由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

学校は黄金の卵を産まない

2021年05月28日 | 教育

The Goose that laid the Golden Eggs - Fairy tale - English Stories

メインテキスト:小松光/ジェルミー・ラブリー『日本の教育はダメじゃないー国際比較データで問い直す』(ちくま新書令和3年)
 本書を読んで、驚いた。今までこういう言説が出てこなかったのがまず驚きだが、本書発行以後でも、たとえ反論であっても、これを踏まえた論は、管見の限りでは、全くない。「日本の学校教育は全体としていいほうで、教師はよくやっている」などとは、意地でも言わない、言ってはならない、とかなりの人が決意しているようだ。
 以下に、本書が挙げているポイントのうちいくつかを、箇条書きにして、多少の注釈を加える。「国際比較」のための主な資料はご存知のPISAの調査である。

(1)2015年度中2生対象のテストで、日本は数学で5位、理科で2位(1位は両分野ともシンガポール)。
 これはピザではなく、TIMSS(国際数学・理科教育動向調査。中学校だと40の国と地域で、約25万人が参加)による国際比較。この調査は数理の分野で「学校で習ったことをどれくらいきちんと覚えていて使えるか」に重点をおいたもの。対してピザは「知識を創造的に使えるか」を調べるのだそうだ。前者を「20世紀型学力」、後者を「21世紀型」、と呼ぶらしい。

(2)そのピザの調査(2018年)では、日本は数学的リテラシーの分野で6位、科学的リテラシーで5位、読解で15位(1位は3分野とも中国)。
 一番下位の読解の分野でも、参加79カ国中ではもちろん、OECD37カ国の中でも真ん中より上ではあるのだが、以前よりは下がっている。これに関する報道と論説はいくつか見た。今の若者・子どもの多くが本を読まなくなったことが最大の原因だろうが、それを踏まえた上で、今後の日本の学校で課題とすべきことの一つ、と言われれば、その通りであろう。

(3)しかしピザには「創造的問題解決」に関するテストが別にあって、そこで日本は参加した40カ国中3位。また、2015年度には「協同的問題解決」についても調査され、日本は2位。前者は意外でも、後者は納得しやすいかも知れない。日本という国は同調圧力が強く、そのためチームであるプロジェクトに取り組むことは得意である、と思われているから。
 むしろ不審なのは、日本人が、ならったことをただ覚えるだけではなく、それを能動的に問題解決に生かす点でも、世界でトップクラスという調査結果は、マスコミに取り上げられることもあまりなく(取り上げた人も何人かはいるが)、従ってあまり知られていないことの方であろう。
 この部分にはもう一つ注目すべきことが書かれている。ティムズでもピザでも、上位にはだいたい同じ、東アジア諸国が並ぶ。これには、様々な国情が関係しているであろうが、それとは別に、「20世紀型」から「21世紀型」とか、「知識から創造へ」などと言うときには、この事実は考慮すべきであろう。創造的な能力を高めるためには、まず知識を習得しなければ始まらないのではないか、と。

(4)OECDは近年、15歳を対象としたピザの他に、大人を対象としたPIAAC(ピアック、国際成人力調査)という調査を行っている。これについては本書記載の実施年などが、なぜか、私がネット上で見たものとは違うので、後者に基づいて述べる。
 調査対象年齢は16~65歳で、実施年は2011~12年。三分野でテスト形式の調査が行われ、数理的能力・読解力の二分野の平均点で、日本は参加24カ国中1位だった(もう一つの「ITを活用した問題解決能力」の分野は、問題形式も結果の集計法も他の二分野とは違うのだが、それで日本は10位。三分野総合では1位)。日本の大学生が勉強しないのは有名だが、だからと言ってその後の学力が落ちているわけではない、とは言えそうだ。

(5)日本の子どもは世界的にみて勉強し過ぎだなどとは言えない。ピザはアンケート形式で勉強時間の調査もしている。学習時間が週に60時間以上(学校の授業時間を含む。その時間は1日6時間×週5日として30時間。つまり、それ以外に30時間以上勉強するということ。塾での学習時間も含まれている)の子どもの割合は、調査に参加した25カ国のうち19位(1位はトルコ)。逆に週40時間以下しか勉強しない者は過半数を占め、その順位は6位。アメリカの子ども(前者で3位、後者で22位)に比べてもずっと勉強していない。そして東アジア諸国の中では最低である。
 このことには別の資料がある。国立青少年教育振興機構が2016年、日本と米・中・韓の、全学年の高校生を対象とした学校以外の勉強の時間の調査をしている。これでも日本は、学校の宿題をやる時間を含めても平均1日2時間に届かず、4カ国の中で最低の勉強時間だという結果が出ている(最高は中国)。
 それでいて、(1)~(3)で見たように、日本の子どもの学力は決して低くはないのだから、大したものだ、と言えるだろう。学校の授業がいいのか、学習塾通いのおかげか。
 後者については、反証が二つ挙げられている。①ティムズは中二以外に小四の学力調査もしている。文科省の調べによると日本の子どものうち塾通いをしているのは、小四で26%、中二で50%超。つまり、倍の割合になっているのだが、これによる学力の伸びは看取されない。②1990年代から2000年代にかけて小学校低学年の塾通いは増えているのだが、その期間、小四対象のティムズの点数は上がっていない。
 学校の授業については、このように数値化された資料はない。ただ、アメリカの教育学者ジェームズ・スティグラーの見解が紹介されている。彼は、日本の数学の授業では、アメリカやドイツと違って、答えを与えるだけではなく、「より多くの時間を子どもたちに与え、数学の別解(別の解答法)について発表させている」と報告しているそうだ。「別解を考えることは物事を別の角度から見る訓練ですので、これは発見的・思考的な課題と言えます」。
 このときスティグラーが参照した授業のビデオは1994~95年のものである。ゆとり教育とその双子の兄弟みたいな新学力観、そしてアクティブラーニングへと続く現在の「教育改革」の流れが本格的に始まったのは2000年以降のこと。日本の授業は、それ以前から生徒の創造性を伸ばすことに適した、質の高いものであったと評価するアメリカの研究者がいたのである。
 そしてまた、前述のピアックの受検者は、この古い時代の授業を受けて成長した人(2000年に18歳以上だったなら、ほぼ30歳以上)が半分以上で、それが総合的に世界一の成績を収めている事実もある。

