い主のイメージに近い。奇矯なふるまいと言葉で人々を惑わすが、それによって深い真理を伝え、ある人々には唯一無二の精神的な救いをもたらす。【大江の後の作品に登場する隠遁者ギーなどは、同類のようだが、そういう点からみると、あまり説得的に描かれていないように思う。】
 少なくとも、他人に危害を及ぼすことはないようなのだから、どこかに押しこめておく必要はない。それを合法的なやり方で人に納得させることができればいいわけだが、たぶん非常に面倒な手続きが必要だろう。そこでそれを省いて、どこか好きなところへ(この人は「港」へ行きたがっている)勝手に行かせようとするのは、「無責任」だと言い得る。
 そういうところ、鳥はまだ大人ではない。だからこそ思い切ったこともできるわけだが。

 「個人的な体験」は、その七年後を描く。二十七歳になった鳥は予備校の英語の講師をしている。【不良少年のリーダーからまたずいぶんな変身だな、と思う人もいるだろうが、これに近いケースは実際にある。例えば、ザ・タイガースのドラマーで、沢田研二の次ぐらいに人気があった瞳みのる。バンド解散後。以前に中退した京都の定時制高校に入りなおし、そこから慶応大学、同大学院を経て、つい最近まで慶応高校の漢文の教師をしていた。】非常に優秀で、教授の娘を妻にしたぐらいだが、酒で失敗して大学を離れた。
 その彼に初めての子どもが生まれた。するとそれは、頭が二つあるように見える奇形児だった。
 鳥は懊悩し、かつての同級生で、一度寝たことがある火見子の許を訪れ、次のように述懐する。子どもの時分には自分は急いでいた。すぐに子どもでなくなることがわかっていたからだ。

 たしかにぼくはすぐ子供でなくなったね。そしていま父親の年齢だ。しかし父親としての充分な準備なしだったから、ちゃんとした子供にめぐりあえなかったんだ。ぼくが規格に合った子供の父親になれるのはいつだ? ぼくは自信をもてないよ。

 生まれた子が(規格に合った?)健常児だったとしたら、彼は自信を持てたのだろうか? そんなもんよ、と火見子は言う。確かに、そんなものだろう。しかし、天は(と、東洋的には言うのだろう)大人になる前に、鳥に厳しい試練を課したのだった。
 鳥は行き場をなくしたと感じ、「最良のオルガスムの探究者」である火見子の与える肉の歓びにのみすがるようになる。
 まだ名前もつけられていない子どもは、すぐに死ぬと予想されていたが、それは誤診で、生き延びられる可能性が出てきた。ただし、植物人間か、よくても知的障碍者として。鳥は父親としてそういう存在を背負っていく力は自分にはない、と感じる。
 最終的には、大学病院を無理やり退院させ、火見子の知っている、非合法の堕胎もしている医者のところへ連れて行ってこっそり死なせ、自分は火見子といっしょにアフリカに逃れようと計画する。その医者は、この赤ん坊は肺炎を起こしかけている、と言う。特に何もしなくても、放っておけば、間もなく死ぬだろう。
 病院からの帰途、彼らは菊比古の経営するゲイ・バーに立ち寄り(火見子はこの店に何度か行ったことがある)、かつての田舎町の不良少年二人は七年ぶりの再会を果たす。

「(前略)二十歳の鳥が、こんな風に意気消沈してしまうことはなかったなあ。いま鳥はなにかを怖がっていて、そこから逃げ出そうとしている感じだけど」と機敏な観察力を発揮して菊比古はいった。かれはもう鳥の知っている、かつての単純な菊比古ではないようだった。

 菊比古の言う通りなのだ、と鳥は感じ、唐突に、逃げるのはやめる、と言い出す。彼の内面の変化は、次のようにしか描写されない。

おれは赤んぼうの怪物から、恥しらずなことを無数につみ重ねて逃れながら、いったいなにをまもろうとしたのか? いったいどのようなおれ自身をまもりぬくべく試みたのか? と鳥は考え、そして不意に愕然としたのだった。答は、ゼロだ。

 かつて鳥が「あらゆる恐怖から自由」であったのは、自分自身を含めて、守るべき値打ちのあるものが何もなかったからだ。守るべきものは、ある役割・責任を引き受けるのでない限り、決して生まれない。
 「引き受ける」とは例えば次のようなことだ。赤ん坊が本当に結核なのだとしたら、手術を受けさせるために元の大学病院へ連れて帰ろうとしても、途中で死んでしまうかも知れない。すると、鳥は、およそ無意味に赤ん坊を連れ出したことは明らかなのだから、殺人犯になる可能性だってある。その場合は、赤ん坊を自分の手で殺したのも同様だと認めよう。
 かつてはそうではなかった。定時制高校では、トラックの群の間で危険な自転車運転をして憂さ晴らしをした。おかげで、同級生の百姓のせがれはぶつかって死んでしまった。さらに遡って小学校の時、同級生の座ろうとする椅子を後に引いた。よくある悪戯だが、おかげでその子は脊椎カリエスになって今も寝たきりだ。どちらも、鳥は責任を取らなかった。いや、取れなかった。「ああ、おれが悪いんじゃないのに」と叫ぶばかりで。こういうのは、どんなに深刻な結果を引き起こそうと、所詮遊びでしかない。それこそ、いっときの愉快と、後の不満足しかもたらさないものだった。

 何か価値のあるものがあらかじめあって、それを守ろうとする、というのは順序が違うのだ。守ろうとすることで、それが価値あるものになるのだ。だから、赤ん坊が生まれたら、すぐに死んでしまおうと、植物人間だろうと、知的障害者だろうと、自分のものとして守り育てなくてはならない。それ以前に、自信がどうたら言うのが、すでに幼稚で無責任なふるまいであったのだ
 こうして鳥は大人になった。そのためには、かつての遊び仲間の菊比古や〈僕)、それに優れた性技で危機の時期の鳥を慰め支えた火見子との交情は捨てなければならない。「鳥が自分自身にこだわりはじめたら、他人の泣き声なんか聴きはしないよ」と菊比古は言う。彼らから見たら、これは身勝手な振舞に見えるだろう。仕方がない。それもまた、人が成長するために不可欠な部分なのだから。

 「個人的な体験」は、大江の作品中、前年に生まれた障がいのある長男を題材とした小説として、短編「空の怪物アグイー」(同年発表)に次ぐもので、誕生直後の状況を最も生々しく描いているので、一種の私小説ではないかと言われている。大江自身は、こんな逡巡を感じることはなかったろう。しかし、大人として、親として、普通ではない子どもと向き合うとき、かつて「大人になろう」と決意した、自身のそれまでの作中唯一の登場人物を再登場させて、その重さをドラマチックに伝えようとしたのだろう。
 小説のできとは別に、そうする権利はある。大人になる、とは、それほどのものなのだから。

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大人になる困難 その1

2019年09月28日 | 文学

「太陽の季節」 昭和31年 古川卓巳監督

メインテキスト:石原慎太郎「太陽の季節」(『文學界』昭和30年7月号初出。新潮文庫第六十八版平成23年刊より引用)

 「青春」、そして「青年」という言葉は、いつ頃から現行のように使われているのだろうか。
 言葉そのものは大昔からあったに違いない。陰陽五行説を季節の運行に当て嵌めた場合の呼び名、青春→朱夏→白秋→玄冬の一つなのだから。
 しかし、大きく広まったのは近代以降で、広めたのは主として文芸であることにまず間違いはない。小栗風葉の小説「青春」は明治38年から読売新聞で連載されている。もちろん、それ以前からかなりの人々の口や筆に上るようになっていたのだろう。
 それを可能にするハード面、つまり社会制度上の条件も当然あった。端的に言ってそれは学校の、従って学生の増加だった。青春とは基本的に学生のものだ。
 私見によると、ハムレットは、文芸史上最も早い段階に登場した「青年」だが、三十という年齢(第五幕第一場の、墓堀り人夫の科白によれば)より、ヴィッテンベルク大学の万年大学生であるという身分が、彼の人物像を決定づけている。次の国王は彼だと決定されているが、現在は政治にも生産にも携わらない、従って世間的な責任を免れた、気楽な身分。だから勝手気ままにもふるまえる。
 何よりも、純粋に自分のために使える時間がたっぷりとある。
 それだからまた、世のいわゆる大人たちの不正に関しては、何しろ直接関与はしておらず、「手は汚れていない」ので、一方的に激しく憤ったりして、しかもそれがかなりの時間持続したりする。
 明治以降、日本は近代国家の当然の道筋として、初等教育から高等教育までの学校制度を拡充していった。進学率こそ旧制中学で10パーセント代、旧制高校はほぼ1パーセントに留まったが、何しろそこの学生=書生たちは、旧時代の人々が知らなかった「青春」の担い手として、目立った。「栄華の巷低く見て」放歌高吟し、「ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ」なんぞとわけのわからない遺書を書いて自殺したり。とうに子どもを作る身体能力は備わっているのに、制度的な新たな子ども=青年とされ、世知辛い世間とは一定の距離を置いた観念の世界に生きる者、その華やかさと危うさこそ、現在まで続く「青春」の特性だった。

 戦後日本社会は、「青春」の爆発的な広まりを見た。今となっては、この言葉を誰もが知っているほどに。
 社会的な第一の条件として、新制度下の学校が次第に、着実に増えていったことが挙げられる。つまり、「青年」の絶対数が増えた。
 すると、ここを市場とする新たな産業が成立し、急速に成長する。主にファッションと音楽の分野で、戦勝国である豊かなアメリカをモデルとして、華やかないわゆる享楽文化が、「青年」をターゲットとして流れ込んできたのである。するとそれはまた、「青春」の目に見える際だった特徴を現すイコンともなり、ひいては「青年」が確実に存在する何よりの証拠ともなる。
 前者についてだけ言うと、かの地でティーンズ向けファッション誌『seventeen』が発刊されたのは1944年、なんと戦争中のことである。日本ではその24年後の昭和43年に集英社が日本版を刊行し、ジーパンやらミニスカート、男の長髪などの若者像を発信していった。その前後、多くの媒体が同じ働きをしたことは言うまでもない。
大江健三郎「セヴンティーン」は上記の雑誌より七年前の昭和36年発表。たぶん大江は、本家アメリカの雑誌、あるいは少なくとも、その前提であるセクシャル・シンボルを示すものとなった言葉は意識していたろう。ただしここでのseventeenは反語であって、主人公の右翼少年は「輝かしい青春」なんぞからは弾き出された存在とされている。また、初期大江作品の多くを彩るアメリカに占領された屈辱感は、この作にも底に流れている。】
 
 もう一つ、未曽有の敗戦によってもたらされた、いわゆる「大人」の権威失墜を見逃すことはできない。
 戦前から終戦直後の日本を主導している連中は、無謀な戦争によって多くの人命を奪い、またどうやら、同じ道を歩もうとしている(いわゆる「逆コース」)らしい。そう言われれば、確かにそう見えた。このような社会悪・国家悪に染まっていない若者が、これに反対することは正しい。
 日本版造反有理であり、当初母や叔父に感情的に反発していたハムレットが、亡霊に「真実」を告げられて、反抗心を正当化され、明確な行動指針が与えられたようなものだ。かくして昭和35年のいわゆる60年反安保闘争は日本の反政府運動中空前の盛り上がりを見せた。その中核を担ったのは学生たちだった。これに次ぐ1960年代のいわゆる大学紛争期を通じて、「異議申し立て」は「青春の特権」であるとして、逆から言えば「特権ある者」としての青年像が、認知されるようになる。
 もっとも、70年代からこっち、こういうのは薄れていく一方のようではあるが、今でもまだあることはある。

 文芸では「太陽の季節」が、最も早くこのような若者像を描いたものとして知られている。他にもあったのかも知れないが、圧倒的に目立っている。何しろ芥川賞をとり、映画化もされ、「太陽族」なる流行語及び流行現象の元になったのだから。
 改めて読み返してみると、これはやっぱり不愉快な小説である。倫理的に、なっていないのだ。と、言えば、「今更……」と笑われそうだが、その本当の意味がよく知られているとは言えないと思う。
 主人公・竜哉は裕福なサラリーマンの次男坊で、たぶん慶応高校生。拳闘(ボクシング)とヨットと賭事とナンパで日を送っている。すぐ後に大量発生した学生運動の闘士たちと違って、「社会正義」とか「革命」などには無関心。【全日本学生自治会総連合、いわゆる全学連は昭和23年に結成されているが、当時は内部で、代々木系(共産党系)と反代々木系(反共産党系、いわゆる新左翼)の理論闘争に耽っていて、社会運動としては停滞していた。】その分欺瞞はないが、また、行動の拠り所もない。
 一応こんなことは言われている。

 人々が彼等を非難する土台とする大人達のモラルこそ、実は彼等が激しく嫌悪し、無意識に壊そうとしているものなのだ。彼等は徳と言うものの味気なさと退屈さとをいやと言う程知っている。大人達が拡げた思った世界は、実際には逆に狭められているのだ。彼等はもっと開けっ拡げた生々しい世界を要求する。

 どうも舌足らずな主張で、よくわからないところが、若者らしいと言えば言える、という困った代物である。要するに、従来のモラルと呼ばれているものは、せせこましくて無味乾燥で退屈だ、と言いたいらしい。何より、それを自明の「常識」だなんぞと言って押しつけてくる大人自身が、実際はそんなに尊重しているようでもなく、人目がなければ簡単に無視してしまうではないか。世間を支える規範とは、そういうものなのだが、頭の単純な子どもには欺瞞にしか見えない。と、言うか、確かに欺瞞ではあり、だからこそ役に立つのだが……。
 そんなのおかしい。欺瞞のない生き方だってできるはずだ。俺たちにはできるんだ。そんな傲慢な感情もまた、商品化された何やら輝かしい意匠を纏った「青春」のイメージから生じる。ところが、それを造ったのはたいてい大人なのだ。若者が自ら造り、選んだのだという錯覚もまた、販売戦略の一部であって、つまり欺瞞なのである。
 と、いうような都合の悪いことは考えないに限る。すると彼らの行動原理は、「カッコよく生きたい」だけになる。生活のためにつまらない仕事を一日中・一年中やっている大人は、まことにつまらないし、カッコ悪い(その後生まれて最近まで使われていた言葉だと、「ダサい」)。そういうつまらなくカッコ悪い大人が稼いだ金をもらって自分たちは遊んでいられるのだ、という事実にもやっぱり都合良く目をつぶる。夏目漱石「それから」の主人公に似ているが、戦後のは可能な限り精神的なことを気にかけないだけ、さっぱりしているが、それと反比例して、馬鹿さ加減は増進している。
 要するにうざったいだけの社会的な「責任」などを逃れた場所で、いつまでも遊んでいたいのだ。そう言われても仕方がないように、「太陽の季節」中の若者たちは描かれている。
 恋人の英子(ひでこ)が、少々重く感じられてきたので、兄に金で売るような真似をするのも、つまらない大人が作ったつまらないモラルなんて歯牙にもかけないタフでクールな若者を演じたいからだ。女の方では、自分が幼い頃ほのかな恋心を抱いた男が二人、戦争で死に、親も認めた許嫁には事故で死なれるという体験をしている。自分には異性を愛することは許されていないのではないか、という恐れを抱いていたので、竜哉との恋がもたらした、人間らしい真の情熱(古くからあるロマンチックな感情だ)、と思えるものを失うことに耐えられず、彼の兄に金を払って自分を買い戻す。文学的には、こちらのほうがずっと興味深い。が、この心理が掘り下げられることはない。
 とどのつまり、ヒロインは妊娠し、子どもを産むことを希望する。主人公は当初、仲間より先に父親になるのはカッコいいかと思い、黙認するつもりでいたが、自分の好きな拳闘のチャンピオンが家庭で子どもを抱いている写真を新聞で見て翻心する。「丹前をはだけたその選手は、だらしない顔をして笑っている。リングで彼が見せる、憂鬱に眉をひそめたあの精悍な表情は何処にもなかった
 こんなカッコ悪い大人になることはなんとしてもいやなので、彼は女に中絶を命じる。結果彼女は腹膜炎を併発して死んでしまう。
 英子の友だちからそれを電話で伝えられた竜哉は、悲しみ以上に厭な気分に襲われる。「かえって、これで一生英子から離れられないような気持に襲われた。それは矛盾してはいたが、妙にしつこく頭に絡んだ」。
 そして彼は、遅れて英子の葬式に出る。

(前略)彼は英子の写真を見詰めた。笑顔の下、その挑むような眼差に彼は今初めて知ったのだ。これは英子の彼に対する一番残酷な復讐ではなかったか。彼女は死ぬことによって、竜哉の一番好きだった、いくら叩いても壊れぬ玩具を永久に奪ったのだ、

 そこで彼は香炉を遺影に投げつけ、「馬鹿野郎っ!」と叫ぶ。動揺する会葬者に、「貴方達には何もわかりゃしないんだ」と言って、会場を去る。
 「大人はわかってくれない」はフランソワ・トリュフォー監督の映画(1959年)のタイトルだが、これ及びその変形(「大人は頭が固い」「大人は汚い」などなど)は、もちろんよく考えられもしないまま、現在まで使われている。たいがいは、そう言っている人間のほうがタチが悪い。最初からわかることを拒否しているのだから。それがつまりは、彼らの「青春」を支える最大の欺瞞なのだ。
 拒否していることの一つに、彼らもまたいつか大人になる、少なくとも歳はとる、という、呆れるほど当り前の事実もある。当り前すぎるからつまらない、つまらないからあまり言われない、言われれないから忘れていられる。そのほうが都合がいいから、ますます忘れられる。 
 そんなこんなで、「三十歳以上は信用するな」とまで、調子に乗って言った者までいたらしい。彼らは私同様、とうに三十の倍の還暦を超えていると思うが、今は何を思って何をしているのだろう。かつて言ったことは忘れて、その時分の「大人」よりもっと、もっともらしい顔で、若者に説教してたりして。あり得ますな。もともと、その程度の軽いノリで言われたのだ。
 竜哉の好きな「いくら叩いても壊れぬ玩具」というのも、軽いノリで叩かれるから壊れなかっただけなのだ。妊娠もそうだ。子どもが産まれても、父になる決意などは必要ない。英子の家も資産家なのだから、養育はなんとかなる。
 ただ、死、だけは、現実に起こってしまったら、さすがに冗談にはできない。その「責任」は、やはりある。いや、そんなものはない、とまで言ったら、それこそ軽いノリではすまない破壊者となるが、いつまでも呑気に遊んでいたいだけの連中に、そこまでの覚悟があるはずもない。
 ならば、この「責任」を背負って行かねばならないのだが、それはどうやっていいのかわからない。途方もなく余計で厄介なものを遺しやがって、と竜哉は、全く理不尽に、英子を恨む。
 「太陽の季節」の文学的な質は以上にしかない。この難問を解く道筋、いや、意欲だけでも示すなら、文学としてもモラル上も立派な作品になったと思うが、それは「ないものねだり」でしかないだろう。

 最後にやっぱり告白しておきます。今回罵倒した、欺瞞的で、それに気づかなくてすむように馬鹿になった若者の一人は、紛れもなく私自身でありました。この記事は自己批判の試みなんであります。
 そんな者が肯定できるところが、この作品には一つだけあります。この時代からこっち、「大人になること」はひどく難しいことになりました。「太陽の季節」には、その里程標の一つが刻まれています。
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独裁者の条件

2019年08月28日 | 文学


The Childhood of a Leader, 2015, directed by Brady Corbet

メインテキスト:ジャン-ポール・サルトル/中村真一郎訳「一指導者の幼年時代」(『水いらず』所収、原著”La Mur”は1939年刊、新潮文庫昭和46年)

 日本では「シークレット・オブ・モンスター」という題名で公開された映画の原題が、上のキャプションでわかるように「一指導者の幼年(むしろ、子ども)時代」であることを知って、興味を惹かれてビデオで見た。サルトルの短編(むしろ、中編)小説の映画化だとすると、あんな小説がどのように映像化されるのだろうと思ったからだ。その結果の感想は、映画は小説を意識して作られているにもせよ、両者はずいぶん違っている。設定はもちろん、内容も。
 ブラディ・コーベットの映画は、フェルメールの絵を思わせる端正な画面を積み重ねて、大人たちの欺瞞(そのうち最大のものは、映画の最後をよく見て、初めてわかるようになっている)の中で歪んでいく子どもの心理を描いている。結果、何度か癇癪を起こすのだが、こういう傾向は多くの人々を惹きつける要素になり得るのだろうか。プレスコットという名のこの子がそのまま成長すれば、恐るべきテロリストとかシリアルキラーなどにはなっても、リーダーにはならないのではないかな。
 もっとも、プレスコットの造形にはベニート・ムッソリーニの伝記も参考にされているそうで、実際、キリスト教会への反発など、直接連想させるエピソードはある。私の考えはごく狭いものであるかも知れない。それでも、その狭い考えからすると、サルトルの描き出したリーダー(の大本)像は私にとってたいへん説得的ではあるので、今回はこの小説について述べる。

 この作は難解と言うより、叙述の点でかなり読みづらい部類に属する。ほぼ主人公の内面描写にのみ依って展開されていて、状況説明は最小限度に抑えられている。サルトルは後に、自伝の最初になるはずだった「言葉」で同じ手法を用い、かなり成功していると思えるのだが、この場合はどうだろう。とりあえず、私同様、かなりの人が読むのに難渋するのではないかと思う。それからして、以下の概要説明も少しは役にたつのではないかと期待される。

「ぼくの天使のおべべ、きれいね」。ポルチエさんの奥さんはお母さまに話していた。

 これが書き出し。主人公は子どもで、背中に羽をつけた天使の扮装をし、さらに、たぶんスカートを履いて、女装していた。と、いうことは、子どもは男なのだ。クリスマスか何かの宗教的な催しの、アトラクションのつもりで、母親か誰かが思いついたものだろう。【因みにこの冒頭は、映画にも取り入れられている。】
 大人たちの「つもり」については具体的には何も語られない。語られるのは、リシュアンという名の子どもの心だ。皆が彼の美しさを褒め、女の子扱いをするので、自分は本当は女の子ではないのか、そぅでなければいけないのではないか、と思い始める。
 自分自身に対するこの疑いは、やがて周囲にも向けられる。母は女の人だが、本当は違うのではないか。元はズボンを履いていたのに、あるときスカートを履かせられ、それからずっと女として過ごしてきたのではないか。今でもズボンに履き替えさえすれば、髭が生えてくるのではないか。
 いや、そもそも、お父様とお母様は、本当に僕の両親なのだろうか。そのふりをしているだけではないと、どうしてわかる?

