由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

神様はいてもいなくても

2025年02月21日 | 倫理

Silence, 2016, directed by Martin Charles Scorsese

メインテキスト:Ernest Gellner, ‘Postmodernism, Reason and Religion’(Routledge, 1992)
サブテキスト: 遠藤周作「沈黙」(新潮社昭和41年、新潮文庫昭和56年より引用)

 以下は昨年11月24日に開催したしょ~と・ぴ~すの会の報告です。
 ある日本人女性の、たいへん独特のキリスト教体験をうかがいました。それプラス、そのお話から発展した議論の摘要を、あくまで私の興味の方向で、まとめたいと思います。
 なお、「神様はいてもいなくても」は、この女性が申し出た発表タイトルです。今となってはたいへん秀逸なものだとわかりますが、このときは彼女と他の会員は初対面に近く、いきなりこう言われたのでは戸惑いが大きくなるのではないかと私が心配して、「教会の思い出 ~神様が居ても居なくても~」として皆様にはお伝えしました。

 まず体験談。
 三歳の頃近所の教会へ連れて行かれた。そこは普通の農家の作りであり、集まった人たちは畳に座ってお祈りをし、賛美歌を歌い、聖書の引用に基づいた牧師の説教を聴いた。その間約一時間。彼女の家庭はキリスト教ではなく、目的は幼稚園の代わりに日曜毎にそこへ通わせ、英語を習わせようとするものだった。
 牧師夫妻はヨーロッパ系だったが、もちろん英語を教えるために来日したわけではないので、この申し出は断わられたが、教会通いはずっと継続した。その体験を通じて、神はただ一人であること、即ち、アダムとイブを創ったのも、アブラハムに我が子を犠牲に捧げるように命じながら直前で止めたのも、モーゼに十戒を授けたのも、十字架上のイエスが「何故私を見捨て給うた」と呼びかけたのも、すべて同じ、今自分が祈りを捧げているこの神であることは自然に理解した。
 教会の活動のうち、「祈ること(呼吸をするように祈る)」、「聖書を読むこと(三度の食事のように読む)」、「献金すること(中学生までは一回十円、高校生以降はお小遣いの一割)」はなんの苦もなくできたが、もう一つ「お友達を教会へ連れてくること(即ち、伝道する)」は、非常に苦痛であった。
 無理をして同級生を連れて行っても、農家を見て「何、これ、教会なの?」と呆れられる。学校で「ぼっち」をしている人に目をつけて誘っても、クリスマスまで。この日には教会ではお菓子が配られる。それをもらったらもう終わり。
 因みに牧師がヨーロッパ人だったときには近くの大学の教授夫人方などがけっこう来たのだが、彼らの任期が終わり、日本人の牧師に変ると覿面に減った。友達には、教会に加えて、「あの人、本当に牧師さんなの?」と言われた。
 要するに、日本でキリスト教と言えば、「西洋的」でお洒落なイメージ、大概の人にとって、それで終わりである。この話の語り手の女性のように、自分の内面の問題として抱えるケースはごく稀であろう。
 転機は中学校から高校の変わり目あたりにきた。最初の農家の教会が都市部の大きなところに吸収されると、そこの牧師が精力的な人で、熱心に洗礼をすすめた。「この人間を含む広大にして複雑霊妙な世界は偶然にできあがったものか、それとも誰かが創ったものか、どちらが自然に信じられるか」などと言われて、彼女は心服したのだった。
 そこで洗礼ということになると、両親には大反対された。しかし不思議に教会通いは禁じられなかった。それで、よほど熱が出たとか、学校の用事がない限り、日曜日には必ず出席した。高校に入って、留学生の試験に受かってから、牧師の勧誘がいっそう熱心になり、アメリカへ行く直前に、ついに洗礼を受けた。
 そしてアメリカ。ここはキリスト教国であるはず。それなのに、ホームステイ先の家族は、教会へ行かないし、お祈りもしない。近所の教会は教えてもらったが、そこへ行ってもあまり相手にされない。
 9月になって学校が始まると、チャイナ系の学生からチャイナ系の教会へ誘われ、しばらくそこへ通った。聖書は英語で読むが、学生たちはチャイナからの留学生で、ESL(English as second language)の生徒として高校で彼女と同じクラスになったのだ。それが英語の聖書をどれくらい理解できるのか?
 ひるがえって、日本語で聖書を読んできた自分はどうか。言語が違えば文化が違い、文化が違えばものの感じ方が違う。「神は愛なり」と言われた場合の愛はloveと同じものと言えるか。一番似たものをもってきただけではないか。
 ここまでくると泥沼に陥る。たとえ英語で聖書を読みこなせたとしても、聖書の原語は英語ではない。旧約はヘブライ語、新約はギリシャ語だ。さらに言うと、イエスがギリシャ語で民衆に説法したとは考えづらいので、彼の言葉は正確にはほとんど残っていないことになる。
 すると、唯一絶対神の絶対の真実はどこにある? この重すぎる問いを、16歳の少女が一心に祈り、考えた。答えは見つからなかった。
 それから彼女は教会通いをやめた。同時に、生き方の中心軸を失い、どんな時も自分の考えを強く主張することはできないように感じられた。

