由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

舞姫・明治の国際恋愛

2024年07月31日 | 文学


メインテキスト:六草いちか『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』(講談社平成21年、河出文庫令和2年)
        同『それからのエリス いま明らかになる鷗外「舞姫」の面影』(講談社平成25年)
林尚孝『森鴎外と舞姫事件研究』(公開開始平成26年)

 鷗外森林太郎の小説家としてのデビュー作「舞姫」には基になった事実があることはよく知られている。何より、ドイツから日本まではるばる林太郎を訪ねてきた女性に、彼の親族や友人数名が会っている。しかし二人の関係の詳細は、ほとんどわかっていない。それでも、何しろ我が国近代文学史上屈指の大作家の、しかも、当時は非常に珍しかった国際的な、情痴沙汰ではない、恋愛沙汰である。いろいろな空想を働かせる余地が大きいところも相俟って、現在まで多くの考察の対象となってきた。
 この女性の名前はエリーゼ・ヴィーゲルト(Elise Wiegert)であることは、中川浩一・沢護両氏が明治21年の週刊英字紙『ザ・ジャパン・ウィークリー・メール』に掲載されていた横浜港出入港者名簿から発見して、『朝日新聞』昭和56(1981)年5月26日夕刊に発表していた。
 その後ドイツ在住の作家・六草いちか氏が古い住民票や教会の教会簿を精査し、多くのことを明らかにした。何しろエリーゼの妹の孫と面談するところまでいったのだから、大したものだ。林太郎との関わり合いについては依然としてほとんどわからないままだとはいえ、19世紀末に森林太郎に出会い、特別な間柄になったこのドイツ人女性について、これ以上の情報は今後もおいそれと出てこないだろう。
 私は鷗外という人については、好き嫌いを言えば好きになれないものを感じているが、以前に少し述べたように、近代日本初頭の知識人として、西洋思潮とまともに対峙した人物の一人であることは認めざるを得ない。彼の青年時代の、国境を越えた恋物語はどういうものだったか、それは小説「舞姫」以上に意味深い可能性がある。週刊誌的な、俗な興味もあることは否定しないが、それを交えつつ、この間の彼の心事に思いを馳せてみよう。
 資料、というよりは想像のガイドとしては、前記六草氏の著作とともに、茨城大学農学部の名誉教授で独自にこの問題に取り組み、令和2年に逝去なされた林尚武氏の考察がネット上に出ているので、ありがたく使わせていただく。

 彼女のフルネームはエリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト(Elise Marie Caroline Wiegert)で、1866年9月15日、現在はポーランド領であるシュチェチンで生まれた。因みにこの地名は、「舞姫」中に、主人公・太田豊太郎と添い遂げようとするエリスの決心の堅さを見て、強欲な母親がついに折れ、「わが東に往かん日には、ステツチンわたりの農家に、遠き縁者あるに、身を寄せんとぞいふなる」というところで一度だけ出てくる。現実のヴィーゲルト家の、縁者もいただろう。あるいはエリーゼは実際、林太郎にこのようなことを言ったのかも知れない。
 ただ、エリーゼの誕生時、彼女の父は既に軍役を終えてベルリンで銀行員として勤務しており、彼女も洗礼が終わるとただちにベルリンへ移った。15歳のときに父が死亡。その後は母が、仕立屋をして女手ひとつでエリーゼとその妹を育てた(「仕立物師」は「舞姫」ではエリスの父の職業になっている)。
 一方林太郎は明治17(1884)年に陸軍派遣留学生としてドイツに到着、ライプツィッヒ→ドレスデン→ミュンヘンでの研究と仕事を経て、明治20年から1年3ヶ月の間ベルリンに滞在した。
 彼とエリーゼの出会いはどのようなものであったかはわからない。林尚孝氏は、林太郎の「獨逸日記」中にある、ミュンヘンで漢詩を贈った「舞師某」、つまりダンスの先生某(なにがし)こそ彼女ではないか、と推測している。それなら「舞姫」と平仄が合うわけだが、その可能性は低い。後年の彼女の職業からして、母親の仕事を手伝っていた、といったところではないだろうか。ほぼ確かなのは、彼らの交流の場は主としてベルリンだったろう、ということぐらいである。

