由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

大量消費社会の中の学校(前回の補遺)

2023年05月30日 | 教育


 前回の記事について、ある人から、「変わったのは、消費者としての意識の方だ」以下の文章からは、特に肝心のはずの、生徒たちの意識の変化は、文章からたどれなかった、と言われまして、もっともな批判だと思い、これ以降は全面的に書き直すことにしました。記事としても、差し替えた方がいいか、とも考えたのですが、一度公表したものですので、そこはそのままおいて、変えた部分を今回掲げます。結果、前回と重複する部分も多いですが、同じ文でも新たな文脈の中におくとどう印象が変わるか、眺めるのもあるいは一興かもしれませんので、できればお願いします。

 『学校の現象学のために』は最初のほうに、仙台の高校教師にして歌人・佐藤通雅さんの、「私が教師になった頃は高度成長期の始まりだったんですが、そのあたりから急激に子供の問題行動が増えてきたという印象がある」云々という言葉が引用されている。
 私はその後の、いわゆるバブル期の始まりに奉職したのだが、学校内部の崩壊は外から見るより大きいと実感したものだ。
 どうしてそうなったのか。同書の後半では、組織としての学校の独自性に着目して、このような「現象」を精緻に分析している。そこの今必要な部分を、小浜さんのこの後の論考や、私自身の言葉を交えて述べてみよう。

 先に「二次的な意味しかない」と簡単にやっつけてしまった学校活動の表の中心、つまり学習だが、ここにも元来矛盾がある。
 特に現行のカリキュラムの中心である五教科、英数国理社は、純粋な知識欲とでも言うべきものを前提にしなければ長時間の興味を保てないようにできている。これをすべての子どもが、いつでも抱いていると期待するのは無理があり、学年が進むにつれて、授業を「聞かない」ことが常態化する生徒が多数出てくるのは必然である。
 それにまた、会社や工場とは違って、学習は個々人でやることだ。集団学習の方法はいろいろに工夫されてきたし、その成果もたくさん報告されているが、結局は、生徒個人にとって、自分がどれくらい理解したかを問題にせざるを得ない。そうである限り、教室内で集団で過ごす意味は、究極的には、ない。
 これらはリベラルアーツ、いわゆる教養、を中心にした学校が発明されて以来ずっと続いてきた問題である。これが高度成長期以来、学校外の人にはほとんど意識されないうちに、改めて問題としてせり出してきた。それは、近代産業社会の進展という大状況と切り離せない。
 変化は具体的にはどのへんから見えてきたのだろうか。やはり昭和30年代から50年代が大きかったようだ。
 数値として確認できるものだと、第一に産業別人口比率で第三次産業が第一次産業を抜いたのは昭和35年、50年には第三次が全体の50%を超え、第一次は10%近くまで落ち込み、以後それぞれ漸増と漸減を続けていく。
 第二に高校進学率は昭和29年に50%を超え、20年後の49年には90%を超えている。子どもが学校へ行くことは、全く普通になったのだ。
 第一の過程は当然、第一次産業から第三次産業への大幅な産業人口の移動を示す(第二次はこの時期から今日まで20%代が続いている)。多くの子供が、それに大人も、いわゆる3K(きつい・汚い・危険)仕事を嫌い、清潔で楽そうなサービス産業を目指すようになった。そこで学校の勉強は大きな役割を果たすようにも見える。五教化のいわゆる座学は、業種の中では、デスクワークを必須とする第三次産業の会社勤めと一番類縁性が高いようだから。このため高校進学率は急速に伸び、学校は言わば全盛期を迎えた。
 それはすぐに過ぎた。学校の何かが変わったのではなく、最終目標だったサラリーマン像が色褪せてしまったのだ。みんなが当たり前につく地位がそれほど魅力的であるわけはない。今時リーマンに憧れる子どもなんていない。ここでまず学校は威信を失った。
 ところがそれに反比例して、学校の、別の意味の重要性は増した。勤め人が当たり前になれば、生活の場と仕事の場ははっきり切り離される。結果、かつて第一次産業の生産の拠点でもあった地域社会内部の繋がりは、どんどん掘り崩されてきた。
 例えば昭和30年代あたりまで、農村では、農繁期には子どもにも手伝わせるために学校を休ませる、などということは割合と普通にあった。近所づきあいも、青年団のような内部組織も、具体的な機能を果たしていて、そこにいくらかは子どものための居場所もあった。
 今は青少年が家庭以外で過ごす社会と言えば、学校と、その言わば補助機関としての塾などしかない。友達を得るのも失うのも学校。つまり、制度として子ども時代を確定し、現実の居場所を与える学校は。かつて以上にこの社会で必要不可欠な機関になった。そう言えば、昭和50年代、「15(歳)の春を泣かせるな」と、やたらに高等学校が増設されたのを覚えている。
 高校にいけないことは大問題。しかし、そうであればあるだけ、その中でやることの意味、「なんのために学校に通うのか」は子どもを含めた国民全員に敢えて問題にされなくなった。それも当然、行くのが当たり前の場所なのに、なんで事々しく「意味」なんて考えねばならないのか、というわけで。
 一方ではイメージを含めたモノを大量生産―大量消費させることで成り立つ高度産業社会は、「無駄使いはよそう」「将来のために今は辛抱しよう」という、貧しい時代のエートスをどんどん後景に押しやるようになった。子どもは特にそうだ。生産とは関わらない、言わば純粋消費者としてこの社会で位置づけられているのだから。
 今の子どもが昔より辛抱が足りなくなった、などということは特にない。アイドルのコンサートのために行列に並んだり、複雑なロール・プレイング・ゲームをクリアするような時には、驚くほどの忍耐力を発揮する場合もある。ただ、学校という、なんのためにいくのか・いるのかはっきりしない場所では、そもそもなぜ我慢せねばならないのか、実感できなくなってしまったのである。
 かくして浮遊する子どもたちの意識は、同年齢で同質性の高い集団の中で、僅かな異質性(態度や行動で目立つところ)を見つけて、それで執拗に遊ぼうとすることもある。それが現代型「いじめ」を誘発する淵源だ、と小浜さんは分析している。
 そして教師は教師で、あと一歩で全面崩壊しかねない「学校」の、体裁だけでも整えようとせざるを得ない気分になってしまった。

