メインテキスツ:『鷗外選集 第四巻』(岩波書店昭和54年)
Hans Vaihinger 1852 - 1933
漱石作品をあれこれ読み返して漫然と考えていたら、この期のもう一人の文豪、森鷗外のことが気になり出しました。先に、この人の立ち位置を瞥見しておきたい。それが後々どうなるか、わかりませんが、このブログ自体が私の公開ノートみたいなもんですから、あまり深く考えずに、ちょっと、顧みて他を言う式に愚考を述べます。
鷗外と、ほとんどすべての文学者との違いは、国家の、公の身分として、陸軍軍医総監という顕職にまで上りつめたところだろう(そこでの仕事について、いろいろ疑念が持たれていることは以前に書いた)。また山縣有朋、明治維新の志士中最後まで生き残った元勲であり、日本陸軍の創設者と言ってよい人物のブレーントラストの一人でもあった。つまり、「体制側の人間」なのであって、その見解には「治者の視点」が繰り入れられている、と思しい。
これは彼の評判にとってマイナス要因になっている。文学者は反体制であるべきだ、なる思い込みは、世に非常に根強いからだ。何もそう決めつけることはないと思う。私自身は体制側でも反体制でもなく、体制外の人間だが、それは体制を多少とも動かすほどの能力がないからで、能力のある人は、大いにやればよいではないですか? 判定すべきなのは、どう動かしたのか、その内容の良し悪しであろう。
それに、鷗外に関して言えば、「体制内文学者」は世界的に類稀なのだから、モデルケースとして虚心に検討しなければもったいない。
明治最後の年である45年に鷗外森林太郎は数えで知天命の歳になり、いろいろな意味で節目であったように、後からは見える。
明治43年には大逆事件があり、天皇暗殺計画が、きわめて幼稚なものだが、あるにはあったことが明らかになった。【幸徳秋水らは、この「計画」自体には関係なく、こじつけの判決によって処刑されたことは今では明らかになっている。】これを一つのきっかけとして、南北朝正閨論などで、天皇制国家の正当性・正統性(legitimacy)が44年頃から大きく問題にされ出していた。
山縣はこの事態を憂慮し、これに関する意見を鷗外に求めた、という話は事実ではないらしいが、前述のような立場の鷗外が個人的にこの問題を考慮した結果は、45年1月に発表された短編小説「かのやうに」に現れている。
主人公は五条秀麿という、富裕な子爵家の御曹司で、学習院から文科大学(現東京大学文学部)に進み、歴史学を専攻、卒業後は父の金でドイツに留学した。【こんな特権階級がオレになんの関係があるんだ、と言いたくなる気持ちは、私にも分かる。】
留学から帰った秀麿の様子は少し変わった、と家人には見える。昔は虚弱だった体は丈夫になったようだが、態度が。「秀麿が心からでなく、人に目潰に何か投げ附けるやうに笑声をあびせ掛ける習癖を、自分も意識せずに、いつの間にか養成してゐる」ことを、母親は本能的に嗅ぎつけている。また父の子爵は、彼が「極端な自由思想をでも持つてゐはしないかと疑つてゐるらしい」が、そういう単純なものではない。
迷いはまずもって、大学生時分からの望みである、日本史の述作にある。「古事記」や「日本書紀」にある神話をそのまま歴史的事実として記載することができるか。近代的な学問を修めた者として、それはできない。
「信仰」の問題として扱う手段は、ある。神話の成り立ち・教義の変遷・祭祀の機関(今の場合は神社)の歴史、に分けて記述する。例えばプロテスタンティズムには教義史と教会史があるが、それによって新教徒の信仰が毀損されるとは考えられていないのだから、日本神話でそうしても、「祖先崇拝の教義や機関も、特にそのために危害を受ける筈はな」く、安全だ。そうしようか、とは思っても、どうもそれだけではすみそうもないので、秀麿は迷っている。
鷗外はここで、たぶん意図的に、一番厄介な問題には直接触れないようにしているのだろう。それはもちろん、天皇家に直接関連する部分である。祖先崇拝が日本の、広い意味での信仰心の中心だ、ということにはたぶん誰しも異論はない。それと天皇家が繋がっていることも。と、こう大雑把に言うのはいいけれど、具体的にはどうか、と問われると、そう簡単ではない。まして、明治期、憲法によって皇帝(Japanese Emperor)となった天皇まで視野に収めるとなると、この当時はもちろん、現在でも、政治を離れた純粋に学問上の議論とするのがそもそも困難である。
秀麿=鷗外に倣ってそれは棚上げにするとしても、神道について上述のように論じるだけでも難しいところがある。久米邦武が「神道ハ祭天の古俗」だと論じて事実上文化大学の教授職を追われたのは明治25年のことで、鷗外は当然知っていたろう。
因みに久米論文は、内容そのものより、押し出しが少々過激だった。明治24年専門誌『史學會雜誌』に三回に分けて掲載されたものを、より一般的な『史海』に再録した際、同誌編集者の田口卯吉(鼎軒)が序をつけて、「若し彼等【=神道熱信家】にして【この論文について】尚ほ緘黙せば、余は彼等は全く閉口したるものと見做さゞるべからず」などと挑発したのだし、論文中にも「神道を學理にて論ずれば、國體を損ずと、憐れ墓なく謂(いう)者もあり。國體も皇室も、此(か)く薄弱なる朽索(きゅうさく。腐った縄の意)にて維持したりと思ふか」などと、尖った言い方がある。
秀麿が古神道について書けば、内容は同じようなものになったろうが、「神道熱信家」と摩擦を起こす気はなかった。いや、他はともかく、敬愛する父を悲しませるに忍びないのだ、と彼は言う。そうならないためには、祖先崇拝の儀式は古俗であって差支えなく、自分も軽んじるつもりは毛頭ないことを示さなくてはならない。
そこで、「かのようにの哲学」(Die Philosophie des Als Ob)。新カント派の哲学者として知られるハンス・ファイヒンガーがドイツでこの題名の書を出版したのは1911年、つまり明治44年で、鷗外はすぐに新刊を入手して読んだものらしい。秀麿はこれを援用して、日本古代史を叙する際の、自己の足場を築こうとする。その大略は、友人である画家の綾小路に、以下のように説明される(カッコ内は私の付け加えです)。
