由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

近代という隘路 その1

2011年03月09日 | 近現代史
メインテキスト: 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社 平成20年 平成21年第16刷)

 本書は、桜蔭学園出身で現在東京大学文学部教授である著者が、栄光学園の中高生のうち、歴史研究部員を中心とした有志二十名ほどにした特別講義を基にしている。多少とも受験業界に近いところにいて、これらの学校名を知らない者はいない。まあ、雲の上の世界だな、オレのような、地元民以外は誰も知らない公立で小学校から高校まで過ごし、今もまたそんな公立高校にいる人間には関係ないな、とすぐに思えてくるが、それは僻みというものだろう。このレベルの授業はとうてい無理だ。だいたい、私の担当教科は地歴ではないし。でも、何か学べるところはあるはずだ。日本の近現代史については、個人的に、知識はないけれど、興味はあるし。
 そう思って読んだら、実際たくさん勉強になった。例えば次のようなところ。
 日露戦争前の明治三十三年、山縣有朋内閣が選挙法を改正し、選挙権の納税資格を直接国税で十五円から十円に下げ、被選挙権には実質的に納税資格はなくなった。一方、翌年組閣した桂太郎は、戦争準備のために、税収の七割増を断行。これは時限立法のはずだったのに、日露戦争後もそのままの税率が維持された。それはつまり、全国民の納税額が増えるということだから、選挙権を得るに足るだけの税金を納める人も増える、ということを意味する。その結果、有権者は、明治二十三年の最初の選挙時には四十五万人、三十三年には七十五万人、日露戦争後の明治四十一年には百五十八万人になった(P.182~186)。
 これは瞠目すべき変化だ、と言われる。そうですね、で、日本の社会はどうなったわけですか? 当然それに関する加藤先生の講釈が続くと予想されるのだが、「これが大切なポイントです」でここの、「第2章 日露戦争」は終わり。山県が納税資格を引き下げたのはどういう理由からかは書いてあるので、それらを基にして、自分で考えなさい、ということらしい。いやあ、この不親切、すばらしい。私も見習わなくては。

 教師としてはそういう教訓を得たわけだが、日本史を学ぶ者として、せっかくだから、上の問題への解答を考えてみよう。例えばこういうことかな。
 戦前の直接国税は、地租、営業税、所得税の三種。このうち、地租の割合が最も高かったので、議員には地主が多かった。戦費を賄うためには、一番高額で、また取りやすい地租を上げなければならないが、それは、当たり前だが、地主議員たちには気に入らない。すると、戦争のための法案も予算案も議会を通りづらくなる。そこで山県は、都市部の企業経営者や銀行家などの代表者も議会に入れるべく、納税資格を引き下げた。以上が本書に書かれていることである。
 これはつまり、日本が戦争をしやすい国になった、ということになるのではないだろうか。地主は戦争を喜ばない。地租が上がって、取られるものを取られるだけで、戦争で得るものは何もないからだ。商工業者は、同じく税金はたくさん払っても、戦争による儲けが期待できる場合もある。鉄工業や造船業はそうだ。事実これらは、戦前における花形産業になっていく。それに伴い、経済界のトップは、忙しくて政治なんかやっている暇はないが、彼らの代表者が議会に送り込まれていることはどうしても必要である。ここで、藩閥とは無縁の、純粋な政治家が登場した。
 かくして日本は、ソフト面でもハード面でも、近代戦争を戦えるだけの体制が整えられた。山縣有朋や桂太郎がそこまで考えていたかどうかはわからないものの、日露戦争前の選挙法の改正や税率の引き上げは、その意味で、近代化の流れに棹さし、その里程標を刻むものだった、と見ることができる。