 昭和の末、1980年代と言えば、学校関係の最大の話題は校内暴力だった。その言わば前段階として、1970年代からずっと、いわゆる管理教育が問題にされた。多くの中学・高校が、服装を中心に、厳しすぎる規則(校則)で生徒を縛りつけている、というもの。髪の毛やスカート丈は長からず短からず、化粧や装飾品は原則禁止、髪色や髪型でおしゃれするのもダメ、という具合に。
 荒れる中高生は、このような理不尽(学生運動用語で言う「ナンセンス!」)に対して反抗したのだ、と言った人は多い。60年代を彩った全共闘など大学生の反乱は終息していたが、その残像はまだあり、それからの類推を働かせた見方だった。しかし、全体的に見た場合、それでは順番が逆さまになっている。
 もともと学校は、子どもは年齢が進むにつれて性的にも成熟するという当たり前の事実を、できるだけ目立たないようにしようとするものだ。子ども、というか、今や十代後半の青少年まで、未熟な存在であるからこそ、教育の対象とすることが正当化されるからだ。これは子どもにとっても不利なだけの話ではない。引き換えに、社会的責任を免れる特権を手に入れるのだから。
 その上で、「青春」のイメージを中核とするファッションやアイテムの消費者として、彼らはとうにロックオンされていた。少し昔風の見方からしたら、華美で享楽的なものが、「時代の流行」として、徐々に滲出してくるのは防ぎようがない。かつては「学生らしい服装、態度を」と言えばすんだ気になったものを、スカート丈は、髪型は、などと細かく決めた上で、定期的にチェックしないと、生徒には通じないと実感されるようになった。
 そんなことが必要だと思い込むのは、頭の硬い教師だけだ、と言う人が多いが、とんだ買いかぶりというものだ。教師とは、世間の大多数の意向に逆らってまで何かができるほど強力な存在ではない。制服姿でフルメークの女子中高生に眉を顰める人は、世間に数多い。それでいて、我が子に対してさえ、直接には何も言えない場合もあるので、そこはお前たちがなんとかしろ、と汚れ役を教師に押しつけている、というのが実情に近い。
 だから前述のような教師批判の言葉は、学校を作って運営する側、即ち上位の権力者にとって、全く痛くも痒くもない。本来子どもはすばらしい・教育はすばらしい、の部分を少しも疑わないからだ。ならば、学校は素晴らしくなくてはならないのに、そうではない結果が出てくるのは、現場の教師が悪いとしか思いようがない。だからやるべきなのは、教師を鍛え直すことだ。
 かくて、教師は、右からも左からも、十字砲火を浴び、その影で、理念としての素晴らしい学校は生き延びることができる。
 教師たちは、「自分たちは一所懸命にやってはいるんです」を示すために、寝る間も惜しんで仕事をしなければならないようなところへ追い込まれ、その結果、教職はブラックな仕事の典型になり終えた。学校が全面崩壊するとしたら、ここから、具体的には、教師のなり手が足りなくなるところから生じる可能性が高い。既にその兆候は見えている。
 「しかし、批判はごく平凡な普通の教師が努力してできる程度のものでないと意味がないと思う」と、佐々木賢さんは言っている。当たり前すぎるようなことだが、たぶんそれだけに、めったに聞かれず、新鮮な感じがするのは、思えば悲しいことだ。
 無茶な「教育の理想」を押し付けて、教師を縛ろうとする試みは、そろそろやめるべきではないだろうか。これを聞いていると、非常に教育的であって、かつて学校に対して抱いたルサンチマンをぶつける、それこそ復讐そのものであるようだ。教師に対する不信感に基づくので、彼らを無力化し、卑屈にし、陰険にする。それ以外の効果は一切ない。そんなものをなくすことこそ、現在最も必要な教育改革だと思うのだが、いかがだろうか。