曰く、「本当の事実」とは何か。例えば裁判での判決文がそうか。それが文としてまとめ上げられている以上は、必ず判事の主観を通ったものであって、事実そのものではない(だからこそ、役に立つ、即ち、価値がある)。逆に小説は、最初から事実ではないことは明らかだが、文として価値が認められる。神話もそうで、事実が基にあるかもしれないが、それは価値とは関わらない(だから、神話は事実ではないと言っても、その価値を貶めたことにはならない)。
また曰く。幾何学で言う純粋な点や線は、自然界には存在しない。また、物理学で言う原子も、普通の意味で存在が確認されたものではない。しかし、それらが「ある」と考えなければ、これらの学問は発展しない(すると、文明も進展しない)。自由も、霊魂不滅も、義務も(いわゆる客観物としては)存在しない。しかし、あるとしなければ、宗教も倫理も成り立たない。さらに言えば、この世のすべては相対的で、絶対的なものはない(それをある「かのように」見なさなければ、社会自体が成立しない。さらに言えば、ないものをある「かのように」みなせる能力こそ、人間の特長である)。
またまた曰く。例えば人間がサルから進化したというのは事実問題(というより科学問題)であって、それとして究明しなければならないが、どこまでいっても価値とは無関係。自分は事実(科学)とは別次元の理想を信じる。事実ではないからと言って貶め、否定して、価値を破壊しようとするのが危険思想なのだから、自分は危険思想の持ち主ではない。
上の一番最後のがあるおかげで、これが書かれた動機は、「私は神話を歴史的な事実とは認めませんけれど、危険思想家ではありません」という弁解か、少し好意的に見ても、「学問をしている人間をいちいち目くじらをたてて取り締まる必要はありません」と山縣有朋たち政府の要路への建議だったのではないか、とも言われてきた。それは治者の見地と言ってよく、そう思ってこの論を見ると、いかにも、何やらケチ臭く思われてくる。作者自身もそう感じていたらしく、作中で、話を聞いた綾小路が、最初「意気地が無い」と評しているくらいだ。
しかし、そこを離れることができたら、「かのようにの哲学」は、ごく穏当な、いわば常識論を述べただけのものだ、とも見えてこないだろうか。価値は科学的客観的に存在しているというよりは、畢竟人間の主観の問題である、と言っているだけなのだから。それは客観的な事物についても、我々は、あれやには価値あり、これやには価値なし、と言い暮らしている。しかし、どんな場合でも価値付けそのものは人間がやる。それは確かだろう。
と言って、これで問題の片がつくわけはない。鷗外もそれを知っていたからこそ、エッセイではなく小説の形でこれを書いたのだ。作中で秀麿の主張は、二度にわたって疑問に付され、それにはなんの解決もつかずに終わっている。
一つ目はドイツ留学中に秀麿がよこした手紙を読んで、父の五条子爵が不安を感じるところ。秀麿は自由主義神学者アドルフ・ハルナックの事績を褒め、神学という学問は、教育のおかげで素朴な信仰をなくした人が、宗教の必要性を認めるためにこそ必要なのだ、と書いていた。
五条子爵家では、明治の初期、廃仏毀釈運動が盛んな折に、それまでの菩提寺と縁を切って、葬祭の儀は神官にのみ任せてきた。キリスト教とはもとより縁がなく、今の信仰の対象は祖先の神霊しかない。が、それをもちゃんと信じているのかというと、我ながらどうも怪しい、と父は考え始める。
「祭をする度に、祭るに在(いま)すが如くすと云ふ論語の句が頭に浮ぶ。併しそれは祖先が存在してゐられるやうに思つて、お祭をしなくてはならないと云ふ意味で、自分を顧みて見るに、実際存在してゐられると思ふのではないらしい」。といって子爵は、息子のように本を読んで、信仰心はないが宗教の必要は認める、というのでもない。自分一個に限らず、世間一般が、「自分が信ぜない事を、信じてゐるらしく行つて、虚偽だと思つて疚(やま)しがりもせず、それを子供に教へて、子供の心理状態がどうならうと云ふことさへ考へてもみないのではあるまいか」。
普通のまじめな人にこんな恐れを起こさせるだけでも、「かのようにの哲学」は危険思想と呼ばれるべき値打ちがあるのかも知れない。父はまた、秀麿がこの種の懐疑に取り憑かれて悩んでいるのではないかと思って、心配するのである。
第二に、秀麿から前述の説明を聞いた綾小路。「駄目だ」と、ぴしゃりとやっつける。
人に君のやうな考になれと云つたつて、誰がなるものか。百姓はシの字を書いた三角の物を額へ当てゝ、先祖の幽霊が盆にのこのこ歩いて来ると思つてゐる。道学先生は義務の発電所のやうなものが、天の上かどこかにあつて、自分の教(をす)はつた師匠がその電気を取り続(つ)いで、自分に掛けてくれて、そのお蔭で自分が生涯ぴりぴりと動いてゐるやうに思つてゐる。みんな手応(てごたへ)のあるものを向うに見てゐるから、崇拝も出来れば、遵奉も出来るのだ。
では、綾小路自身はどうなのだ、幽霊が存在すると思っているわけでもあるまいに、と問われると、そういうことはなるべく考えないようにしている、との答え。これが危険ではない、普通の人の行きかたと言ってよいだろう。だからといって、事柄自体の危険性が消えるわけではないが。
少し細かく考えよう。
点や線、原子などが自然界に存在するわけではなく、人間の観念の所産であることを指摘しても、かまいはしない。人間の道徳感情には関わらず、従って個人の自尊心にも、社会の権威・権力のレジティマシーにも関わらないからだ。
「自由」については、民主主義社会を運営するうえで重要な約束事ではある。つまり、政治上の概念なのであって、実際上それ以外には問題にならない。別に、「自由とは何か」などと哲学的に問うことはできるが、そんなことに頭を悩ませる人のほうがずっと少数だろう。
この後から危険領域に入る。「霊魂不滅」はない、と言えば、多くの宗教を実際上否定することになり、当然信者たちの感情を害する。いや、自分はそれとは別の次元で宗教を尊重しているのだ、と言っても、それはつまり何かの、たぶん社会の便宜のために、宗教を使うというのと変わらないのだから、宗教がもたらすと期待されている「絶対」の観念は傷つけられる。そう感じるであろう素朴な人々には、秀麿としても、「目潰に何か投げ附けるやうに笑」うしか手立てはなかった。
「義務」は、個々人にある行為を強制する度合いが強いので、しばしば厄介の種になる。「自由」と同じように、人間社会を成り立たせるためには必須の観念である(他人の自由はできるだけ尊重するべき、など)、という段階なら、特に問題はない。しかし、ひとたび集団全体としての「よりよい生き方」が求められると、「より高い義務」の観念が生まれる。それは当然、「より低い義務」の観念をも招来する。例えば、ある宗教や国家を守るためなら、個人の生活や、命まで、犠牲にするのが当然のように語られたりする。これはそのまま、前者は本当に、そんな犠牲に値するほどの価値なのか、と問われる契機になる。