 以上の私の見方がとんでもない的外れでないとしたら、とても大切なことを学ばせていただいたわけで、加藤先生にはお礼申し上げたい。しかし一方、ちょっと違和感が持たれ、私が講義を聴いた生徒だったら、質問したいこともいくつかあった。それは、「序章 日本近現代史を考える」に集中している。
 国家は、大戦争を経験すれば、勝っても負けても、変化が要求される。社会契約説から見ると、それは、国が国民と交わす約束を変更する、ということである。日清戦争から大東亜戦争(加藤はもちろん「太平洋戦争」の呼称を用いている)まで、ほぼ十年ごとに対外戦争を行ってきた日本の場合、それはどういうものだったか。これが加藤の問題意識の根底にある。
 それはたいへんけっこうなのだが、それを、長谷部恭男や、彼が『憲法とは何か』(岩波新書)で紹介したルソーなどを援用して、「広い意味での憲法の改変」と言われると、どうだろうか。日本は大東亜戦争の敗戦まで、憲法を変えなかった、ということより、最後のときの改変に関して、様々な問題があり、それが今も尾を引いていることには、もっと考慮が払われるべきではないだろうか。
 加藤は、憲法前文にある「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」の部分は、リンカーンのゲディスバーグでの演説で最も有名なof the people, by the people, for the peopleが踏まえられている、と指摘する。なるほど、なるほど。そしてこの事実は、歴史的に見れば、次のことを意味する。リンカーンの演説は、南北戦争で多大な犠牲を出したアメリカでの、新たな国家統合のための原理を示す必要から出てきた。それが日本国憲法にも取り入れられたということは、未曾有の敗戦後の国家原理として、この、一言で言えば「国民主権」が採用されたことになる、と。
 お説の通りではあるが、「採用した」主体はいったい誰か。日本人か? そう言えるか? リンカーンは、アメリカ合衆国分裂の危機を招いた人物ではあるが、正当な手続きで選ばれた大統領であることはまちがいない。一方、現憲法の前文と条文を書いたGHQは、占領期間だけ、暫定的に統治権力を認められたに過ぎないのである。
 この事実は、今では広く知られているが、憲法制定当時は、公的には、伏せられていた。占領地の法律を変えるのは、ハーグ陸戦条約第四三条に抵触するからだ。加藤が引用しているルソーの、「戦争は、国家と国家の関係において、主権や社会契約に対する攻撃、つまり、敵対する国家の、憲法に対する攻撃、というかたちをとる」(P.41)は、文字通りにやれば、国際法違反になる、とみなすべきなのである。しかし、実際にはアメリカは、かつて日本でやり、今またアフガニスタンやイラクでやろうとして、蹉跌を重ねている。
 ここまででたぶんお察しの通り、私は、現憲法は、アメリカによって押しつけられたものだから、よくない、という考えに、どちらかと言うと共鳴する者である。この考えは今も少数派であろう。それでも、「国民主権」を得る際に、その国民の意思が関与したわけではないという事実に、我々は心理的にどう決着をつけたのか。むしろそういうとは不問に付すのが、現代日本の「国体」の一部になっているのではないだろうか。憲法自体のよい・悪いより先に、私にはそれが一番気になる。愚見の一部は『軟弱者の戦争論』でも述べた。ここではこれ以上は言わない。

