スナップ写部ログ

デジカメ写真のブログです!先客万歳コメント大歓迎! 

東京特許許可局

2011年03月04日 22時49分23秒 | 旅行

都庁です。

その、新宿で、抜群に目立つビルはコレですね。





さて、都庁屋上の展望台より。。
(コレを撮ったのは昨年4月でした)







ロビーは広いです。。
人が多い、エレベーターの順番待ちは面倒でした。。



降りると、巨大なこれがお出迎え。





●でも、私が注目したのは普通の階段でしたよ。。





このあと、とってもラブリーなにゃんこを見つけてしまったので、それは次回。。




さて、特許を申請する場所は東京都・霞ヶ関の特許庁で、長官宛に提出します。
特許権の他にも、実用新案権・意匠権・商標権も申請する事が出来るのです。

★内局でも外局でも『東京特許許可局』と言う部署は存在しないのです。
日本で唯一の国の機関の申請場所なので『東京』などと地名を入れる必要はないのであります。

まったく存在しないのに、とってもよく知られている局ですね。。

ホテル インターコンチネンタル東京ベイ

2011年01月14日 22時59分47秒 | 旅行
昨年の東京行き、泊まったホテルです。
なにを今更??

ホテル インターコンチネンタル東京ベイ リンク




高級リゾートですが、そして部屋も食事も一級品でしたが、このとおり眺めがいまいち。。
ま、すべての部屋で満点のビュー、って訳にはいかないのでしょう。。


JTBで頼みましたので、豪華朝食バイキングがついて一人、1万2500円でした。
東京でこの値段でしたらまぁまぁかな。
駅間近で、ビジネスでも朝食付きで1万円はしますから、東京は。
定価?46000円の部屋に、25000円で泊まったことになりますね。



部屋の窓から。。



部屋は豪華なんですよ。
ただ、安いJTB部屋ですから、建物のはじっこ。
非常階段の近くとか、とにかくエレベーターから遠いんですね。。

こんなに端で、眺めがこうでは、4万を超える部屋では不満だらけでしょうね。



シャワールームは独立しています。

 




前の竹芝桟橋には、帆船のマストを模したオブジェがあります。
実は、ここのホテルにした最大の理由がコレ。。



夜明けの眺め。



ちょっと明るさが増し。。
左端には、これがウワサのスカイツリー。







●昨夜の木星と月です。。



今夜の月です。。




ブレるなら、ブラして撮った夜景なり

2010年12月06日 20時46分53秒 | 旅行
、、ブラして撮ってみました。。



ただ、カメラを振りながらシャッターを押しただけなんですがね!



カレッタ汐留です。
手持ちです。手ぶれ補正はありませんカメラです。
なので、まあまあに写ったものを。。





手ぶれ限界の露出に悩みまくり。変えまくりでした。





 





、、、でも、やっぱり、人の見ないところが気になるワタシ。







今日のユリカモメです。



京都ではなく東京なので。

2010年11月29日 23時09分40秒 | 旅行
昨日の写真、意図的にインターコンチネンタルの文字を写したんですよ。
京都には、この参加ホテルは有っても、インターコンチネンタルと名乗るホテルは無いのです。

そして、スワンボートに乗るユリカモメ。
そう、ゆりかもめ線のインターコンチネンタルっていえば、東京ですよねえ。



夕闇のレインボーブリッジ。  手持ちなのでクオリティは求めないで下さい。。


●これは、四月に撮った、京都三条のイノダコーヒ。アラビアの真珠です。



普段は、ブラックオンリーのふくやぎも、イノダに行ったときは、この砂糖+ミルクのアラビアの真珠をいただきます。  
美味しいんですもの。  ここだけは。
(ふくやぎが、お店で、こういう写真を撮るのは、極めて異例なことです)



昨日のヒント写真は、東京駅直結の大丸百貨店のイノダコーヒ東京店の、です。
もちろん、真珠を頼みましたよ~!

