
Lo Straniero, 1967, directed by Luchino Visconti
【由紀→F氏】第3信
私はいわゆる中二病です。60代半ばになってもいっこうに成熟できません。今度のやりとりで改めて実感されました。Fさんなら治療法を思いつくかも知れません。しかし、たぶん死ぬまで治らないでしょう。問題は、私自身に治る気がないことで。それがこの病態の、やっかいな特徴の一つなのでしょう。
以下は、そういう者の言うことです。失礼にわたることもあるかも知れませんが、どうぞご寛恕ください。
もう何度目かになりますが、今回のご発表にはとても興味深くうかがいました。その理由の一つは、後半の、秋葉原連続殺傷事件の犯人に関するところが、ご論のハイライトだったわけですが、そこに、「非行を犯して罪に問われた少年に対し、いきなり〈常識的な見識-行動〉のセットを対置するのではなく、少年を本当に反省させ責任を感じさせる(少年の人格を大きくする)には、どのような方法があるか」という問題意識が、ほとんど感じられなかったからです。念のために、これは批判でもなければ皮肉でもありません。
だいたい、この犯人は犯行当時で25歳、少年法でいう「少年」ではありません。「恵まれない環境で一般の少年よりも精神的成長が遅れてしまった少年」ではなかったし、「保護者は生計を立てることなどに精一杯で」(以上、小浜ブログへのF氏のコメントから引用)放任された少年でもなかった。放任と言うよりは過干渉と言うべき、かなり特殊な母子関係から、特殊な精神構造になってしまった「元少年」ですね。実際、そうでなければ、ああいう特殊な犯罪に走ることはなかったろう、と思います。
ともかく、この稀に見る凄惨な犯罪は起こってしまった。犯人をどう処遇するか。今の日本なら、刑法39条(心身喪失・心神耗弱)が適応されない限り、死刑は免れないでしょう。死刑とは、人間社会からの完全な排除ですが、同じような措置は古今東西途絶えることはなかったようです。これなしで、社会を防衛することはできなのではないか、と多くの人が信じているからでしょう。因みに、死刑が廃止された欧米諸国では、凶悪犯は逮捕の前に、従って裁判以前に、警官が射殺する例がよくみられると言われていますね。
以上はあるいは人間の野蛮な部分なのかも知れない。犯罪者は、特に凶悪犯罪者は「人」なのであって、人間扱いしなくてよい、などと言われることもある。これに対して、「人間」の概念をもっと広げよう、もっと深い観点から「人間」を捉えよう、という試みも、「文明」の中で細々と続いておりますね。試みの一つが「文学」であり、また「精神医学」もそうだ、と言えるでしょう。ここに由来する言説が世の大勢を占めることはあり得ませんけれど、消失するようなことあってはならない。私はそう信じる者です。
しかし、困難は別の方面にもあるのです。このような、世の一般的な体制からは別様に人間を考えようとする試みが、いくらか価値があるものだと世に認められると、それ自体が体制化し、権力の一部になってしまうという。ミシェル・フーコーが夙に指摘したように、18世紀になって「精神病」が定型化され、その処置法(治療法)も定型化されると、あるいは「定型」と見えるものになると、それは現に社会を支える制度の一部となるのです。
悪いことではないでしょう。フーコーと似たような視点から古代・中世世界を語る人々は、「無縁・公界・楽」とか「悪場所」なんぞという、正規の体制に組み込まれない場をロマンチックに描く傾向がありますが、それがそんなによかったはずはない。現在「狂人」と呼ばれている人々は、たいていは、劣悪な環境に放置されていた違いないのです。それに比べたら、近代的な治療のおかげで、清潔に生きられるし、中にはちゃんと「正常」になって、社会復帰を遂げた人も、たぶん、いないこともないのではないか、と。