 明治21(1888)年9月8日、林太郎は帰国する。その4日後の12日、エリーゼが横浜に着く。この年、林太郎二十六歳、エリーゼ二十一歳。
 従来、エリーゼが一方的に林太郎を追って来日したのだ、と思われていたが、それは違う。林太郎がベルリンを去ってロンドンやパリで三週間過ごした後、上司である石黒忠悳(いしぐろ ただのり)といっしょにマルセイ港を発ったのは7月29日、エリーゼはその4日前にドイツのブレーメン港を出航している。しかも一等船室の乗客として。
 その船賃は1750マルク。これは林太郎のライプツィッヒ滞在費用の17ヶ月分に相当するそうで、庶民の、母子家庭の娘がおいそれと出せる額ではない、ここから、エリーゼは富裕な家の令嬢であるとか、逆に高級娼婦だったという説も出てきた。しかし、六草氏はこれは林太郎が支払ったのだろうと推察している。官費留学生の身分ではあったが、彼はその頃から欧文の翻訳を多数依頼されており、その謝礼金を貯めればかなりのものになったろうから、と。
 果たしてそうなら、エリーゼ来日の目的は一つしか考えられない。林太郎と結婚するためだ。そしてそれは、林太郎の望みでもあったはずだ。
 それは実現しなかった。それどころか、エリーゼが翌10月17日に離日すると、林太郎はさらに1ヶ月後の11月22日、赤松則良男爵の長女登志子と結納を交わし、正式に婚約している。これはどういうことか。この不思議さが、林尚孝氏らのいわゆる「舞姫事件」の核心であり、また鷗外森林太郎の人物像を観ようとする者に深い陰影を感じさせずにはいられない要素である。

 まず、赤松登志子との縁談について、わかっていることをやや細かく述べる。
 この斡旋をし、後に媒酌人を務めたのは、旧幕臣で当時の政府要人であり、また森家の遠縁で恩人と言ってよい西周(にし あまね)だった。彼が遺した日記は、手書き文字の解読に手間取ったこともあり、この件に関する一級資料である箇所が翻刻されたのは平成10年になってからだった。その、明治21年9月10日の条には次のようにある。
舛子、午後、千住〈の〉森氏を訪ひ、林太郎の帰京を賀し、且赤松との縁談を申し込む。彼方よりの返答を申置く」(舛子は西夫人。〈 〉内は由紀の付け加え)
 林太郎帰国の2日後、エリーゼ来日の3日前という絶妙な時期に、赤松登志子との縁談申し込みがなされた、ということだ。しかしこれは正式な、という意味であって、雑談風の打診なら以前からされていた可能性がある。
 さらに『西周日記』の9月18日には「森ばゞ来り婚約の返辭を述ぶ」とある。初めて話をもちかけてから8日後に返事では、いくら当時でも早すぎる。さらに、この「ばゞ」の部分は最初「林太郎」だと解読され、彼自身が婚約を承諾した、と取られていた。エリーゼはまだ日本にいるにもかかわらず。それならば、林太郎は、本心ではエリーゼとの結婚など望んでいなかったということだろう。しかし実際は、返事をしたのは彼の祖母だった。本人はどうだったのか?
 林太郎の妹・小金井喜美子(星新一の祖母)が書いた「次ぎの兄」という回想記に、この件について、家人が「ただ本人の気持に任せて置きます」と返事をすると、直接に林太郎に尋ね、こちらはまた「両親の気持次第に」と答えた、とある。
 尋ねたのは西家だろう。それが10日以前なら、まだ林太郎の滞欧中に、手紙でしたこと、ということになる。果たしてそうなら、エリーゼを呼び寄せたのは、家族を初め周囲に意中の人を見せつけて、赤松家との話はきっぱりと破談にするつもりだったとも考えられる。が、なにしろ林太郎はそういう果断な行動には及んでいない。
 貴美子の回想にはいろいろ問題があることは現在では知られている。例えば、エリーゼの名を「舞姫」のヒロインそのままのエリスと標記していることなど。しかし、後の結婚後の成り行きからしても、時期はともかく、林太郎がこの件について、しばらくは煮え切らない態度をとっていたのはまずまちがいない。その間に、森家は、特に祖父母が強引に話を進めたものだろう。海軍中将である赤松との婚姻は、軍医としての林太郎の将来も、森家のそれも、明るくするのは間違いないから。
 それだけではない。当時「陸軍武官結婚条例」というものがあり、士官が結婚できるのは「行状端正」であって、またそれを証する者が必要とされていた。林太郎は留学の段階で陸軍軍医として中尉相当の士官の地位にあり、その点でまず外国人女性との結婚には高いハードルがあった。現在でも、警察官や自衛隊員は、国際結婚は可能だしその実例もあるが、出世はまず望めなくなる、と知り合いの元警官から聞いたことがある。
 では林太郎は、出世のために恋人を捨てたのか? 結局は、そういうことになる。しかし、今の一般庶民とはまるで感覚が違うことは考えに入れるべきだろう。
 林太郎は、若くしてその才を帝国陸軍、ひいては大日本帝国から見込まれ、海外留学に送り出された。明治人としては、恩義を感じるのが当然である。それ以上に、まだ出来たばかりで「普請中」(鷗外の後の小説の題名)の明治政府は、特に医学のような国の発展に直接関わる部分では、林太郎のような優秀な頭脳を本当に、切実に必要としていた。男として、その期待に応えなければ嘘だ、と自然に感じられたろう。
 森家から見ても、元津和野藩の御典医だった父・静男は、上京して医院を繁盛させていたが、そろそろ隠退を考えていた。弟が二人いたが、長男で大秀才の林太郎が去ったら、家にとってたいへんな損失である。そのように感じられるのがごく普通の時代だった。そのうえで林太郎は親孝行で、母には絶対服従のようなところがあったらしい(小堀杏奴「晩年の父」)。それで「(結婚は)両親の気持次第に」と言って、時間稼ぎをしようとしたのも不思議はない。
 ただそれも、欧州滞在当時ならまだしもで、帰国して、恋人も近くにいた状態でなおこんな態度だったとしたら、優柔不断にも程があると言えるだろう。悪く言えば、そこを祖父母につけ込まれて、結婚承諾の返事をされてしまった。それにも唯々諾々と従ったのだとすれば、もはや不誠実と変らない。
 それでも、林尚孝氏は、林太郎の欧州からの帰国の旅日記である「還東日乗」中の、特に漢詩「酔太平」などから、彼は陸軍を辞めようとした決意した形跡があると言っている。他にもこれに同意見の人は多い。そうだとしても、同僚からも友人からも家人からも懇願され責められたなら、彼もついに我を折らざるを得なかったのは想像に難くない。ドイツにいればドイツ娘との結婚も可能だと意気込んだが、帰国して日本社会の中に身を置いたら、それはいかにも非現実的な夢だと見えてきた、といったところか。

