杉原千畝(すぎはらちうね)
H27.12.29 晴れ
映画「杉原千畝」は好評のようだ。彼は岐阜県、明治生まれの外交官でリトアニア領事館に赴任した最初の人である(設置した人)。ポーランド等近隣の国を含めたユダヤ人は迫害を受けて難民になっていた。行く先をなくした難民は日本領事館にビザ発給を懇願してきた。この時日本外務省の訓令に違反してビザを発行した(この時の外務大臣は松岡洋右氏。戦争の引き金の一つとなった国際連盟脱退の答弁で有名)。このビザ発給により6千人のユダヤ人が救われた。救われた人に関わる子孫等は、現在4万人いるそうだ。感動的なシーンがいくつかある。杉原千畝は戦後外務省をクビになった、という話がある。彼は1986年に亡くなっている。が、1991年、当時の鈴木宗男外務政務次官が、人道的で勇気ある判断、と高く評価し、謝罪し、名誉回復されたのだそうだ。(写真:ムービル内、1番で入場。9:35開始。早朝のせいか観客は30名程度だった)
H27.12.29 晴れ
映画「杉原千畝」は好評のようだ。彼は岐阜県、明治生まれの外交官でリトアニア領事館に赴任した最初の人である(設置した人)。ポーランド等近隣の国を含めたユダヤ人は迫害を受けて難民になっていた。行く先をなくした難民は日本領事館にビザ発給を懇願してきた。この時日本外務省の訓令に違反してビザを発行した(この時の外務大臣は松岡洋右氏。戦争の引き金の一つとなった国際連盟脱退の答弁で有名)。このビザ発給により6千人のユダヤ人が救われた。救われた人に関わる子孫等は、現在4万人いるそうだ。感動的なシーンがいくつかある。杉原千畝は戦後外務省をクビになった、という話がある。彼は1986年に亡くなっている。が、1991年、当時の鈴木宗男外務政務次官が、人道的で勇気ある判断、と高く評価し、謝罪し、名誉回復されたのだそうだ。(写真:ムービル内、1番で入場。9:35開始。早朝のせいか観客は30名程度だった)