お父さまとお母さまは、お父さまごっこ、お母さまごっこ、をやっていた。お母さまは坊やがすこししか食べないので心配だ、というお芝居をやっていた。お父さまは新聞を読みながら、ときどき、リュシアンの顔の前で指を動かして、「よしよし、いい子だ!」というお芝居をしていた。そしてリュシアンもやっていた。しかし、彼は自分でも、もう何をやっているのか、よくわからなかった。孤児ごっこなのか、リュシアンごっこなのか。彼は水差しを見た、水の底に、小さな赤い光が、踊っていた。(中略)リュシアンは、突然に、水差しも水差しごっこをしているような気がした。

 同年に発表された小説「嘔吐」は、主人公が奇妙な非現実感に襲われる部分で有名だ。河原の石はある。公園の木はある。自分の手さへ、ある。「自分」はそういうものとしては、ない、と。リシュアンの感覚はそれよりもっと亢進している、と言えるかも知れない。何しろ、物質である水差しも、本当に「ある」のではなく、「あるふりをしている」のではないか、と感じるのだから。
 実は、表現方法はまちまちだが、このような非現実感(と表現すべきか、も問題だが)、は、私も幼い頃しばしば陥った覚えがあり、けっこう普遍的なのではないかと思う(それとも、私だけ?)。すべては仮象である、とも表現できるとすると、では仮象の裏の「本質」とか「(真)実在」はある、という考えを導きそうである。実際、洋の東西を問わず、宗教的感覚の根底にはたぶんこれがある。ただしもちろん、「本当の存在(の姿)」なんて、常人には見えないのだから、この感覚は、さらなる「ごっこ」をも導く。

リュシアンは祈祷台にひざまずき、お母さまがおミサから帰るときに、彼を祝福してくれるように、おとなしくしているように努力した。しかし彼は神さまはきらいだった。神さまはリュシアン自身よりもリュシアンのことをよく知っている。神さまはリュシアンがお母さまもお父さまも好きではなく、おとなしいふりをしていて、夜、寝床で、自分のあそこをいじる、ということを知っているのだ。(中略)リュシアンは、また、自分がお母さまを好きだと、神さまを言いくるめるようにした。ときどき、彼は心の中で言った。「なんてぼくはお母さまを好きだろう」。いつも、心の片隅に、うまく本気にしないところがあった。そして神さまはたしかにその片隅が見えるのだ。そんなときには、神さまの勝ちだ。だが、ときどきは、自分の言うことのなかに、すっかりはまりこめるときがある。

 不思議なゲームだが、こう言われると、またしても、ありふれているのではないかという気がしてくる。自分の言葉や行為とは裏腹な「心の片隅」を感じるとき、そこに注がれる神の眼差しもまた、感じる。そうでなければ、神なるものを特に意識することはない。その状態を彼は「神さまを言いくるめる」と表現する。そしてこれはまた、「本当の自分」をめぐる内心のゲームなのだった。要するに観念の空回りに他ならないのだから、終わりも見えず、特に面白くもない。

 小説はこの後でようやく主人公の置かれている状況を少しだけ語る。
 時代は1910年代から20年代、即ち両大戦間の世界。
 リュシアン・フルーリエはフェロールという地方で五代続いた工場主の家の子で、将来そこを継ぐことを当然のこととして期待されている。一家は、たぶんリュシアンの教育のために、パリに移住する。彼はリセ・コンドルセでバカロレア(大学入学資格試験)のための課程を修了すると、フランス最高峰の技術系グランゼコール(大大学)エコール・サントラルへの入学準備のために名門リセ・アンリ=ル=グランに入る。このへんで十代後半にはなっているはずだから、「幼年時代」という日本語タイトルはもう相応しくない。

 リセ時代のリュシアンは、前述の感覚を発展させ、世界も自分も本当は存在しないなる思想(か?)に至る。「虚無論」という論文を書こうと計画し、狒々(ヒヒ)という渾名の哲学教授に「ぼくたちは存在していないということを論証できましょうか?」と尋ねる。狒々は「できない」と答える。「きみは自分の存在を疑うのだから、存在しているのだ」と。デカルト「方法叙説」をなぞっているだけだが、言葉の上でこの論理を打ち破ることは難しく、リュシアンも不承不承引き下がるしかない。

 この後リュシアンはベルリアックという文学青年と親しくなり、その影響で精神分析の本を読み耽るようになる。そして、幼年期からの自分の懊悩は、要するにコンプレックスがあるからだ、と納得する。不安は軽減されたが、しかしコンプレックスを決定的に脱するにはどうしたらいいのか。誰か権威ある人に相談したい。
 ベルリアックはベルジェールという名のシュールレアリストの友人がいた。当時のシュールリアリストはアナーキストとほぼ同義であり、革命家兼文化人として社会的名士だった。それと親しいのはベルリアックにとって誇りだったのだろう、リュシアンにはなかなか紹介しようしなかった。ある日カフェで偶然出くわすと、ベルジェールはただちにリュシアンに注目する。それはリュシアンがかなりの美男子だったからだ。これは最初の女装の時から暗示されていて、社会的な(対他的な)リュシアンという人物に関する大きな要素に違いないのに、作中正面から語られることはほとんどない。
 このようにして知己となったベルジェールに、リュシアンは長年の自殺願望を伴う不安を訴える。ベルジェールは彼をアルチュ-ル・ランボーになぞらえ、彼の状態をデザロワ(錯乱)と名付ける【ランボーなら錯乱=デリールではないかと思うのだが、デザロワは最後のオワの音がかっこいいらしい。】リュシアンが文学に入れ揚げていたら、これで大きな満足を感じもしたろうが、そこまでではなかった。
 それでもベルジェールは、リュシアンにとって初めて知り合いになった大人の、大物だった。ベリアックについては、彼の面白いところは全部ベルジェールの猿真似であることがわかった、と言うと、ベルジェールは、「あいつの母方の祖母がユダヤ人だってことを知ってるかい? それが事態をよく説明するね」と応える。生まれて初めて聞く反ユダヤの言説。ごく軽いものだから、返事は「そうですね」で終わりである。
 
 ベルジェールとの関係でより重大なのは、リュシアンが彼と旅行に行き、男色を体験したところだ。これも、ヴェルレーヌ×ランボー関係の模倣かも知れないし、リュシアンにはいかなる喜びももたらさない。
 むしろこの幻滅から、長い間霧に閉ざされていたような真実が現れたような気になる。リュシアンは結局、農民の家系であり、田舎の工場経営者である。自分の家族のみならず、従業員である労働者たちの生活にも責任がある。それには男色家のレッテルは全く相応しくない。わけのわからない抽象的な理由で自殺を考える、などというのも同様であろう。
 かくしてリュシアンは、「足が地に着いた」大人としての道を歩み始める。

 この後ははしょって述べる。
 リュシアンには恋人ができ、普通に情事に耽る。また、ルモルダンという名の、黒髭を生やして堂々とした同級生に惹かれるようになり、彼の薦めでモーリス・バレスを読む。デラシネ(根無し草)という言葉はこの人の小説の題名が始めであり、バレスはフランスの大地に根を下ろした国民性に戻ることを主張していた。

かくしてまたもや、一つの性格、一つの宿命、意識の不滅のおしゃべりからのがれる一つの手段、自己を定着し、価値づける一つの方法が提供された。しかし、フロイトの不潔で淫奔な獣よりは、バレスからさしだされた田舎臭にみちた無意識のほうが、どれほど好ましいことだろう。それをとらえるには、リュシアンは不毛で危険な自己凝視をやめさえすればよかったのだ。

 かくしてリュシアンは少しづつ、アクション・フランセーズを中核とする右翼的な青年たちに近づく。行ってみると、みな髭を蓄えた大人で、政治の話などはめったにせず、笑ったり歌ったり、愉快に時を過ごしていた。レオン・ブルムなど、左翼的な人士に対するかなり不謹慎な軽口が出ることもあるが、それを気にしさえしなければいい。
 少し先回りして言うと、そういうのは思想的云々より、現代日本の嫌韓のような、なんとなくの共感が、特にある共通の対象への反感があればよく、その感情の中身に立ち入ってあれこれ深く考える、なんてやらないほうがむしろいいのである。ドイツへの敗北のような、本当の危機的な状況になれば、そうもいかないかも知れないが、その前には、仲間意識に浸って気楽に過ごすのが一番、口角泡を飛ばして議論するなんて、野暮な青二才のやることだ。
 これを学んだリシュアンは、もう級友たちとの議論はやめる。

 やがて決定的な転機が訪れる。
 リュシアンを議論でうるさがらせた級友の一人に、「ただの共和主義者」であるギガールがいた。彼の妹ピエレットの十八歳の誕生パーティに招かれて行くと、その招待客の一人にユダヤ人がいた。ギガールに紹介され、相手が手を差し出したところで、リュシアンはポケットに手を突っ込み、踵を返して立ち去った。
 外へ出て苦い誇りを噛みしめたのも束の間、リシュアンは馬鹿なことをしたという後悔に襲われる。その少し前に彼は、フランス人を侮辱したユダヤ人を仲間と一緒に殴っていた。しかし、それをこの場にまで引き摺ることはなかった。それは、皆で陽気に飲んでいるときに、突然小難しい議論を始めるのと同等の、あるいはそれ以上の無作法でしかないではないか。
 引き返そうか、とも思った。「ごめんください、気持が悪かったものだから」とでも言って、ユダヤ人の手を握って、ちょっとだけ礼儀に適った会話を交わせばいい。いや、もう手遅れだ、彼の振る舞いは取り返しがつかない。「何もかもだめだ。僕は何者にもなれない」と思いながら、リュシアンは恋人の家へ行き、激しく交わる。
 次の日学校で、ギガールと気まずい思いで顔を合わせると、驚いたことに向こうが謝るのだった。あのユダヤ人とはフェンシングの稽古で会って、それで、まあ、その、つい忘れて……どうたらこうたら。

「親父たちは、きみが正しい、きみに信念がある以上、そのとき、ほかにしようもなかったろうと、言うのさ」。リシュアンは「信念」という言葉を舌の先で味わってみた。

 信念を持つこと、それを言葉ではなく、断固とした行動で示すこと。そうすれば顰蹙も買い敵も作るだろうが、引き換えに曖昧な人間世界の中で確固たる地位を占めることができる。その権利を手にするのだ。「我思う、ゆえに我在り」ではない。「ぼくは存在する、と彼は思った。存在する権利があるから」。

あんなふうにねばねばした親密さのなかを掘っていても、肉の悲しさや、いやしい平等のうそや、無秩序のほかに何を見いだすだろうか。「第一の格言、とリュシアンは思った。自分のなかを見つめないこと。それ以上、危険な過ちはないから」。真のリュシアンというものはーそれを今、彼は知っているのだがー他人の目のなかに求めるべきなのだ

 こうして、彼はリーダーとなった。級友たちの、娘たちの、将来は経営する工場労働者の、さらに恐らくは政治党派の。それは権利というよりほとんど宿命であった。なぜなら、大多数の人間は、愛国主義者であれ自由主義者であれ共産主義者であれ、中途半端な存在でしかないからだ。
 主義の中身はどうでもいい。それをあれこれ論じたりすれば、人々をますます混乱させるばかりだ。彼らには明確な方向を与えてやらねばならない。彼らはそれを望んでいる。その期待に全面的に応えることが出来る者、それこそが自分の存在価値だと認める者、リーダーとはそのような者ではないか。

 ざっと上のような自己発見と確立を、サルトルは「自己欺瞞」と呼んだようだ。一回転した自己放棄と変わらないからだ。しかし、では、「真の自己」とは何か、不完全な言葉を使って、どうやってそこへたどり着くことができるというのか。いや、安易に考えることこそ最も危険なのだ。だから、そこへの大いなる困難を示し得ているだけでも、このような作品には価値があるのだと思う。

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家なき少女

2019年07月29日 | 文学

The Night Street, 2014, by Salavat Fidai


メインテキスツ;櫛木理宇『少女葬』(原題は『FOOD』新潮社平成28年。新潮文庫令和元年)
桐野夏生『路上のX』(朝日新聞出版平成30年)

 以前の当ブログ記事「There is no place like home」で、家族の紐帯と呼ばれるものを悪用して金をむしり取る悪人たちを取り上げた。そこには、家族の個々の成員を気遣ってというよりは、世間体=家族の評判を気にして、という面も確かにある。しかしそれ以上に、特に、親の無償の愛、つまり親は子どものためなら無限に、自己犠牲的にまで尽くす者だ、そうすべきだ、という通念が、この場合最も強く働いた。
 実際、それは現在でも日本社会に広範に存在する。なかったら、いわゆる「オレオレ詐欺」を初めとする、子どもの金銭的なトラブルを親に償わせるといったタイプの特殊詐欺が成立するはずはない。因みに、このような手法が広範囲に見られるのは日本の特徴だそうだ。海外では、東洋でも、金銭問題に関する限り、親子関係はもっとクールであるらしい。
 これはまた、「萬葉集」に見える山上憶良「子らを思へる歌」以来の日本の、長い伝統的な感情であり、倫理でもあるのだろう。この通念は非常に根強いので、日本の文芸には、だらしがないので結果として子どもに迷惑をかける親はいても、子どもを食い物にする親は描かれてこなかった(私が知らないだけの場合にはご教示ください)。
 いつ頃からそれが現れたか、定かには知らないのだが、大学生時分に、山本周五郎「赤ひげ診療譚」の、八話ある連作中の最終作「氷の下の芽」に子どもを意識的に食い物にする親が描かれているのを読んで、こういうのは初めてだな、と思ったのを覚えている。因みに「赤ひげ診療譚」は昭和33年の初出で、他にも幼児の性被害などが描かれており、そういう意味でも先駆的(?)な名作である。

 近年子どもへの虐待が大きく取り上げられるようになった結果、「親は子どもを必ず愛するものだ」なる通念は、なくなりはしないまでも、大きく後退した。実際の件数が増えたわけではない。虐待の内容の、具体的な深刻さも、たぶん、それほどひどくなっているわけではない。
 DV(←ドメスティック・ヴァイオレンス)なる言葉ができ、広まって、ラベリングが横行した結果、多いようにも悪質化したようにも思えるのだろう。セクハラ(←セクシャル・ハラスメント)なる言葉と同じ働きである。
 決して、悪いことではない。それまでにもあって、しかし社会的には「悪事」としては認識されてこなかったことが、そのように扱われ、被害者救済に道を開くならば。
 それとは別に、今日的な問題として意識すべきなのは、これまで本ブログで何度か指摘してきた、消費社会の進展であろう。これと平行して、皆が長生きするようになり、子どもがかなり大きくなっても、親業に専念してばかりもいられない/する必要を感じない、事情もある。これまた、悪くない。ただ一応、「家族」を考える新しい要素として、指摘しておくのも多少は意味があると思う。

 標記の二作は、様々な理由で家庭を飛び出し、街を彷徨うようになった十代後半の少女たちを描いている。当然のことながら、家庭は、外面的にはどうであれ、彼女たちから見て壊れてしまっている。
 両作に共通するのは、母親が離婚して再婚してから、新たな父によって体を狙われるケース。これによって家族は崩壊する。当たり前の話ではあるが。
 内田春菊「ファザー・ファッカー」(平成5年)が、このような父娘関係を描いた、最近の印象的な文芸作品であり、ほぼ実話とも言われたので、余計に衝撃が大きかった。この作品の場合、母親は新たな夫を引き留めて置くために娘を差し出している、のと同様だと娘は思っている。
 「少女葬」の二人いるヒロインのうちの一人・眞美は、母親から義父をめぐってライバル視される。自分の方が当然歳をとっているが、女としてはより魅力的であることをアピールしたくて、娘にダサい格好をさせたりするのだ。眞美が義父のしつこさに負けて性行為に応じた後は、露骨に嫉妬する。
 こういうことは最近起きてきたことだろうか? そんなことはない。実は私は、ごく身近なところであった、かなり昔の似たケースを知っている。現代の特徴は、むしろ、このような目に合った少女が、家庭から逃れる手段が増えたところにこそあると思う。もちろんそうすればしたで、たいへんなリスクを背負うことになるのだが。

 「路上のX」のヒロイン・真由の場合は、母の不倫がすべての始まりだった。結果として両親は離婚、高校生になったばかりの彼女は叔父の家に預けられ、そこで虐待に近い扱いを受ける。
 叔父夫婦に、必ずしも悪意があったわけではない。二人の子持ちで、経済的に逼迫し、もう一人子どもを引き受ける余裕はなかった。そのうえ、真由の両親とは仲が悪かった。それなら、最初から断ればいいものを、叔父が気弱なのでできなかったらしい。それでいて、引き受けた以上はできるだけ、などという気にもなれない。

今の人たちは、親戚の子の窮状を救おうとは思ってないよね。お金がないというよりは、そんな面倒なことを引き受けたくないんだよ。昔は貧しくても、みんな親類同士で助け合っていたけどね。

 真由がレイプ被害を訴えた婦人警官の言葉である。これはその通りであろう。
 親戚だけではなく、「遠くの親戚より近くの他人」などと言われた地域共同体の紐帯も薄れた。人情の衰えを嘆く声は、いわゆる保守派の間からよくあったものだが、今はそれも少なくなったようだ。嘆いたところで「面倒」と感じる意識が元へもどるわけでもない。 
 以前TVでビートたけしが大略次のように言っていたのを覚えている。昔は人情があって、近所の子どもが食卓へ来てご飯を食べていった、なんてことがよくあった、なんて言うが、冗談じゃない。そうでなければ食えなかったから、仕方なしにそうしていただけなんだ、と。
 そのうえ、他所の子どもを預かって事故があったら責任を取らされる、なんぞというケースも報道されるようになり、ますます他所の子どもの面倒なんぞ見たくなくなる。
 いや、それどころではない。これも「路上のX」に描かれているが、下手に子どもの友だちを家に入れたりすると、仲間を呼んで、家が溜り場にされかねない。そうなると、全く遠慮をなくした連中に、家が荒らし放題荒らされる。ミトという少女の母親は、そのために愛想を尽かして、家も娘も捨てて去った。昔は若者宿とか若衆宿とか言われる、青年の荒れるリビドーを回収する場所や制度が地域で用意されていたこともあるが、今はそんなものもない。
 これを要するに、日本の高度産業化・都市化、それに伴う個人化(必ずしも個人主義化、ではない)がもたらした変化はある。

 真由は、彼女の面倒などみたくはない叔父夫婦に預けられたこととは別に、母の不倫を許せないと考える。
 
 現役。そうだ。自分は、母親が不倫して父親が嫉妬のあまり逆上した、という事実よりも、両親が恋愛沙汰に現役だということに、衝撃を受けているのだった。

 それ以前には若く見えて美しい母が自慢だった。そのことは、父以外の異性を性的に惹きつける要素にもなる、ということには目を塞いでいた。「母親」と「女」は並び立たない、それが当然だ、とする倫理観(でしょ?)は、これまた当ブログで以前に取り上げたように、ハムレットの昔から存在している。
 そういう真由を、親友のリオナが諫める。自分は義父にレイプされたのだが、彼も実母もいいかげんだった。真由の場合、母は真剣に他の男が好きになって、離婚してそちらへ走ったのだし、父はそういう母が男として許せない、とこれまた真剣に思ったのだ。子どもができたら、一人の男・女として生きてはならない、などとは言えない。いや、実は言われてきたし、今もそれは残っているのだが、個人主義の原則からすれば、それをどこまでも押し立てるわけにはいかない。それを認めようとしない真由を、リオナは「その辺にいる五歳の子と、全然変わんない」と言う。
 もっとも、真由が言わないから、リオナが知らない事実はある。真由の母は、真由に泣いて詫びるのだが、真由といっしょに暮らそう、とは決して言わない。その一事で、何を言おうと、母にとって新しい夫との新しい家庭のほうが、旧来の娘・真由との関係より大事なのだな、とわかる。
 家庭こそ最も大事にすべき、という観念がなくなれば、親がどういう人であれ、こんなことは増えることはあっても、減ることはない。これまた当たり前の話である。

 「少女葬」のもう一人のヒロイン・綾希は、父のモラハラに耐えられず中学校卒業前に家出する。
 たとえば夏休み前夜、綾季は七月中に夏休みの宿題の、少なくとも半分は終えておくように、と厳命され、約束させられる。さっそく次の日からとりかかるのだが、その次の日には宿題のノートやドリルはどこにも見つからなくなる。八月一日、彼女は父の前に正座させられ、「また嘘をついた!」と叱られ、髪をつかんで引き摺りまわされる。幼い頃には泣いて許しを乞うしかなかった。小学校高学年になって、父がわざと宿題を隠しているのだ、と確信する。

「いい子を殴るわけにはいかないけど、悪い子にはお仕置きっていう名目があるでしょう。それに、『おまえは悪い子だ、嘘つきだ、ろくでなしだ』って萎縮させておけば、支配しやすいから」

 中学教師の父は、全面的な支配以外には家庭を営む術を知らず、元教え子の母も、よく期待に応えて、絶対に逆らわない奴隷として彼に仕えた。後に綾希は「自分をお父さんと二人にしないで」と懇願する母に言う。父はまちがったやり方であれ、親であろうとした。あなたは、それを全く放棄したではないか、と。
 昔の父親のほうが威張っていた、というイメージがもたれがちだし、一般的にはそうであったろうが、昔は世間もそれを当然とした。「男女平等」とか、「子どもも一個の人格」なる市民道徳が、たてまえとしては一般化すると、世間の支援が受けられないと感じる分、より陰湿な手段で家人を支配しようとする父も現れる。「ファザー・ファッカー」の義父もまた、最初そのような支配者として振る舞った。

 これらの事情から家を出て街に向かった少女たちは、当然、性被害者になりやすい。若々しい肉体という条件の他に、親の保護が必要とされている存在なのに、それがないということは、それだけでも弱い、御しやすい存在に見えるから。
 JKビジネスの世界で経験を積んだリオナは言う。

「レイプする男たちは、あたしたちを馬鹿にしてるんだよ。女なんか大嫌いで、自分たちよりずっと劣るものだと思ってる。だから、ばれなきゃ、いくらでも酷いことをする。差別そのものなんだよ」

 綾希の父の支配欲にも、このように表現し得る歪んだ欲望が根底にあるであろう。
 それがわかっていながら、リオナは、そして真由も、JKビジネスで、男の差別感をぎりぎりまで満足させる「仕事」で金を稼ごうとする。それ以外には、安定して暮らしていけるだけの金を稼ぐ手段が見当たらないからだ。

 現代消費社会は、あらゆる方向の欲望を「商品」として開いた。その割には、日本では、件数としてはそれほど悲惨なことは起きていない。何も悲観したり、悲憤慷慨したりする必要はない。しかし、一度開かれたものは閉じることはできない。個人も家族も、具体的に明らかとなった欲望の海の中で生きていくしかないのである。それがつまり、目下の時代の宿命なのである。
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究極の推理小説

2019年06月26日 | 文学
メインテキスト:アガサ・クリスティー/中村妙子訳『春にして君を離れ』(原著の出版念は1944年。ハヤカワ文庫平成16年)



【今回の記事には推理小説(的な小説を含む)の、いわゆるネタバレ的なものが含まれます。お気をつけてお読みください。】

 特に推理もののファンではない。なのに、大学生時分、推理小説好きな友人と話をしていて、「俺、『Yの悲劇』の犯人が途中でわかったんだよね」と言ってしまい、顰蹙をかったことがある。そんなの、嘘に決まっている、というわけで。
 まあ、嘘ではないが、正確には、見当がついた、だけ。論理的に考えて、なんぞでは全くない。そんなことができる人もいるのかも知れないが、私には無理。同じ作者エラリー・クイーンの、「読者への挑戦状」が解決編の前に置かれている諸作品など、わかったためしはない、というより、考えてみることもなかった。
 ではどうして見当がついたのかと言うと、犯人の行動がけっこう詳しく描写されていたからだ。同じようにして見当がついたのは、あとは坂口安吾「不連続殺人事件」ぐらい。これは普通「伏線」と呼ばれる技法だと思うが、私はこれがちゃんとしているのが推理小説の傑作たる条件の一つだと思っている。少なくとも、「意外な犯人」が興味の焦点である場合には。
 ドロリーレーン・シリーズの前作「Xの悲劇」など、犯人当ては不可能。なぜなら、最後にしか登場しないのだから。ノックスの「探偵小説十戒」、ヴァン・ダインの「二十戒」などは脇に置くとしても、こりゃあないだろう、と多くの人が思うだろう。実際、「Xの悲劇」は、最も盛り上がるのは途中に挟まる裁判の場面であり、また話の焦点は被害者にある。正統的な推理小説とは言われない。

 ミステリーの女王ことアガサ・クリスティーはこの点でも並々ならぬ才能を発揮した。処女作「スタイルズ荘の怪事件」では、最初から疑われていた一番怪しい人物が犯人、という奇手を使っている。
 同じく「一事不再理」を狙いにしたもので、一番感心したのは、「検察側の証人」。もっとも、大本の小説は読んでいない。ビリー・ワイルダー監督の映画をまず見て、それから戯曲を読んで、後者の場合もちろんネタはわかっていたのに、同じくらい圧倒される思いがした。真実を隠すために嘘をつくのではなく、本当のことを言ってそれを嘘だと思わせる策を貫く、これ以上鮮やかなトリックにはまだお目にかかっていないように思う。

 犯人探し、を成立させるための犯人隠しの一手法として、いわゆる叙述トリックを全面に出した作品でも、クリスティーの「アクロイド殺し」や「そして誰もいなくなった」は筆頭に挙げられるだろう。前者は一人称、後者は三人称の作品だが、いずれも、嘘はつかない、ただし、肝心なことは書かない、ことで読者を騙す。厳密に意地悪く見ると、瑕瑾なしとはしないけれど、だいたいにおいてまことに巧妙にやってのけている。

 ただ、もちろん私見に過ぎないのだが、敢えてこれが究極ではないか、と思えるプロットが別にある。それは、犯人=探偵で、自分で自分を騙しており、後にそれが明らかになる、というものだ。
 原型はギリシャ悲劇だろう。アリストテレス「詩学」が簡便にまとめたように、そのプロットの根底はアナグノリシス(認知)によるペリペティア(急展開)にある。その典型例として「詩学」にもとりあげられているのは、ソフォクレス「オイディプス王」。ある男が、ある殺人事件の真相を探るうちに、その犯人は他ならぬ自分であったことを発見する。そして、その後に犯した恐るべき罪も同時に明らかとなり、彼は急転直下、破滅する。確かに、これ以上スリリングなプロットはない。
 なぜなら、いつでもどこでも、「自分とは何か」という問い以上に人間にとってこわいものはない。そうではないですか?