現に、宗教や国家の価値は、歴史上絶えず疑われ、時に変更されてきた。
五条子爵家が実践した廃仏毀釈は、仏教否定に他ならない。その動機は、天皇中心の神道を改めて宗教にしようとした場合、他宗教は「邪教」としなければまずいだろうという、わりあいと西洋的な思いにある。これに対して、神道は古俗、つまり古くからある習俗であって、宗教ではないのだから、日本史上仏教や儒教ともうまく両立してやってこれた、新時代だからと言ってそれを変える必要はない、と主張したのが前記久米論文だった。それでは、日本古来の道やら天皇家を軽んじる結果になると、ある人々の目からは見えるのは、全く当然でしかない。
事実問題からすると、仏教が日本から消えることはなかった。日本では、宗教を含めた純粋に思想上の対立が、大きな、激しい葛藤を引き起こすことはあまりない。その意味では久米邦武は正しかったようだ。
一方、実際の統治機構である幕府は消滅して、二度と復活することはなかった。そのための手段として、武家は朝廷の委託で政務に当たるのだという古来からの形式論が、目いっぱい強調された。朝廷の権威(この場合は、価値あるものと公に認められること)が上がれば、それに反比例して幕府の権威は下がる。このシーソーゲームを最大限活用したのが山縣有朋たち、維新の志士だったのであって、彼らは自然に、権威・価値とは相対的なものであることを会得していたのではないかと思う。
で、あればこそ、ますます、明治の統治機構の正当性も権威も相対的だ、と明らさまに言われるようなことには、神経質にならざるを得なかったであろう。
もっとも、鷗外の長男森於菟の証言によると、「神様といふものは科学的に言へばないけれども、あるもののやうに考へなければいけない」、と鷗外が言うのを聞いて、山縣は、「こいつは何でも出来る人間だが危険な人物ではないと」気を許すようになったとのこと(安川民男「『かのやうに』を巡って」より孫引き)。事実とすれば、山縣は、今日普通に思われているよりも柔軟な人物だったのかも知れない。
尚また考えるべきことがある。革命のような大きなモメントはなくても、権威の相対性は自然に現れてくる。典型的には、儀式や、儀式的なものの形骸化を通して。五条子爵を不安にするのはこれであって、むしろよりやっかいかも知れない。
論語で、「祭るに在すが如くす」(八佾篇第三)と孔子が言うのは、祭るべき神霊は「実際は、この場には、いない」ことが前提になっているので、むしろ「かのようにの哲学」に近い。現に秀麿もこの言葉を、自説の補強として援用している。
ただ、孔子が秀麿と違うのは、知的に必要性を理解する、というのではなく、儀式の実践(むしろ、実践をなぞった行為)によって、ないものを「在る」かのように意識せしめる人間の、身体ぐるみの「在り方」を問題にしているところだろう。思うに、神霊に対するこのような実践倫理を、生きる人間同士にまで拡張しようとしたのが、孔子の「礼」だったのではないだろうか。
それは目に見える形としての礼法を要する。ところが、形は、長い間には風化を免れ得ない。儀式は簡略化され、意義は忘れられ、無意味ではないか、と意識されるようなものになる。近代に限ったことではない。孔子にしてからが、弟子の宰我に、「父母が亡くなってから三年の喪に服するというのは長すぎます。一年でいいのではありませんか」と言われ、嘆いている(陽貨篇第十七)。人の心は移ろいやすいからこそ、それを支える形が必要とされるのだが、形を支える人間の心が失われれば、すべては崩れてしまう。
森鷗外は夏目漱石と同様、明治という日本近代化の初端を生きた人である。自分が身につけた古い時代の権威・価値観が急速に崩れていくのを目の当たりにする思いはあった。新たな、西洋風の価値観を知れば知るほど、その思いは強くなったろう。後には、同時代を、「(旧来の)禮は皆滅び盡して、これに代るものは成立してをらぬ」(「禮儀小言」大正7年)と評している。
ここでは鷗外は、自ら認める「保守派」の例に似ず、古い形式の墨守や復活を退け、「新なる形式を求め得て、意義の根本を確保する」ことを唱えている。今の世にもその任に当たるべき人は多いのだ、と彼は言う。そうだとしても、それは正に孔子のような、思想家兼実践家の仕事であろう。言葉の専門家としての文学者には、何ができるのだろうか。
「かのやうに」はあまりスッキリした読後感が残る小説ではない。問題を提出して、なんの解決も示唆しないのは、別にかまわないと思う。最大の欠点は、四条子爵家の父子関係がキモであるはずなのに、それがすれ違いで終わっている、いや、より正確には、すれ違うだろうという予想で終わって、いかなる意味でも正面から対峙することがなかったところにある。
四条子爵のモデルは、従来から言われてきた山縣より、むしろ乃木希典の面影が濃いのではないか、と『鷗外選集』の「解説」で小堀桂一郎が言っている。いかにも、彼は治世の観点から近代西洋的な思想に不安を感じていたわけではない。それなら、「かのようにの哲学」に理解を示すことができたであろう。そうではなく、自分一個の拠って立つ地盤のためにと考えた場合には、この哲学は何も確かなものをもたらさない。だいたいが、確かなものなど何もない、という明らかな宣言なのである。一個人としては、真空状態に耐えろ、と言われていることになり、いやあもう……、「そんなことはあまり深く考えない」以外に、普通人には扱いようがない。
以上は綾小路によって明確に指摘される。それがこの小説のヤマである。やっぱり、どうしても、盛り上がりには欠けますなあ。
それもこれも、主人公の秀麿が口だけの人間に終始しているからだ。解決不能な矛盾を抱えつつ生きる人間の行動を描いたほうが、文学としての良し悪しはともかく、印象が強くなるのは確かであろう。
その機会は同じ年のうちに訪れた。
七月、明治帝が崩御され、大正と年号が変わった九月に、親交のあった乃木希典が殉死した。その「遺言条々」には「明治十年之役に於て軍旗を失ひ其後死處得度心掛候も其機を得ず」云々とある。西南の役に連隊を率いて出撃、その際連隊旗を西郷軍に奪われた。官軍の実質的な総責任者だった山縣に、厳しい処分を自ら求めたが、不問に付された。その後ずっと死処を求めて得られず、このたびの御大変に逢着して、老齢にしてもはやお役に立つべき機もなしとの思いもあって、お後を追うことにした、という。