ところで今の問題は、いわゆる狂気ではなく、「狂気の犯行」などと呼ばれることもある、不可解な罪を犯す人間についてです。「9歳の壁」とか、劣悪な環境や資質が基になった年少の犯罪者のことはしばらく横に置いときまして。
たぶんここまででもうFさんにはおわかりになったかと、期待半分に予想しますが、私の違和感は、Fさんが「人間に対し、画一的、観念的に関わるか、それとも個人に対して柔軟に実際的にかかわるか」を問題にしているのに、「人間は変わるか、変わらないか」という問題提起と受け取っているところに由来する、のではありません。人間が変わるか変わらないかなんて、自分についても他人についても結局わからない、ぐらいのことはFさんもわかっていらっしゃるだろうぐらいは、こちらもわかっています。
私が気にしているのは、そもそもどうしてFさんたちが「人間にかかわ」ろうとするのか、にあります。「本音から真摯な反省が生まれる」ことを期して、なのですね? まあ、当然ではありますね。こういう口実(敢えてこう申します)がなかったら、Fさんのような職業や立場が社会的に認められるはずもなし。
それでも言わずにはいられないのが、中二病の中二病たるゆえんです。「反省」っていったいなんでしょう? 「自分が悪かったんだ」、と思うこと? その前提である善悪の基準はどこから来るのか? 社会、即ち制度の側からですね? そうではなく、人間には生得的に道徳心があり、他人への思いやりもあるのかどうか、なんて今議論する必要はない。いずれにもせよ、社会的に「正しくない」ことをしてしまった人間は、「正しくなれ」と強要される。だから、正しさは自分にはなく、自分の外部にある。そうとしか思いようがない。
いや、そう思わせられている。そう思えってんだろ? そのくせ、俺を「理解」するってか? お前たちにとって都合のいい「俺」になるために。しかし、そうなったらそれはもう「俺」じゃないんだけど。
Fさんはこんな意味のことを言う少年に出会ったことはないですか? そんな時にはどう対応なさるんですか?
例えばアルベール・カミュは、些細としか思えない理由で人を殺しておいて、裁判で「反省」も「人間的な情」も示すことを拒否して死刑の判決を受け、しまいには神父の差し出す宗教的な救いも拒絶する男を描きました。もちろんここには作者の思想的な傾向が色濃く滲み出てはいますが、しかし一方、人間はここまでなり得るんだ、と説得力をもって描き出している。それは作者が、「いや、そうは言っても、殺される側からしたらたまったもんじゃないんだけどな」という、常識的な、というかこの社会に責任を持つ「大人」としては当然の観点を、作中ではきれいに投げ捨てているからです。
あらゆる意味で特殊な「人間」を「理解」し、人間の見方を広げたり深めたりするのは、こういうことが必要なのではないか。そうでなければ、「画一的、観念的」に関わろうと、「柔軟に、実際的に」関わろうと、「北風と太陽」の違いはあっても、しょせんその違いだけではないか。Fさんたちの「面接」が、再犯の防止に役立つのであれば、それはこの社会にとって有用です。もちろんそれはそれで、社会的に大したものではありますけれど、それ以上ではない、そのことは認めるべきではないか。
さて、もう長く書き過ぎましたし、内容的に、けっこう苦しい思いもしています。一番底にあることを曝け出してしまったからです。こんな私にも、何か応えていただけますでしょうか?