 結局のところ、学校とは何か

それ(学校)は全体的にいって、たいして魅力もない日常性に貫かれており、時にはわかることのおもしろさも与えてはくれるが、別の場面では、自分の欲望どおりには事がはこばない外部世界の論理をよく体にしみこませてくれる場であった、という他ない。

と、小浜さんは言う。そしてそれは、「あたりまえのこと」である、と。
 この世が楽園ではない以上、生徒にとって日常生活の場である学校が、誰にとっても素晴らしい場所であるわけはない。もっとも、「学校は楽しい」と答える生徒は、各種アンケートで八割を超えているが、それは「楽しいか、と聞かれたから、楽しい、と答えておく」程度のものと思ったほうがいい。もし本当に大部分の生徒にとって学校の毎日が楽しいものだとすれば、学校問題なんて本当はないんだ、ということになるだろう。
 ここで、学習や他のことについて大切なものを学んだり、一生の友を得ることもあるだろうが、それ以上に、退屈や挫折は普通にある。非常に深刻な不遇、例えばいじめなどで不当に辛い目に合う場合には、なんとか救済を図らねばならないが、そうでなければ、「そういうもんさ」と言うしかない。そんなことは誰もが知っているだろう。だからこそ、少なくとも教師が、公に言うことは許されない。だって、学校のイメージを無駄に傷つけてしまうばかりではないか!
 このような理念とイメージ先行型の言説は、現実の問題に対応することを最初から放棄しているのと同様だから、なんら有効な結果をもたらさない。ただし、反転して、教育の悪しき部分をのみを言い立てるのも、観念過剰で、非現実的であると小浜さんは言っている。『学校の現象学のために』でも、イワン・イリッチを、直接ではないが、彼を信奉していた信州大教授(当時)・山本哲司の言説を通じて、批判している。
 それに第一、子どもを、教育の一方的な被害者とのみ見るのにも、問題がある。子どもを完全に無力な存在と規定するのが、他ならぬ闇教育の第一歩だったのだ。
 子どもは、主に友達関係で傷ついて、不登校状態に陥ることもあるが、大部分は学校期間をなんとかやり過ごす。そして、生産者にならねばならない時が来れば、リクルート・スーツに身を包んだこざっぱりしたなりで社会に出る。ここまでの道程は、硬い生産者のイメージと、柔らかい消費者のイメージの間を、不安定に揺れながら、揺れ自体を遊んでいるようだ。イメージはどちらも外から与えられるのだが、遊ぶところには主体がある。
 アリス・ミラーなどと同様に、佐々木さんにも、これをつい軽視する弱点は認められる。しかしそれは、言説者としての話である。佐々木さんは定時制高校教師を長年務め、そこで多くの生徒と接し、「教育」の構えをなるべく減らすように努力してきたことは、後の『学校非行』などの著書に詳しい。
 どんな場所でも、どんな制度下でも、人が生きている以上必ず、制度にからめとられない領域はある。それこそが人間的な価値であり、希望であろう。
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