 これを近代文芸に当て嵌めようとすると、もう直感的に、無理だ、と思えるだろう。
 念のために言うが、記憶喪失だの二重人格だのはダメ。それでは結局、犯人と探偵が分裂している。このタイプは、ゼバスチャン・ジャプリンゾ「シンデレラの罠」とか、映画では、ええと、題名が出てこなくなってしまったが、いくつかある。
 他に、ハインリヒ・フォン・クライスト「こわれがめ」は、「オィディプス王」の喜劇版を目指した戯曲で、私にとってこれ以上笑える愉しい劇はないのだが、主人公は自分のしたことを完全に知っており、真相を追究するような顔をして隠そうとする。だから、本当の意味で探偵役は果たしていない。
 殺人は殺人でも、自分が誰を殺したかは知らなかった、だと、やはり戯曲で、アルベール・カミュ「誤解」がある。こちらは真相の発見は偶然に依っており、それより先に観客には知らされているのだから、そこでのスリリングさはない。
 自分で自分の行為の本当の意味を発見する、まで条件を緩めれば、いくつかあるだろう。ドストエフスキー「罪と罰」はそう言えるかな。しかし、ここでの犯罪の「意味」は宗教的・哲学的に追求されるので、普通に言う「発見」とはかけ離れている。
 犯罪とは言えない行為にまでハードルを下げたら、今思いつくのだと、アンドレ・ジッド「田園交響楽」がそうだろう。これはむしろ批評家として偉大な才能を発揮したジッドの、たぶん唯一のまともな小説(失礼!)で、傑作であると思う。この主人公は周囲を騙すためにこそ自分を騙すところがあり、つまり、かなりの程度、隠された動機に気づいていることも読み取れる。かなりの程度とは具体的にはどの程度か、それはわからない。当然だし、優れた点でもある。しかしそのため、発見→急展開のショックはない。だから、これを一番露骨に使う推理小説ではない。

 名手クリスティーにして、この壁は越えがたかった。それで、犯人=探偵に最も近づいた小説は、推理小説ではなく、ロマンス小説と銘打たれ、別名義(メアリ・ウェストマコット)で発表された。
 「春にして君を離れ」の主人公は、イギリス中流家庭の平凡な中年主婦ジョーン・スカダモア。結婚してバグダッドにいる末娘が病気になったという知らせをもらって、見舞いのために一人で旅立つ。その帰途、大雨のために鉄道が不通となり、トルコとの国境の町で足止めされる。
 会うのは小さな宿泊所の使用人、外へ出ても兵士と人足だけ。編み物道具は持ってきておらず、読む本も尽きたので、まずい料理を食べて眠る以外には、荒涼たる風景を眺めつつ散策するぐらいしかやることはない。
 ジョーンの心は自然に回想へと向かう。ここへ来る前に、逆にロンドンからバクダッドへ向かう途中の、女学校時代の級友に邂逅してしばらく語り合ったのもきっかけになった。些細なことが気になり出す。夫のロジャーは、ロンドンで自分を見送りに来た帰り、妙に浮き浮きした足取りで去ったこと、とか。あれはそう見えただけか、それとも……。
 この後小説の八割方がヒロインの内面でのみ展開する。自分を見つめ直す、というやつ。できれば、やめておいたほうがいいことの一つだろう。しかし、時間がたっぷりあるとなると。地面の穴からぞろぞろ這い出てくるトカゲが、次々に浮かぶ断片的な記憶の比喩となる。やがて断片が繋がっていき、自分が家人にとってどのような存在であったか、本当は気づいていたのに意識の底に沈めていたものを、改めて発見するのである。
 犯罪などまったくないのに、回想と情景描写とが重層的に積み重なる叙述は、この種の小説としては稀な緊迫感を獲得している。

 隠されていた秘密は、ヒロインと夫との次の対話に端的に示されている。

「やれやれ、ジョーン、わからないはずはないだろう。我々世の親たちが子どもに対していったい、どういう仕打ちをしているか、考えてもごらん。おまえたちのことは何でも知っているといわんばかりの態度。親の権威のもとに置かれている力弱い、幼い者にとって、いつも最上のことをしている、知っているというポーズ。むろん、必要上やむを得ぬことといえばそれまでだが」
「まるで奴隷のことでもおっしゃっているみたいないいかたをなさるのね」
「一種の奴隷じゃないか、彼らは。我々の与える食物を食べ、着せるものを着、我々の教えこむことをしゃべる。我々の与える保護の、代償としてね。しかし子どもたちは、日一日と成長し、それだけ自由に近づくのさ」
「自由ですって?」とジョーンは軽蔑的にいった。「そんなもの、いったい、この世の中にありまして?」
 ロジャーはのろのろと重苦しい口調で答えた。
「いや、ないらしいね、きみのいう通りだよ、ジョーン」


 秘密が明らかになった以上、もう昨日のままではいられない、とヒロインは思う。新しい生き方を見つけよう、まずこれまでのことを夫と子どもたちに詫びよう。そのことを、帰りの汽車の中で会ったロシア貴族の女性に打ち明けると、彼女は「神の聖者たちにはそれができたのでしょうけれどね」と素気なく言う。
 貴女は聖者ではない。つけ加えると、ギリシャ悲劇の英雄でもない。そうなれもしない。だから、無理なんだ、新しい生き方なんて。
 それが何より証拠には、ヒロインの心に再び反省が訪れる。ただし、反対方向で。自分は妙な妄想に取り憑かれていた。結局、何一つまちがったことはしてこなかったのだ。それで、ロンドンの夫の傍にもどると、すべてが元のまま。つまり、アナグノリシスはあっても、ペリペティアは起こらない。それ自体が多分、現代の悲劇なのだ。

 作者は小説を、ヒロインの発見が「事実」であったかどうか、曖昧なまま終わらせることもできたろう。トルストイ「クロイツェル・ソナタ」はそのように構成されている。そうしないで、最後になって夫の視点を出して、事実、つまりジョーン以外の人にとってジョーンはどうであったか、「客観的」に明らかにしたのは、エンターテインメントだからだろうか。
 それもあるだろうが、この客観性は、苦い真実をもう一度思い知らせる仕掛けにもなっている。ジョーンの行動原理は、中流社会の「常識」の範囲に強固に留まっている。そのため、周囲は窒息する思いをするのだが、では、常識は間違っているのか。それに逆らって、「自由」になったら、幸せなのか。ロジャーは、彼の希望する職に就いたら、経時的な困窮に陥ったろう。それは誰にも予見できることだから、ジョーンも予見し、「必要上やむを得」ず、彼を思い留まらせた。
 それだけだ。何を後悔することがある? この常識の壁を打ち破るのは、神々の仕掛けた罠やら宿命を越えるのと同様、難しそうである。
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福田恆存に関するいくつかの疑問 その6(一匹に拘る)

2018年09月23日 | 文学

Pastora by Jean-Francois Millet, 1864

【以下の記事は平成27年に美津島明氏のブログ「直言の宴」に掲載させていただいたものです。個人的な事情により、今回採録いたします。表題を含めて最小限の、五か所の改訂以外には変更はありませn。】
 
 私淑している福田恆存について、自分のブログで、「福田恆存に関するいくつかの疑問 その1(アポカリプスより出でて)」から4回にわたって書いたのですが、美津島明氏から、「あれではよくわからない、今まで福田なんて全く読んだことのない人にもわかるような、『福田恆存入門』のようなものを書いて欲しかった」、と愛情あふれる文句つけをいただきました。
 そう言われると一応、やってみたくなりました。こう見えて、乗せられやすい体質なもんで。ただ、「唯一の、正確な読解」を示す、なんてことを夢想するわけにはいきません。福田先生も、そういうことは不可能なんだ、と何度か言っていますし。私はただ、凡庸なこの頭で理解し、感動した福田像を示し、それが先生に興味のある人に多少の参考になれば、と願うばかりです。おかげで、そんなに深遠な、難しい話にだけはならないと思いますので。
 福田思想の出発点にして生涯を通じた立脚点は、まず昭和21年の「一匹と九十九匹と」に明瞭に示されました。今回はほぼこれのみに即してお話します。

 これは戦後直後に文壇を賑わせた「政治と文学」論争中に書かれたエッセイです。と言っても、福田はこの論争自体に深入りすることはどうやら意識的に避けています。論ずべきことはもっと別にあるはずだ、というスタンスは明瞭に読み取れ、これはこの後の福田の論争文の多くに引き継がれて、時に「搦め手論法」と呼ばれることもあったようです。
 論争の主流についても一応ざっくり見ておきましょう。この淵源はずっと古く、共産主義が、少なくとも知識人の間ではそれこそ怪物じみた猛威をふるった昭和初期にまで遡ります。
 具体的には、共産主義は正しいと多くの人にみなされた。当然共産主義革命は正しいし、そのための活動は正しい。これに疑問の余地はない。と、すると、芸術は、その中でも社会観を直接的か間接的に含まないわけにはいかない文学は、どういうことになるのか。これがつまり論争のテーマでした。
 模範解答とされたのはこんなんです。文学作品についても、別の「正しさ」があるわけはない。別の、なんてものを認めれば、その分共産主義の正しさは相対化され、革命そのものも、革命運動の価値も貶められることになる。文学でも社会活動でも、単一の物差しで測られなければならない。そんなに難しいことではない。革命運動を鼓吹するか、少なくとも革命の担い手たるプロレタリアートに即した目で現代社会を見つめ、その矛盾を示すような作品ならよい作品、それ以外は悪い、少なくとも無価値な作品。そう判定すればいい……。
「いやあ、そりゃあんまり簡単すぎるだろう」とたいていの人が思うでしょう。と言うか、土台、共産主義が正しいと信じなければ始まらない話ではあるんですが。
 その後の歴史の中で共産主義もずいぶん変わりましたし、また、文学者は知識人であるという思い込みがあった頃までは、彼らは文学の社会的な効用やら責務を気にかけないわけにはいかなかったのです。そこで政治(では何が正しいか)と文学(の価値は何か)をめぐる論争は、少しづつ形を変えてこの後も現れましたし、今後も現れる可能性はあります。これについては加藤典洋「戦後後論」(『敗戦後論』所収)が面白い見取り図を提出しておりますので、興味のある方はご覧おきください。

 さて福田恆存は、「政治上の正しさと文学の価値」という問いの形を変え、「そもそも政治とは、そして文学とは何か」、言い換えると、「人間はなぜ、またどのように、政治を、そして文学を必要とするのか」まで遡及して考えてみせたのです。演繹に代えて帰納的に考える、というわけですが、「かくあるべき」から「かくある」に議論の中心を移すのは、もっと大きな意味があり、前に言った「搦め手論法」というのもそこを指しているようです。それは後ほど述べるとして、「政治と文学」の局面にもどりますと、政治は九十九匹のためにあり、文学は一匹のためにある、これを混同するところから不毛な混乱が起きるのだ、という答えが提出されました。
 「一匹と九十九匹」の譬喩は、キャッチコピーとしてもなかなかいいですよね。人目を惹きやすいし、覚えやすいでしょう? それでけっこう有名なんですが、そのためにかえってたびたび誤解されてきたように思います。解説してみましょう。
 話の出処は聖書のルカ伝第十五章です。

なんぢらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたずねざらんや。

 この譬えは、すぐ後の「蕩児の帰宅」の話を見れば明らかなように、悔い改めた一人を得る喜びは、もともと正しかった九十九人がいることより勝る、という意味です。ですからここで言う一匹とは正しい道を踏み外した迷える羊(stray sheep)であり、キリスト教からみた罪人のことです。それぐらいは福田も当然知っており、そう書いてもいますが、この一節から受けたインスピレーションが強烈だったので、正統的な解釈とは別の「意味」を、語らないわけにはいかなかったのです。
 もともとこの話にはちょっとヘンなところがあります。どんな場合でも、九十九匹の羊を野に放っておいていいはずはないのです。狼に襲われたり、羊たちの内部で争いごとがおきたりしたときのために、面倒を見る人が必要です。福田の考えでは、それをやるのが最も広い意味の政治です。宗教者の役割ではないから、イエスはそれについて語らなかった。宗教者は、「失せたるもの」を探し求めずにはいられないのであり、後にこれを引き継いだのが文学者、であるはず。そうであるならば、どんな時代でも、群から迷い出てしまう一匹は必ずいるので、宗教・文学の必要性が絶えることはありません。
 以上は誤解を招く言い方になりました。「なんぢらのうちたれか」と語り出されているところからもわかるように、特定の宗教者、文学者のみが考えられているわけではありません。九十九匹と一匹の領分は、万人の心の中にこそあるのです。そして、迷い出る一匹はそれを探し求める一匹と同一なのでしょう。「かれ(=真の文学者、及びそれに近い心性)は自分自身のうちにその一匹の所在を感じてゐるがゆゑに、これを他のもののうちに見うしなふはずがない」と、福田は言っています。

 改めて、この一匹とは何なのか。たぶん、この時代の文学者やら文学愛好者なら、くどくど言わずともわかる人にはわかったらしく、福田もそれは暗示するにとどめています。文学の権威が一般に失われた今日では、多少の逸脱を恐れず、言葉を重ねておくべきでしょう。
 日本近代文学の中だと、イエスつながりと、もう一つ福田の出世作になった文芸評論(「芥川龍之介」)とのつながりからして、芥川龍之介「西方の人」中の「永遠に超えんとするもの」が、「一匹」に近いように思えます。これはイエスその人、あるいは彼を導く聖霊を指し、聖母マリアが表象する「永遠に守らんとするもの」と対置されています。

天に近い山の上には氷のやうに澄んだ日の光の中に岩むらの聳えてゐるだけである。しかし深い谷の底には柘榴や無花果も匂つてゐたであらう。そこには又家々の煙もかすかに立ち昇つてゐたかも知れない。クリストも亦恐らくはかう云ふ下界の人生に懐しさを感じずにはゐなかつたであらう。しかし彼の道は嫌でも応でも人気(ひとけ)のない天に向つてゐる。彼の誕生を告げた星は――或は彼を生んだ聖霊は彼に平和を与へようとしない。(「西方の人」中「二十五 天に近い山の上の問答」)

 つまり、平和で暖かい生活の場を捨てて、冷厳で孤独な世界へと誘われる性向、芥川が「聖霊」の言葉で呼んだもの、これを福田は「(九十九匹=下界の人生に対する)一匹」と名づけた、と考えて、そんなに的外れではないと思います。
 しかし、では、日本の近代文学者が「永遠に超えんとする一匹」を自分の裡に感じていたかというと、それはちょっと怪しい。根本的に、「永遠に守らんとするもの」が守る身近な平和から、否応なくはみ出してしまう性情は乏しかったように見える。ただ、西洋文学には折々現れるそのような個人の傾向に憧れる気持ちはあったようで、芥川もどうやらその例外ではない。彼が描くイエス像が、上に見られるようにやたらにロマンチックなのはそのせいでしょう。
 上記は日本の近代を考える上で大きなポイントになるところですが、今回はもうちょっと卑近なところで話をしたいと思います。そうすると、福田の論旨の応用、というより多少どころではない逸脱ということになってしまうかも知れませんが、私が福田恆存から学んだつもりでいる最も重要なことの一つですので、恐れも恥も顧みずに申し上げます。

 以前のブログの記事「国家意識をめぐって、小浜逸郎さんとの対話(その1)」に、息子を特攻作戦で失くし、戦後苦難の道を歩まなければならなかった母親について書きました。彼女は極貧のうちに生きて、死ななければならなかったようで、それについて私は、「「国のために死ね」と要求するなら、最低限、遺族の生活の面倒ぐらい、ちゃんとみてあげられなくてどうするのか」と申しました。因みに日本で軍人恩給の復活が議会で認められたのは昭和28年で、支給が開始されたのは翌29年、この母親はその恩恵に浴する直前に亡くなったのです。戦争に負けて軍隊もなくなって、日本中が苦しい時期であったとはいえ、こういう人にはちゃんとお金を上げるべきでした。それは明らかに、政治の役割です。
 ところで問題は、さらにその先にあります。政治がちゃんとしているなら、彼らが生活に困ることはない。それで万々歳かと言えば、そうもいかんでしょう。二十歳そこそこの息子に先立たれた悲しみ、苦しみは残ります。どんな政治がこれを救えるのか? 考えるまでもなく、無理に決まっています。即ち、最良の政治が行われてもなお、すべての人間を必ず幸せにできるわけはないのです。
 戦後思潮のイカンところの一つは、こういうふうに戦争が絡んだ話だとすぐに、「戦争はこんな悲惨をもたらす、最大の悪だ」と言い立て、逆に「だから戦争さえなくなれば万事OKなんだ」をこの場合の解答のように思わせる詐術がはびこったところです。実際には仏教で言う四苦(老病生死)八苦(愛する者と別れる苦しみ、その他)から完全に逃れられる人などいません。早い話が、戦争がなくても、子どもに先立たれる親はいるのです。その苦しみ、悲しみをどうするか? どうしようもない。どうしようもないけれど、宗教と文学のみが、僅かにそこに関われる、いや、関わることを目指すべきだ。それが福田恆存の文学論の根幹なのです。
 どういうふうに関わるのかと言えば、それは、マルクスが喝破したように、また福田も認めたように、麻薬として役立つのです。マルクスが「ヘーゲル法哲学批判序説」中でそう言ったのは、もちろん否定的な意味でです。麻薬(直截には阿片)には、苦しみを和らげる働きはあるが、病気を根治することはできない。根治をあきらめるから、麻薬の需要も出てくる。同じように、現実の苦しみが除去されるならば、宗教の必要性はなくなる。だから、宗教の廃棄を要求することは、そういうものが必要とされる現実社会の、根本的な変革を要求することに等しい、とおおよそマルクスは論じています。
 彼が言い落としているのは、世の中には不治の病があることです。現在でも末期癌患者の鎮痛剤として麻薬が処方されることがあるのは知られているでしょう。その意味で、将来も麻薬の需要が絶えることはないでしょう。同じように、人々の苦しみがすっかり消えることもないから、文学の存在価値も失われないでしょう。
 具体例を出しておきます。子どもを失った母の悲哀を表現したものとして、以下の和泉式部の歌はよく知られています。

とどめおきて誰をあはれと思ふらむ 
 子はまさるらむ子はまさりけり


「この世に遺す者のうちで誰をあわれと思うのだろう、子どもだろうな、自分も子ども失って(親を失ったときより)あわれに思うのだから」という意味で、感情より理屈を表に出している(と、見せて、同語反復による強調にもなっているのはさすがです)ことが注目されます。これと、何よりも和歌の調べによって、ここでの感情には客観性が付与され、「作品」になっている。子どもに先立たれることは、「戦死」というような社会的な共通項がない限り、個人的なできごとに止まります。それでも、フォルム(形)があることで、同じような経験をしていない人にも心持が伝わる。その全過程をここでは「文学」と名づけます。
 即ち、個人的なことがらがそのまま共同性を得るというマジックが文学であり、人間が集団的な存在(九十九匹)であると同時に個的な存在(一匹)でもあることを証すものです。
 だからと言ってもちろん、ごく普通の意味での公共性がなおざりにされていいわけはありません。政治上の施策や社会改革によって救われる不幸ならちゃんと救うべきですし、まして、人々に不当な悲惨を強いる政治悪はなくすべく努めるべきです。その努力が革命という形をとるなら、正義は明らかにこちらにあることになります。

 ここで、先ほど挙げた、共産主義に対して文学(正確にはプロレタリア文学)から提出された「模範解答」をもう一度見てください。正義は革命にある。ならば、文学もまた革命の正義に専一に仕えるべきだ、とされる。
 結果として、それ以外の正しさ、どころか、この正義の力が及ばない領域は無視されます。例えば、戦争被害者の苦しみは大いに描くべきだ、それは帝国主義の悲惨を訴えるのに役立つから。では、国家のせいにも社会のせいにもできない事故の犠牲者や、その関係者の苦しみは? そんなもの、革命のためにはなんの効果もないんだから、放っておけ、とは誰も言ってませんが、言ったのと同じ効果はあるんです。
 難癖をつけていると思いますか? そう見えるらしいんで、このような言い方は、正攻法ではない、「搦め手論法」と呼ばれたのですが。しかし、広い意味での革命運動がどういう道をたどったかを考えれば、現実的にも決して無視し得ない論点がここにあるのは明らかでしょう。それはどんな道で、どこから始まったのか。「政治と文学」論争のときによく取り上げられた、小林多喜二「党生活者」をこちら側の具体例として出しましょう。
 この小説で最も印象が深いのは、次のような点です。革命運動に従事する主人公が、職場も住居も追われ、親しい女に全面的に生活の面倒をみてもらうことにする。革命が正しいなら、そういうこともしかたないかも知れない。ただ驚くのは、主人公は、どうやら彼との結婚を夢見ている彼女に対して、「申し訳ないけど、我慢してほしい」ではなく、「革命運動の必要性・正当性をなかなか理解しようとしない」と、私も若い頃聞いたことがある言葉で言い換えると「意識が低い」、としか思わない。本気で? どうも、本気らしいです。
 あるいはまた、六十歳になった母親にもう会わない決心をする。母親には辛いことだろうが、それは「母の心に支配階級に対する全生涯的憎悪を(母の一生は事実全くそうであった)抱かせるためにも必要だ」……。いやいやいや、本当にやめましょうよ。何かの事情で肉親と別れる人はいつでも、どこにでも、いる。自分から望んでそうなることもある。それを一概に悪だと言う気はない。けれど、何かの正義を持ってきて、それを正当化することは、とりわけ、自分が思い込むだけではなく、他人もそうであるべきだ、などとするのだけは、是非やめてほしい。
 また、こうも言える。主人公は、厳しい弾圧を受けている。正義は自分にあり、それなら弾圧は不当だ。そこまでは認めてもいいが、さらに、だから弾圧される苦しさを味わうことこそ正当だ、までいったら、明らかな転倒である。そうではありませんか?
 「党生活者」の主人公がそうであるように、小林多喜二もまったき善意の人ではあったのでしょう。だからこそ、あぶない。「正しいこと」はどこまでも押し進めていいはず。ならば、それをどこかで押し止めようとすることこそ悪。正義の論理がこの段階にまで至れば、この正しさはあらゆることを犠牲にするように要求するまでになるでしょう。革命が成功すると、革命前よりもっと激しい弾圧が始まる根本の理由は、ここにあるのです。
 思うに、文学の社会的な効用は、このような事態に対する警告を発するところに求められるのではないでしょうか。一人の人間には、国家・社会を含む他者にはどうすることもできない領域がある。言わば、絶対的な個別性です。もちろん文学にだって、根本的にそれをどうにかできるわけではない。しかし、「どうにもならないこともある」ことを訴えて、この世に完全な正義はあり得ず、ゆえに正義の暴走は何よりも危険だと戒めることについては、少しは期待してもいいのではないでしょうか。

 上がある程度認められたとしても、でもやっぱり「そんなの本当に意味があるの?」と思われることもあるでしょう。文学が宗教ほど(麻薬としての)大きな慰安を与えることなどめったにあるものではなく、その分、依存症の危険などはごく少ない。それというのも、社会に大きな影響を与える宗教ほど、「教団」を作って、革命運動によく似た活動をする、集団的なものになるからです。文学は、あくまで個人にのみ関わろうとするので、純粋ですが、また、まことに無力です。それを残念に思う文学者が、「絶対の正義」を外部に求めようとした結果が、「プロレタリア文学」をもたらしたのでしょう。
 このように無限に循環しそうな問いに対して福田恆存がここで出した診断を、最後に掲げておきます。

かれ(=文学者)のみはなにものにも欺かれない――政治にも、社会にも、科学にも、知性にも、進歩にも、善意にも、その意味において、阿片の常用者であり、またその供給者でもあるかれは、阿片でしか救われぬ一匹の存在にこだはる一介のペシミストでしかない。そのかれのペシミズムがいかなる世の政治といへども最後の一匹を見のがすであらうことを見ぬいてゐるのだが、にもかかはらず阿片を提供しようといふ心において、それによつて百匹の救はれることを信じる心において、かれはまた底ぬけのオプティミストでもあらう。そのかれのオプティミズムが九十九匹に専念する政治の道を是認するのにほかならない。このかれのペシミズムとオプティミズムとの二律背反は、じつはぼくたち人間のうちにひそむ個人的自我と集団的自我との矛盾をそのまま容認し、相互肯定によつて生かさうとするところになりたつのである。

 一匹にこだわり続け、それによって百匹に慰安としての阿片を供給すること、ただしそれは阿片に過ぎないことはわかっているので、九十九匹の救済は甘んじて政治に委ねること。ここには、九十九匹(公共性)の名において一匹(個人)に最小限の犠牲を強いることはどうしてもある、それは認めるしかない、という断念も含まれます。そうでないと、お互いを肯定し合って、ともに生かす、ということにはならない。しかし、何が「最小限」かを見極めることはいつも難しい。
 それから、こちらのほうが大きいのですが、九十九匹の側からの圧迫は特にないのに、群れから迷いでる一匹、「永遠に超えんとするもの」の問題は、提出されたままで終わっています。それは福田の後の文業、特に「人間・この劇的なるもの」で正面から取り上げられることになります。
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福田恆存に関するいくつかの疑問 その5(暗渠で通じるということ)

2017年08月20日 | 文学
 松乃茶屋

メインテキスト:会田雄次・大島康正・鯖田豊之・西義之・林健太郎・福田恆存・福田信之・三島由紀夫・村松剛『国民講座・日本人の再建1 現代日本人の思想』(原書房昭和43年)
サブテキスト: 福田逸『父・福田恆存』(文藝春秋平成29年)

 福田恆存の御次男・逸氏の近著(以下、『父』と略記する)を読んで、何回か垣間見た恆存先生の晩年のお姿が思い出され、感慨深いものがあった。
 それはそうと、やや個人的な事情もあって、これは自分でも愚考をまとめておきたいな、と思えるところがあった。福田恆存が晩年までこだわった、三島に言われたという言葉「福田さんは暗渠で西洋に通じてゐる」についてである。
 以下、敬称は略します。
 事の起こりは、『現代日本人の思想』(以下、『思想』と略記する)に収められた座談会の時に起きた。これは、巻末のはしがきによると、出版年の1月14日から15日にかけて、箱根湯本の旅館『松乃茶屋』で泊りがけで行われたもので、出席者は標記の九人、うち村松剛が司会を務めている。この大がかりな座談会は、最初から本にするために行われたものだ。
 この中で、『思想』の目次に従えば、「Ⅱ 国家と伝統」の部分で、二人の対立が生じた。活字で読んでもけっこう激しいやりとりになっている。さらにその折の、座談ではなく、おそらく食事の時に、福田は三島から、「福田さんは暗渠で西洋に通じてゐるでせう」と、「まるで不義密通を質すかのやうな調子で極め附けられた」のだという。以下、昭和62年に書かれた「覺書 六」(『福田恆存全集 六巻』文藝春秋昭和62年刊所収)から引用する。

(前略)どう考へても三島はそれを良い意味で言つたのではなく、未だに西洋の亡靈と縁を切れずにゐる男といふ意味合ひで言つたのに相違ない。それに對してどう答へたか、それも全く記憶にないが、私には三島の「國粋主義」こそ、彼の譬喩を借りれば、「暗渠で日本に通じてゐる」としか思へない。ここは「批評」の場ではないので、詳しくは論じないが、文化は人の生き方のうちにおのづから現れるものであり、生きて動いてゐるものであつて、囲ひを施して守らなければならないものではない。人はよく文化と文化遺産とを混同する。私たちは具體的に「能」を守るとか、「朱鷺」を守るとか、さういふことは言へても、一般的に「文化」を守るとは言へぬはずである。(下線部は原文では傍点部)