この事件後ただちに鷗外は、「興津弥五右衛門の遺書」を執筆し、『中央公論』に寄稿した。題材は、細川三斎(忠興)に仕えた武士の殉死の顛末で、天明・寛政期に執筆された神澤貞幹の随筆集「翁草」に見える。この武士、興津弥五右衛門は、同僚(相役)を殺害したことで、主君に自裁を申し出たが、主命を果たそうとした上でのことだからと取り上げられず、三斎の十三回忌(原作では三回忌だが、それでは計算に合わないとして、鷗外はこのようにした)に、「【今は】心に懸かり侯事毫末(ごうまつ)も無之(これなく)、只々老病にて相果候が残念に有之(これあり)」と、改めて自害した。
いかにも、乃木の事績に似ている。「興津弥五右衛門の遺書」の初稿は、乃木の誠忠を江戸時代初期の武士のそれとオーバーラップすることで、合理・不合理とは別の出処進退の美しさを炙り出し、もって彼の弁護論としようとしたものだろう。一年後の改稿では、同じく主人公の遺書中の述懐ではあっても、より淡々と綴られており、例えば上の引用文は削除されている。
鷗外の創意は、弥五右衛門が相役を殺すに至った経過、その折の争論に一番多く注がれており、またこの部分は改稿の際もほとんどそのまま残されている。ただし、横田清兵衛という相役の名は、改稿で初めて明らかにされた。
ことの顛末はこうである。細川忠興が剃髪して三斎と号してから三年目、茶事に用いる珍品を買い求めるようにと、興津と横田とを長崎に出張させる。ちょうど伽羅の大木が届いていて、それは本木と末木(うらき。梢の部分)に分かれていた。興津たちと同時に、伊達政宗の家来も本木を欲しがり、競り合ったので、値段は次第にせり上がっていった。
このとき、「本木はもうあきらめて、末木のほうを贖って帰ろう」と言う相役と争いが生じ、興津は彼を討ち果たすに至った。ここまでは「翁草」にある。以下に鷗外の手になる議論を、ただ引用するのも芸がないので、戯曲形式にして、また難しくも何ともない文語を口語訳して、掲げる。
横田 たとえ主命であっても、香木は無用の愛玩物である。法外な大金を投げ出すべきではない。つまりは本木は伊達家に譲り、末木を買い求めたい。
興津 私はそうは思いません。主君のお申し付けは、珍しい品を買い求めて来いということで、現在の渡来品の中で随一の珍品はあの伽羅です。その木に本と末(うら)があるなら、本木のほうが逸品中の逸品であるのは当然のこと、それを手に入れてこそ主命を果たすことになるでしょう。伊達家の伊達(お洒落の意味の伊達)を増長させ、本木を譲ったりしては、細川家の面目を傷つけることになりましょう。
横田 それは力の入れどころが違う。国や城の争奪戦ならば、あくまで伊達家に対抗するのもよかろう。たかが四畳半の炉にくべる木ぎれではないか。そのために大金を捨てるなど、思いもよらない。主君がご自身で競り合うなら、臣下として諫言してお止めすべきことだ。たとえ主君が強いて本木を手に入れたいと思し召されたとしても、それを遂げさせるのは、阿諛追従の行いである。
興津 それはいかにも賢人の言葉のようです。しかしながら私はただ主命というものが大切なので、主君があの城を落とせと仰せになれば、鉄壁の守りと雖も分捕り、あの首を取れとの仰せであれば、相手が鬼神であっても討ち果たすべきであるのと同じく、珍しい品を求めてこいとの仰せであれば、最上の名品を求めるつもりです。主命である以上は、人道に悖(もと)る事は別として、そうでなければ、事柄に立入って批判がましいことを言うのは無用です。
横田 あなたもその通り、道に背くことはしないと言うではないか。これが武具などならば、大金に代えるのも惜しくないだろう。香木に不相応な対価を出そうとするのは、若輩者の心得違いだ。
興津 (前略)御当家に於かれましては、代々武道を深く心掛けていらっしゃり、かつまた、歌道茶事までもご堪能であらせられるのが、天下に比類のないところではないですか。茶の道は無用な虚礼だと言えば、国家の大礼も、先祖の祭祀もすべて虚礼です。我々がこの度命じられたのは茶の道に役立つ珍品を求めることの他にはありません。それが主命であれば、命を懸けても果たすしかなく、あなたが香木に大金を出すことはつまらないと言われるのは、その道のお心得がないために、一途にそう思われるのではないですか。
これで横田が「いかにも某は茶事の心得なし、一徹なる武辺者なり、諸藝に堪能なるお手前の表藝を見たし」と言って脇差を投げつけたので、刀を抜いて切り合いとなり、興津は一打ちに彼を斬り捨てたのだった。この裁きについて、三斎の言葉として、興津は正しい、なぜなら「総て功利の念を以て物を視候はば、世の中に尊き物は無くなるべし」とあるのも、鷗外の創作である。
多言は不要であろう。功利、というか、価値の大小を過度に論えば、世の中に価値あるものなどない、という結論に至るだろうと言う。そこは「かのようにの哲学」が援用されていると見てよい。
ただこの論理も過度に渡らぬようにすべきだろう。例えば、「主命は(ほぼ)絶対」の思いがなければ、人は何もなし得ない。そして、生きる以上、何もなさずにいることは、人にはできないことなのである。
乃木の殉死は、鷗外にも、漱石にも衝撃を与えた。明治末でもまだ、君恩を第一として生きそして死ぬ行き方が現に存在したとは、という思い。ここから、江藤淳のように、二人の文豪が、国家への誠忠に転じた、とまで見るのは行き過ぎであると思う。そこからさらに悪ノリして、忠義を知る武士は、また大日本帝国の臣民は、かくあるべし、などと説教すれば、それは「かのようにの哲学」と同次元の、単なる理屈になってしまう。
鷗外は、この小説では論ぜず、ただ描いた。鮮烈な生き方があり、それに感動する人の心があることこそ、人倫の基礎たるべきものだろう。
それでも、忠義を旨とするような人の心のほうは、一般的に次第に失われるのもまた確かであった。文学は、それへの哀惜の念も含む。そこでは鷗外は漱石と共通していた。すべては移ろいゆく。その根本部分について、鷗外は漱石より深い諦観に達していた。しかし一方、古きものが急速に失われつつある明治期にあって、人はいかに倫理的な生き方が可能なのか、不器用に問い続けるような道は、賢明過ぎる彼の採るところではなかった。
というところで、漱石に戻りましょう。
