11月25日の月です。
26日の月です。
27日の月です。
28日の月です。この時は、半影月食でした♪
30日の月です。ちょっと雲が多め。。
31日の朝月です。 もう雲雲でブレブレ。
私のカメラは手ぶれ補正が無いのに、早朝のアレですから、、、
撮り直ししようと思ったらもう見えなくなってしまいました。。
でも、妙にアジがあるのでした、、、
●大震災から20ヶ月経って、距離で言えば第一原発から同じ20㎞離れた南の楢葉町と、北の南相馬市を立て続けに訪問してみて、そのあまりに雰囲気が違う事に驚いたのでした。
これはヤハリ、実際に両方に行ってみないと話せない事があるのでは、と思います。
長くなるので次回から序々にしますが、前回果たせなかったミッション、福島の酒をシコタマ買い込んできた事は報告いたします!
さて、白虎隊のお話はご存知でしょうが、概ね東北の諸藩は反薩長側でした。
その中心は会津藩でしたが、関東から攻めあがって会津を攻略しようとすると、急峻な山々に阻まれることになります。
もちろん、中通り…奥州街道~国道4号付近~を行くのが近いのですが、そこには仙台藩、後詰めの二本松藩が固めていました。
そこでカギとなったのが、奥羽越列藩同盟の三春藩。迫る薩長に『ほぼ』無血降伏をして、逆に三春兵はそのまま二本松攻撃に転じたのでした。
それに動じた仙台兵が総崩れとなり敗走、アッと言う間に本宮、二本松城は落ちてしまい、わずか2日間で薩長軍は会津国境(くにざかい)に迫る事態になりました。
注:福島県は大きく分けると、会津、中通り、浜通りの3つです。戊辰戦争は、ほぼ福島県全域を巻き込んだもので、浜通りの戦闘は、これが後に原発誘致に頼った遠因なのではないか?と思っています(私見です)
★来年の大河ドラマ、会津の話だそうですね
●ところで現代の今、田村市~三春町から北上する国道349号⇒県道12号がえらい混雑しているそうです。
沿道住民は、道路を歩くだけで命がけの生活であるとか…
かつて薩長軍兵士が怒涛のように進軍していった、そんな感じで?
要するに、復興関係者などが阿武隈山地により、狭く急峻な山岳街道に殺到している、その、そもそもの原因は、相馬や南相馬に行く直行ルートが『無い』ためなのです。
●ホントにルートを悩んだですね。今回、南相馬市を訪問しようとして…
いかに浜通りが、原発事故で無期限一般車通行止めになった陸前浜街道~国道6号線に依存していたのかを痛感しました。
で、結局は、福島西インターで東北道を出て、国道115号で相馬市を目指したふくやぎでしたが、それでもかなりの山道ドライブとなりました。
(このルートはお金がかかるんですよねぇ!だから、高速代がかからない山間部の道が混雑するのです)
もっと南寄りのルートなら、もっと複雑で大変なイメージがあったからです。飯館村や南相馬市の居住制限区域や帰宅困難区域、避難指示解除準備区域を避ける意味もありました…
●関東から相馬市や南相馬市、そして原発の北側に行こうとすると、なんと大変なことか!ワタシ、地図を前に一週間くらい考えていました。
やっぱり、道路が不便だと、復興の道のりがなかなか踏み出せないと感じましたよ。大臣先生ならヘリコプターでピューっと着くでしょうか。
●常磐道を北上していったふくやぎは、郡山市の手間、先に話しました三春町で一旦は降りまして、樹齢一千年とも言われる滝桜を見てきました。
昨年の大地震では軽微な損害だったそうですが、相変わらずに威風堂々と立っていた滝桜です。
日本中で、桜の名木を聞くと必ずベスト3には入る滝桜。何度か満開を見に行きましたが、そりゃあ見事な紅しだれ桜なのですよ!