 「暗渠で西洋に通じてゐる」という評言(というより、悪口)と、約二十年後の「(お前こそ)暗渠で日本に通じてゐる」という返し。この応酬について、まず疑義を挟んだのは、活字になっているものだと、佐藤松男である。故持丸博との対談本『証言 三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決』(文藝春秋平成22年刊)で、「これは、三島の国粋主義こそ彼の譬喩を借りれば「暗渠で西洋に通じている」の間違いではないか」としている。
 言葉の辞書的な意味からすると、「暗渠」とは下水や、蓋をした用水路のことである。対義語は開渠あるいは明渠。普段は目に見えないようにされた水路だから、福田の「不義密通」という言葉も併せて考えると、当然、正々堂々としたものではない、こっそりとした繋がりの譬喩、ということになるだろう。三島の「国粋主義」とは「日本主義」ということで、日本を前面に出している。暗渠も何もない。むしろ、そこに密かに、西洋的なものが混じっているとしたら、それこそ「暗渠で通じてゐる」と言うに相応しい、というわけだ。
 対談相手の持丸博は、佐藤の推察に賛成したうえで、しかし、「私はどちらの先生【福田と三島】もそう【暗渠で西洋と通じている】は思いません」と言っている。「三島先生は福田さんと同様に西洋的な知性は十分に備えており、むしろ西洋を知りぬいた上で日本に回帰したというべき」であり、「あえてつながっていると言えば、西洋的思考の残滓、もしくは西洋志向の生活様式があちこちに残っているというべきでしょう」と。なるほど、そういうことなら、「残滓」から「不義密通」というような軽蔑的なニュアンスを除けるとしたら、「西洋に通じている」も相応しい評と言えそうだ。もちろん前提として、福田の文中の「日本」が、「西洋」のまちがいだとすれば、だが。
 一方、前掲書と同年に出た故遠藤浩一『福田恆存と三島由紀夫 1945~1970』(上下巻、麗澤大学出版会)は、福田の言葉を次の二通りに解読している。
 上巻では、「三島こそ、暗渠で通じてゐたのは、「近代」ではなかったのか、日本人として「近代」に通じようとしてゐたのではなかつたのか、その葛藤の先に、あの最期があったのではないか」。日本では「近代」≒「西洋」ということになるから、ここでは上の佐藤の見方と重なる。
 一方下巻では「他者との交流を排して自己に内向するのも、所詮低いところでの自己満足でしかあるまい」。「他者」とは西洋、「自己」とは日本のことである。ここでは「暗渠」とは「内向」、とされている。
 『父』では、この二者(遠藤著からは後者のみ)が紹介された上で、次のように解読する。「お前さん、日本日本といふが、傍目には実に西洋的だよ、西洋文化の落し子だよ、でも暗い下水道で日本にも繋がらうともがいてゐるぢやないか」。なるほど、「暗渠」から「隠されている」という意味を取り除き、正道ではない、邪道、ということにのみとるなら、福田の三島評として不思議はない。

 上記を踏まえて『思想』の舌戦を整理してみたい。まず三島のナショナリズム観。座談会なので福田その他から半畳が入って揺れ動くのだが、だいたいは次のように展開されている。【  】内は、愚考による補足。
(1)ナショナリズムにはパッシヴ(受動的)なものとポジティヴ(能動的)なものがある。前者が、一番普通に言われる民族主義で、「外」からの有形無形の働きかけを脅威とみなして己を守ろうとするもの。この心性は本能的なもので、戦後日本では表向き否定的に言及されることが多かったが、実際は左翼にも利用されている。【例えば六十年安保闘争は、日本を打ち負かし、七年にわたって占領し、現在も実質的に支配しているアメリカに対する、隠微なナショナリスティックな反感が底流にあったからこそ、空前の盛り上がりを見せたのだと思われる。】これに対してポジティヴ・ナショナリズムは、より創造的な、ものを生み出す源泉であり、今後はそれをつくっていかなければ左翼にやられてしまうだろう。
(2)日本文化の本質は創造的なものである。「生む」「成る」が中核にあって、生活の中でもいつも創造している。これに対して西洋文化は「作る」ものであって、これは本当の意味で創造的とは言えない。
【ここで丸山真男が昭和47年に発表した「歴史意識の「古層」」(現在『忠誠と反逆―転形期日本の精神史的位相』ちくま学芸文庫平成10年刊所収)を思い出す人は多いだろう。丸山は世界創造神話中の三つの基本動詞、「つくる」(創造者と被創造者が分離する)「生む」(分離するが連続性は意識されている)「なる」(分離しない)のうち、記紀で語られる日本のそれでは最後のものが圧倒的に多いことに着目し、これと他の重要な語―「基底範疇」と呼ばれる―「つぎ(=次・継ぎ)」と「いきおひ」を合わせて「つぎつぎと・なりゆく・いきおひ」こそが日本的歴史意識の最古の層、即ち根底であるとした。三島はこの着想をどこから得たか。丸山の注記によると、江戸時代の神道系思想家から昭和の日本精神論者まで、「なる」と「うむ」とを基本範疇とした日本主義の哲学あるいは解釈学は多数あるそうだから、そのうちのどれかであろう。篤学の士の教えを請う。】
 具体的に言うと(というより少し飛躍・発展しているようだが)、例えば伊勢神宮の式年遷宮。二十年ごとに隣の用地に新たな社を建て、御本体を移動する、これが、中断の時期はあったが、原則として天武天皇以来連綿と続けられてきた。新たにできた社殿は、元の通りに作られるが、模したものとはされない。すべてオリジナルである。つまり、オリジナルとそのコピーという区分がない。天皇にしてもそうで、百二十四代あっても、その時々の天皇は神武天皇と同一でもある。【折口信夫によれば、代々の天皇に天皇霊が宿る。】現にあるものが新たなものであり、また現にある姿を保ちながら新たなものへと繋がっていく。この時間観念は、マルクス主義を代表とする進歩史観と決定的に相容れない。後者は現にあるものを古いものとして破壊し、その上で新たなものを作る、と考えるから。
(3)日本文化を考えるとき、普遍性はあきらめるしかない。普遍というのは「方法」から出てくる、それ自体すぐれて西洋的なものである。
 それというのも、方法論こそが西洋文明の本質なのであって、これはいわば二階へ行くためのハシゴである。日本では二階はあってもハシゴはなく、ある直感を持った人間だけが上に行ける。西洋人はどんなものもはしごをかけて、誰でも二階まで行けるようにする。例えば、現在までで最も詳細な柔道の理論を書いたのは、オランダのヘーシンクである。【しかしそれを読んだからと言って誰もが柔道の達人になれるわけではない。ここでは、日本人が例えば「会得すべき奥義」などと言うところを、理論化しマニュアル化する西洋の傾向を言っているのだろう。つまり、理論的には誰もが到達可能な道筋を示したうえでの普遍なのだから、日本にこだわる以上は諦めなくてはならない、ということ。】

 次に、『思想』で上に続けて行われた三島と福田恆存のやりとりの、ダイジェストを挙げる。長くなるが、本書は現在古書でしか入手できないのだから、このような引用にも意味はあるだろう。ただし、間に入る他の出席者の発言はすべて除き、両人の発言も適宜削って繋げている。最小限こちらで付け加えたところは【  】で示す。

福田 三島さんはやっぱり日本【と西洋】の差は絶対的なものだと思う?
三島 絶対的なものだけれども、相対的な世界といくらでも交流はできると思うし、その点ではいくらでもインターナショナルになりうると思う。だけど、差は絶対的なものだと思う。
福田 しかし【絶対に違うと言えば言える】個人同士でも国家を形成することができると同じように、日本と欧米とそう差を立てて考える必要はない。
三島 つまり福田さん、欧米と日本との差が相対的であるためには、もう一つその上に絶対的なものがなければ相対性というものは生じないのだから、そうしたら、福田さんがそれを相対的だとおっしゃるときには、すでにその両方を相対化するところの絶対性というものをあなたは考えていらっしゃるわけだ。それは何というわけです。あなたのお考えになる場合には。
福田 それはだから本能ですよ。初めからそういうものだと思っている。いいかえれば、自然といってもいいですよ。
三島 それは人類の自然、つまりあなたは人類というものを信ずるわけね。
福田 いや、自然を信ずる。日本人も、ぼくもその分岐にすぎないという実感だよ。
三島 自然という観念だよ。全部違うよ。この自然、フランスの自然、ドイツの自然、みんな観念だよ。
福田 そんなことはないだろう。やはり根源だよ。生命力の根源みたいなものだ。
三島 ぼくはそうは思わないね。生命主義という側からみると自然は生命かもしれないけれど、人間の歴史からみた場合自然は生命じゃない、観念だよ。歴史の表象だよ。
福田 観念という点では同じだと思うのだよ。それを信じるか信じないかという問題だ。
三島 結局それだけの問題なの。あなたはそれを信じるの――生命、あるいは自然、あるいは人間。
福田 ウン。
三島 たとえば、国際会議をやっていて、国際会議であいつはおれの顏を見てちょっと変な顏をしたな、何か感情を害しているのじゃないだろうか。そうするといま論じている問題どうとるんじゃないだろうか──ドイツ人と日本人でもわかる。アメリカ人と話していても、顏を見ればわかりますよね。そういうことは共通性があると思う。それはごく低い次元では共通性を信じるけれど、それを相対化するところの絶対的価値と言う意味ではぼくは何も信じない。人類なんていうものは全然信じない。人間性というのも信じない。
福田 日本人だけは交流を感じるのかね。日本人だって全然だめなのがいるもの。(笑)ごく素朴ないい方をすると、もう一度生まれてくるとすればどこに生まれてきたいかということになれば、ぼくは日本に生まれてきたいといえばもうそれでいいと思うのだ。――愛国心の問題、ナショナリズムの問題はそういう単純なことでかたがつくと思うがね。
三島 福田さん、こう考えたらどうだ。つまり、お前はそんなことを信ずるなら、日本人ならどんないやなやつでも話が通ずるか、西洋人との間には絶対のサクを置くのかという質問があるでしょう。そうすると、ぼくは日本人との間にも正直いって通じないよね。そうすると、自分の考えている価値というものがどんどん求心的になっていくわね。あなたが遠心的になるのと反対に。求心的なものと自分とを同一化してしまえば、どんなにラディカルになるかわからないわね。しかし、ラディカルにならないまでも、その求心的なものの価値と、日本人だからそういうものをキャッチできるプリヴィリッジがあるので、もしぼくがアメリカ人だったら、ぼくが信じる価値へ到達できないだろうと思うのだ。
福田 それはおもしろいよ。それならぼくも同じだ。
三島 それは一つのインターナショナルな立体面を考えると、その上のほうにかじりつくか下のほうにかじりつくかの問題の差だよ。人類の人間性というのは下のほうにあるんだよ。下水だよ。おれの考えるのは上のほうにあるんだよ。(笑)
福田 おれにほうを下にしたわけだな。上水道と下水道か。(笑)
三島 下水道が人類の人間性だよ。上水道がおれの考えるサムシングだよ。
福田 上でも下でもいいけれども。
三島 それはひっくり返せば上と下と逆になるからな。


 この最後の「下水道」が即ち「暗渠」だとすれば、三島の「福田さんは暗渠で西洋に通じてゐる」なる言葉の意味はかなり明らかであろう。あなたの言う西洋、いや普遍とは、所詮低いところ(下水道=暗渠)での繋がりに過ぎない。自分は、ごく狭い範囲にしか通じないかも知れないが、より高い価値(上水道)を信じて追及しているのだ、と。
 現在、文学者同士でも、こんな言葉の空中戦はめったにない。どれくらいの人が興味を持ってくれるか、心もとないのだが、乗りかかった船なのでもう少し考究しよう。
 三島から見てなぜ普遍性が、程度の低い、下水道の価値なのか。国際会議の例に重ねれば、それこそ本能、つまり食欲・性欲・睡眠欲の三大欲望やら、社会的に他人から承認、さらにできれば称賛されたいという欲求などなどは、プリミティヴであって、人種国籍を問わず、万人に共通すると言える。それを「自然」「生命力の根源」と観念的な言葉で飾ってみても、しょせんは動物的な次元であり、人間的な価値とは言えない、ということであろう。
 現在の私自身が、福田がD.H.ロレンスから得たと思しき「生命力の根源」という発想は、いまいちピンとこない段階にいる。信じるか信じないか、というところからすれば、それは宗教だということになる。「そこをうまく語れるなら、私も教祖になれるのだがな」と、福田恆存が言っていた、という話は聞いたことがある。たぶん幸いなことに、彼はそうはならず、文学者の段階にとどまった。ならば、いかにも三島由紀夫の言う通り、これは観念だということになるだろう。
 しかし、三島の側の「日本主義」も、同じことなのである。日本の「成る」力とやらに実感が持てないとしたら、それは単なる言葉であり、観念だ。ただ、西洋という、「そうではないもの」≒アンチテーゼを措定して、いつもそれを意識せざるを得ないために、どうしても求心的にして急進的になり、そのスリリングさ、激しさは、時に人を惹きつける要素にもなる。その分の危険も、ある。
 それ以前に、三島の論理の破綻なら、至るところに見つけられる。西洋の「作る文化」に対して日本のは「成る文化」だと言いながら、今後「ポジティヴ・ナショナリズム」(しかし、この日本主義者、なんでこう英語を使うかね、というところでもツッこみたくなりますね)のために「成る文化」を「作って」いかなければならない、なんぞと言う。この言葉遣いには初読の時から引っかかったが、それは些末な揚げ足にすぎないかと思った。しかし実際は、もっと致命的なところに繋がっているようだ。
 もっともこの程度の破綻なら、三島にも意識されていた。先ほどのやりとりの少し後を挙げる。

福田 それはいま三島さんが、この場において一つの【日本対西洋の】強調をしただけだといったんだけれども、さかねじをくわすようだけれど、三島さんの文学は最も西洋的なんだな。
三島 それは日本人だからだよ。西洋的であることこそ、また日本的なんだ。
福田 それから、日本は絶対であって、外国と相いれないという、これはやっぱり日本と西洋との間にハシゴをかけているんだよ。方法論を用いているんだと思うのだ。
三島 だからやっぱり西洋のハシゴを借りているよ。
福田 だけど、生む文化であり、なる文化であって、向こうはつくる文化であるという、こういう対立概念でものを考えるというのは、もう西洋的なんだよ。
三島 対立概念を使うのはもう西洋的だね。
福田 だから、もしそうでないなら、日本人は無意識にもっと上代、古代にさかのぼって、のんびり暮らしておればだけれども、もう西洋を意識したんだから西洋的だよ。あきらめなさいよ。(笑)
三島 つまり、福田さんと話する【ママ】のも、ほんとうは話す必要はなくて、目で見てわかるはずなんだ。やっぱりあなたも西洋化されちゃったから、ぼくも西洋的な方法を使わなければわからないんだ。(笑)


 ここでの話は和やかに進んでいるが、読めば読むほど奇妙な気になってくる。西洋を他者として自己=日本を建てようとする方法論はすぐれて西洋的であり、このようなところで過度に西洋的なのがまた、とても近代日本的だ、と。もちろん、低い、「下水道」的な意味で、だが――なんぞと、言葉がくるくる回転するので、目まいがしそうになる。
 整理すればこういうことか。上の翌日の座談会(なぜか三島は出席していない)で福田は、「ぼくはきのうからその問題一番気になっていたんだが、彼我【西洋と日本】の差はいってもいいけれども、それが優劣の問題にいつでも転化するというのが気になるのだ」と言っている。先の三島の発言からも、三島は日本の思想的な優位を確立したいのだな、ということは明らかであろう。
 遅れて近代化の道を歩み始めた日本は、先輩の西洋に対してことごとにコンプレックスを抱かざるを得ない。これは元よりいいことではないが、逆に、西洋に対する日本の優位を言い立てるのも、それ自体が裏返したコンプレックスの現われであり、また福田の言葉を借りれば、近代への適応異常から来る自意識過剰がしからしめるものであろう。低い、とは言わないまでも、あまり健康ではない。
 「覺書 六」を書いた頃の福田は「暗渠で西洋に」が出て来た前後の状況も、座談会で話した内容も忘れてしまったそうだが、その三年後の三島の死を想うにつけ、上の座談に見える彼の「日本」へのこだわりが、すでに淀んだ、「暗渠」を思わせるものだった、と回想されたのだろう。
 ならば、「三島の「國粋主義」こそ、「暗渠で日本に通じてゐる」」という評言は、まちがいではない。「暗渠」という言葉に、不適当なところはあるが、それは初めの、三島の使い方からしてそうだったのだ。
 そうするとまた、最初の引用文の「ここは「批評」の場ではないので」以下の意味もはっきりする。文化とは人の生き方のうちに現れる、というより、生き方そのものであって、意識的に「守る」ことなどできない。そうなったら文化は自己と切り離された対象物ということになる。さらにそれを、「日本主義」「伝統主義」などと、主義(プリンシプル)として追及するなら、人間の生の自然から離れた、非常にグロテスクなものにならざるを得ない。それこそが三島の死であり、「暗渠で日本に通じる」ことだ、と福田は感じたわけだ。
 ただ、三島自身が、かなりの程度理解して、わかったうえでやったのだとすれば、どういうことになるのか。それはつまり、彼の言う「日本的なもの」を、本当はどれくらい、どんなふうに尊重していたのか、と問うことになる。
 そもそも彼は、どこから日本主義に入ったのか。福田が言った、「三島さんの文学は最も西洋的」だというのはお世辞でも皮肉でもない。一番顕著な例だと、「サド侯爵夫人」(昭和40年作)は、日本の戯曲中西欧で最もよく知られ、現に翻訳され、各国で上演されている。【『父』によると福田は、「近代能楽集」以外の三島の戯曲は認めていなかったらしいが。】何しろ、登場するのがすべてフランス人というだけでも日本の戯曲・脚本では珍しい。決してオリエンタリズム(西洋人の東洋趣味)に依るものではなく、正統的な近代戯曲として評価されているのだ。この点で三島は、西洋で作られたハシゴを一番上までちゃんと登ったということである。それでいてなぜそこからの脱却を目指そうとするのか。そこまで「批評」する用意は、今はない。
 因みに、「覺書 六」の後のほうでは、福田は三島の死について次のように言っている。

自衛隊員を前にして自分の所信を披瀝しても、つひに誰一人立たうとする者もゐなかつた、もちろん、それも彼の豫想のうちには入つてゐた、といふより、彼の豫定どほりと言ふべきであらう、あとは死ぬことだけだ、さうなつたときの三島の心中を思ふと、今でも目に涙を禁じえない。

 これは『父』にも遠藤の著にも引用されている部分だが、その後の「が、さうかといつて、彼の死を「憂國」と結びつける考へ方は、私は採らない」については、両著書ともに言及していない。涙は涙として、福田は結局三島の死に方を認めなかったのである。「批評」としては短いが、この節の最後の文を、最後に引用する。

恐らく彼は自分の営爲を「失敗」として死んで行つたのに違ひない。エリオットが「オセロー」について言つてゐるやうに、その死は自分の「失敗」を美化するための「自己劇化」だつたと言へよう。

【ここまで読んでくださった人のために、付録として、福田・三島間の交流の背景を概説的に記しておく。
 終戦直後に最もブリリアントな文芸評論家と小説家に数えられたこの二人の交流は、目立つものだと、昭和22年に福田が中村光夫・吉田健一と三人で作った懇親会「鉢木會」に三島も参加した時に始まったと思しい。
 昭和25年、文学座の創設者の一人岸田國士を中心に「文學立體化運動」(文学と演劇との関係をより密にすることを目指す)のための「雲の會」ができると、二人とも参加している。福田は昭和27年に、三島は31年に文学座に正式入団したのは、この運動の最も顕著な成果であったかもしれないが、文学座から見ると、最大の厄災の種にもなった。
 38年1月、福田が芥川比呂志たち中堅俳優と文学座を脱退、劇団雲を設立した時、三島にはなんらの話もなく、これは両人に、確執とまでは言わないが、しこりを残した。因みにこの時は文学座再建のために理事に就任した三島だったが、翌年自作の戯曲「喜びの琴」が「思想的な理由で」上演中止にされると、同じく退団、新劇団NLT(新文学座の意)を創っている。
 このようにして疎遠になった両人に対談の機会を与えたのは、民族派の学生、のうちでも平泉澄門下生たちが創刊した『論争ジャーナル』誌で、三島は最初から相談に応じ、創刊号の表紙に自分の写真を使うのを許して、すぐに実質的な主催者のようになった。42年の11月、同誌に掲載された「文武両道と死の哲学」は、既に本シリーズ「その2」で取り上げた。『思想』の座談会はその約3か月後に行われたのだが、対談のほうの三島は、左翼への警戒・恐れは座談会時と共通するが、「幻の南朝に忠勤を励」むというような独特の天皇観が主で、今回見たような日本文化論は語っていない。
 一方でこの時期の三島が思想・言論のみならず実際の行動面でも急速に過激化していったのは、よく知られているが、改めて注目に値するだろう。『論争ジャーナル』スタッフの青年たちとの関係が密になるにつれて、自衛隊への体験入隊などを通じ、「楯の會」、その前身である「祖國防衛隊」の構想も具体的になっていった。ただし44年の夏には、資金面での問題などが生じて、「楯の會」で学生長を務めていた持丸博を初めとして、同誌以来のメンバーは全員辞めている。持丸の後任になったのが、日本学生同盟(日学同)での彼の後輩だった森田必勝だった。】
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語る私と語られる私と その10(思想と実生活論争の余白に)

2017年04月30日 | 文学
メインテキスツ:「思想と實生活論争」(平野謙・小田切秀雄・山本健吉編『現代日本文學論争史』未來社昭和31年刊所収)
正宗白鳥・小林秀雄「大作家論」(『小林秀雄対話集』講談社昭和41年刊所収)
小林秀雄「正宗白鳥の作について」(『白鳥・宣長・言葉』文藝春秋昭和58年刊所収)



The Last Station, 2009, directed by Michael Lynn Hoffman

【正宗白鳥と小林秀雄の、「トルストイ家出論争」あるいは「思想と實生活論争」と呼ばれる応酬は、昭和11年に行われました。以下に論争文のすべての題目と初出誌を掲げ、本文中では(1)~(6)の番号で表記します。
(1)正宗「トルストイについて」 『讀賣新聞』1月11、12日
(2)小林「作家の顔」 『讀賣新聞』1月25日
(3)正宗「抽象的煩悶」(「文藝時評」の一部) 『中央公論』3月號
(4)小林「思想と實生活」 『文藝春秋』4月號
(5)正宗「思想と新生活」(「文藝時評」の一部) 『中央公論』5月號
(6)小林「文學者の思想と實生活」 『文藝春秋』6月號】

 まず、題材になった事件について略述する。
 1910年11月20日、ロシアの文豪レフ・ニコラーエヴィチ・トルストイが亡くなった。享年82歳。それに先立つ約1ヶ月前の10月28日に彼は領地で自宅もあるヤースナヤ・ポリャーナから出奔している。トルストイ終焉の地はアスターポヴォという村の駅長室だった。ここには現在トルストイ博物館があり、駅はレフ・トルストイ駅と呼ばれている。
 老境に達し、既に世界的な名声を得ていた大作家は、なぜ家出しなければならなかったのか。
 この頃彼は小説家というよりは社会運動の指導者、もっと言えば宗教団体の教祖のようになっていた。自ら望んでそんなものになったわけではない。個人として「人にとって最も大切なものは何か」について思索と研鑽を進めて、ついにすべての真理は福音書にあり、それに反することはすべてダメとする境地に達したのだ。
 『懺悔』(1882年)以降のトルストイの著作にはこの思想が色濃く表現されるようになった。すると、これに賛同する人もけっこうたくさん出てくる。彼らはトルストイ主義者と呼ばれ、その主張を「教え」として忠実に実行しようとする。絶対非暴力主義だから、兵役は拒否する。だけではなく、人民を圧迫するとみられるすべての組織、そのうち最大のものである国家も教会も否定する。一種の無政府主義とも言え、否定した側からは当然弾圧される。トルストイ自身も官憲に監視され、著作はしばしば発禁され、1901年にはロシアの国教であるギリシャ正教会から破門されている。
 このような公権力との争い以上にトルストイその人を悩ませたのは、家族内部の軋轢だった。私有財産否定もこの思想・主義の大きな柱なので、筋としては、伯爵として受け継いだ財産も、「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」などによって得た印税収入も、すべて放棄しなければならなくなる。事実、彼はそうしようとした。
 一方、1862年から連れ添った妻ソフィアには、それは馬鹿げているとしか見えなかった。当然の権利として家族に遺されるべき財産を守ろうとして、夫と対立するに至った。おかげでソフィアは、ソクラテスの妻クサンチッペ、モーツァルトの妻コンスタンツェとともに、世界三大悪妻の一人に数えられている。しかしこの状況では、たいていの奥さんが同じように考えて同じように振る舞うのではないだろうか。
 現代なら離婚と財産分与によってこの関係は終わりになるところだ。離婚は当時のロシアでも、不可能ではないが、かなり面倒だったことは「アンナ・カレーニナ」や「戦争と平和」のピエールとエレンの関係に描かれている。が、それ以上に、トルストイとソフィアの間には、長い年月を経ていて容易に解きほぐせない愛憎のもつれがあった。トルストイ夫妻はこの手段を択ばず、別居さえしなかったので、桎梏はますます激しくなった。
 著作権に関しては1861年以前(ほぼ、「アンナ・カレーニナ」以前)のものは夫人に譲渡し、それ以降の権利はトルストイの自由にするという妥協が成立している(1885年)。しかし91年に夫が自分の手に残った著作権を放棄したことを知ると、ソフィアは怒り狂った。
 毎日顔を合わせる妻が次第にヒステリー染みた言動を亢進させ、自殺を図るのまで見たら、たいていの男は耐えられない。トルストイも、高弟ウラジーミル・チェルトコフらの支えがなかったら、この点での思想実践はあきらめていたかも知れない。
 見方を変えると、ソフィアとチェルトコフとは、トルストイの二つの面を代表し、それぞれの立場での義務を果たすべく迫ってくる存在だった。家長としてのと、社会運動にまで発展してしまった思想の提唱者としての面。彼らのために、個人としてのトルストイは妥協不可能な形で引き裂かれることになった。
 ソフィアはトルストイとチェルトコフとは男色関係ではないかとさえ疑っている。そんな無茶な嫉妬は、トルストイへの愛情がまだ冷めていない証拠ではあっても、事態をいっそう泥沼化させる結果を招いた。トルストイは十年以前からの日記をチェルトコフに預け、それを知ったソフィアは猜疑心に駆られて、夫を攻めたてる、などはその一例である。
 10月27日、自分に隠している文書があるのではないかと疑ったソフィアが書斎を漁っていることを知ったトルストイは、ついに家出を決意したのだった。

 以上の経緯は昭和10年八住利雄・上脇進訳『トルストイ未発表日記・一九一〇年』(ナウカ社)が上梓されて、日本でも広く知られるようになった。これを読んだ正宗白鳥は翌年に(1)の感想を発表した。

廿五年前、トルストイが家出して、田舎の停車場で病死した報道が日本に傳つた時、人生に對する抽象的煩悶に堪へず、救濟を求めるための旅に上つたといふ表面的事實を、日本の文壇人はそのまゝ信じて、甘つたれた感動を起したりしたのだが、實際は細君を怖がつて逃げたのであつた。人生救濟の本家のやうに世界の識者に信頼されてゐたトルストイが、山の神を恐れ、世を恐れ、おどおどと家を抜け出て、孤往獨邁の旅に出て、ついに野垂れ死した徑路を日記で熟讀すると、悲壯でもあり滑稽でもあり、人生の眞相を鏡に掛けて見る如くである。あゝ、我が敬愛するトルストイ翁!