 本書序章に関する私の違和感はもう一つある。
 加藤は歴史を学ぶことの効用を、「過去からの教訓」を得るところに求めている。「重要な決定を下す際に、結果的に正しい決定を下せる可能性が高い人というのは、広い範囲の過去の出来事が、真実に近い解釈に関連づけられて、より多く頭に入っている人」(P.72)なのだと。この部分には、アーネスト・メイ『歴史の教訓』(岩波現代文庫)が援用されているのだが、メイはまた、政府の指導者は、過去の事実を知ってはいても、しばしばそれを誤用するのだ、とも言っている。
 一例として、ベトナム戦争がある。「ベスト・アンド・ブライテスト」と呼ばれた、ケネディ及びジョンソン政権を支えたアメリカ最優秀の人々が、アメリカが国家として密接な関わりがあったわけでもないインドシナ半島の、無益な、泥沼のような戦争になぜ深入りしてしまったのか。「共産主義に対する恐怖心から」という、栄光学園の生徒の解答が紹介されている。私はこれが正解なんじゃないかな、と思うのだが、メイ・加藤両先生は、もっと具体的な答えを考えておられた(P.77)。
 その答えは本書に書いてあるので、それを読んでもらえればいい。私が言いたいのは、こういうところからして、本書冒頭の、九・一一テロと日中戦争の類比はどうなのかなあ、というところだ。この二つは似ている、と言われている。どこが? 後者では、近衛文麿首相の「国民党政府を対手とせず」(昭和十三年)という声明に象徴されているように、日本は中国と戦争しているという意識は薄く、悪いことをした人を警察が取り締まるような感覚で戦っていた。九・一一テロ事件を起こした連中に対して、アメリカ人が持った意識もそうだった、と。
 それはアメリカ人がまちがっている、とは加藤は言っていないが、どうもそんなニュアンスである。つまりこれも、新しい形の、ではあるが、あくまで戦争だと捉えるべきだ、ということらしい。そうかなあ。
 日中戦争に似ていると言えば、ベトナム戦争のほうではないか? 両方とも、敵がどこにいるか、いつも細かく特定はできなくても、中国大陸や北ベトナムのどこかにいることは明らかだったし、国家の代表者と呼ぶにはいささか問題はあっても、ちゃんとした指導者はいた。戦争と考えてもよかったはずなのに、そうはせずに、宣戦布告もしないで戦闘を初めて、いつどうやって終わるやらの見込みもつかず、どんどん泥沼化していった、というところで両者は共通する。
 九・一一の場合、「アルカイダ対手とせず」とは誰も言わない。そんな言葉は、相手にしようとすればできる状態でなかったら、出てくるはずがない。近衛声明は、蒋介石を、講和条約の交渉相手にはしない、つまり和平の条件を話し合ったりはしない、という意味だが、アルカイダとどうやって交渉すればいい? アフガニスタンでは勢力があったとはいえ、もとより国ではないし、首謀者とされるオサマ・ビンラディンは、どこにいるのか、生きているのか死んでいるのかさえも、はっきりしない状態なのに。
 第一彼らは、何を狙って貿易センタービルを倒壊させたのか? 「憲法に対する攻撃」? なるほど、狭義の合衆国憲法というより、アメリカ型資本主義体制に対する攻撃として、その象徴を破壊したのだ、というのは、そうかも知れない。でも、そんなことだったら、それこそ、政治というよりは哲学の問題になってしまう。どういう決着がつくのか? アメリカや日本を含めた西欧諸国が中近東から完全に引き上げればいいのかも知れないが、そんなことができるかどうかより、誰と、「その条件が満たされたら、我々はテロをやめる」というような約束できるのか? 
 要するに、戦争を、旧来の、「国家間の、武力行使を伴う紛争」と考えたら、これをそう呼ぶのは、あまりにも無理がありすぎる。IRAがイギリスでよくやる爆弾テロは、戦争とは呼ばれない。犯罪なのだ。IRAやアルカイダに三分の理はあったとしても、同情の余地がある殺人もやっぱり犯罪であるように、そう呼ばれるべきだと私は思う。
 アメリカのまちがいはむしろ、そうであるのに、戦争として、アフガニスタンやイラクに攻め込んだところにあるのではないか。国家が犯罪者集団を直接相手にした前例は、近代ではたぶんない。そこで、かどうかは定かではないけれど、そのためもあって国家を攻撃対象としたとしたら、「歴史の誤用」と呼ばれるべきだと思う。
 特にイラクの場合、指導者サダム・フセインが、大量破壊兵器を保有している・アルカイダとつながりがある、という二つの理由で、第二湾岸戦争を開始したのに、どちらも「はずれ」だった。それでも、今後イラクが完全に「民主化」されるならば、「終わりよければすべてよし」になるだろうか? そうだとしても、道は非常に険しそうだ。一方、この強引なやり方によって、テロリストを初めとする世界中の人々に、より深い反アメリカ感情を抱かせたのは、確かなことである。
 思うに、ここでの「歴史の教訓」はこうだ。我々は、国家ではないが国家並みの武力を持った集団をどう対処するか、まだわかっていないのだから、なるべく早く考え出すべきである。二十世紀の大戦争を経て、人類は、曲がりなりにも戦争の規制のための法を整備してきた。これからは、国家以外も視野に入れて、「暴力の管理」という大問題に取り組まなければならない、ということ。

 以上は、本書に関する軽いジャブみたいなものである。私には、重い、メガトン級、どころか一トン級、いや一キロ級のパンチもないのだから、できるのはせいぜいこんなものだ。今後も、加藤先生には申し訳ないけれど、学びつつ、からむ言い方で、日本の近代の運命について、思いついたことを書き連ねていきたい。
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