今回の上京は、↓ これのためでした。
なので、写真はあまり撮らなかったのです。
奥さんの体調を考えて、ちょっとしか歩きませんでしたし。



それでも、数十枚くらいは撮りましたが。



築地本願寺

2010年06月03日 21時20分27秒 | 旅行


そう、かちどき橋を渡れば、そこは築地です。
そのまま進むと、そこには築地本願寺があったのです。。



築地本願寺のHPより。。

 関東の人々に「築地本願寺さん」と親しまれているこのお寺は、正式には「浄土真宗本願寺派本願寺築地別院」と言います。その発祥は、元和三(一六一七)年、西本願寺の別院として、第十二代宗主(ご門主)准如上人によって建立されました。

 当時、浅草近くの横山町にあったことから「江戸浅草御坊」と呼ばれていましたが、明暦三(一六五七)年、歴史的に有名な振袖火事で焼失してしまいました。しかし大火後の幕府の区画整理のため、旧地への再建が許されず、その替え地として下付されたのが八丁堀の海上でした。

 そこで佃島の門徒が中心になり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き、延宝七(一六七九)年に再建。「築地御坊」と呼ばれるようになりました。尚、このときの本堂は、正面 が西南(現在の築地市場)を向いて建てられ、市場のあたりが門前町となっていました。

 その後、関東大震災で崩壊した本堂の再建では、東京(帝国)大学工学部教授・伊東忠太博士の設計による古代インド様式で昭和六(一九三一)年に起工、三年後の昭和九(一九三四)年に落成され現在に至っています。

 この建物は、インド様式の石造りとなっていますが、本堂内は伝統的な真宗寺院の造りになっています。


(注:築地とは、土を盛り上げて造成した土地の意味です。
    寺を再建するために海を埋めて土地を作った、 
    だからこの地域を築地と呼ぶのです)



、、、まぁ、それだけ強大な財力と結束力を恐れた幕府だったのでしょうが、
海の上に作れって言った方も言った方なら、
じゃ作ります、って言って作った方もアレですねぇ。。



そうなんですよ。
京都の西本願寺の別院の築地本願寺。

んだから、頑張った二日間、本家の西本願寺をアップしたんです。
この流れ、読まれたでしょうか?



結婚式の記念写真に便乗しました。



●レインボーブリッジを徒歩で渡ったところから始まった今回の旅、
やっと終わりになります。

帰ったとき、地元の駅で。
(手持ちです)




●京都の西本願寺の門の飾りです。






織田信長と本願寺が争った石山戦争で、結局は本願寺側は負けに等しい和議となって、
大坂石山本願寺を退去、顕如上人(けんにょしょうにん)は各地を転々とするわけです。

その後、天下人となった豊臣秀吉の許しがあり、現在の場所に本願寺が建立されました。
焼き払われて失われた山科本願寺以来、久々に京都に戻れたわけです。
しかし、翌年、顕如上人は亡くなり、長男・教如(きょうにょ)上人が跡を継いだのです。

がしかし、ここから二時間ドラマの『京都家元殺人事件』みたいな展開になり、
そもそも、宗派存続のため泣く泣く大坂石山本願寺を退去した顕如上人と、
徹底抗戦を主張した長男・教如上人は不仲であったのでは、との話があります。

そのため、跡目は三男の准如(じゅんにょ)上人に、との、いわゆる遺書が見つかり、
跡を継いだばかりの長男は裏方(うらかた)と呼ばれる隠遁生活に入ります。

が、戦い抜くと主張した長男は血の気が多かったのでしょう。
派手な主張は人気もあったはずです。
そのまま大人しく隠居するはずもなく、関ヶ原で勝った徳川家康に接近して、
本願寺の目と鼻の先に、もうひとつ本願寺を建ててしましました。


どちらも正式名称を本願寺としたため、困った人々は、
最初に出来たのを西本願寺(浄土真宗本願寺派の本山)、正式名称は「本願寺」。

長男が建てたのを東本願寺(浄土真宗大谷派の本山)、正式名称は「真宗本廟」。
(1987年までは「本願寺」が正式名称。)


と呼び習わす様になりましたとさ。

(大谷、とは、親鸞聖人が弘長2年に90歳で往生されると、
京都東山の鳥辺野(とりべの)の北、大谷に石塔を建て遺骨をおさめた、その地名です)







●今朝の月です。



平安神宮の桜です。



哲学の道でコーヒータイム。



(ふくやぎがこういうのを撮るのは非常に珍しいです)