 ここには別に皮肉はないのだろう。白鳥のトルストイに対する「敬愛」は本物であったことは、「文芸はいかに道徳的であるべきか その2」で挙げた、夏目漱石論中の言葉でも明らかだ。彼はここで、思想、殊に西洋思想というと、卑小な日常をはるかに超えたありがたいものと崇める風潮を諷諫したのである。
 しかし、上の一文など、「トルストイのような偉人でも、結局のところ凡夫と変わらない。思想なんて無意味なもんだ」という主旨だと見られる恐れがないとは言えない。
 (2)で、小林秀雄はここに噛みついたのだった。「彼(トルストイ)の心が、「人生に對する抽象的煩悶」で燃えてゐなかつたならば、恐らく彼は山の神を怖れる要もなかつたであらう」。いかにも、ソフィアのヒステリーも、元来トルストイの思想が齎したものだ。
 「偉人英雄にわれら月並なる人間の顔を見付けて喜ぶ趣味が僕にはわからない。リアリズムの假面を被つた感傷癖に過ぎないのである」。これもその通り。偉人の思想というと無暗にありがたがって神棚へ祀り上げるのも、「なに、偉人ったって、俺たちと変わらないのさ」と通人ぶって嘯くのも、同じぐらい幼稚で甘ったれたセンチメンタリズムと言うべきであろう。
 白鳥にもそれはわかっていた。(3)では、「「日記」に對する私の視點を轉ずればさうも云へないことはない」と軽くいなす感じである。
 しかし(2)で小林はまた、次のようにも言っていた。「あらゆる思想は實生活から生れる。併し生れて育つた思想が遂に實生活に訣別する時が來なかつたならば、凡そ思想といふものに何の力があるか」。いかにも小林らしいカッコいいアフォリズムで、この論争中で最も有名な言葉になった、というより、前後の文脈から離れて一人歩きしている観がある。白鳥からして、けっこう簡単に受け取っていたようだ。思想が実生活から訣別してしまってはまずいだろう、「實生活と縁を切つたやうな思想は、幽靈のやうで案外力がないのである」と言っている。
 しかし問題は、思想が先か実生活が先か、というような二分法ではなかったはずである。少なくとも小林には。(4)で「實生活を離れて思想はない。併し、實生活に犠牲を要求しない樣な思想は、動物の頭に宿つてゐるだけである」というのは、先の(3)中の言葉の言い換えであろう。
 つまり、トルストイの悲惨な死こそ、思想によって要求された犠牲の典型例なのである。同様なことは、より小規模で曖昧な形でなら、凡人の身の上にも起きる。人間は食わねば生きられないのと同じぐらい、思想、というよりその前提たる観念なしで生きられる者でもない。そういう厄介な動物なのである。だから一般人でも、離婚もすれば自殺もする。
 さらにまた、トルストイの高邁な理想より、女房のヒステリーが怖くて逃げ出した事実のほうに「人生の真相」を見るというのも、観念の一種であることに変わりはない。

人は生れて苦しんで死ぬだけの事だ、といふ不氣味な思想を、彼が「アンナ・カレエニナ」で實現し、これを捨て去つた事は周知のことだ。(中略)正宗氏が鏡に掛けてみた人生の眞相とは一體何を意味するのか。トルストイは、「戦争と平和」で英雄にまつはる傳説の衣を脱ぎ取つて、凡常なる人間といふその眞相を描いた。然し彼の眞相追及の熱情は、すべての人間は、たゞの人間に過ぎないといふ發見に飽き足りなかつた。(中略)彼の現實暴露は、どんづまりまで行きついてゐるので、夫婦喧嘩が、人生の眞相だなどといふ中途半端なところにまごまごしてはゐなかつたのである。

 理想を実現しようとしても、女房に反対されて、なかなかうまくいかない、そういうところでは所詮誰もが「ただの人」だ。それは「真相」には違いないが、そんなところに留まっているのは、まだ生ぬるいではないか、というわけだ。あらゆる人間は「ただの人」であるが、また、ただの「ただの人」でい続けられるものではない。文学とは、後者の所以にこそ応ずべきものだと思う。が、これを信念として持ち続けるのは日本的風土の中では存外難しいようだ。
 正宗白鳥は、そのニヒリズムの徹底においてかえって、自然主義文学者の中では最もよくこの境地を維持し得た人物だったのではないかと思う。(5)では、自分はト翁の『最後の日記』を読んで、「人生の帰趨」とか「人の運命」とかいう「抽象的煩悶」に思いを致したのを、小林が「トルストイの尻尾を掴へてゐる」などと言うのは、小林こそ自分の言葉の尻尾を掴まえているのだ、と言っている。
 ただし尻尾必ずしも軽んずべからず、とも言われる。妖狐が化身した玉藻前という上臈は、陰陽師阿部晴明(原文のママ)の鏡に照らされて金毛九尾を現し、那須野ヶ原へ飛んで殺生石となった。「ト翁の荘厳な抽象的思想も、『日記』に照らして見ると、殺生石のやうな匂ひがする」。わかりづらい比喩で、後の都合がなかったら引用しないところだが、要するに、思想と実生活が衝突する場こそ、人間臭くて面白いのだ、ということらしい。
 これもまた文学者の観点として真当であろうと思う。戦後の対談で、小林は言っている。「当時、僕にはまだはっきりしていなかったことなんですが、殺生石は正宗さんの憧れだったんですな。あれは正宗さんの思想だ」。これを白鳥は「わからんな。自分のことはわからんな」と返すのみだったが、それには構わず、こう続けている。

 僕は今にしてあの時の論戦の意味がよくわかるんですよ。というのは、あの時のあなたのおっしゃった実生活というものは、一つの言葉、一つの思想なんですな。あなたに非常に大切な……。僕はトルストイの晩年を書ければ書いてみたいと思っているのですけど、書けば、きっと九尾の狐と殺生石を書くでしょうよ。思想なんて書きませんよ。

 小林秀雄は、トルストイの晩年についても、それ以外でも、「殺生石」と言えるような生々しいものは終生書かなかったと思う。題材がドストエフスキーだろうと本居宣長だろうと、彼が描いたのは観念的な思想のドラマであって、例えば下半身の事情のような、いわゆる下世話なところへは、本格的な関心はいかなかったようだ。
 「実生活」の小林は、若いころはたぶん白鳥以上の艶福家で、いわゆる女性体験も豊富だったろうが、それに関しては「女は俺の成熟する場所だつた」云々と、簡潔に抽象的に記すのみだった(「Xへの手紙」)。恋愛小説やら私小説を書く才能ということは別にして考えると、小林は、個々人の実体験には「真実」があり、それをできるだけ正確に言葉にして紙の上に記せば即ち「真実」の記述になる、というような素朴実在論的な立場への反逆を、その文学的営為の最初から抱いていたという事情もここにはありそうだ。
 ただ、では白鳥たち自然主義文学者が「殺生石」の生々しさを迫真性をもって伝える文学を書いたかと言うと、これも疑問である。思うに、実生活の現実は厳然としてあり、なまなかな思想なんて受け付けない、というのは、普遍的な真実(とみなす思想)であるだけに、そこをなんとか踏み越えようとする意思なしに、奥行きをもって描出する、というわけにもいかないのではなかったのではないだろうか。
 論争にもどると、(6)で小林は、正宗白鳥の独特な虚無的思想はわかるし、尊敬もするけれど、「氏の思想には又わが國の自然主義小説氣質といふものが強く現はれてゐるので、さういふ世代の色合ひが露骨に感じられる時には、これに對して反抗の情を禁じ得なくなるのである」と言っている。「思想と文学論争」は、世代間闘争だった、少なくとも小林からはそう見えていた。
 小林最晩年の「正宗白鳥の作について」では、次のように回想されている。
 
【白鳥の最初の引用文のような】言ひ方になつたのも、「文壇的自叙傳」によれば、自分は、鷗外露伴などよりは、一時代新しい文壇人であるといふ意識、自然主義作家と言はれてゐるものの一人として、新しい文學觀を意識して打出さうとしたところに由來してゐる。正宗氏の言葉は、私を強く刺激した。と言ふのは、私は私で、正宗氏より一時代新しい文壇に出たといふ意識があり、それが、正宗氏の言ふところに反撥させたからである。

 近代日本の慌ただしい潮流の中で、文学が樹てるべき「自己」はどこで見出されるべきか。生半可な思想・観念などではどうにもならない人間の現実の中にそれを求めた自然主義に対し、思想の現実と呼ぶべきものもある、としたのが小林たちだった、とまとめてもよい。後者はたぶんうまく伝わっていない。先程「観念的」という言葉を使ったが、これは現代でもどちらかといえば批判的なタームと感じられる、というのはその例証の一つであろう。
 我々はできればもっと先に行くべきなのであろう。思想と実生活と言うが、ある実生活が人の頭の中にある思想を抱かせる、そこから見たら実生活もまた一個の思想である、というところで、この問題はくるくる回転してしまう。もう少しよく聞く言葉だと、理想と現実と言い換えても同じことだ。ただ、このような回転を指摘して見せたのは、戦前の小林の功績としていいだろう。が、ここを超える方途はあるのだろうか。
 超えることはできないのだとしたら、せめて、回転そのものを肉体的な生々しさを備えた人間的な現実として表現するように努めるべきではないだろうか。今の私には、それぐらいしか言えない。
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文芸はいかに道徳的であるべきか その6(「それから」とそれから)

2017年02月27日 | 文学
メインテキスト:『漱石全集 第六巻』(岩波書店平成6年)


森田芳光監督 「それから」 昭和60年

 この小説の主人公長井代助は、漱石が創造した中でも、他に類のない、独時の人物である。お洒落なナルシストであり、放蕩(芸者遊び)もする。近代人で都会人であり、ニル・アドミラリ(無感動)状態に陥っている。それなら二ヒリストかというと、純粋で「自然」な自分なるものを信じていることが後に自分でわかって、そのために身を滅ぼす。それ以前は、これといって何もしない「高等遊民」=よいご身分、から出た明治期の文明批評が展開され、小説の前半はほぼそれで占められる。
 それは漱石の他の言説、講演で直接述べたものや、他の小説、例えば「三四郎」の廣田先生の口を借りて出てきたものと軌を一にしているから、漱石その人の考えとしてさしつかえない。が、いつもよりペシミスティックに、苛烈な調子でなされていて、これがやりたかったので、代助のような人物像が必要とされたのであろうと見当がつく。以下に具体的に見ていこう。
 まず、武家道徳に代表される旧来の日本的思想態度への批判。作中その代表は代助の父長井得であり、彼と代助との齟齬は、主に第三章と第九章に描かれている。
 長井得は元武士で、その居室には旧藩主に書いてもらったとか言う「誠者天道也」という額が掛かっている。「代助は此額が甚だ嫌である。第一字が嫌だ。其上文句が気に喰はない。誠は天の道なりの後へ、人の道にあらずと附け加へたい様な心持がする」。この文句は「中庸」から来ている。青年期の漱石が学んだに違いない典籍の一つである。それに今彼は叛旗を翻す、少なくとも翻す人物を主人公に据えた。その理由はというと、
 
代助の考によると、誠実だらうが、熱心だらうが、自分が出来合の奴を胸に蓄はへてゐるんぢやなくつて、石と鉄と触れて火花の出る様に、相手次第で摩擦の具合がうまく行けば、当事者二人(ににん)の間に起るべき現象である。自分の有する性質と云ふよりは寧ろ精神の交換作用である。だから相手が悪くつては起り様がない。

 時と場合と相手によっては、「誠」なんて言っていられなくなるだろう、というわけだ。それはそうだ、そうだがしかし、それはそれ、これはこれ、と自然に使い分けるのがいわゆる大人ではないか。どこの国だろうと、どんな時代だろうと、「タテマエとホンネ」はあるに違いない。ただ、おそらく日本という国は、その懸隔が最も著しい。そんなことにこだわること自体が、「子どもっぽい」と自然にみなされてしまうほどに。
 代助は、悪徳そのものを排斥しようとする純粋な道徳家ではない。おやじはいい年をして若い妾を囲っている。かまいはしない。「代助から云ふと寧ろ賛成な位なもので、彼は妾を置く余裕のないものに限つて、蓄妾の攻撃をするんだと考へてゐる」。また、おやじが、維新後実業界に入って大金を儲けたについて、綺麗なことばかりやってきたわけもないことは、容易に察せられる。それもかまわない(だから、その金でもうすぐ三十になる自分が遊び暮らしていてもかまわない、ということらしい)。
 ただ、どうにも閉口なのは、父がそのことは完全に等閑視して、「若い人がよく失敗(しくじる)といふが、全く誠実と熱心が足りないからだ」などと平気で説教するところ、その説教自体が、「今利他本位でやつてるかと思ふと、何時の間にか利己本位に変つてゐる」ようなところだ。代助が我慢できないと感じるのは、このようないいかげんな精神の在り方であった。あるいは、そのような矛盾を無視することを成立の要件とする、旧道徳のありかたであった。

彼は維新前の武士に固有な道義本位の教育を受けた。此教育は情意行為の標準を、自己以外の遠い所に据ゑて、事実の発展によつて証明せらるべき手近な真を、眼中に置かない無理なものであつた。にも拘はらず、父は習慣に囚へられて、未だに此教育に執着してゐる。さうして、一方には、劇烈な生活慾に冒され易い実業に従事した。父は実際に於て年々此生活慾の為に腐蝕されつゝ今日に至つた。だから昔の自分と、今の自分の間には、大いな相違のあるべき筈である。それを父は自認してゐなかつた。昔の自分が、昔通りの心得で、今の事業を是迄に成し遂げたとばかり公言する。けれども封建時代にのみ通用すべき教育の範囲を狭める事なしに、現代の生活慾を時々刻々に充たして行ける訳がないと代助は考へた。もし双方を其儘に存在させ様とすれば、之を敢てする個人は、矛盾の為に大苦痛を受けなければならない。もし内心に此苦痛を受けながら、たゞ苦痛の自覚丈明らかで、何の為の苦痛だか分別が付かないならば、それは頭脳の鈍い劣等な人種である。代助は父に対する毎に、父は自己を隠蔽する偽君子か、もしくは分別の足らない愚物か、何方かでなくてはならない様な気がした。さうして、左う云ふ気がするのが厭でならなかつた。
(中略)
 代助は凡ての道徳の出立点は社会的事実より外にないと信じてゐた。始めから頭の中に硬張つた道徳を据ゑ付けて、其道徳から逆に社会的事実を発展させ様とする程、本末を誤つた話はないと信じてゐた。従つて日本の学校でやる、講釈の倫理教育は、無意義のものだと考へた。彼等は学校で昔し風の道徳を教授してゐる。それでなければ一般欧洲人に適切な道徳を呑み込ましてゐる。此劇烈なる生活慾に襲はれた不幸な国民から見れば、迂遠の空談に過ぎない。此迂遠な教育を受けたものは、他日社会を眼前に見る時、昔の講釈を思ひ出して笑つて仕舞ふ。でなければ馬鹿にされた様な気がする。代助に至つては、学校のみならず、現に自分の父から、尤も厳格で、尤も通用しない徳義上の教育を受けた。それがため、一時非常な矛盾の苦痛を、頭の中に起した。代助はそれを恨めしく思つてゐる位であつた。


 長々と引用したが、ここには非常に大きな道徳的な問題が現れていると思う。自分の言葉でできるだけ簡単に説明してみよう。
 人間集団であれば必ず倫理・道徳と呼ばれてよいものは存在するだろう。その淵源は、二種考えられる。①ある理想的な人物像を考えておいて、それを基準として個々人を馴致しようとするもの、と②社会存続の必要性から割り出されたもの。
 後のほうが上の引用文で「社会的事実」を「出立点」とする道徳ということになる。なるべく卑近な例を挙げれば、人は誰しも、勝手気ままにふるまいたい。好きなことだけやって、いやなことはやりたくない。しかしそれでは社会は成り立たない。のみならず、ある個人の得手勝手を過度に許したりしたら、それ自体が必ず、他の誰かに不自由を強いる結果になる。この単純な事実からして、人は自分の自由が制限されることを「道徳的に正しいこと」として、受け入れねばならない。
 このようなことはあまりにも自明とされるであろう。そこに問題がある。この種の道徳は、交通信号のようなものだ。必要であることは誰しもが認めても、それ以上の、「偉大なもの」に結びつかない。若者の憧れを搔き立てるようなものではないのだ。血気盛んな若者なら、そんなものを破り、勝手気ままに振舞う者にこそ憧れるかも知れない。
 そこで道徳とは、しばしば①の形で現れる。それはかなり無理なものである。江戸時代でも見える人の目には明らかにそう映じていた。普通人には到底達成し難い徳目を押し付けておいて、挙句に「そんなことができないお前はダメだ」なんぞと非難するようなのは悪趣味だ、と荻生徂徠が言っているそうだ(丸山真男『日本政治思想史研究』)。しかし、無理だからこそ、人を惹きつける力もある。
 が、平和な時代であれば、無理な理想が人に無理な行動をさせることは、そんなに大規模にはおこらない。オウム真理教事件のようなのは、やはり例外なのだ。つまり、たいていは、俗塵となんとか妥協してやっていく。
 そのためには、例えば、「仁」とは何か「恕」とは何か、などと内実に立ち入って論理的に詰めて考えるなんて、しないほうがいい。徂徠や伊藤仁斎のような学者はしかたないとして、俗人は。考えれば考えるほど、道徳体系の論理的な破綻が見えるようになるだろうから。生活上の「事実」を基に道徳を検証しようなどとするのも同じこと。「それはそれ、これはこれ」でなければ、というか、そんな区別自体も考えないほうがよい。現に多くの人がそうしている。
 以上は、日本でも西洋でも同じことだろう。ただ、人間一般を(本来罪深いものとして)対象とする超越的宗教と違って、儒教が説くのは基本的に士分の者にのみ求められる仁義礼智などである。とすれば、この徳目が、ひいては道徳体系自体が雲の上のものに見えてきやすい。雲の下の人間の現実との関係は薄くなり、その分、言葉としては無傷で残り易い。
 代助にはこれが許せない。悪徳は許せる、偽善も許そう、しかし偽善を偽善と気づかない鈍感さ、その愚物ぶりには耐えられない。即ち、父は愚物である。

 しかしそうだとすれば、その愚物の金で毎日遊び暮らしている代助とはどういう存在なのか。「天保調と明治の現代調を、容赦なく継ぎ合せた様な一種の人物である」(これは趣味に関する、いい意味)嫂(あねよめ)からそう追及されて、ろくに答えられない。
 この問題は第六章で、友人の平岡とその妻三千代に対して一番詳しく展開されている。「何故働かないつて、そりや僕が悪いんぢやない。つまり世の中が悪いのだ。もつと、大袈裟に云ふと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ」と。

日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでゐて、一等国を以て任じてゐる。さうして、無理にも一等国の仲間入をしやうとする。だから、あらゆる方面に向つて、奥行を削つて、一等国丈の間口を張つちまつた。なまじい張れるから、なほ悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。

 なるほど、現状認識としては正しい。日本が大東亜戦争敗北の破局に至った道筋を最も簡単に言うとこうなるだろう。ただ気になるのは、それでは近代日本が進むべき道筋は他にあったろうかということである。代助の見通しには情がない。その分、客観的に正鵠を射たものになっているのではないか。
 それはそうと、最初にもどって、どうして働かないのか。社会全体で、みんな余裕がなく、むきつけの生存競争をしている状態では、到底いい仕事はできないから、ということらしい。どうもまるで、説得力がない。
 西洋の「一等国」には日本より余裕があるとすれば、二等以下の国から長年に渡って収奪してきたからだ、という事実は棚上げにされていることは棚上げにするとしても、「日本の社会が精神的、徳義的、身体的に、大体の上に於て健全なら、僕は依然として有為多望なのさ。さうなれば遣る事はいくらでもあるからね」なる言い草は、いい気なものだとしか見えないだろう。そんな「健全な社会」が、いつどこにあったというのか。
 酒を飲んでしつこくなった平岡に対して、代助はさらにこんな例を出す。「常山紀談」にある話である。織田信長が上洛して、三好家を滅ぼした時、同家に仕えていた坪内某という料理人が捕えられた。京料理の名手としてよく知られた人物だったので、織田家で召し抱えるよう進言された信長は、料理を試してからにしようと言った。そこで坪内が朝食を作り、信長に出すと、「こんな水っぽいものは食えない。誅殺してしまえ」と怒った。坪内は今一度の機会を乞い、許されたので、翌朝も料理を出した。今度はひどくうまかった。信長は満足し、坪内には禄が与えられた。さて後に坪内が語るには、最初の料理こそ、名門三好家に供した第一等の料理であった。次の日に出したものは、野卑な田舎風の味付けにした。それがつまり、信長の好みに合ったのだ、と。
 この話のキモは、織田信長は田舎者であったこと以外だと、状況に応じて、うまく立ち回って活路を開く機転の見事さにあるのだろう。しかし代助はそこを逆にする。この料理人は給金のために(元の話では命のために)、敢えて二流の仕事をした、それはつまり仕事と技芸を侮辱することである。金のために働くなら、必ずそういう羽目になるのだ、と。
 だったら、代助のように金に困っていない人間こそ、「よい仕事」をすべきではないか。そう反論されて終わりである。【因みに、「よい仕事」をしたかどうかはともかく、かなりの年になるまで親の金で食わしてもらっていた純文学の大作家は、近代日本では珍しくない。志賀直哉は自分で公言しているから有名だし、永井荷風も、正宗白鳥も多分そう。この点、大学卒業後朝日新聞に入るまで教員として自活していた漱石のほうが、ずっと苦労人だと言える。】
 要するに彼は自分を守りたいだけのようである。自分の何を? それもはっきりしないならば、結局、状況に流されるだけになってしまうだろう。このへん彼は、現代のニートを先取りしている、と言える。
 
 「それから」一篇は、このような代助の、結婚問題を中心にして展開する。父は小説の開始以前から、ある縁談を勧めている。先方の家と縁戚になるのは、父の事業にとって有利になるからだが、先に言ったようなわけで、そのこと自体さほど嫌悪する必要はない。就職と違って結婚については、「代助は此二三年来、凡ての物に対して重きを置かない習慣になつた如く、結婚に対しても、あまり重きを置く必要を認めてゐない」(第七章)のだから、問題はないはずだ。代助自身が、なぜか、気が進まない以外には。
 しかし面白いもので、「貴方【父】にそれ程御都合が好い事があるなら、もう一遍【結婚を】考へて見ませう」と言うと、父は機嫌を悪くする(第九章)。江戸時代の武家なら、政略結婚などはむしろ当たり前ではなかったかと思うのだが、それは現在の偏見というものなのだろうか。そうだとしてもここには、前回取り上げた「虞美人草」の謎の女の、取り繕いと同じものがある。自分の意志だけをしゃにむに押し通すように見えるのは、たとえその権利はあったとしても、できるだけ避けたい。西洋との関わり以前に、このような心性が、日本の文明の中で発達していたのである。
 代助にもどると、彼は結婚のみならず、男女の愛そのものにさほどの重きを置いていなかった。「代助は渝(かは)らざる愛を、今の世に口にするものを偽善家の第一位に置いた」(第十一章)。その理由と言うのが、なんだか青臭いような、アホくさいようなものである。曰く、大自然に囲まれている田舎ならともかく、「都会は人間の展覧会に過ぎない」から、例えば男であれば女の様々な美しさに心を動かされないわけにはいかない、結婚していてもいなくても。そして、心は変わっても結婚という関係は変えないとするならば、それは精神的に不義(インフイデリチ)を働くのと同様である、云々。
 現に結婚していた作者・漱石が、こんな理屈をまともに考えていたとは思えない。主眼は別のところにあるのだ。
 上の第七章で、父との話の後で、そうまで結婚をいやがるのは、誰か好いた女があるのだろうと嫂に言われた時初めて、代助の心中に三千代の名が浮かぶ。また第十一章の妙な結婚観の後でも、彼女が思い出されて、これは今の考えとは別の因子(ファクター)なのではないかと疑う。
 実際、ヒロイン・三千代の美しさは、決して強調されていない。初めて登場したときには、「色の白い割に髪の黒い、細面に眉毛(まみへ)の判然《はつきり》映る女である。一寸見ると何所となく淋しい感じの起る所が、古版の浮世絵に似てゐる」(第四章)と描写され、漱石はこういう女が好きだったのだな、とは推測される。そして第十六章に到って、やっと、「しとやかな、奥行のある、美くしい女」と言われる。後者は、代助による告白の後である。
 その告白というのも、「僕の存在には貴方が必要だ。何(ど)うしても必要だ」なるもので、「代助の言葉には、普通の愛人の用ひる様な甘い文彩(あや)を含んでゐなかつた。彼の調子は其言葉と共に簡単で素朴であつた。寧ろ厳粛の域に逼つてゐた」とも注されている。
 代助の三千代への思いは普通の恋愛ではない、少なくとも、女の色香に迷うというようなのとは次元が違うことを強調したいらしい。そこで働く原理は、「自然」と呼ばれる。告白前の代助の心境は以下のように描かれている。

「今日始めて自然の昔に帰るんだ」と胸の中で云つた。斯《か》う云ひ得た時、彼は年頃にない安慰を総身に覚えた。何故もつと早く帰る事が出来なかつたのかと思つた。始から何故自然に抵抗したのかと思つた。彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔のなかに、純一無雑に平和な生命を見出した。其生命の裏にも表にも、慾得はなかつた、利害はなかつた、自己を圧迫する道徳はなかつた。雲の様な自由と、水の如き自然とがあつた。さうして凡てが幸(ブリス)であつた。だから凡てが美しかつた。