 エリーゼのほうは、前出の「次ぎの兄」によると、「手芸が上手なので,日本で自活して見る気で『お世話にならなければ好いでしょう』というから,『手先が器用な位でどうしてやれるものか』というと,『まあ考えて見ましょう』といって別れた」と林太郎が母・峰子に打ち明けたそうだ。言葉も満足に話せない日本へ行って、誰の世話にもならず、手芸で自活して、林太郎との結婚の日を待つ、ということか。この通りのことを言ったのだとすると、二十歳そこそこの世間知らずの娘の蛮勇か、あるいは元来勝気な性格か、おそらく両方だったろう。
 日本にいた35日の間は、築地精養軒ホテルに滞在していた。林太郎の両親は、彼女のことも、彼女が日本にいることも知っていたが、一度も会っていない。林太郎の弟の篤次郎(三木竹二)とはけっこう懇意になり、一度買い物に同行すると、彼女は日本の袋物に興味を示したということだ。
 それ以外に貴美子の夫・小金井良精がよく会っているが、彼は森家の意を受けて最初からエリーゼを早く帰国させることに努めたようである。
 そして10月17日、林太郎・篤次郎・小金井良精に、林太郎の親友・賀古鶴戸(かこ つると。相澤謙吉のモデルとされる)の四人は、エリーゼを見送るために横浜港に赴く。林太郎は最初、横浜駅まで行って引き返すつもりだったのを、最後にせめてもの誠意を示すために、艀に乗って客船まで同行したのだろうと、林尚孝氏は推測している。
 このとき、「舷でハンカチイフを振って別れていったエリスの顔に,少しの憂いも見えなかった」という夫・小金井良精の言葉を喜美子が記している。全幅の信頼はおけない喜美子の文中に、さらに伝聞として出てくる情報だし(喜美子はエリーゼには会っていないのだから、彼女に関することはすべて伝聞なのだが)、その上に「様子」を観察した夫の目を通してなのだから、伝言ゲームなみにいろいろな媒介がはさまっていて、実際はどうだったか、即断はできない。しかし、六草氏はここから、このときのエリーゼはまだ林太郎とのことをあきらめていなかったのではないか、と推測している。
 傍証になりそうなものに、林太郎の遺品の一つに、モノグラムと跳ばれる、Mori RintaroのイニシャルMとRを中心にデザインした、ハンカチ入れの刺繍型(上の写真)がある。これは喜美子や林太郎の長男・森於菟らの証言で、エリーゼから林太郎への贈り物だったとされている。古いドイツの風習では、新婦の嫁入り道具として、夫のイニシャルをデザインした刺繍を贈る習慣があったそうで、これによって、二人の間では結婚の約束がされていたのだろう、と言われてきた。
 しかしこれはエリーゼのお手製でも、特注品でさえなく、古道具屋で探せばほぼ同じものが見つかる一般商品の可能性が高いことを発見したのは他ならぬ六草氏だった。それでも同氏は、肝心なのは物ではなく、それを彼に贈った気持ちなのだ、としている。
 それは一方的に裏切られたようである。エリーゼの帰国2ヶ月後に、賀古鶴戸が、陸軍中将山縣有朋(天方拍のモデルとされる)に随行して渡欧している。この時彼は、旧知のエリーゼを尋ね、林太郎の婚約のことを告げたかも知れない。「舞姫」のエリスの叫び「我豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺き玉ひしか」は、このときの実際のエリーゼのものだったのかも知れない、と六草氏は言う。
 他方、日本滞在中の森家の扱い、つまり、林太郎の両親が会いに来るでも、向こうから招待されるでもなく、義弟の小金井は最初から帰国を急かす、などからして、少なくとも日本での、林太郎との正式な結婚は無理だ、と一ヶ月ほどの期間で見極めたのではないかと私は思う。さればとて、林太郎がすべてを捨ててドイツの、彼女の元に走っても、待っているのは、それこそ「舞姫」の、豊太郎とエリスと同種の悲劇でしかないではないか。
 林太郎ほど賢明でなくても、その程度の予想はつく。エリーゼは、たいていの男より向こう見ずだったとしても、恋人がそう予想していることは察するだろう。林尚孝氏は、自分のために林太郎が苦境に立たされていることがわかって、身を引いたのかも知れぬ、と言う。私はどちらかと言えばこれに賛成する。帰国の船上で晴れやかな顔を見せたというのが本当なら、「吹っ切れた」というところではないだろうか。
 因みに、エリーゼの帰りの船賃は森家が出して、篤次郎が支度をした。横浜から最初の寄港地神戸までは来たときと同じ一等船室だが、それからジェノヴァまでは二等船室だった。このような扱いも、エリーゼは、ベルリンで甘い時を過ごしたかつての森林太郎以外の日本人には厄介者でしかない、と思い知らせるものだったろう。その林太郎も今となっては畢竟向こう側の人間である。たとえ、彼女の旅費を節約するために、船出の時以外は二等船室に移し、イタリアのジェノヴァからベルリンまでは汽車で行かせるようにしたことは、彼の与り知らぬ事だったとしても。
 