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漱石作品をあれこれ読み返して漫然と考えていたら、この期のもう一人の文豪、森鷗外のことが気になり出しました。先に、この人の立ち位置を瞥見しておきたい。それが後々どうなるか、わかりませんが、このブログ自体が私の公開ノートみたいなもんですから、あまり深く考えずに、ちょっと、顧みて他を言う式に愚考を述べます。
鷗外と、ほとんどすべての文学者との違いは、国家の、公の身分として、陸軍軍医総監という顕職にまで上りつめたところだろう(そこでの仕事について、いろいろ疑念が持たれていることは以前に書いた)。また山縣有朋、明治維新の志士中最後まで生き残った元勲であり、日本陸軍の創設者と言ってよい人物のブレーントラストの一人でもあった。つまり、「体制側の人間」なのであって、その見解には「治者の視点」が繰り入れられている、と思しい。
これは彼の評判にとってマイナス要因になっている。文学者は反体制であるべきだ、なる思い込みは、世に非常に根強いからだ。何もそう決めつけることはないと思う。私自身は体制側でも反体制でもなく、体制外の人間だが、それは体制を多少とも動かすほどの能力がないからで、能力のある人は、大いにやればよいではないですか? 判定すべきなのは、どう動かしたのか、その内容の良し悪しであろう。
それに、鷗外に関して言えば、「体制内文学者」は世界的に類稀なのだから、モデルケースとして虚心に検討しなければもったいない。
明治最後の年である45年に鷗外森林太郎は数えで知天命の歳になり、いろいろな意味で節目であったように、後からは見える。
明治43年には大逆事件があり、天皇暗殺計画が、きわめて幼稚なものだが、あるにはあったことが明らかになった。【幸徳秋水らは、この「計画」自体には関係なく、こじつけの判決によって処刑されたことは今では明らかになっている。】これを一つのきっかけとして、南北朝正閨論などで、天皇制国家の正当性・正統性(legitimacy)が44年頃から大きく問題にされ出していた。
山縣はこの事態を憂慮し、これに関する意見を鷗外に求めた、という話は事実ではないらしいが、前述のような立場の鷗外が個人的にこの問題を考慮した結果は、45年1月に発表された短編小説「かのやうに」に現れている。
主人公は五条秀麿という、富裕な子爵家の御曹司で、学習院から文科大学(現東京大学文学部)に進み、歴史学を専攻、卒業後は父の金でドイツに留学した。【こんな特権階級がオレになんの関係があるんだ、と言いたくなる気持ちは、私にも分かる。】
留学から帰った秀麿の様子は少し変わった、と家人には見える。昔は虚弱だった体は丈夫になったようだが、態度が。「秀麿が心からでなく、人に目潰に何か投げ附けるやうに笑声をあびせ掛ける習癖を、自分も意識せずに、いつの間にか養成してゐる」ことを、母親は本能的に嗅ぎつけている。また父の子爵は、彼が「極端な自由思想をでも持つてゐはしないかと疑つてゐるらしい」が、そういう単純なものではない。
迷いはまずもって、大学生時分からの望みである、日本史の述作にある。「古事記」や「日本書紀」にある神話をそのまま歴史的事実として記載することができるか。近代的な学問を修めた者として、それはできない。
「信仰」の問題として扱う手段は、ある。神話の成り立ち・教義の変遷・祭祀の機関(今の場合は神社)の歴史、に分けて記述する。例えばプロテスタンティズムには教義史と教会史があるが、それによって新教徒の信仰が毀損されるとは考えられていないのだから、日本神話でそうしても、「祖先崇拝の教義や機関も、特にそのために危害を受ける筈はな」く、安全だ。そうしようか、とは思っても、どうもそれだけではすみそうもないので、秀麿は迷っている。
鷗外はここで、たぶん意図的に、一番厄介な問題には直接触れないようにしているのだろう。それはもちろん、天皇家に直接関連する部分である。祖先崇拝が日本の、広い意味での信仰心の中心だ、ということにはたぶん誰しも異論はない。それと天皇家が繋がっていることも。と、こう大雑把に言うのはいいけれど、具体的にはどうか、と問われると、そう簡単ではない。まして、明治期、憲法によって皇帝(Japanese Emperor)となった天皇まで視野に収めるとなると、この当時はもちろん、現在でも、政治を離れた純粋に学問上の議論とするのがそもそも困難である。
秀麿=鷗外に倣ってそれは棚上げにするとしても、神道について上述のように論じるだけでも難しいところがある。久米邦武が「神道ハ祭天の古俗」だと論じて事実上文化大学の教授職を追われたのは明治25年のことで、鷗外は当然知っていたろう。
因みに久米論文は、内容そのものより、押し出しが少々過激だった。明治24年専門誌『史學會雜誌』に三回に分けて掲載されたものを、より一般的な『史海』に再録した際、同誌編集者の田口卯吉(鼎軒)が序をつけて、「若し彼等【=神道熱信家】にして【この論文について】尚ほ緘黙せば、余は彼等は全く閉口したるものと見做さゞるべからず」などと挑発したのだし、論文中にも「神道を學理にて論ずれば、國體を損ずと、憐れ墓なく謂(いう)者もあり。國體も皇室も、此(か)く薄弱なる朽索(きゅうさく。腐った縄の意)にて維持したりと思ふか」などと、尖った言い方がある。
秀麿が古神道について書けば、内容は同じようなものになったろうが、「神道熱信家」と摩擦を起こす気はなかった。いや、他はともかく、敬愛する父を悲しませるに忍びないのだ、と彼は言う。そうならないためには、祖先崇拝の儀式は古俗であって差支えなく、自分も軽んじるつもりは毛頭ないことを示さなくてはならない。
そこで、「かのようにの哲学」(Die Philosophie des Als Ob)。新カント派の哲学者として知られるハンス・ファイヒンガーがドイツでこの題名の書を出版したのは1911年、つまり明治44年で、鷗外はすぐに新刊を入手して読んだものらしい。秀麿はこれを援用して、日本古代史を叙する際の、自己の足場を築こうとする。その大略は、友人である画家の綾小路に、以下のように説明される(カッコ内は私の付け加えです)。