 代助は三千代の兄と親友で、三人は学生時代始終いっしょにいた。後にそこへ平岡が加わった。兄の死後、平岡から三千代への気持ちを打ち明けられた代助は、友だちのために泣き、彼と三千代との仲をとりもった。
 三年経って平岡夫婦と再会してみると、彼等は幸せではなかった。平岡は勤め先をしくじり、彼らの間に生まれた子は早世した。三千代は健康を損ない、平岡の気性は荒れた。何より、彼らの間には愛情が感じられなかった。それは最初からそうだったのか、三年の間にそうなったのか、わからない。それを代助は、「三年経過するうちに自然は自然に特有な結果を、彼等二人(ににん)の前に突き付けた」(第九章)と、自分も憎からず思っていた三千代を平岡に譲った、その不自然さこそ根本の理由であるとした。
 これ、説得力ありますか?
 「それから」が近代日本の恋愛小説中屈指の名作であるのは、第十四章以下の、人妻との愛の描写の、清冽な緊張感にある。肉欲の要素はまるでない。と言えば綺麗事に聞こえるが、読んでいるときには少しも気にならない。
 それというのも、ヒロインの態度が非常に見事だからだ。捨てられたのだと思っていた男から告白された喜びに輝き、先のことなど思い煩わない一途さ。「此間から私は、若もの事があれば、死ぬ積で覚悟を極めてゐるんですもの」、何も怖がる必要はない。これは確かに美しい。付け焼刃ではない迫真性をもってこういう女性の姿が描けた漱石の力量は誉むべきと思う。
 が、男の方は、なあ。
 恋愛小説としての完成度を期すとしたら、当初、代助はなぜ三千代を平岡と結婚させたのか、回想形式でもよいから、具体的に描くべきだったろう。友人のために犠牲になるヒロイズムに酔ったのか、女への愛着などに大した意味を認めないニヒリズムのせいだったのか。そのへんが曖昧なので、彼が口にする「自然」とは何か、どうも素直に胸に落ちて来ない。これはやっぱり、欠陥と言うべきであろう。
 
 作品中の道徳問題を取り上げて、これを「自然」の命じるように生きて、結果社会に圧迫される運命に陥る個人を描いたもの、とした人に武者小路實篤がいる。彼の「『それから』に就て」は、『白樺』創刊号(明治43年4月)の巻頭に掲げられているのだから、これは白樺派のマニュフェストともみなし得る。
 曰く、「自然に従ふものは社会から外面的に迫害され、社会に従ふものは自然から内面的に迫害される」、この悲劇こそ、「それから」一篇の眼目である、と。
 愛し合う男女が、他者(社会)の都合・思惑によって引き裂かれようとする、このプロットは、「ロミオとジュリエット」以来の、恋愛物語の王道であろう。この場合、男女は必ず美しく正しく、社会は必ず醜く間違っている。我々は観客・読者としてこのような物語に接するとき、そう思い込むようにあらかじめ要請されている。それが承認されなければ、恋愛物語は最初から成り立ちようがない。そしてこの要請のさらに底には、人間の内面はあり、それは尊重されなければならない、という思想が、一応見出される。
 私はこのような個人尊重の思想こそ最も重要だ、と信じる者だ。しかし、「恋愛は神聖」(と、「吾輩は猫である」の登場人物越智東風は言う)などという言葉には、ほぼ必ずセンチメンタリズムが伴い、すると、贋物性も伴いやすい気もする。つまり、「恋とは麻疹のようなもの」という言葉にも、(自分の経験に照らしても)一面の真実を認めざるを得ない以上は、恋愛の神聖視をもって「個人の価値」が打ち立てられた、などと素朴に信じることはできない。そこで漱石も、代助と三千代の愛から、浮わついた、世俗的なところはできるだけなくすように努力したのだろう。
 それにまた、すべての恋愛が社会によって引き裂かれるものでもない。代助の場合三千代と平岡との結婚を勧めたりせず、さっさと自分が貰うか、約束だけでもすれば、最悪の事態は防げたのである。あまりに遅く「自然」の情に生きることに決めたので、何も恐れない三千代にまで、平岡への罪悪感だけは抱かせる結果になった。この点だけでも、「それから」は、社会と自然との根本的な対立を扱った作品と言うにしては、少し物足りないところがあると思う。
 武者小路自身は、大正8年の小説「友情」で、女への愛と男への友情の葛藤を描いた。そのヒロインに、「友への義理より、自然への義理の方がいゝことは「それから」の代助も云つてゐるではありませんか」と言わせている(こんな言葉は実際は、「それから」中にない)。で、結局のところ、友が女を愛していることを知っていたので、ためらっていた男は、女からの求愛を受け入れる。そうしても彼らは、社会からなんの制裁も受けない。おめでたい話ではあるが、社会と自然の対立という大テーマは? 消えてしまっている。
 この人には、これを自らのテーマとして展開するだけの、作家的な必然性はなかったのだろう。同じ白樺派の、有島武郎「或る女」は、これに近いところで、相当な達成を示した傑作であるが、取り組むのは後の課題としよう。
 「『それから』に就いて」には、以下のような箇所もある。

自分は漱石氏は何時までも今のまゝに、社会に対して絶望的な考を持つてゐられるか、或は社会と人間の自然性の間にある調和を見出されるかを見たいと思ふ。自分は後者になられるだらうと思つてゐる。さうしてその時は自然を社会に調和させやうとされず、社会を自然に調和させやうとされるだらうと思ふ。さうしてその時漱石氏は真の国民の教育者となられると思ふ。

 幸か不幸か、漱石は教育者でも宗教者でもなく、文学者だった。彼は個人と社会との調和を見出そうとするより多く、見出しがたい根本の事情に光を当てようと試みた。それを社会に対する絶望と呼ぶ必要はない。人も社会も決して完全にはなれない。この根本的な事情を抱えながら、悩み苦しみつつ日々を送るのが、いつも変わらぬ人の姿であり、それこそ文学が扱うべきものだからである。
 この後の、「門」の主人公は、代助のような厭味はないが、同じく人の妻を奪って結婚し、罪の意識に苦しんで宗教(禅)に救いを求め、結局得られない。「こゝろ」では、「それから」とは真逆に、最初から友情より女への愛を選んだ主人公が、それは「自然」なことだったかどうかは問わぬままに、また社会的に非難されるようなことは全くないにも拘わらず、自分だけ一個の罪を感じて、自裁する。どの方向へ行こうが、デッドロックに乗り上げてしまう。残念ながら、その必然性が作品から充分に感得されないので、漱石作品は近代人の悲劇として傑作だとは手放しで褒められないのだが、一番深いところでそれを追求した栄誉は、やはり彼のものであろう。
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文芸はいかに道徳的であるべきか その5(「虞美人草」・作者は我の女をうまく殺せたか)

2017年01月28日 | 文学
メインテキスト:『漱石全集 第四巻』(岩波書店平成6年)

サブテキスト:上田仁志「『虞美人草』のどこが狂っているのか」(筑波大学比較・理論文学会編『文学研究論集 第10号』平成5年3月)

溝口健二監督 「虞美人草」 昭和10年

  「作者=夏目漱石は、我の女(あるいは、紫の女、とも言われる)=藤尾をうまく殺せたか?」。この問いは平凡至極なものである。「虞美人草」を論じる誰もが、「誰もが引用するものだが」と言い訳しながら引用する、作者の以下の言葉があるからだ。

藤尾といふ女にそんなに同情をもつてはいけない。あれは嫌な女だ。詩的であるが大人しくない。徳義心が缺乏した女である。あいつを仕舞に殺すのが一篇の趣意である。うまく殺せなければ助けてやる。然し助かれば猶々藤尾なるものは駄目な人間になる。最後に哲學をつける。此哲學は一つのセオリーである。僕は此セオリーを説明する爲めに全篇をかいてゐるのである。だから決してあんな女をいいと思つちやいけない。小夜子といふ女の方がいくら可憐だか分りやしない。――『虞美人草』はこれで御しまい。(小宮豊隆宛書簡、明治40年7月19日)

 念のためのお断り。フィクション世界では作者が万能の神なのだから、なんでもできる。しかし、主人公がなんの理由もなく突発的な事故で死ぬ、なんぞというのは問題外、少なくとも普通は、傑作とは言えなくなる。必然的な死、にしなくてはならない。では、「必然」とは何か。などなどと考えていくと、これがなかなかに困難な問題であることがわかってくるだろう。

 考える順序としては、抽象的なことより先に、「虞美人草」という小説の特質をできるだけきちんと押さえておくべきだろう。
 この小説からは、「何かがどうしようもなく、狂っているという印象を受ける」というのがこれまでの作品評を踏まえたうえでの上田論文の立脚点である。確かに、狂っているかどうかはともかく、一風変わった小説ではある。
 ただし、私はここで、文学としての成功・不成功はともかくとして、「狂っている」≒「変わっている」ところはすべて、作者の考える「必然」から出てきたものだと考えてみたい。それでもどうしても破綻があるなら、破綻しているとしか言いようがないわけだが、その破綻自体にある種の必然がないかどうか。そんなふうに頭を働かせて読んでいくのが、一番面白いようなので。
 いの一番に、読み始めて直ちに目につく、古めかしい美文調の文体はどうなのか。例えば、第二章(作品の表記は「二」だが、他の数字と紛らわしいので、~章とする)の冒頭、ヒロインの登場シーンで、彼女はこんなふうに紹介される。

 紅を弥生に包む昼酣(たけなわ)なるに、春を抽(ぬ)きんずる紫の濃き一点を、天地(あめつち)の眠れるなかに、鮮やかに滴(したた)らしたるがごとき女である。

 なんだかよくわからないが、何しろ人目を惹かずにはおかない、もの凄い美人が降臨したらしい。クレオパトラに譬えられるほどの。
 漱石はその後の小説で美人を登場させても、大げさな文句を連ねた描写は控えている。例外としては、「三四郎」のヒロインの目つきをブラプチュアス(voluptuous)だと形容し、官能に訴える(現代風に言うと、色っぽい・セクシーだ)が、「卑しく媚びるのとは無論違ふ。見られるものの方が是非媚びたくなる程に殘酷な目附である」などと言っているところがある。「三四郎」は「虞美人草」の一年後に書かれた作品であり、ヒロイン美禰子は藤尾の後継者と言ってもよいと思う。たぶん、藤尾の目つきもこんな残酷なものだったのだろう。
 両者の大きな違いは、美禰子の場合は若い三四郎の目を通した描写であることが明らかなのに、藤尾は、作者に直接、美貌が謳われているところである。
 「虞美人草」にはこれ以外にも作者が直に登場して(「作者は」を主語にした文も、二つある)、登場人物を批評したりする。ヒロインについての「藤尾は己のためにする愛を解する。人のためにする愛の、存在し得るやと考へた事もない。詩趣はある。道義はない」など、最も有名なものだろう。
 これはルール違反と言うべきである。神である作者からこう言われたのでは、読者としてはそうとしか思いようがないのだから。
 試しにこの半文語とでも言うべき文を、現代口語に超訳してみよう。「藤尾にとって愛とはあくまで自分のためのものであって、他人のための愛なんて、あるのかどうかさえ考えたこともない。文芸は好きだが、道徳は気にしない」。やっぱり、いかんですな。小説の王道を外れている。登場人物の性格などは、描写を通して実感をもってわからせるべきであって、説明すべきものではない。どうしてもこんなふうに言いたいなら、せめて、当人を含めた登場人物の言葉にすればいい。
 別例として、藤尾と対比されている若い女性である、糸子のほうを見てみよう。彼女は登場前から兄によって、容貌は藤尾に劣る、と明言されている。第六章冒頭で登場したときには「丸顔に愁(うれい)少し」云々と言われるのが、藤尾の場合にもましてわかりづらい。指一本で指すのはどうたらで、「糸子は五指を並べた様な女である」とか。たぶん、「こちらです」と案内するときの、掌を開いて方向を示す動作を思い浮かべればいいらしい。この娘はものごとの本質を見抜いても、それをむきつけに示すのは控えるだけの嗜みがあるということなのだろう。
 そんなことをわざわざ説明されなくても、糸子が賢くても可愛い、男好きのする性格であることは、後の兄の宗近や、密かに慕っている甲野との会話の中で、充分に活写されている。「丸顔に愁少し」だけでよしたほうがよかった、だいたい、そのほうが粋じゃないですか。
 そこを敢て好意的に見ると、漱石は、小説という、近代リアリズム文芸の代表的ジャンルからは少しそれたところで、「虞美人草」を創作しようとしたものらしい。考えてみれば彼はこれまで、必ず幾分かは小説になりきれない部分のある小説ばかり書いてきたのだった。

 「虞美人草」におけるその「部分」は何か。それは、寓話である。ある教訓を与えることを明確に目標とした物語。そのために、半文語の文体が採用されたのだと思っても、腑に落ちる。おかげで、口語だとだらっとしてしまう説明が、格言風の格調を備えて屹立する、ようだから。
 では、教訓=寓意の内容は何か。これも、上で簡単に紹介した二人のヒロイン像からして明解なようだ。つい道義を忘れがちな文明の毒に対する警鐘である。その具体例として、「女は今風の、美人で驕慢なのより、古風でも大人しいほうがよい」なる、当時はありふれていた道徳譚が使われた、と見える。
 明治中期以降、女子教育の普及とともに重視されるようになった婦人道徳の中で、「美人は堕落しやすい/生意気になりやい」というような言説が非常に多く繰り返された結果、「美人=悪」という観念さえ生まれていた(今でもすっかり消えたわけではない)ことは、井上章一『美人論』が夙に指摘するところである。道義なき自己本位の女である藤尾の美貌が殊更に強調され、彼女を破滅させることで、対局にいる「家庭的な女」糸子に加えて、古風で大人しい小夜子の株を上げるのは、これに合致する。
 もっともこれは、漱石が学んだ英文学でも、19世紀前半の小説の興隆期に書かれた、女性主人公の教養小説というべき作品群では、ありふれたタテマエだと言える。ジェーン・オースティン「高慢と偏見」(1813)、シャーロット・ブロンテ「ジェイン・エア」(1847年)、ウィリアム・サッカレイ「虚栄の市」(1847-48)などで肯定的に描かれるヒロインは、決まって「美人ではない」とされている(しかし映画化されると、必ず美人女優が演じる)。【「虚栄の市」は、「虞美人草」に一度だけ、そのタイトルが普通名詞として出てくる。たぶん、偶然にではない。美人で野心的な娘と優しくて感じのいい娘二人のヒロインの対比など、漱石は、参考にしたとは言わぬまでも、意識はしたろう。】
 一方、日本では明治30年代以降、「家庭小説」とも呼ばれる若い女性を主人公としたメロドラマが、マスメディアの発達とともに多数登場した。尾崎紅葉「金色夜叉」(1897-1902)はその先蹤の一つ。他の代表作は、徳富蘆花「不如帰」(1898-99)、菊池幽芳「己が罪」(1899)、小杉天外「魔風恋風」(1903-1904)など。こちらのヒロインはみな美人で、そのせいか、決まって悲惨な境涯をたどる。
 これらはすべて、「女性の幸福」を巡る広い意味の寓話と言え、「虞美人草」はその一種として読まれたこともあるようだ。しかし、そこにもどうにも収まりきれないところがある。前述した文体は、感傷的ではなく、大仰だという点で、既に違う。それ以外にも。
 時間構造が違う。上記の諸作品は、イギリスのも日本のも、すべて数年から数十年の歳月を描いている。明治40年3~7月の東京博覧会(正確には東京勧業博覧会)を真ん中に置く「虞美人草」は、分量は「不如帰」より多いのに、作品内の時間は、最後の最後の一文を除いて、長めに見ても1か月以内にすべてが終わる。
 ドストエフスキーの四大小説が同じような構造であり、例えば「罪と罰」は二週間の出来事を描いたものである。ジョージ・スタイナーが『トルストイかドストエフスキーか』で説く、叙事詩の伝統を継いで創作したトルストイに対して劇の伝統を継いだドストエフスキーという構図も思い出されるが、そんなところに踏み込んだのでは収拾がつかなくなってしまう。簡単にすまそう。
 「虞美人草」で用いられた手法はこんなものだ。ある出来事の顛末をプロットにする。それだけなら通常短編になるところを、複数の人物を絡み合わせて、あたかも水を溜めてから栓を抜いた水槽にできる渦巻き中の塵芥の如く、てんでんばらばらにぶつかっているようだが、結局は一つの方向へと収斂していく人間模様を描くことで、多くの頁数を費やす。
 これで読者の興味をつなぐためには、第一に、その人物たちの個性の輪郭がくっきりと際だって、魅力的でなくてはならない。第二に、絡み具合をうまく按配しなくてはならない。このような点で、作品を構成する手腕が必要になる。
 
 この二点とも、「虞美人草」はすばらしい出来栄えを示している。後の方から言うと、筋の運びと人物描写の双方をこれほど巧妙に並び立たせた小説は、漱石自身が後にも先にも書かなかったと思う。「プロットが整然とし」ていることは、正宗白鳥も認めるところだった。
 もっとも、そこからすると、第一・第三・第五章の、甲野欽吾と宗近一の京都見物記は、ちょっと妙だ。以前の作である「二百十日」の、二人の男による対話を主とした道中記を、ここにももってきた意図はなんなのか。
 旅行中に二人は、後に主要人物になる小夜子を、偶然に三度見かける。間の第二・第四・第六章では、東京に残った人物たちのドラマが既に展開していて、そこに宗近君が手紙で、小夜子を「琴の女」として知らせる。三度目の遭遇は第七章で、東京行きの同じ電車に乗り合わせる。終点の新橋駅では、彼女と彼女の父の漢学者井上孤道を迎えに来た小野をちらりと見る。「これが小説ならば」宗近・甲野のどちらかと彼女がどうにかなるのだが、と宗近は車中で言うが、後でこの出会いが格別の意味をもって発展するわけではない。そうなったら、いかにも安いメロドラマだから、新聞小説作者としての漱石は、ここで読者の予想・期待に肩すかしを食わせるつもりもあったかも知れない。この程度の作者の遊びは許せる。しかし、遊びはどこまでも遊びである。
 京都の地は、第十一章の、東京博覧会の「文明」に対比した場合の、「過去」を示すだろうか。それにしては、旅行者の目に映じた京都しか提示されないのだから、あまり効果的ではない。甲野の義理の母への思いなど、重要な伏線も語られるはするが、それがないと困るほどのものではない。
 結局、甲野と宗近の人間性、及び甲野の、第一義の生活がどうたらの「哲学」を開陳するのが主眼であるらしい。「自然が人間を翻訳する前に、人間が自然を翻訳する」とか、面白そうなところはあるのだが、結局なんなのか、あまり判然としない。実際この二人は、他の登場人物からも、往々にして、よくわからないところがある者として扱われている。
 作品全体の締め括りが、甲野の日記と、イギリスへ行った宗近の手紙中の一文なので、彼らこそ、プロットの外側の、大枠を形成する人物なのだろう。そこには漱石が書簡中に言う「一つのセオリー」としての「哲学」があるに相違なく、しかし最後になっていきなり出すのはうまくないので、首尾を整えるべく、二人の問答を冒頭に持ってきたのだ、と考えるのが一番いいようだ。
 こうして、「虞美人草」には全部で三層の構造があることがわかる。大枠の哲学、地の文の格言、そして主に登場人物間の会話で進行する青春ドラマ。
 
 前にもどって、登場人物の魅力に関しては、昔から評判が悪い。「數人の男女の錯綜した世相が、明確ではあるが、しかし概念的に讀者の心に映ずるだけ」であって、「この一篇には、生き生きした人聞は決して活躍してゐない」という正宗白鳥の評言(『作家論』)は有名だ。それはないなあ、と思う。
 藤尾・糸子・小夜子の若い女性三人と、甲野・宗近・小野の男性三人が織りなす恋愛、というよりは結婚話の中で、彼らは、みなちゃんと生動している。類型的に見えるのは、妙に断定的な説明が地の文にあることと、筋の運びがあまりに巧妙なので、人物の性格はそのために仕込まれたのではないかと思えてくるからではないだろうか。しかしそもそも、男性二人のうち、甲野と宗近は、前述したように、そんなに単純な性格ではない。
 以下ではプロットの中心部分にいる、藤尾母娘や小野に何が象徴されているかを検討し、それと漱石の最も言いたかったはずの「哲学」との絡みを考えてみたい。

女は只一人を相手にする芸当を心得て居る。一人と一人と戦ふ時、勝つものは必ず女である。男は必ず負ける。

 この格言は素直に腑に落ちる。その通りだと思えるから。
 藤尾はこの「戦ひ」を最も重視する。人の風下に立つことを断じて潔しとしない性格だからだ。男なんぞは初手から相手にならないが、女が対手だと、色香で惑わすことができぬ分、会話により才智を働かせる必要が出てくる。「すべての会話は戦争である。女の会話はもつとも戦争である」。第六章で彼女が戦争をするのは糸子で、藤尾はかまをかけて、この宗近の妹の、腹違いの兄の甲野欽吾への思いを確信する。それが戦いに勝つことである。
 人の本心を知ることは、その人の弱みを握るのと同じだからだ。だから他人との優越競争が熾烈になった文明の巷では、皆が探偵のようになる。漱石がいかに探偵的なものを嫌ったかは、「吾輩は猫である」「草枕」「野分」などに明瞭に書かれている。
 それに、藤尾は糸子を軽蔑している。「男の用を足すために生れたと覚悟をして居る女ほど憐れなものはない」のだから。あるいは藤尾は、日本文学に現れた最初のフェミニストと呼ばれるべきかも知れない。
 もっとも彼女は、「男の用」から自由になって、何をしようというのでもない。ただ、詩的雅趣の世界にいつまでも浸っていたいぐらいの望みしかないらしい。これらからして、自分との結婚を望む二人の男のうち、宗近より小野がよい、という結論になる。

我の強い藤尾は恋をする為めに我のない小野さんを択んだ。蜘蛛の囲にかゝる油蝉はかゝつても暴れて行かぬ。時によると網を破つて逃げる事がある。宗近君を捕るは容易である。宗近君を馴らすは藤尾と雖(いえども)、困難である。我の女は顋(あご)で相図をすれば、すぐ来るものを喜ぶ。小野さんはすぐ来るのみならず、来る時は必ず詩歌の璧(たま)を懐に抱いて来る。

 「謎の女」と呼ばれる藤尾の母にとってもそれで都合がいい。先妻の息子である欽吾は、当時の法律に従えば、四ヶ月前にヨーロッパで客死した父の全財産を継ぐ権利がある。同時に、義母ではあっても、亡父の正式な妻であった女を世話する義務もあるが、当の母のほうではそれを喜ばない。なさぬ仲では、それだけで油断できぬと思うから。
 それに彼は学校を出てからぶらぶらしていて、「時々気の知れない囈語(ねごと)」(=哲学)を言う変な男だ。藤尾に婿を取って世話をさせるに如くはない。婿には、小野がいい。文学士で、大学卒業時には優等で、恩賜の銀時計をもらった。近い将来博士にもなるだろう、有望な男だ。孤児で、無一文なのもいい。資産は甲野家にある。養子になったら、万事大人しく、自分と娘・藤尾に従うだろう。
 哲学者・甲野欽吾のほうでは、義母の心持ちを察して、家も財産もすべて藤尾にやってしまう決心をしている。それなら好都合かと言えば、そうはいかない。己のために義理の子をいびり出したように世間の目に映るのは面白くない。欽吾が家を出るにしても、他所で事業を興すとかの、しかるべき理由、少なくとも口実を拵えての上でなくてはならない。拵えるのは無論欽吾の役割である。彼女が「謎の女」と作者に命名されるのは、彼女自身のうちによくわからぬところがあるからではなく、利己的な本心を体裁よく粉飾し、人に解いてもらうべき「謎」にしてしまう名人だからである。
 ところが欽吾はいっこうに解かない。解いても白ばっくれているようだ。謎の女は苛立つが、それについては、娘と二人で彼の陰口を叩く以外には何もできない。だからますます苛立つ。人柄が悪くなる。娘・藤尾のクレオパトラに対してマクベスの魔女に譬えられる。この大仰ぶりは、ユーモアのつもりだったのか。あんまり笑えないけど(因みに欽吾は脇役のかつての同級生に、ハムレットと仇名されている)。
 これ以外には彼女は、小説の開始時間以前に、ある企みを実行している。外交官の試験に失敗したので、「見込みなし」とみなした宗近との縁談を反故にするために、彼と、不健康をかこちがちな欽吾とを、気晴らしの名目で京都旅行に行かせ、その間に藤尾の家庭教師として雇った小野との仲を深めようという。
 些細なもんじゃないか、とは言える。それを重大らしく見せかけるために、かの文体が必要とされたのだろうと言われても、しかたないと思う。

 それを差し引いても、漱石の文明批判は明瞭であり、またけっこう説得力がある。
 なぜそれほど外面を取り繕うか。それは先ほどの「戦争」で、対手にこちらの内兜を見透かされないように、である。繰り返すと、この戦争では、本音を見抜けば有利、見抜かれれば不利になる。
 なぜそれほど他人に立ち勝りたいか。自分には意味があることを、我にも人にも示す最も有効な手段だからである。それは文明の発達以前からあった意欲だろうが、近時より露骨にはなった。一つには、主に身分制度などの縛りが薄れた結果、自分で自分をなんとかできる余地が増えたように思えるから、もう一つには、文明が、自分で自分をなんとかできる手段を増やしたようであるから。まとめると、我が露出してきた分競争が激しくなる、逆もまた真、ということである。
 このような人物像は作り物めいているか? そんなことはない。誇張されているだけで、藤尾母娘のような女性は、それから男性も、実際にいる。結婚相手を選ぶ時の、上述のような頭の働きは、今ではごく普通ではないか。つまり、現在でこそリアルになったと言ってよい。以前に「金色夜叉」を取り上げたときに、そのヒロインについて同じことを言ったが、この点では漱石先生のほうが明らかに、一日以上の長がある。
 たとえ「戦争」とまでは自覚しなくとも、「自分」にのみ関心の強い人は、他人を自然に「自己実現」のための手段とみなすだろう。その傾向は「近代の宿命」と言い得る。
 いや、近代西洋の宿命なんだと言いたい人もいるだろうが、必ずしもそうではない。「どこの国でも表が表だけに発達すると、裏も裏相応に発達するだらうからな」と、一と糸子の父の宗近老人は言っている。謎の女は、「坊ちやん」に登場する陰謀家赤シャツ教頭の後継者だが、彼と違って西洋の知識がそれほどあるわけはない。第一、世間体をこれほど気にするのは、日本的な特色ではないだろうか。日本の開国→西洋化は、文明の進歩を大きく促進したに違いないが、鎖国状態がもっと長く続いたとしても、同じような人種はやっぱり出てきたろうと思う。
 つける薬はないだろうか。文学はどうか。漱石がこの時点までに出した答えは否定的なものである。赤シャツは文学士で、藤尾は文学好き。つまり、文学を学んでも、人格の陶冶のためには、全く意味がないと考えていたようだ。少なくとも、今までの文学は。これに対して、「いかにして活きべきかの問題を解釋」する文学を建てる、これが夏目漱石の、創作に踏み出した当初の野心であった。