 発表者の女性から事前にレジュメをいただくと、そこには参考文献として遠藤周作「沈黙」とイザや・ベンダサン「日本人とユダヤ人」からの引用がありました。それを見て、由紀草一から発表者に送ったメールの一部を、最小の註付きで挙げておきます。

【ここ(「沈黙」)に、徳川時代の、キリスト教禁圧についてどの程度に歴史的な事実が記されているかわかりませんが、そんなに外れたことはないでしょう。
 日本人が「絶対」に出会った。これは日本、というか、東洋的なものの考え方ではない、とはよく言われるのですが、必ずしも国民性・民族性でもない。
 どれほど責められようと、殺されようと、決して信仰を捨てない人々が、この時代に、少数ながらいたわけですから。
 この前の(読書会のテキストに取り上げた)福田恆存著「私の幸福論」にひきつけて言えば、およそ希望のない生活に、「人間や歴史よりもっと大いなるもの」即ち現実を超えた絶対者を、救いを、意味を、与えてくれたからでしょう。
 しかし一方、絶対者=神のほうは、なぜこれほど忠実で、弱い信者が、言語を絶する苦しみを受けているというのに、何も言ってくださらないのか。
 「沈黙」は、たぶんキリスト教のみならず宗教全般で最も重いこの問いを、日本人でありながら(あるから?)言葉にした稀有の文学ですね。
 主人公のパードレは踏絵を踏む瞬間に「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている」という声を聴きます。それは自己欺瞞ではなかったかどうか。たぶん確答はこの世の中にはないでしょう。
 これほど痛烈な体験をする人は、日本人でも西洋人でも滅多にいないわけですが、さほど痛烈ではなくても、
個人として生きていくうえでは、人間はどうしても、このように言ってくれるもの、窮極において自分を許し、救い、認めてくれる何かを望んでいる、そうせざるを得ないのが人間だ
と福田恆存は言ったわけです。】

 これに対するお返事は、「由紀様が書いてきて下さったようなことを、まさに、皆様からお聞きしたい」というものでした。
 改めて、彼女が引用した箇所は、「沈黙」最大のクライマックスである、Ⅸ章の最後、主人公のポーランド人司祭がついに踏み絵を踏む場面。

お前が転ばぬ限り(棄教しない限り)、既に転ぶと言った日本農民の信徒たちへの拷問は終わらない」と言われ、悩み抜いて、神に問いかける。「主よ、あなたは今こそ沈黙を破るべきだ。もう黙っていてはいけぬ。あなたが正であり、善きものであり、愛の存在であることを証明し、あなたが厳としていることを、この地上と人間たちに明示するためにも何かを言わねばいけない」。
 答えはもらえない。その代り、と言えるかどうか、「基督は転んだだろう。愛のために。自分のすべてを犠牲にしても」と、かつての修道院の師には言われた。この師は、先に来日していて、消息が途絶え、その安否を尋ねることが主人公たちが日本へ潜入した大きな理由の一つだった。
 長崎奉行所で再会したとき、師は既に転んでいた。主人公の若き司祭も、ついに転ぶ決意をする。
 こうして司祭が踏み絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。

 神は、17世紀の日本に来た司祭(パーデレ)に何も言わなかったように、「何が真実か」に悩む現代日本の女性にも何も答えなかった。もっとも、前者については、神は最後の最後に彼の心の中に語りかけた、とさりげなく記されているのだが、ここは著者である遠藤周作がせめて縋りたがった微かな希望であろう。
 発表者の力点はむしろ、最後の文「鶏が遠くで鳴いた」に置かれていました。これは「ペテロの否認」と呼ばれる、新約聖書中の有名なエピソードを踏まえたものです。
 福音書によって細かいところは違うのを、まとめて概要を記すと。
 イエスが十二人の弟子たちとした「最後の晩餐」のとき、イエスは、この中に一人裏切り者がいること、他の者も、結局は「躓く(自分を見捨てる)」であろうと告げる。一番弟子で直情径行型のペテロが、「私は決してそんなことをしません」と言うのに、