曰く、「本当の事実」とは何か。例えば裁判での判決文がそうか。それが文としてまとめ上げられている以上は、必ず判事の主観を通ったものであって、事実そのものではない(だからこそ、役に立つ、即ち、価値がある)。逆に小説は、最初から事実ではないことは明らかだが、文として価値が認められる。神話もそうで、事実が基にあるかもしれないが、それは価値とは関わらない(だから、神話は事実ではないと言っても、その価値を貶めたことにはならない)。
また曰く。幾何学で言う純粋な点や線は、自然界には存在しない。また、物理学で言う原子も、普通の意味で存在が確認されたものではない。しかし、それらが「ある」と考えなければ、これらの学問は発展しない(すると、文明も進展しない)。自由も、霊魂不滅も、義務も(いわゆる客観物としては)存在しない。しかし、あるとしなければ、宗教も倫理も成り立たない。さらに言えば、この世のすべては相対的で、絶対的なものはない(それをある「かのように」見なさなければ、社会自体が成立しない。さらに言えば、ないものをある「かのように」みなせる能力こそ、人間の特長である)。
またまた曰く。例えば人間がサルから進化したというのは事実問題(というより科学問題)であって、それとして究明しなければならないが、どこまでいっても価値とは無関係。自分は事実(科学)とは別次元の理想を信じる。事実ではないからと言って貶め、否定して、価値を破壊しようとするのが危険思想なのだから、自分は危険思想の持ち主ではない。
上の一番最後のがあるおかげで、これが書かれた動機は、「私は神話を歴史的な事実とは認めませんけれど、危険思想家ではありません」という弁解か、少し好意的に見ても、「学問をしている人間をいちいち目くじらをたてて取り締まる必要はありません」と山縣有朋たち政府の要路への建議だったのではないか、とも言われてきた。それは治者の見地と言ってよく、そう思ってこの論を見ると、いかにも、何やらケチ臭く思われてくる。作者自身もそう感じていたらしく、作中で、話を聞いた綾小路が、最初「意気地が無い」と評しているくらいだ。
しかし、そこを離れることができたら、「かのようにの哲学」は、ごく穏当な、いわば常識論を述べただけのものだ、とも見えてこないだろうか。価値は科学的客観的に存在しているというよりは、畢竟人間の主観の問題である、と言っているだけなのだから。それは客観的な事物についても、我々は、あれやには価値あり、これやには価値なし、と言い暮らしている。しかし、どんな場合でも価値付けそのものは人間がやる。それは確かだろう。
と言って、これで問題の片がつくわけはない。鷗外もそれを知っていたからこそ、エッセイではなく小説の形でこれを書いたのだ。作中で秀麿の主張は、二度にわたって疑問に付され、それにはなんの解決もつかずに終わっている。
一つ目はドイツ留学中に秀麿がよこした手紙を読んで、父の五条子爵が不安を感じるところ。秀麿は自由主義神学者アドルフ・ハルナックの事績を褒め、神学という学問は、教育のおかげで素朴な信仰をなくした人が、宗教の必要性を認めるためにこそ必要なのだ、と書いていた。
五条子爵家では、明治の初期、廃仏毀釈運動が盛んな折に、それまでの菩提寺と縁を切って、葬祭の儀は神官にのみ任せてきた。キリスト教とはもとより縁がなく、今の信仰の対象は祖先の神霊しかない。が、それをもちゃんと信じているのかというと、我ながらどうも怪しい、と父は考え始める。
「祭をする度に、祭るに在(いま)すが如くすと云ふ論語の句が頭に浮ぶ。併しそれは祖先が存在してゐられるやうに思つて、お祭をしなくてはならないと云ふ意味で、自分を顧みて見るに、実際存在してゐられると思ふのではないらしい」。といって子爵は、息子のように本を読んで、信仰心はないが宗教の必要は認める、というのでもない。自分一個に限らず、世間一般が、「自分が信ぜない事を、信じてゐるらしく行つて、虚偽だと思つて疚(やま)しがりもせず、それを子供に教へて、子供の心理状態がどうならうと云ふことさへ考へてもみないのではあるまいか」。
普通のまじめな人にこんな恐れを起こさせるだけでも、「かのようにの哲学」は危険思想と呼ばれるべき値打ちがあるのかも知れない。父はまた、秀麿がこの種の懐疑に取り憑かれて悩んでいるのではないかと思って、心配するのである。
第二に、秀麿から前述の説明を聞いた綾小路。「駄目だ」と、ぴしゃりとやっつける。
人に君のやうな考になれと云つたつて、誰がなるものか。百姓はシの字を書いた三角の物を額へ当てゝ、先祖の幽霊が盆にのこのこ歩いて来ると思つてゐる。道学先生は義務の発電所のやうなものが、天の上かどこかにあつて、自分の教(をす)はつた師匠がその電気を取り続(つ)いで、自分に掛けてくれて、そのお蔭で自分が生涯ぴりぴりと動いてゐるやうに思つてゐる。みんな手応(てごたへ)のあるものを向うに見てゐるから、崇拝も出来れば、遵奉も出来るのだ。
では、綾小路自身はどうなのだ、幽霊が存在すると思っているわけでもあるまいに、と問われると、そういうことはなるべく考えないようにしている、との答え。これが危険ではない、普通の人の行きかたと言ってよいだろう。だからといって、事柄自体の危険性が消えるわけではないが。
少し細かく考えよう。
点や線、原子などが自然界に存在するわけではなく、人間の観念の所産であることを指摘しても、かまいはしない。人間の道徳感情には関わらず、従って個人の自尊心にも、社会の権威・権力のレジティマシーにも関わらないからだ。
「自由」については、民主主義社会を運営するうえで重要な約束事ではある。つまり、政治上の概念なのであって、実際上それ以外には問題にならない。別に、「自由とは何か」などと哲学的に問うことはできるが、そんなことに頭を悩ませる人のほうがずっと少数だろう。
この後から危険領域に入る。「霊魂不滅」はない、と言えば、多くの宗教を実際上否定することになり、当然信者たちの感情を害する。いや、自分はそれとは別の次元で宗教を尊重しているのだ、と言っても、それはつまり何かの、たぶん社会の便宜のために、宗教を使うというのと変わらないのだから、宗教がもたらすと期待されている「絶対」の観念は傷つけられる。そう感じるであろう素朴な人々には、秀麿としても、「目潰に何か投げ附けるやうに笑」うしか手立てはなかった。
「義務」は、個々人にある行為を強制する度合いが強いので、しばしば厄介の種になる。「自由」と同じように、人間社会を成り立たせるためには必須の観念である(他人の自由はできるだけ尊重するべき、など)、という段階なら、特に問題はない。しかし、ひとたび集団全体としての「よりよい生き方」が求められると、「より高い義務」の観念が生まれる。それは当然、「より低い義務」の観念をも招来する。例えば、ある宗教や国家を守るためなら、個人の生活や、命まで、犠牲にするのが当然のように語られたりする。これはそのまま、前者は本当に、そんな犠牲に値するほどの価値なのか、と問われる契機になる。