 それでは「虞美人草」中の文学士小野清三はどうか。自ら認めるように、実に気が弱い。人の言葉に動かされやすく、そのためにプロットのキーパーソンにされたのである。しかし、こういう人もやっぱり現実にいるなあ。
 孤児、もしかすると私生児で、幼いころから苦労した。京都の高等学校では井上孤堂先生から物心両面の援助を受け、娘の小夜子となんとなく将来を言い交した。東京帝国大学に進んで、優等となり、輝かしい未来が拓けた、ようだった。資産家の美しい娘・藤尾は、その未来の証であると同時に、未来をいよいよ確かにするもののようにも思えた。ところへ、老いた孤堂先生と小夜子が、自分を頼って上京してきた。それは忌まわしい過去の影が迫ってきたように感じられた。
 以下は誤解を招きやすいところなので、重ねて断っておく。明治40年の「文明」を批判的に描いたこの作品は、決して日本も、過去も、美化していないのである。たとえ過去がもっと徳のある時代であったとしても(私は、そんなことないだろう、と思っているが)、「昔を今にもどすよしもがな」で、嘆いたところで、いわゆる愚痴にしかならない。「いかにして活くべきか」は、「いま、ここ」の問題として提出されねばならないのである。
 時代に取り残された者の悲しみは描かれている。小野が小夜子より藤尾に惹かれるのは、美貌や財産の他に、はきはき口を利くことができない小夜子に、物足りなさを感じてしまうからでもある。これまた、今でもありがちなことだろう。父からまでそれを咎められて、「口を利けぬ様に育てゝ置いてなぜ口を利かぬと云ふ。小夜子は凡ての非を負はねばならぬ。眼の中が熱くなる」と小夜子が涙を流すところは、こっちの胸もけっこう熱くなった。
 しかし最終的に小野は小夜子との結婚を選ぶ。宗近に説教されて真実に目覚めたから、ではどうもないようだ。一番大事な筋の切所で、そんなウソ臭い話にすることは、漱石も、近代小説家として、やっぱりできなかったのでしょうなあ。
 第十八章で、藤尾と大森へ遊びに行く約束をして出かける間際、小野は迷っている。こういう場合には女のほうが大胆だというのも、経験の教えるところだろう。二人の間を「事実」にしてしまえば、欽吾や宗近から文句を言われても、はねつけてしまえる、というのが藤尾母娘の思惑だ。
 男のほうはこの決行直前に、井上父娘に結婚を断る使いを送っている。なのに、うじうじが収まらない。謎の女のように、世間体さえ保てればいい、というわけにはいかないからだ。「小夜子を捨てる為ではない、孤堂先生の【金銭的な】世話が出来る為に、早く藤尾と結婚して仕舞はなければならぬ」なる理屈は考え出すが、それで他人には弁解できても、自分はだまし切れない。
 即ち彼は、我欲もあるが、道義を気にかけずにはいられない「自分」、別名は良心、を持ってしまった男なのである。それが文学をやったおかげであるかどうかは、よくわからないけれど。
 小夜子と孤堂だけではない、藤尾を思っていることが明らかな宗近をも、彼は傷付けようとしている。彼らをさほど尊重する気はなくても、明らかに恨みを買うようなまねをするのは、どうにも気が咎める。いっそ誰かが止めてくれればいい、とさえ思う。
 しかし、「矢っ張り行く事にするか。後暗い行(おこなひ)さへなければ行つても差支ない筈だ」(行けばヤルに決まっている。それも、あくまで男の方から誘って、の形になって。そのへんの藤尾の手管に小野が敵うわけはないとの確信は、ここまで読んできた人の胸に自然に浮かぶ、ぐらいにこの小説はうまくできている)と、重い腰を上げかかった途端に、宗近がやって来たのだった。
 という次第なので、宗近の言葉など、たいして重要ではなく、ただ大森行きを止めてくれればよかったのではないだろうか。宗近はただ、「真面目になれ」と言うばかりだ。
 筋は通っている。確かに、小野が憧れる煌びやかな未来など、「まるで小供見たやうな」空想だと言える。そんなものをあてにして、自分を都合のいい男とのみ見ている藤尾と結婚しても、幸せになれるわけはない。それに第一、未来を餌にした藤尾に引き回されている現在の自分は、相当みっともないだろう。と、他人に言われるより先に、自分でわかっていた。宗近はただそれを確認してくれただけだ。
 ここまではいい。小野はいかにも、「真面目」になった。しかし、小夜子と結婚するのまでそうなのかどうかは、わからない。それはただ、いらないと思ってもいざとなると捨てきれない、踏ん切りの悪さの現われに過ぎないかも知れない。それでも、捨てない以上は自分の責任として、ちゃんと抱えていけるならいいが、そこまでの強さに至ったものかどうか、小説は伝えていない。
 それでも済むのは、彼は、登場する場面は多くても、所詮は脇役だからだ。

 本当に問題なのはヒロインのほうだ。上の場面で説得した男と説得された男の二人に同時に愛想尽かしをされて、「文明の淑女は人を馬鹿にするを第一義とする。人に馬鹿にされるのを死に優る不面目と思ふ」という言葉(作者のだが)の通り、死ぬ。一直線で、少しも紛れがない。恥をかかされた衝撃で昏倒してそのまま死ぬのか、気がついてから改めて自死したものか、詳細は明らかにされないが、それも余韻を残す結末だと感じられる程度に、筋の上で首尾一貫している。かつまた、美しい死体の描写は、登場した時の妖艶さに呼応している。
 こうして、前述した三層構造のうち、プロットと文体の範囲では、この作品は見事に完結している。が、一番肝心だったはずの、「哲学」ではどうだったか。
 最後に欽吾が日記に書きつける哲学は、西洋思想でお馴染みの「メメントモリ(死を想え)」である。人間は、自分がいずれ死すべきものであることに深く思い至すとき、本当に「いかに生くべきか」の問題に逢着する。そこから感得されるのが「第一義」であり、「道義」である。しかし人間は死から目をそらしたい一心で、有形無形のいろいろな玩具を考え出し、その扱いをしかつめらしく論ったりしがちな者だ。玩具の総称を、文明と呼ぶ。これによって 人間は根本的な道義を忘れ、道化になって世界という舞台の上で一時期跳ね回る。いよいよ死が具体的に姿を現すまでは。【以上は私にとって馴染み深い言葉に置き換えて記述しましたが、私自身はこの思想には、納得する部分はあっても、共感はしていません。】

粟か米か、是は喜劇である。工か商か、是も喜劇である。あの女かこの女か、是も喜劇である。綴織(つづれおり)か繻珍(しゅちん)か、是も喜劇である。英語か独乙語か、是も喜劇である。凡てが喜劇である。最後に一つの問題が残る。――生か死か。是が悲劇である。

 藤尾を見舞った死も、そういうものだったと言えるだろうか。彼女は「我」(作中二度、「プライド」とルビが振られている)に殉じたようだ。その前に、しょせんは玩具にすぎない「我」にそこまでこだわる愚を悟ったろうか。そういうふうに読めるところは微塵もない。つまり、「セオリーを説明する」というところで、作者は失敗しており、その点でこの作品は「狂っている」ということができる。
 その理由の第一は、前にも少し言ったように、漱石が近代作家として、観念の化身でしかない人物を主人公にはできなかったからではないだろうか。
 「三四郎」の美禰子は、作品の最後になって初めて登場した未知の男と結婚することで、作品の外部へと去る。これによって美禰子は小説世界で死ぬのだ、とも言えそうである。ただし、罰としての、あるいは何かの必然としての死では全くない。彼女は去り際に、こう呟くばかりだ。「我はわが愆(とが)を知る。わが罪は常にわが前にあり」。一応、男を無駄に惑わした罪があることは認めたような。
 しかし、こんなスカした女、明治時代だってあり得ないだろう、と思う人はいるだろう。つまり、血の通った人間というよりは作者の作り物に見えることもある。これ以上の壮烈な死を与えたりしたら、近代小説のリアリズム(現実にあっても不思議はないと思えること)が台無しになるだろう。それでは必然も何も、あったものではない。
 あらためて、「必然」とは何か。漱石が使っているのとは違う意味の、文芸ジャンルとしての悲劇では、主人公は必然的な死を遂げることで、自らの生を必然化する。【できたら、本ブログ中の「劇」ジャンル、「悲劇論ノート」をご参照ください。】「我」の発展の必然的な結果として、「我」の崩壊へと至る過程が描ければ、上の哲学も生きるのである。
 女性を主人公にしては、それは少々難しいようだ。それは女性そのものの問題なのか、作者が男性だからなのか、は措く。ともかく漱石は後に、男を主人公として、そのような文芸作品も試みている。「それから」や「こころ」はその典型だと言える。
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文芸はいかに道徳的であるべきか その4(在すが如く)

2016年12月10日 | 文学
メインテキスツ:『鷗外選集 第四巻』(岩波書店昭和54年)

Hans Vaihinger 1852 - 1933

 漱石作品をあれこれ読み返して漫然と考えていたら、この期のもう一人の文豪、森鷗外のことが気になり出しました。先に、この人の立ち位置を瞥見しておきたい。それが後々どうなるか、わかりませんが、このブログ自体が私の公開ノートみたいなもんですから、あまり深く考えずに、ちょっと、顧みて他を言う式に愚考を述べます。

 鷗外と、ほとんどすべての文学者との違いは、国家の、公の身分として、陸軍軍医総監という顕職にまで上りつめたところだろう(そこでの仕事について、いろいろ疑念が持たれていることは以前に書いた)。また山縣有朋、明治維新の志士中最後まで生き残った元勲であり、日本陸軍の創設者と言ってよい人物のブレーントラストの一人でもあった。つまり、「体制側の人間」なのであって、その見解には「治者の視点」が繰り入れられている、と思しい。
 これは彼の評判にとってマイナス要因になっている。文学者は反体制であるべきだ、なる思い込みは、世に非常に根強いからだ。何もそう決めつけることはないと思う。私自身は体制側でも反体制でもなく、体制外の人間だが、それは体制を多少とも動かすほどの能力がないからで、能力のある人は、大いにやればよいではないですか? 判定すべきなのは、どう動かしたのか、その内容の良し悪しであろう。
 それに、鷗外に関して言えば、「体制内文学者」は世界的に類稀なのだから、モデルケースとして虚心に検討しなければもったいない。

 明治最後の年である45年に鷗外森林太郎は数えで知天命の歳になり、いろいろな意味で節目であったように、後からは見える。
 明治43年には大逆事件があり、天皇暗殺計画が、きわめて幼稚なものだが、あるにはあったことが明らかになった。【幸徳秋水らは、この「計画」自体には関係なく、こじつけの判決によって処刑されたことは今では明らかになっている。】これを一つのきっかけとして、南北朝正閨論などで、天皇制国家の正当性・正統性(legitimacy)が44年頃から大きく問題にされ出していた。
 山縣はこの事態を憂慮し、これに関する意見を鷗外に求めた、という話は事実ではないらしいが、前述のような立場の鷗外が個人的にこの問題を考慮した結果は、45年1月に発表された短編小説「かのやうに」に現れている。

 主人公は五条秀麿という、富裕な子爵家の御曹司で、学習院から文科大学(現東京大学文学部)に進み、歴史学を専攻、卒業後は父の金でドイツに留学した。【こんな特権階級がオレになんの関係があるんだ、と言いたくなる気持ちは、私にも分かる。】
 留学から帰った秀麿の様子は少し変わった、と家人には見える。昔は虚弱だった体は丈夫になったようだが、態度が。「秀麿が心からでなく、人に目潰に何か投げ附けるやうに笑声をあびせ掛ける習癖を、自分も意識せずに、いつの間にか養成してゐる」ことを、母親は本能的に嗅ぎつけている。また父の子爵は、彼が「極端な自由思想をでも持つてゐはしないかと疑つてゐるらしい」が、そういう単純なものではない。
 迷いはまずもって、大学生時分からの望みである、日本史の述作にある。「古事記」や「日本書紀」にある神話をそのまま歴史的事実として記載することができるか。近代的な学問を修めた者として、それはできない。
 「信仰」の問題として扱う手段は、ある。神話の成り立ち・教義の変遷・祭祀の機関(今の場合は神社)の歴史、に分けて記述する。例えばプロテスタンティズムには教義史と教会史があるが、それによって新教徒の信仰が毀損されるとは考えられていないのだから、日本神話でそうしても、「祖先崇拝の教義や機関も、特にそのために危害を受ける筈はな」く、安全だ。そうしようか、とは思っても、どうもそれだけではすみそうもないので、秀麿は迷っている。
 鷗外はここで、たぶん意図的に、一番厄介な問題には直接触れないようにしているのだろう。それはもちろん、天皇家に直接関連する部分である。祖先崇拝が日本の、広い意味での信仰心の中心だ、ということにはたぶん誰しも異論はない。それと天皇家が繋がっていることも。と、こう大雑把に言うのはいいけれど、具体的にはどうか、と問われると、そう簡単ではない。まして、明治期、憲法によって皇帝(Japanese Emperor)となった天皇まで視野に収めるとなると、この当時はもちろん、現在でも、政治を離れた純粋に学問上の議論とするのがそもそも困難である。
 秀麿=鷗外に倣ってそれは棚上げにするとしても、神道について上述のように論じるだけでも難しいところがある。久米邦武が「神道ハ祭天の古俗」だと論じて事実上文化大学の教授職を追われたのは明治25年のことで、鷗外は当然知っていたろう。

 因みに久米論文は、内容そのものより、押し出しが少々過激だった。明治24年専門誌『史學會雜誌』に三回に分けて掲載されたものを、より一般的な『史海』に再録した際、同誌編集者の田口卯吉(鼎軒)が序をつけて、「若し彼等【=神道熱信家】にして【この論文について】尚ほ緘黙せば、余は彼等は全く閉口したるものと見做さゞるべからず」などと挑発したのだし、論文中にも「神道を學理にて論ずれば、國體を損ずと、憐れ墓なく謂(いう)者もあり。國體も皇室も、此(か)く薄弱なる朽索(きゅうさく。腐った縄の意)にて維持したりと思ふか」などと、尖った言い方がある。
 秀麿が古神道について書けば、内容は同じようなものになったろうが、「神道熱信家」と摩擦を起こす気はなかった。いや、他はともかく、敬愛する父を悲しませるに忍びないのだ、と彼は言う。そうならないためには、祖先崇拝の儀式は古俗であって差支えなく、自分も軽んじるつもりは毛頭ないことを示さなくてはならない。
 そこで、「かのようにの哲学」(Die Philosophie des Als Ob)。新カント派の哲学者として知られるハンス・ファイヒンガーがドイツでこの題名の書を出版したのは1911年、つまり明治44年で、鷗外はすぐに新刊を入手して読んだものらしい。秀麿はこれを援用して、日本古代史を叙する際の、自己の足場を築こうとする。その大略は、友人である画家の綾小路に、以下のように説明される(カッコ内は私の付け加えです)。
 曰く、「本当の事実」とは何か。例えば裁判での判決文がそうか。それが文としてまとめ上げられている以上は、必ず判事の主観を通ったものであって、事実そのものではない(だからこそ、役に立つ、即ち、価値がある)。逆に小説は、最初から事実ではないことは明らかだが、文として価値が認められる。神話もそうで、事実が基にあるかもしれないが、それは価値とは関わらない(だから、神話は事実ではないと言っても、その価値を貶めたことにはならない)。
 また曰く。幾何学で言う純粋な点や線は、自然界には存在しない。また、物理学で言う原子も、普通の意味で存在が確認されたものではない。しかし、それらが「ある」と考えなければ、これらの学問は発展しない(すると、文明も進展しない)。自由も、霊魂不滅も、義務も(いわゆる客観物としては)存在しない。しかし、あるとしなければ、宗教も倫理も成り立たない。さらに言えば、この世のすべては相対的で、絶対的なものはない(それをある「かのように」見なさなければ、社会自体が成立しない。さらに言えば、ないものをある「かのように」みなせる能力こそ、人間の特長である)。
 またまた曰く。例えば人間がサルから進化したというのは事実問題(というより科学問題)であって、それとして究明しなければならないが、どこまでいっても価値とは無関係。自分は事実(科学)とは別次元の理想を信じる。事実ではないからと言って貶め、否定して、価値を破壊しようとするのが危険思想なのだから、自分は危険思想の持ち主ではない。
 上の一番最後のがあるおかげで、これが書かれた動機は、「私は神話を歴史的な事実とは認めませんけれど、危険思想家ではありません」という弁解か、少し好意的に見ても、「学問をしている人間をいちいち目くじらをたてて取り締まる必要はありません」と山縣有朋たち政府の要路への建議だったのではないか、とも言われてきた。それは治者の見地と言ってよく、そう思ってこの論を見ると、いかにも、何やらケチ臭く思われてくる。作者自身もそう感じていたらしく、作中で、話を聞いた綾小路が、最初「意気地が無い」と評しているくらいだ。
 しかし、そこを離れることができたら、「かのようにの哲学」は、ごく穏当な、いわば常識論を述べただけのものだ、とも見えてこないだろうか。価値は科学的客観的に存在しているというよりは、畢竟人間の主観の問題である、と言っているだけなのだから。それは客観的な事物についても、我々は、あれやには価値あり、これやには価値なし、と言い暮らしている。しかし、どんな場合でも価値付けそのものは人間がやる。それは確かだろう。
 と言って、これで問題の片がつくわけはない。鷗外もそれを知っていたからこそ、エッセイではなく小説の形でこれを書いたのだ。作中で秀麿の主張は、二度にわたって疑問に付され、それにはなんの解決もつかずに終わっている。
 一つ目はドイツ留学中に秀麿がよこした手紙を読んで、父の五条子爵が不安を感じるところ。秀麿は自由主義神学者アドルフ・ハルナックの事績を褒め、神学という学問は、教育のおかげで素朴な信仰をなくした人が、宗教の必要性を認めるためにこそ必要なのだ、と書いていた。
 五条子爵家では、明治の初期、廃仏毀釈運動が盛んな折に、それまでの菩提寺と縁を切って、葬祭の儀は神官にのみ任せてきた。キリスト教とはもとより縁がなく、今の信仰の対象は祖先の神霊しかない。が、それをもちゃんと信じているのかというと、我ながらどうも怪しい、と父は考え始める。
 「祭をする度に、祭るに在(いま)すが如くすと云ふ論語の句が頭に浮ぶ。併しそれは祖先が存在してゐられるやうに思つて、お祭をしなくてはならないと云ふ意味で、自分を顧みて見るに、実際存在してゐられると思ふのではないらしい」。といって子爵は、息子のように本を読んで、信仰心はないが宗教の必要は認める、というのでもない。自分一個に限らず、世間一般が、「自分が信ぜない事を、信じてゐるらしく行つて、虚偽だと思つて疚(やま)しがりもせず、それを子供に教へて、子供の心理状態がどうならうと云ふことさへ考へてもみないのではあるまいか」。
 普通のまじめな人にこんな恐れを起こさせるだけでも、「かのようにの哲学」は危険思想と呼ばれるべき値打ちがあるのかも知れない。父はまた、秀麿がこの種の懐疑に取り憑かれて悩んでいるのではないかと思って、心配するのである。
 第二に、秀麿から前述の説明を聞いた綾小路。「駄目だ」と、ぴしゃりとやっつける。

人に君のやうな考になれと云つたつて、誰がなるものか。百姓はシの字を書いた三角の物を額へ当てゝ、先祖の幽霊が盆にのこのこ歩いて来ると思つてゐる。道学先生は義務の発電所のやうなものが、天の上かどこかにあつて、自分の教(をす)はつた師匠がその電気を取り続(つ)いで、自分に掛けてくれて、そのお蔭で自分が生涯ぴりぴりと動いてゐるやうに思つてゐる。みんな手応(てごたへ)のあるものを向うに見てゐるから、崇拝も出来れば、遵奉も出来るのだ。

 では、綾小路自身はどうなのだ、幽霊が存在すると思っているわけでもあるまいに、と問われると、そういうことはなるべく考えないようにしている、との答え。これが危険ではない、普通の人の行きかたと言ってよいだろう。だからといって、事柄自体の危険性が消えるわけではないが。

 少し細かく考えよう。
 点や線、原子などが自然界に存在するわけではなく、人間の観念の所産であることを指摘しても、かまいはしない。人間の道徳感情には関わらず、従って個人の自尊心にも、社会の権威・権力のレジティマシーにも関わらないからだ。
 「自由」については、民主主義社会を運営するうえで重要な約束事ではある。つまり、政治上の概念なのであって、実際上それ以外には問題にならない。別に、「自由とは何か」などと哲学的に問うことはできるが、そんなことに頭を悩ませる人のほうがずっと少数だろう。
 この後から危険領域に入る。「霊魂不滅」はない、と言えば、多くの宗教を実際上否定することになり、当然信者たちの感情を害する。いや、自分はそれとは別の次元で宗教を尊重しているのだ、と言っても、それはつまり何かの、たぶん社会の便宜のために、宗教を使うというのと変わらないのだから、宗教がもたらすと期待されている「絶対」の観念は傷つけられる。そう感じるであろう素朴な人々には、秀麿としても、「目潰に何か投げ附けるやうに笑」うしか手立てはなかった。
 「義務」は、個々人にある行為を強制する度合いが強いので、しばしば厄介の種になる。「自由」と同じように、人間社会を成り立たせるためには必須の観念である(他人の自由はできるだけ尊重するべき、など)、という段階なら、特に問題はない。しかし、ひとたび集団全体としての「よりよい生き方」が求められると、「より高い義務」の観念が生まれる。それは当然、「より低い義務」の観念をも招来する。例えば、ある宗教や国家を守るためなら、個人の生活や、命まで、犠牲にするのが当然のように語られたりする。これはそのまま、前者は本当に、そんな犠牲に値するほどの価値なのか、と問われる契機になる。
 現に、宗教や国家の価値は、歴史上絶えず疑われ、時に変更されてきた。
 五条子爵家が実践した廃仏毀釈は、仏教否定に他ならない。その動機は、天皇中心の神道を改めて宗教にしようとした場合、他宗教は「邪教」としなければまずいだろうという、わりあいと西洋的な思いにある。これに対して、神道は古俗、つまり古くからある習俗であって、宗教ではないのだから、日本史上仏教や儒教ともうまく両立してやってこれた、新時代だからと言ってそれを変える必要はない、と主張したのが前記久米論文だった。それでは、日本古来の道やら天皇家を軽んじる結果になると、ある人々の目からは見えるのは、全く当然でしかない。
 事実問題からすると、仏教が日本から消えることはなかった。日本では、宗教を含めた純粋に思想上の対立が、大きな、激しい葛藤を引き起こすことはあまりない。その意味では久米邦武は正しかったようだ。
 一方、実際の統治機構である幕府は消滅して、二度と復活することはなかった。そのための手段として、武家は朝廷の委託で政務に当たるのだという古来からの形式論が、目いっぱい強調された。朝廷の権威(この場合は、価値あるものと公に認められること)が上がれば、それに反比例して幕府の権威は下がる。このシーソーゲームを最大限活用したのが山縣有朋たち、維新の志士だったのであって、彼らは自然に、権威・価値とは相対的なものであることを会得していたのではないかと思う。
 で、あればこそ、ますます、明治の統治機構の正当性も権威も相対的だ、と明らさまに言われるようなことには、神経質にならざるを得なかったであろう。
 もっとも、鷗外の長男森於菟の証言によると、「神様といふものは科学的に言へばないけれども、あるもののやうに考へなければいけない」、と鷗外が言うのを聞いて、山縣は、「こいつは何でも出来る人間だが危険な人物ではないと」気を許すようになったとのこと(安川民男「『かのやうに』を巡って」より孫引き)。事実とすれば、山縣は、今日普通に思われているよりも柔軟な人物だったのかも知れない。

 尚また考えるべきことがある。革命のような大きなモメントはなくても、権威の相対性は自然に現れてくる。典型的には、儀式や、儀式的なものの形骸化を通して。五条子爵を不安にするのはこれであって、むしろよりやっかいかも知れない。
 論語で、「祭るに在すが如くす」(八佾篇第三)と孔子が言うのは、祭るべき神霊は「実際は、この場には、いない」ことが前提になっているので、むしろ「かのようにの哲学」に近い。現に秀麿もこの言葉を、自説の補強として援用している。
 ただ、孔子が秀麿と違うのは、知的に必要性を理解する、というのではなく、儀式の実践(むしろ、実践をなぞった行為)によって、ないものを「在る」かのように意識せしめる人間の、身体ぐるみの「在り方」を問題にしているところだろう。思うに、神霊に対するこのような実践倫理を、生きる人間同士にまで拡張しようとしたのが、孔子の「礼」だったのではないだろうか。
 それは目に見える形としての礼法を要する。ところが、形は、長い間には風化を免れ得ない。儀式は簡略化され、意義は忘れられ、無意味ではないか、と意識されるようなものになる。近代に限ったことではない。孔子にしてからが、弟子の宰我に、「父母が亡くなってから三年の喪に服するというのは長すぎます。一年でいいのではありませんか」と言われ、嘆いている(陽貨篇第十七)。人の心は移ろいやすいからこそ、それを支える形が必要とされるのだが、形を支える人間の心が失われれば、すべては崩れてしまう。
 森鷗外は夏目漱石と同様、明治という日本近代化の初端を生きた人である。自分が身につけた古い時代の権威・価値観が急速に崩れていくのを目の当たりにする思いはあった。新たな、西洋風の価値観を知れば知るほど、その思いは強くなったろう。後には、同時代を、「(旧来の)禮は皆滅び盡して、これに代るものは成立してをらぬ」(「禮儀小言」大正7年)と評している。
 ここでは鷗外は、自ら認める「保守派」の例に似ず、古い形式の墨守や復活を退け、「新なる形式を求め得て、意義の根本を確保する」ことを唱えている。今の世にもその任に当たるべき人は多いのだ、と彼は言う。そうだとしても、それは正に孔子のような、思想家兼実践家の仕事であろう。言葉の専門家としての文学者には、何ができるのだろうか。