 「舞姫」は、前述の賀古の帰国直後に、わずか一週間ほどで書かれている。これを読んだ人は、ついに一人の女性を破滅に追い込んだ太田豊太郎の優柔不断ぶりに歯がゆい思いがすることだろう。同様の批判は当時からあった。
 明治23年2月に前月「舞姫」が発表されたのと同じ雑誌『國民之友』に文芸評論家の石橋忍月が「舞姫」と題する批評文を気取半之丞の筆名で発表。同作の主人公太田豊太郎が子まで成した女性を捨てて功名出世を選んだからには、「胆大にして且つ冷淡」な人物でなければならないのに、彼は「小心翼々たる慈悲に深く恩愛の情に切なる者」である。これは物語の構成として破綻ではないか、と批判している。
 これに対して林太郎は、相澤謙吉の筆名で、つまり豊太郎にエリスを捨てて帰国することを勧めた親友が豊太郎を語るという体裁で、「舞姫に就きて気取半之丞に与ふる書」を、自身が創刊した文芸誌『しがらみ草子』に出し、反駁している。豊太郎が日本へ帰る戦中で書いた形式の「舞姫」の冒頭近くに、「(前略)人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ変り易きをも悟り得たり。きのふの是はけふの非なるわが瞬間の感触を、筆に写して誰にか見せむ」とある。つまり彼は、大胆でも冷酷でもなく、心の弱い者であり、エリスとの一件を通じて、そのことを思い知らされることになった、というのが全体の構成であって、それを破綻と言うのは妄評である、と。
 作品評としては林太郎の言うほうが正しいが、作者として、ある意味では悪意よりたちの悪いこのような人格的な弱さをどう感じているのか、作品からも自作評からも浮かんでこない。決して自己弁護はしていないけれど、「わが心の変り易さ」と正面から向き合おうというわけでもない。今後はそれを克服しようというのか、それとも一種の宿痾として抱えていこうというのか。それはフィクションに仮託しても、ついに語り得ないことだったようだ。
 恋愛事件そのものは、もちろん今でもそんなに珍しいものではない。さらに、この頃の官費留学生はエリートであり、現地の女性と懇ろになるのは、むしろ普通だった。日本人の男がそんなにモテたものか、と思う人もいるかも知れないが、ヨーロッパは基本的に階層社会であり、下層の女性には東洋人であっても上層の後光は眩しかったろうし、もっと単純に金銭づくの関係もあった。エリスがそうであったとされたような、劇場の踊り子との関係も、近いものを林太郎も見聞きしていたかも知れない。
 その中に置けば、林太郎のエリーゼへの扱いは、まだしも誠実なものだったと言える。しかしそれも、彼の気持ちの中だけの話であって、社会的な立場をも超えてどうにかするほどの強さはなかった。
 それもまたありふれた話ではある。ただ少し気にかかるのは、林太郎は、結局は権威に屈して愛を捨てた自分の不甲斐なさに苛立ちを感じ、それを文学として昇華することもできず、行き場のないモヤモヤをしばらくの間保っていたかも知れないところである。
 彼は赤松登志子と、翌年2月に結婚、さらに翌年の9月には長男の於菟をもうけているが、その後すぐに離縁している。この頃の林太郎は日に日に痩せ衰えて顔色も悪く、その身を案じた母・峰子が率先して別れさせたらしい。彼女は晩年まで、この結婚を無理に勧めたことを後悔していたそうだ。
 林太郎もまた、登志子とは気が合わない、とは言っていた。しかし、思うに、彼女のほうにばかり原因があったわけではないだろう。この時期の彼は、前出『しがらみ草子』を創刊した一方、医学会誌『東京医事新誌』の主筆に推されたのに、東大時代の恩師らと医学会問題をめぐって対立して、すぐにその座を逐われた。石黒忠悳との仲も悪くなり、後のことになるが、西周からは、離婚問題によって義絶された。彼の生涯で最も多事多難な時期であった。
 それくらいならば、エリーゼと結婚しても、そんなに大きな相違はなかったのかも知れない。あの迷いは、あの不誠実は、なんのためのものだったのか。登志子がそんな、行き場のない苛立ちの行き場にされたのだとしたら、彼女こそこの事件最大の被害者と言えそうだ。彼女はその後、他家に嫁いだか、明治33年、30歳を少し越えた若さで病没している。