現に、宗教や国家の価値は、歴史上絶えず疑われ、時に変更されてきた。
五条子爵家が実践した廃仏毀釈は、仏教否定に他ならない。その動機は、天皇中心の神道を改めて宗教にしようとした場合、他宗教は「邪教」としなければまずいだろうという、わりあいと西洋的な思いにある。これに対して、神道は古俗、つまり古くからある習俗であって、宗教ではないのだから、日本史上仏教や儒教ともうまく両立してやってこれた、新時代だからと言ってそれを変える必要はない、と主張したのが前記久米論文だった。それでは、日本古来の道やら天皇家を軽んじる結果になると、ある人々の目からは見えるのは、全く当然でしかない。
事実問題からすると、仏教が日本から消えることはなかった。日本では、宗教を含めた純粋に思想上の対立が、大きな、激しい葛藤を引き起こすことはあまりない。その意味では久米邦武は正しかったようだ。
一方、実際の統治機構である幕府は消滅して、二度と復活することはなかった。そのための手段として、武家は朝廷の委託で政務に当たるのだという古来からの形式論が、目いっぱい強調された。朝廷の権威(この場合は、価値あるものと公に認められること)が上がれば、それに反比例して幕府の権威は下がる。このシーソーゲームを最大限活用したのが山縣有朋たち、維新の志士だったのであって、彼らは自然に、権威・価値とは相対的なものであることを会得していたのではないかと思う。
で、あればこそ、ますます、明治の統治機構の正当性も権威も相対的だ、と明らさまに言われるようなことには、神経質にならざるを得なかったであろう。
もっとも、鷗外の長男森於菟の証言によると、「神様といふものは科学的に言へばないけれども、あるもののやうに考へなければいけない」、と鷗外が言うのを聞いて、山縣は、「こいつは何でも出来る人間だが危険な人物ではないと」気を許すようになったとのこと(安川民男「『かのやうに』を巡って」より孫引き)。事実とすれば、山縣は、今日普通に思われているよりも柔軟な人物だったのかも知れない。
尚また考えるべきことがある。革命のような大きなモメントはなくても、権威の相対性は自然に現れてくる。典型的には、儀式や、儀式的なものの形骸化を通して。五条子爵を不安にするのはこれであって、むしろよりやっかいかも知れない。
論語で、「祭るに在すが如くす」(八佾篇第三)と孔子が言うのは、祭るべき神霊は「実際は、この場には、いない」ことが前提になっているので、むしろ「かのようにの哲学」に近い。現に秀麿もこの言葉を、自説の補強として援用している。
ただ、孔子が秀麿と違うのは、知的に必要性を理解する、というのではなく、儀式の実践(むしろ、実践をなぞった行為)によって、ないものを「在る」かのように意識せしめる人間の、身体ぐるみの「在り方」を問題にしているところだろう。思うに、神霊に対するこのような実践倫理を、生きる人間同士にまで拡張しようとしたのが、孔子の「礼」だったのではないだろうか。
それは目に見える形としての礼法を要する。ところが、形は、長い間には風化を免れ得ない。儀式は簡略化され、意義は忘れられ、無意味ではないか、と意識されるようなものになる。近代に限ったことではない。孔子にしてからが、弟子の宰我に、「父母が亡くなってから三年の喪に服するというのは長すぎます。一年でいいのではありませんか」と言われ、嘆いている(陽貨篇第十七)。人の心は移ろいやすいからこそ、それを支える形が必要とされるのだが、形を支える人間の心が失われれば、すべては崩れてしまう。
森鷗外は夏目漱石と同様、明治という日本近代化の初端を生きた人である。自分が身につけた古い時代の権威・価値観が急速に崩れていくのを目の当たりにする思いはあった。新たな、西洋風の価値観を知れば知るほど、その思いは強くなったろう。後には、同時代を、「(旧来の)禮は皆滅び盡して、これに代るものは成立してをらぬ」(「禮儀小言」大正7年)と評している。
ここでは鷗外は、自ら認める「保守派」の例に似ず、古い形式の墨守や復活を退け、「新なる形式を求め得て、意義の根本を確保する」ことを唱えている。今の世にもその任に当たるべき人は多いのだ、と彼は言う。そうだとしても、それは正に孔子のような、思想家兼実践家の仕事であろう。言葉の専門家としての文学者には、何ができるのだろうか。
「かのやうに」はあまりスッキリした読後感が残る小説ではない。問題を提出して、なんの解決も示唆しないのは、別にかまわないと思う。最大の欠点は、四条子爵家の父子関係がキモであるはずなのに、それがすれ違いで終わっている、いや、より正確には、すれ違うだろうという予想で終わって、いかなる意味でも正面から対峙することがなかったところにある。
四条子爵のモデルは、従来から言われてきた山縣より、むしろ乃木希典の面影が濃いのではないか、と『鷗外選集』の「解説」で小堀桂一郎が言っている。いかにも、彼は治世の観点から近代西洋的な思想に不安を感じていたわけではない。それなら、「かのようにの哲学」に理解を示すことができたであろう。そうではなく、自分一個の拠って立つ地盤のためにと考えた場合には、この哲学は何も確かなものをもたらさない。だいたいが、確かなものなど何もない、という明らかな宣言なのである。一個人としては、真空状態に耐えろ、と言われていることになり、いやあもう……、「そんなことはあまり深く考えない」以外に、普通人には扱いようがない。
以上は綾小路によって明確に指摘される。それがこの小説のヤマである。やっぱり、どうしても、盛り上がりには欠けますなあ。
それもこれも、主人公の秀麿が口だけの人間に終始しているからだ。解決不能な矛盾を抱えつつ生きる人間の行動を描いたほうが、文学としての良し悪しはともかく、印象が強くなるのは確かであろう。
その機会は同じ年のうちに訪れた。
七月、明治帝が崩御され、大正と年号が変わった九月に、親交のあった乃木希典が殉死した。その「遺言条々」には「明治十年之役に於て軍旗を失ひ其後死處得度心掛候も其機を得ず」云々とある。西南の役に連隊を率いて出撃、その際連隊旗を西郷軍に奪われた。官軍の実質的な総責任者だった山縣に、厳しい処分を自ら求めたが、不問に付された。その後ずっと死処を求めて得られず、このたびの御大変に逢着して、老齢にしてもはやお役に立つべき機もなしとの思いもあって、お後を追うことにした、という。