 「かのやうに」はあまりスッキリした読後感が残る小説ではない。問題を提出して、なんの解決も示唆しないのは、別にかまわないと思う。最大の欠点は、四条子爵家の父子関係がキモであるはずなのに、それがすれ違いで終わっている、いや、より正確には、すれ違うだろうという予想で終わって、いかなる意味でも正面から対峙することがなかったところにある。
 四条子爵のモデルは、従来から言われてきた山縣より、むしろ乃木希典の面影が濃いのではないか、と『鷗外選集』の「解説」で小堀桂一郎が言っている。いかにも、彼は治世の観点から近代西洋的な思想に不安を感じていたわけではない。それなら、「かのようにの哲学」に理解を示すことができたであろう。そうではなく、自分一個の拠って立つ地盤のためにと考えた場合には、この哲学は何も確かなものをもたらさない。だいたいが、確かなものなど何もない、という明らかな宣言なのである。一個人としては、真空状態に耐えろ、と言われていることになり、いやあもう……、「そんなことはあまり深く考えない」以外に、普通人には扱いようがない。
 以上は綾小路によって明確に指摘される。それがこの小説のヤマである。やっぱり、どうしても、盛り上がりには欠けますなあ。
 それもこれも、主人公の秀麿が口だけの人間に終始しているからだ。解決不能な矛盾を抱えつつ生きる人間の行動を描いたほうが、文学としての良し悪しはともかく、印象が強くなるのは確かであろう。
 
 その機会は同じ年のうちに訪れた。
 七月、明治帝が崩御され、大正と年号が変わった九月に、親交のあった乃木希典が殉死した。その「遺言条々」には「明治十年之役に於て軍旗を失ひ其後死處得度心掛候も其機を得ず」云々とある。西南の役に連隊を率いて出撃、その際連隊旗を西郷軍に奪われた。官軍の実質的な総責任者だった山縣に、厳しい処分を自ら求めたが、不問に付された。その後ずっと死処を求めて得られず、このたびの御大変に逢着して、老齢にしてもはやお役に立つべき機もなしとの思いもあって、お後を追うことにした、という。
 この事件後ただちに鷗外は、「興津弥五右衛門の遺書」を執筆し、『中央公論』に寄稿した。題材は、細川三斎(忠興)に仕えた武士の殉死の顛末で、天明・寛政期に執筆された神澤貞幹の随筆集「翁草」に見える。この武士、興津弥五右衛門は、同僚(相役)を殺害したことで、主君に自裁を申し出たが、主命を果たそうとした上でのことだからと取り上げられず、三斎の十三回忌(原作では三回忌だが、それでは計算に合わないとして、鷗外はこのようにした)に、「【今は】心に懸かり侯事毫末(ごうまつ)も無之(これなく)、只々老病にて相果候が残念に有之(これあり)」と、改めて自害した。
 いかにも、乃木の事績に似ている。「興津弥五右衛門の遺書」の初稿は、乃木の誠忠を江戸時代初期の武士のそれとオーバーラップすることで、合理・不合理とは別の出処進退の美しさを炙り出し、もって彼の弁護論としようとしたものだろう。一年後の改稿では、同じく主人公の遺書中の述懐ではあっても、より淡々と綴られており、例えば上の引用文は削除されている。
 鷗外の創意は、弥五右衛門が相役を殺すに至った経過、その折の争論に一番多く注がれており、またこの部分は改稿の際もほとんどそのまま残されている。ただし、横田清兵衛という相役の名は、改稿で初めて明らかにされた。
 ことの顛末はこうである。細川忠興が剃髪して三斎と号してから三年目、茶事に用いる珍品を買い求めるようにと、興津と横田とを長崎に出張させる。ちょうど伽羅の大木が届いていて、それは本木と末木(うらき。梢の部分)に分かれていた。興津たちと同時に、伊達政宗の家来も本木を欲しがり、競り合ったので、値段は次第にせり上がっていった。
 このとき、「本木はもうあきらめて、末木のほうを贖って帰ろう」と言う相役と争いが生じ、興津は彼を討ち果たすに至った。ここまでは「翁草」にある。以下に鷗外の手になる議論を、ただ引用するのも芸がないので、戯曲形式にして、また難しくも何ともない文語を口語訳して、掲げる。

横田 たとえ主命であっても、香木は無用の愛玩物である。法外な大金を投げ出すべきではない。つまりは本木は伊達家に譲り、末木を買い求めたい。
興津 私はそうは思いません。主君のお申し付けは、珍しい品を買い求めて来いということで、現在の渡来品の中で随一の珍品はあの伽羅です。その木に本と末(うら)があるなら、本木のほうが逸品中の逸品であるのは当然のこと、それを手に入れてこそ主命を果たすことになるでしょう。伊達家の伊達(お洒落の意味の伊達)を増長させ、本木を譲ったりしては、細川家の面目を傷つけることになりましょう。
横田 それは力の入れどころが違う。国や城の争奪戦ならば、あくまで伊達家に対抗するのもよかろう。たかが四畳半の炉にくべる木ぎれではないか。そのために大金を捨てるなど、思いもよらない。主君がご自身で競り合うなら、臣下として諫言してお止めすべきことだ。たとえ主君が強いて本木を手に入れたいと思し召されたとしても、それを遂げさせるのは、阿諛追従の行いである。
興津 それはいかにも賢人の言葉のようです。しかしながら私はただ主命というものが大切なので、主君があの城を落とせと仰せになれば、鉄壁の守りと雖も分捕り、あの首を取れとの仰せであれば、相手が鬼神であっても討ち果たすべきであるのと同じく、珍しい品を求めてこいとの仰せであれば、最上の名品を求めるつもりです。主命である以上は、人道に悖(もと)る事は別として、そうでなければ、事柄に立入って批判がましいことを言うのは無用です。
横田 あなたもその通り、道に背くことはしないと言うではないか。これが武具などならば、大金に代えるのも惜しくないだろう。香木に不相応な対価を出そうとするのは、若輩者の心得違いだ。
興津 (前略)御当家に於かれましては、代々武道を深く心掛けていらっしゃり、かつまた、歌道茶事までもご堪能であらせられるのが、天下に比類のないところではないですか。茶の道は無用な虚礼だと言えば、国家の大礼も、先祖の祭祀もすべて虚礼です。我々がこの度命じられたのは茶の道に役立つ珍品を求めることの他にはありません。それが主命であれば、命を懸けても果たすしかなく、あなたが香木に大金を出すことはつまらないと言われるのは、その道のお心得がないために、一途にそう思われるのではないですか。

 これで横田が「いかにも某は茶事の心得なし、一徹なる武辺者なり、諸藝に堪能なるお手前の表藝を見たし」と言って脇差を投げつけたので、刀を抜いて切り合いとなり、興津は一打ちに彼を斬り捨てたのだった。この裁きについて、三斎の言葉として、興津は正しい、なぜなら「総て功利の念を以て物を視候はば、世の中に尊き物は無くなるべし」とあるのも、鷗外の創作である。
 多言は不要であろう。功利、というか、価値の大小を過度に論えば、世の中に価値あるものなどない、という結論に至るだろうと言う。そこは「かのようにの哲学」が援用されていると見てよい。
 ただこの論理も過度に渡らぬようにすべきだろう。例えば、「主命は(ほぼ)絶対」の思いがなければ、人は何もなし得ない。そして、生きる以上、何もなさずにいることは、人にはできないことなのである。
 乃木の殉死は、鷗外にも、漱石にも衝撃を与えた。明治末でもまだ、君恩を第一として生きそして死ぬ行き方が現に存在したとは、という思い。ここから、江藤淳のように、二人の文豪が、国家への誠忠に転じた、とまで見るのは行き過ぎであると思う。そこからさらに悪ノリして、忠義を知る武士は、また大日本帝国の臣民は、かくあるべし、などと説教すれば、それは「かのようにの哲学」と同次元の、単なる理屈になってしまう。
 鷗外は、この小説では論ぜず、ただ描いた。鮮烈な生き方があり、それに感動する人の心があることこそ、人倫の基礎たるべきものだろう。
 それでも、忠義を旨とするような人の心のほうは、一般的に次第に失われるのもまた確かであった。文学は、それへの哀惜の念も含む。そこでは鷗外は漱石と共通していた。すべては移ろいゆく。その根本部分について、鷗外は漱石より深い諦観に達していた。しかし一方、古きものが急速に失われつつある明治期にあって、人はいかに倫理的な生き方が可能なのか、不器用に問い続けるような道は、賢明過ぎる彼の採るところではなかった。
 というところで、漱石に戻りましょう。
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文芸はいかに道徳的であるべきか その3(品下る時代に)

2016年10月28日 | 文学
メインテキスト:夏目漱石「文學論・序」(原著は明治40年刊。『夏目漱石全集 第十一巻』岩波書店昭和3年より引用。本文中では「序」と表記します)

佐久間艇長の遺書

 漱石夏目金之助は慶応3年の生まれである。翌4年は明治元年となるので、彼の歳を今風に満で数えると、明治の年と重なる。この暗合は、皮肉にも感じられる。漱石にはいかにも、明治という時代の刻印が押されているようであるが、それは全く彼独自の、彼以外には見当たらない刻印のようでもあるので。
 すべては英文学を専攻したときから始まったと思しい。
 少年の頃は英語嫌いで、ほとんど勉強したことはない。その代わり漢詩文に心を寄せ、漢詩の創作は晩年にまで及んでいる。特に後年のものは、さしあたって誰に見せるつもりもなく、謂わば純然たる趣味だったが、その出来栄えは「明治以後の日本人で、本場の中国人に見せても恥ずかしくない漢詩を書いたのは、夏目漱石先生ただ一人」と吉川幸次郎に言わしめるほどのものだった。
 しかしやはり帝大を目指す、となれば英語は必要なので、勉強し直して、東京大学予備門(漱石の在学中に第一高等中学校と改称される)を終える頃までには抜群の成績を勝ち得るまでになった。大学ではその頃できたばかりの英文科の、ただ一人の学生となったのは、漢文学も英文学も同じ文学であれば、通ずるところはあるはず、ならばその研究に一生を捧げてもあながちに悔ゆることなかるべし、と考えたからだと言う。
 大学生活は、個別授業で発音を矯正されたり英作文を直されたりしながら、ワーズワースの生没年はいつかとかシェイクスピアのフォリオ(初期の全集本)はいくつあるかのと言った「英文学」を習うのに費やされた。卒業後は旧制松山中学で一年、次に旧制第五(熊本)高等学校で英語を教える。後者に赴任して足かけ五年目を迎えた6月に、文部省より「英語研究のため滿二年間英國へ留学を命ず」旨の辞令を受け取る。

私はその時留学を斷らうかと思ひました。それは私のやうなものが、何の目的ももたずに、外國へ行つたからと云つて、別に國家のために役に立つ譯もなからうと考へたからです。しかるに文部省の内意を取次でくれた教頭が、それは先方の見込みなのだから、君の方で自分を評價する必要はない、ともかくも行つた方が好からうと云ふので、私も絶對に反抗する理由もないから、命令通り英國へ行きました。しかし果たせるかな何もする事がないのです。

 上記はずっと後年(大正3年)の講演録「私の個人主義」中の言葉。「序」では、当時文部省の学務局長だった上田萬年にわざわざ委細を訊きに行ったことが記されている。「何の目的ももたず」と言っても、大日本帝国が課した目標ははっきりしている。今もそうだが、当時の日本ならなおのこと、英語力(いわゆる実用英語で)のある者は是非必要だった。ただし、どこでどのように学ぶか、具体的な指示はなかった。上田の答えも「別段窮屈なる束縛を設くの必要を認めず」で、ならば英文学をやってもかまわないのだ、と考えて英国に赴く。
 そのイギリスで、彼は二度の挫折を経験しなければならなかった。
 第一に、学問の府として日本でも名高いケンブリッジで学生生活を送ることは、早々にあきらめた。かの地の学生はほとんどが貴顕紳士のお坊ちゃんで、午前中一、二時間講義に出て、午後はスポーツを二時間ほど嗜み、お茶の時間には相互を訪問し、夕にはカレッジで会食する。これが大英帝国のジェントルマンたるの資格を得るのに必要な生活である。日本人でも富豪の子弟で遊学しているならともかく、文部省から出るわずかな費用で下宿代から書籍代から講義受講費用まで出さねばならない身としては、そんなことはとてもできない。
 それに年齢的にも、満三十三歳になっていた。英国紳士は人としてまことに立派な模範なのかも知れないが、自分のような「東洋流に靑年の時期を經過せるもの」が、年少の英国人から一挙一動から学ぼうとしても、「骨格の出來上りたる大人が急に角兵衛獅子の巧妙なる技術を學ばんとあせるが如く」、三度の食事を二度にするほどの苦労をしてもついに不可能であろう。オックスフォードもケンブリッジと似たようなものであろうから行かず、語学修行にはロンドンがよかろう信じて、ここに笈を下ろす。
 次に、英文学については、ロンドン大学の一般聴講者を相手にした講義は三、四か月でやめ、学者の私宅での個人授業(当時は大学教授がアルバイトでやることがあったらしい)は週一回、一年ほど続けたが、これも時間と金の無駄、その分本を買い込んで読んだ方がいい、という結論に達して、二年の留学生活の後の一年は、下宿に立て籠もってひたすら読書に耽る生活を送った。
 それ自体は挫折ではない。これより先、今まで読んだ英文学と、これから読まなくてはならない本の数を比較したところ、未読文献が圧倒的に多いのにうちのめされる。これでは英文学の研究も畢竟ものにならない、と思い知らされた。
 ここから、重大な転機が訪れる。以前から漠然と感じていたことではあったが、英文学を読んでも、漢文学の時のような快を得ることはできない。どうも、同じ文学であっても、この二つはまるで別物であるらしい。「なんとなく英文學に欺かれたるが如き不安の念」が、ここへ来て強くなった。
 ならば、英文学を捨てて漢文学にもどり、勉強を再開しようとしても、国の金でロンドンまで来てしまった以上、そんなことはできない。明治の男として、その程度の「臣道」は自然に身についていた。
 ここで漱石は全くの窮地に陥った。脱するためには、大きく飛躍するしかない。「この時私は始めて文學とはどんなものであるか、その槪念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救ふ途はないのだと悟つたのです」(「私の個人主義」)。そこで英国留学の残り一年は、英文学関係の本はしまい込んで、心理学や哲学を研究して過ごした。

余は心理的に文學は如何なる必要あつて、此世に生れ、發達し、頽癈するかを極めんと誓へり。余は社會的に文學は如何なる必要あつて、存在し、隆興し、衰滅するかを究めんと誓へり。

 区区たる各国文学の別などを超えて、根本的に、文学とは心理的・社会的になんであるのか、究めようというのである。その志や壮、に過ぎて、いささか誇大妄想の気味がある、とも見えるであろう。その試みの、不十分と自認する成果として示された『文學論』の内容についてはここで云々するつもりはない。ただこの決意は、中年にさしかかった漱石が、自己の進むべき・生きるべき道を必死で求めるうちに生じたものだ、ということは覚えておくべきだろう。
 しかし、幸か不幸か、というよりやっぱり、幸運なことに、だろう、漱石と文学の関わりは帰国後さらに変化する。「序」の終わり近くにはこうある。

 英國人は余を目して神經衰弱と云へり。ある日本人は書を本國に致して余を狂氣なりと云へる由。賢明なる人々の言ふ所には僞りなかるべし。たヾ不敏にして、是等の人々に對して感謝の意を表する能はざるを遺憾とするのみ。
 歸朝後の余も依然として神經衰弱にして兼狂人のよしなり。親戚のものすら、之を是認する以上は本人たる余の辦解を費やす餘地なきを知る。たヾ神經衰弱にして狂人なるが爲、「猫」を草し「漾虛集」を出し、又「鶉籠」を公にするを得たりと思へば、余は此神經衰弱と狂氣とに對して深く感謝の意を表するの至當なるを信ず。


 なんとも過激だが、文学研究者から創作家へと転換するという、ひねくれた宣言とみなすこともできる。言われているように、前年からこの年にかけて、漱石は長編『吾輩は猫である(三巻)』と短編集『漾虛集』に加えて、「坊ちやん」「草枕」「二百十日」の三中編を収録した『鶉籠』を上梓した。そしてこの明治40年には、年に二度、百回ほどの小説を執筆・掲載することを条件に、教壇を去って朝日新聞社に入社している。
 「文学とは何か」を論理的に詰めようとするより、広く愛読される文学作品の創造を目指すほうがまともだし、実りも多い。普通にはそう考えられるだろう。もちろん、それができるだけの才能があればの話なのだが。

 作家・夏目漱石の才能はどのようなものであったか。神経衰弱、というキーワードにはやはり注目される。最近はトランプのゲーム名以外には聞かなくなった言葉で、今ならノイローゼというところだろうか。いい加減なことを言うなあと思われるかも知ないが、漱石が精神科の医者にかかって、正式な診断名がついたわけではない(そうだとしても、それ自体がいいかげんなもんだと私は思っている)。後代のその種の評は、ほとんどが鏡子夫人の「漱石の思ひ出」など、余人の回想録に基づいている。
 ここから明らかに言い得るのは、漱石は周囲と摩擦を生じやすい性格だったことぐらいである。周囲とは、人間だけでなく、社会や時代状況全般にまで及ぶ。その上で、そんな自分と周囲とを突き放して眺めることができる知性があり、さらにその眺めたところを毒のあるユーモアを交えて描くことができる嗜好と表現力があった。
 これらが遺憾なく発揮されているのは、処女作にして最長の「吾輩は猫である」に止めを刺す。私が年来愛好してやまない作品である。次は「坊ちやん」、さらにその次は「草枕」が好き、と言えば同意してくれる人が多そうだ。この路線をもっと続けてくれたら、と思わずにはいられない。そうならなかった理由の一つは、日本近代化の先兵として、近代人の心理に基づく本格的な近代小説を確立する使命を感じていたからでもあろうか。
 しかし、そこにもまた、容易には解決し難い問題があった。大別すれば以下の二つ。
(1)「東洋流に靑年の時期を經過」した漱石の、精神のバックボーンを形成した最大のものは、漢文学であったことは前述の通りだが、中でも「文學とは斯くの如き者なりとの定義を漠然と冥々(あんあん)裏に」与えられたのは「左國史漢」からであったと「序」にある。漢代の古典「春秋左氏傳」「國語」「史記」「漢書」の総称で、日本でも漢文のお手本とされた。すべて史書であり、国と仕太夫(したいふ。支那の貴族階級、でよいと思う)の、主に功業を述べるものであって、私人の日常茶飯事など完全に度外視されている。これと、たとえ身分は低くても教養はある人士のものした詩文が、青年期の漱石を魅惑し、影響を与えたものだった。支那にも「金瓶梅」のような軟文学はあるが、それらにはほとんど興味を向けなかったようだ。
 日本の古典はと言うと、高等中学校時代の親友正岡子規から俳諧の世界に導かれ、俳句もものしてはいるが、それ以外への関心はどうだったろう。馬琴など、江戸時代の戯作には言及があり、また大学生時分には英国人教授の依頼で「方丈記」の英訳をしているぐらいだから、無関心だったはずはない。しかし例えば平安朝の、「源氏物語」や日記文学など、読んだかどうかも定かではない。だいたい、子規にしてからが、「万葉集」の直截簡明を尊び、「古今集」「新古今集」の婉曲優美は技巧の過ぎたものとして斥けた人だった。
 これらを要するに、夏目漱石とは、書籍から、大丈夫たる男子の本懐・理想を、というより、そういうものを抱いて生きて死ぬ美しさを第一に伝えられた人物なのである。これが前回述べた「文藝の哲学的基礎」の、「荘厳の理想」に直接結びつくのは明らかであろう。
 生まれから言うと、夏目家は代々続いた名主(なぬし)で、名家ではあったが、武家ではなかった。その上、維新後没落したので、幼い頃れっきとした町家に養子に出されている。それでもこのような心性を得たのは、むしろ身分制度が撤廃されたために、上流の理想が下へと、少なくとも建前としては、及んだ結果であろう。
 以下は「荘厳の理想」の具体例。
 明治43年、海軍の潜水艇が事故で沈没して、艇長佐久間勉以下十四名全員が死亡する事件があった。後に艇が引き揚げられると、乗組員は最後まで持ち場を離れず修復に努めていたことがわかり、そのうえ佐久間は死の直前まで長文の遺書を認めていた。これが発表されるや大きな反響を呼び、彼らの「沈勇」は長く修身の教科書などで取り上げられた。
 この時漱石は入院していたが、写真版で佐久間の遺書を見て、『朝日新聞』に「文藝とヒロイツク」なる一文を載せた。
 「余は近時潜航艇中に死せる佐久間艇長の遺書を讀んで、此ヒロイツクなる文字の、我等と時を同くする日本の軍人によつて、器械的の社会の中に赫(かく)として一時に燃焼せられたるを喜ぶものである」。ここから漱石は自然主義文学の理念を批判する。なるほど、大体において現実は味気なく人間は浅ましい。しかし、それのみが世界の実相であり、それ以外は虚偽だと信ずるとしたら、狭すぎる。現にかかる行為があり、その事績を知って多くの人の胸中に賛嘆の念が湧くことが、人の世に理想は僅かであっても確かに在ることの何よりの証拠ではないか、と。
 前回の、近代西洋文芸への酷評もこれから出てくる。それにしても、あんなことでは、英文学を読むのもさぞかし苦痛だったろうになあ、と改めて感じる。
 ただし、このような理想は東洋のみのものだ、と言うには当たらない。「文藝の哲学的基礎」中でも、「荘厳の理想」はheroismとも言い換えられてもいるし、佐久間艇長の行為と遺文は「ヒロイツク」と言われるくらいだから。そこで、
(2)問題は近代なのである。以下、明治44年に行われた、二つの講演録に基づいて略述すると、
①近代自体を呪っても仕方ない。人間の智識が進めば、「人間は完全なものでない、初めは無論、いつまで行っても不純であると、事実の観察に本(もと)づいた主義」(「文藝と道徳」)のようなものが出てくるのは、それこそ自然である。
②それはそれとして、日本の近代化にはまた特有の問題があった。曰く、西洋の近代は「内発的」だが、日本のは「外発的」だ(「現代日本の開化」)。
 後者の評言はわりあいと有名だし、私も昔は直ちに納得したのだが、今はどうかな、と思うところがある。18世紀の産業革命や19世紀の内燃機関の発明・発展などに依る西洋近代文明の成立は、社会や人々の「内側」から「自然」に湧き出てきたものと言えるかどうか。比喩的な言い方であることはもちろんだが、比喩としてもどれほど適切だろうか。
 西洋であっても、例えば、火薬を発明した人も、火薬を使った技術を発明した人も、ごく少数だったはずだ。発明以前にそういうものがほしいと願っていた人間など、どれくらいいたろうか。現に発明され、その有用性と、危険を制御する方法(100パーセント危険がなくなるわけではないが)が少しづつ知られるようになって、何しろ使えば確かに便利なのだから、少しづつ社会に広まったのだろう。
 もちろん、変化が「少しづつ」だったか急激にだったかは、大きな違いである。漱石もちゃんとそう言っている。そちらが肝心なので、余計なレトリックは気にかけなくてもよい。人々の意識が追いつく前に、近代化はどんどん進む、そのために、日本人は、漱石の言葉では「上滑り」、福田恆存言うところの「適應異常」、の状態に陥ってしまった、というのは適切であろう。夏目漱石は、これをいち早く指摘した人だった。
 ではどうすればいいか。今の世界で外国と交際しないわけにはいかない。外国の中でも西洋と交際すれば、何しろ向こうのほうが強いのだから、向こうに合わせなければならない。早い話が、英語を一所懸命学んで、あちらの文物を移入しなければならない。すると、過去の自分をいくらかは否定しなければならないようなので、そこで不安に陥る。
 だからと言って、西洋に対して日本の優位をしゃにむに言い立てるなんてのも馬鹿げている。過剰な反発も、過剰適応と同じく、適応異常の現れなのである。

外國人に対して乃公(おれ)の國には富士山があるといふやうな馬鹿は今日はあまり云はないやうだが、戰争【日露戦争】以後一等國になつたんだといふ高慢な聲は随所に聞くやうである。なかなか氣樂な見方をすればできるものだと思ひます。ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前申した通り私には名案も何もない。ただできるだけ神經衰弱に罹(かか)らない程度にをいて、内發的に變化して行くが好からうといふやうな體裁の好いことを言ふよりほかに仕方がない。(「現代日本の開化」)

 「私は明治維新のちようど前の年に生れた人間でありますから、今日この聽衆諸君の中に御見えになる若い方とは違つて、どつちかといふと中途半端の教育を受けた海陸両棲動物のやうな怪しげなものであります」と、「文藝と道徳」では言っている。「理想」が失われつつある現状を怜悧に観察しながら、失われつつあることへの悲憤も捨てない、捨てられない。この「両棲動物」ぶりは今日の我々には想像もつかないほどの強い精神的緊張をもたらしたろう。
 小説のテーマとしてはそれは、「人は如何に生きるべきか」の形をとる。漱石作品が我々にとって、ちょっと見よりは難解なのはそのせいである。一応のことしか言えそうにないが、一応のことは言ってみたい。
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