【F氏→由紀】第4信
メールありがとうございます。
カミュの『異邦人』に言及されておられたので、私も読み直したりしていて、お返事が遅くなりました。
加藤の事件の分析に、非行少年の人格を大きくするという問題意識が殆ど感じられなかったということですが、尤もだと思います。発表の際にも、付言しましたが、ある研究誌に投稿したところ、加藤の分析の部分は載せられないと言われ、急遽、加藤の分析を編集者の意に沿うように少年院在院者の抱える問題と差し替え、前後の部分を少年院在院者の抱える問題とつながるように修正したという経緯があります。
加藤の事件を取り上げたのは、加藤が4冊の手記を公刊していて分析材料がそろっているということがありますが、何よりも加藤自身が分析の方法論を問題にし、状況決定論的な方法論を批判し、分析に状況を受け止める主体の観点を導入した点にあります。ただし、その主体が「戦車のハート」で機械論的であり、情緒的な面を欠いた主体であることを問題にしました。
由紀さんがフーコーや「無縁・公界・楽」に言及された趣旨も分かるような気がします。『異邦人』とともに学生時代に夢中で読んだ本に梅本克己の『唯物史観と現代』があり、梅本は歴史的視点を喪失した見方を次のように批判していますが、由紀さんの視点と重なるところがあるように感じました。
マルクスは「私有財産」と「分業」をはげしく攻撃している。だがもし人間の本質が、まだ私有財産も分業も発生させていない原始的な共同体の中にだけあって、私有財産と分業の発生以来、人間はその本質を喪失してきたということにしてみよう。私有財産の止揚による疎外からの回復とは何だろう。まだ人間文化の何ほども展開していない貧しい原始人の生活にかえるだけだ。私はそのような歴史観を「本質喪失史観」とよぶことにしているが、マルクスが私有財産の「積極的止揚」というとき、この言葉は、そのような貧弱な、非歴史的見地、その非人間的見地に対する決定的な抗議をひめたものだ、ということである。
「そもそもどうして人間に関わろうとするのか」ということですが、端的に仕事だからです。同じ関わるにしても、民間で営業などの仕事に関わるより、少しでも自分の興味関心に関係がある方が良いと思って、消去法で就職先を選びました。
俺を「理解」するってか? お前たちにとって都合のいい「俺」になるために。しかし、そうなったらそれはもう「俺」じゃないんだけど。Fさんはこんな意味のことを言う少年に出会ったことはないですか? そんな時にはどう対応するのかということですが、発表で紹介した通り、そこまで内省できる少年、それを口にできる少年は殆どいません。
ただし、ある少年から「Fさんは仕事でやってるのだから信頼はしていない」と言われたことがあります。そのときは、「仕事でやっているのは確かだけれど、仕事でやっているから信頼できる面もある。自分としてはそこを利用してもらえれば良いと思っているのだが……」と応えました。
カミュの『異邦人』については読み返しましたが、私は「人間はここまでなり得るんだ」「常識的な、というかこの社会に責任を持つ『大人』として当然の観点をきれいに投げ捨てている」とは思いませんでした。
文庫本の解説には、カミュが英語版に寄せた次のような自序が紹介されています。
……母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮らす社会では、異邦人としてあつかわれるよりほかはないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。(中略)生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。ムルソーは外面から見たところとちがって、生活を単純化させようとはしない。ムルソーは人間の屑ではない。(中略)彼が問題とする真理は、存在すること、感じることとの真理である。それはまだ否定的ではあるが、これなくしては、自己も世界も、征服することはできないだろう。
また、私の大変好きなくだりですが、小説の末尾でムルソーは司祭に対して「君はまさに自信満々の様子だ。そうではないか。しかし、その信念のどれをとっても、女の髪の毛一本の重さにも値しない。君は死人のような生き方をしているから、自分が生きているということにさえ、自信がない。私はといえば、両手はからっぽのようだ。しかし、私は自信を持っている。自分について、すべてについて……」と心の底をぶちまけています。
従って、私は、カミュが投げ捨てようとしているのは、責任ではなく(ムルソーは死刑を受け入れています)、大人社会の常識的な観点だと思います。
そして、以上の私の読み方が間違いでなければ、私の「いきなり〈常識的な見識〉を対置させても、分かってもらえないと失望を感じる可能性が大きい」旨の主張も、『異邦人』の主題と二律背反であるとは言えないのではないかと思います。
由紀さんはご自分のことを「中二病」と述べておられますが、私も重症の「中二病」です。というより、偏見かも知れませんが、「しょ~とぴ~すの会」には「中二病」の傾向のある方を惹きつけるものがあるのではないでしょうか?
自分では「しょ~と・ぴ~すの会」の主だったメンバーの方とは自分の考え方は基本的な点ではそんなに違わない思って発表したのですが、意外な感想、意見があり驚きました。同じような概念を使い、同じような論理を述べていても、背景が異なると真逆の意味になってしまうのかも知れません。
由紀さんの率直な感想を心にとどめて勉強や思索を続け、自分抱いているテーマをできるだけ誤解なく伝えられるようになりたいと思っています。