この事件後ただちに鷗外は、「興津弥五右衛門の遺書」を執筆し、『中央公論』に寄稿した。題材は、細川三斎(忠興)に仕えた武士の殉死の顛末で、天明・寛政期に執筆された神澤貞幹の随筆集「翁草」に見える。この武士、興津弥五右衛門は、同僚(相役)を殺害したことで、主君に自裁を申し出たが、主命を果たそうとした上でのことだからと取り上げられず、三斎の十三回忌(原作では三回忌だが、それでは計算に合わないとして、鷗外はこのようにした)に、「【今は】心に懸かり侯事毫末(ごうまつ)も無之(これなく)、只々老病にて相果候が残念に有之(これあり)」と、改めて自害した。
いかにも、乃木の事績に似ている。「興津弥五右衛門の遺書」の初稿は、乃木の誠忠を江戸時代初期の武士のそれとオーバーラップすることで、合理・不合理とは別の出処進退の美しさを炙り出し、もって彼の弁護論としようとしたものだろう。一年後の改稿では、同じく主人公の遺書中の述懐ではあっても、より淡々と綴られており、例えば上の引用文は削除されている。
鷗外の創意は、弥五右衛門が相役を殺すに至った経過、その折の争論に一番多く注がれており、またこの部分は改稿の際もほとんどそのまま残されている。ただし、横田清兵衛という相役の名は、改稿で初めて明らかにされた。
ことの顛末はこうである。細川忠興が剃髪して三斎と号してから三年目、茶事に用いる珍品を買い求めるようにと、興津と横田とを長崎に出張させる。ちょうど伽羅の大木が届いていて、それは本木と末木(うらき。梢の部分)に分かれていた。興津たちと同時に、伊達政宗の家来も本木を欲しがり、競り合ったので、値段は次第にせり上がっていった。
このとき、「本木はもうあきらめて、末木のほうを贖って帰ろう」と言う相役と争いが生じ、興津は彼を討ち果たすに至った。ここまでは「翁草」にある。以下に鷗外の手になる議論を、ただ引用するのも芸がないので、戯曲形式にして、また難しくも何ともない文語を口語訳して、掲げる。
横田 たとえ主命であっても、香木は無用の愛玩物である。法外な大金を投げ出すべきではない。つまりは本木は伊達家に譲り、末木を買い求めたい。
興津 私はそうは思いません。主君のお申し付けは、珍しい品を買い求めて来いということで、現在の渡来品の中で随一の珍品はあの伽羅です。その木に本と末(うら)があるなら、本木のほうが逸品中の逸品であるのは当然のこと、それを手に入れてこそ主命を果たすことになるでしょう。伊達家の伊達(お洒落の意味の伊達)を増長させ、本木を譲ったりしては、細川家の面目を傷つけることになりましょう。
横田 それは力の入れどころが違う。国や城の争奪戦ならば、あくまで伊達家に対抗するのもよかろう。たかが四畳半の炉にくべる木ぎれではないか。そのために大金を捨てるなど、思いもよらない。主君がご自身で競り合うなら、臣下として諫言してお止めすべきことだ。たとえ主君が強いて本木を手に入れたいと思し召されたとしても、それを遂げさせるのは、阿諛追従の行いである。
興津 それはいかにも賢人の言葉のようです。しかしながら私はただ主命というものが大切なので、主君があの城を落とせと仰せになれば、鉄壁の守りと雖も分捕り、あの首を取れとの仰せであれば、相手が鬼神であっても討ち果たすべきであるのと同じく、珍しい品を求めてこいとの仰せであれば、最上の名品を求めるつもりです。主命である以上は、人道に悖(もと)る事は別として、そうでなければ、事柄に立入って批判がましいことを言うのは無用です。
横田 あなたもその通り、道に背くことはしないと言うではないか。これが武具などならば、大金に代えるのも惜しくないだろう。香木に不相応な対価を出そうとするのは、若輩者の心得違いだ。
興津 (前略)御当家に於かれましては、代々武道を深く心掛けていらっしゃり、かつまた、歌道茶事までもご堪能であらせられるのが、天下に比類のないところではないですか。茶の道は無用な虚礼だと言えば、国家の大礼も、先祖の祭祀もすべて虚礼です。我々がこの度命じられたのは茶の道に役立つ珍品を求めることの他にはありません。それが主命であれば、命を懸けても果たすしかなく、あなたが香木に大金を出すことはつまらないと言われるのは、その道のお心得がないために、一途にそう思われるのではないですか。
これで横田が「いかにも某は茶事の心得なし、一徹なる武辺者なり、諸藝に堪能なるお手前の表藝を見たし」と言って脇差を投げつけたので、刀を抜いて切り合いとなり、興津は一打ちに彼を斬り捨てたのだった。この裁きについて、三斎の言葉として、興津は正しい、なぜなら「総て功利の念を以て物を視候はば、世の中に尊き物は無くなるべし」とあるのも、鷗外の創作である。
多言は不要であろう。功利、というか、価値の大小を過度に論えば、世の中に価値あるものなどない、という結論に至るだろうと言う。そこは「かのようにの哲学」が援用されていると見てよい。
ただこの論理も過度に渡らぬようにすべきだろう。例えば、「主命は(ほぼ)絶対」の思いがなければ、人は何もなし得ない。そして、生きる以上、何もなさずにいることは、人にはできないことなのである。
乃木の殉死は、鷗外にも、漱石にも衝撃を与えた。明治末でもまだ、君恩を第一として生きそして死ぬ行き方が現に存在したとは、という思い。ここから、江藤淳のように、二人の文豪が、国家への誠忠に転じた、とまで見るのは行き過ぎであると思う。そこからさらに悪ノリして、忠義を知る武士は、また大日本帝国の臣民は、かくあるべし、などと説教すれば、それは「かのようにの哲学」と同次元の、単なる理屈になってしまう。
鷗外は、この小説では論ぜず、ただ描いた。鮮烈な生き方があり、それに感動する人の心があることこそ、人倫の基礎たるべきものだろう。
それでも、忠義を旨とするような人の心のほうは、一般的に次第に失われるのもまた確かであった。文学は、それへの哀惜の念も含む。そこでは鷗外は漱石と共通していた。すべては移ろいゆく。その根本部分について、鷗外は漱石より深い諦観に達していた。しかし一方、古きものが急速に失われつつある明治期にあって、人はいかに倫理的な生き方が可能なのか、不器用に問い続けるような道は、賢明過ぎる彼の採るところではなかった。
というところで、漱石に戻りましょう。