イエス「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう
ペテロ「たとえあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは申しません

 やがてペテロはイエスを捕えに来た大祭司(ユダヤ教の最高聖職者)の下僕に剣を抜いて立ち向かい、その片耳を切り落とすほどだったが、イエスに「剣を取る者は剣で滅びる」と言われ、抵抗を止める。
 そして遠巻きの群衆に紛れて様子を見ているうちに、「あなたはあのナザレのイエスと一緒だったろう」と三度尋ねられた。それに対して「そんな人は知らない」と答えて三度目、鶏が鳴いた(つまり、夜が明けた)。
 その後のペテロは熱心な布教活動に余生を捧げ、ネロ皇帝治下のローマ帝国で、十字架に逆さ磔にされ、殉教する。そして、カトリックでは初代教皇とされる。
一度は、他の弟子たちと同様、イエスを見捨てた人の、壮烈な死との間には何が生じていたのか、ずっと考えている、と発表者の女性は言いました。

 彼女は、アメリカから帰国後、それまでずっと続けてきた日曜毎の協会通いはやめたが、神への信仰心まですっかりなくしたわけではなかった。ただし、自分の中の箍が外れ、善悪の基準は失われたように感じた。残りの高校時代には、お洒落をするようになり、親に反抗もした。
 それ以上に、「結局どちらでも同じだ」と思えば、自分の中のこだわりの、大きな部分が消えてしまった。
例えば、高校の教員になってから、鞄を持ってこない生徒は帰すように言われた。それが「指導」なのだと。しかしそれはその間授業に出さないことを意味する。本当にそれでいいのか、と思ったが、学校とは、教師とは、そういうことを教えるものだと言われると、反対することはできなかった。
 すべてが真実で、価値の差などないのだとすれば、何かにこだわって肯定したり否定したりする要もないわけだから。
 この宙ぶらりんの状態からの転機は、40代になってから、スペインの知人の家で起きた。そこで一冊の本に出会ったのだ。アーネスト・ゲルナー『ポストモダニズム、理性、宗教』(未邦訳)。
 この中で『民族とナショナリズム』で知られる社会人類学者のゲルナーは、現代の宗教的な(というより、イデオロギー上の)傾向を三つに分けている。

① 真理はあるし、自分たちはそれを保持しているとする原理主義(Fundamentalism)
② 不変の真理という考えを放棄し、各文化や社会に即応したヴィジョンをとりあえずの真実とみなすのだとする相対主義(Relativism)。最近では、ポストモダニズムと呼ばれる思想傾向がその典型である。
③ 著者がいささか信奉しているという啓蒙合理主義的原理主義(Enlightenment Rationalist Fundamentalism)

 当然この最後のものが最も肝心なのだが、また最も難解である。この女性の読解と私の解釈を混ぜて、祖述してみる。

 絶対の真理はある、と信じる点では原理主義的だが、それを自分が保持しているとは思わない点では相対主義的。逆に言うと、真理は何か、自分にはわからないにしても、それはあることは信じる。特定の宗教が奉じる絶対、即ち神に帰依することは拒否するが、そこに至る探求の道(procedural rules)は絶対的なものとして、ある。
 古代の例として、4世紀頃の、キリスト教初期の隠者たち(hermits)がいる。彼らが求めたのは純粋な、個人的な救い(salvation)であり、313年のミラノ勅令によってそれまで対立を続けてきたローマ帝国との妥協が成立し、やがて帝王までキリスト教徒になって、世界宗教への第一歩を踏み出したことなど、彼らにはなんの関係もないことであって、荒野で孤独な宗教的生活を続けた。
 その果てに何が見出されたのかは問題ではない。我々が人として生きるうえでは、折に触れて自分なりの絶対に至る探求の道を気にかけずにはいられないのであり、それ自体が、そしてそれだけが、人間に、個人に、意味を与える。ざっとこういうのが彼女の、新たな信念となった。

 最近別のことでふと思いついた自分の考えを最後に付け加えます。
 現代では、宗教の問題は、「神はあるかないか」の形で問うべきではないのでしょう。それはどちらにしても、人間に証明できるようなことではないのですから。
 そうではなく、神、という名ではなくても、何かしら超越的・絶対的なものを求めたい、もっと言うと、それは探してもどうしても見つからない、そこで人間存在の不完全に思い至れば、それこそが宗教的な感覚の第一である。
 「それがなんだ」と言う人に返す言葉はありませんが、あくまで私から見て、この感覚が欠けた人間観・世界観は、どうしても「精神性」を欠いた薄いものです。これを多少とも説得的に展開できるように、今後頑張っていきたいと念願しています。
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