 登志子との離婚後に、またエリーゼを呼び寄せて結婚してもよかったのではないか、という疑問がふと頭をよぎったが、それは愚問だ、という答えがすぐに浮かんだ。あの一ヶ月余りのうちに、結婚問題については彼ら二人の間では決着がついたのだろう。人間的な強さや弱さに関わらず、取り返しのつかないことはあるのだ。
 しかしながら、その後も林太郎はエリーゼと長く文通を続けた。これが一番驚くべきことだ。そこで何が語られたのだろう。
 林太郎は、死期が近づいた時、後妻の志げ(茉莉を筆頭とする二女二男の母)に命じて彼女に関わるすべての手紙や写真類を焼却させた。かくして、我が国近代初頭の、国境を超えた類稀な愛(やはり、そう呼ぶべきだろう)の記録は、モノグラムの型を除いて日本からは永遠に失われた。あとは、ドイツで、エリーゼが遺したがものが将来発見される可能性がほんの少しあるだけだ。
 彼女は、帽子制作者として16年間自活して独身で過ごした後、1905年に38歳で結婚している。1902(明治35)年には、林太郎は18歳年下の前記荒木志げと再婚しているので、手紙でそれを知った彼女は今度こそ本当に「吹っ切れた」気分だったのかも知れない。その夫とも1919年に死別、さらに第二次世界大戦をも生き延び、1953年、老人ホームで亡くなっている。享年86歳。

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