(6)日本の子どもはだいたいにおいて、学校で楽しく過ごしている。少なくともアンケート調査などではそう答えている。例えば前出国立青少年教育振興機構の調査では、「今の学校生活は楽しいか」の設問に「とても楽しい」「まあ楽しい」と答えた者が78.8%で、その割合は4か国中最も高い。苅谷剛彦氏などによって、ずっと前から報告されている事実なのだが、例えば悲惨ないじめのニュースが大きく報道されると、そちらの印象が強いからだろう、どうしても一般的な認識にならない。
 もっとも、上のような設問と回答が、どの程度に子どもの内面を伝えているか、私も、文学愛好者として、大いに疑問がある。しかし、逆に、日本の学校を概括的に語ろうとするときにこれを無視するのでは、全く恣意的だということになるだろう。
 本書の資料にもどると、ティムズの中二生対象の調査では、「ほとんどいじめられたことがない」と答えた者は日本は80%で、38カ国中5位(1位は台湾)。欧米諸国はすべてより下位に来る、即ち、いじめられたことがあると答えた者の割合が高い。
 そして高校卒業率、つまり高校入学して、途中でドロップアウト(中退)せずに卒業までいった者の割合は97.6%で、31カ国中2位(1位はフィンランド)。
 最後に、十代の子どもの自殺率は、著者達の計算で、29カ国中高い方から数えて14位(1位はニュージーランド)。ちょうど真ん中ぐらいということだから、この点で日本はいい国だ、とは言えない。もちろん、自殺の理由が学校にあるとは限らないにしても。

 以上いろいろ紹介してきたが、本書の著者達も、私も、日本の学校教育は非常にすばらしいのだから、何も改める必要はない、などと言いたいのではない。元来不完全な人間が作って運営している制度が完全なはずはなく、改善すべきところは必ずある。問題は、日本の現在の学校の長所と短所をきちんと見定めた上で、改革を進めようという、当り前の、現実的な姿勢がほとんど見られないことだ。
 現状認識としては、教師はダメなんだ、とひたすら言われる。教師の能力の国際的な比較は、資料もあまりなく、難しい。ただ、ピアックは、受検者の職業もデータとして挙げているので、これに基づいて著者達が計算したところ、日本の教師は数理的能力と読解力の両分野とも、参加18カ国中トップだった
 これにはびっくりしますか? 正直なところ、私も少し意外だった。ただし、ピアックのどの資料をどのように使ったのか、わからなかったので、鵜呑みにはできないと思う。
 しかしその反面、「日本の教師は能なしで、当然やるべきことをやっていない」という観測にはどのような根拠があるのだろう。TVでも、世間話でも。教師の中にすら、そう言う人は珍しくない。もちろん、自分以外の教師は、ということだが。いわゆるマウンティングというやつだ。人を罵るのは気分がいいのだろうが、それだけの話なら、現状をよくするためにはなんの役にも立たないのはもちろんである。
 困るのは、実際の教育改革を主導する文科省とその周辺も、この段階をほとんど超えていないことだ。さすがに日本の子どもの学力は世界的に見て高いことは認めても(認めないんだったらピザやティムズなんてやる意味はない)、それは「古い学力」であって、今後はそれでは、あるいはそれだけでは、足りないんだ、などと言って、教師の尻を叩く。
 教育は「理想」を追求すべきなんだと言い続けるのが、文部行政の第一の仕事であるらしい。そんなことばかりやっていられるのは、教師たちが、古かろうがなんだろうが、学力と呼ばれ得るものを生徒に与えるために、それなりの工夫と努力を積み重ねてきて、おかげで日本の学校は、上で見たように、そこそこうまくいっているからなのだ。これがこの場合の最大の皮肉であろう。
 理想が理想通り達成されることなどない。達成できないものを理想と呼ぶ、と言ってもよい。しかし教育界の偉いさんたちは、世間の力も借りて(実は両者が望むところは根本的に違うのだが、表層的な部分、というか、「教師はダメだ」のところで一致する)、理想が達成できないのは教師のせいにして、かつまた「それはできない」と教師が言うのは即ち教師失格を自ら認めたのと同様だ、という通念を作り上げることには成功した。おかげで、教師たちは、最低限、必死に努力していることは示さなくてはならない、と感じる。それで文字通り死ぬほど忙しくなるとは、およそ滑稽で、もの悲しい話ではないか。こういう点で教師はバカだと言われるなら、返す言葉はない。これについて具体的なことは、拙ブログの「今の先生は年中走っている その2 その3」その他をご参照ください。
 イソップのお伽噺に出てくるガチョウは、一日一個づつ黄金の卵を産んだがために、本当はもっとあるんじゃないかと疑った欲張りの農夫に、腹を裂かれて死んでしまった。日本の学校は、「お前たちの産んでいるのは平凡な卵で、黄金じゃない。努力が足りないからだ」と首を絞められ続けていて、このままではやがて窒息死してしまうだろう。
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