あの、滝桜のそばには仮設住宅がありました。。
●さて、昔の成績は、甲乙丙丁(こう、おつ、へい、てい)だったそうですね。
甲乙…は、昔の『十干』由来の事で、例えば阪神タイガースの甲子園球場は、甲子(きのえね・こうし・かっし)の年、大正13年に建てられ、それに由来して名付けられました。
それに、子牛寅…の十二支を組み合わせて、『干』と『支』だから『干支~えと』って言います。干支の組み合わせが60通り有りますから、一巡りしたのを還暦と呼びます。
今年の干支は、
壬辰(みずのえ たつ)、
来年は、
癸巳(みずのと み)です。
●さて、前回の『戊辰~つちのえ たつ』は、1988年=昭和63年、
その前の戊辰は、1928年=昭和3年、
そのまた前の戊辰が、1868年=慶応四年⇒明治元年でした。
戊辰は、『ぼしん』とも言い、慶応四年正月三日に起こった鳥羽伏見の戦いからの一連の戦(いくさ)を総称して戊辰戦争と言われています。
計算は簡単です。平成の年数に、2還暦?の120年を足せばいいんです。
思えば、慶応三年末に坂本竜馬が暗殺されて、すぐ四年になって、その9月8日には明治元年になった、非常に密度の濃い144年前の慶応四年でした。
●奥州における戊辰戦争で、やはりあれほど大規模な戦闘になった主因は仙台藩六十二万石の参戦だったのでしょう。だからこそ、奥羽越列藩同盟が結成されたのでした。
その仙台を目指して、慶応四年に、江戸・品川から平潟港に薩長軍が軍船から上陸しました。今の北茨城市ですね。
そして、同盟軍の棚倉藩、泉藩、湯長谷藩、磐城平藩を根こそぎ制圧して、一気に(今の)福島第二原発~第一原発の辺りまで進出するのです。
すぐさま、相馬中村藩と戦い始めますが、相馬藩は飢饉などで苦しい台所事情、最新鋭の大砲と鉄砲で武装した薩長軍にたちまち追い詰められてしまいます。
雨でも連発出来る新鋭銃に対する仙台・相馬は水濡れ厳禁の火縄銃。大雨の戦でもあっけなく勝負はついてしまいました。
↓ その、相馬中村藩の居城、中村城のあとに残る相馬神社です。
ムーミンとミントです♪
薩長軍は、相馬藩に軍馬ですら数万頭?も要求したそうですが、、
七五三のころでした。。
神社の看板犬。
●相馬の道の駅に着きました。
そこから、南下をしていきます。。
福島第一原子力発電所の方向へ。。
●そして、前回にたどりついたセブンイレブンに着きました。
ここから先は、しばらくは、自由に進んで良いところですが、夜間は(たとえ自宅でも)泊まれない地域です。
境目には警察官が監視しています。
他県ナンバーがウロウロしてもアレですから、ここから先、少し走ってUターンします。
イレブンの、数十メートル先には食堂があります。同じ敷地内ですが・・
、、、ここから先は、住んではいけない地帯です。
水田だった、と思われます。
●ここから、少し戻って『今は普通の地域』に行きます。
海岸の方へ。。。
規制は無いので、普通に復興しても良い地域です。
、、、何も無い。。。
、、壊れたままの、廃墟のような新築の家、土台だけの家、倒壊したままの墓地、どれも撮れませんでした。。
これでは、報道カメラマンにはなれませんね。。
やっと撮ったガードレール。 ピンボケでした。
、、、これが福島県の現実なのです。 撮影は、11月の末です。
ピンボケが分かったので取り直しました。
今回、行ったのは、赤い地域の右端ギリギリです。。
では、、
ブログ訪問は、例によって後日から。。。
●相馬が降伏すると、薩長軍は仙台国境に進出しましたが、そこで駐留となりました。
おそらく、ですが、軍備は古くても、青葉城を落とすとなれば大損害は免れない。それより会津を孤立させていけば根負けして屈するだろうと。
何しろ、江戸時代は戦(いくさ)がなかった諸藩、京都守護職の会津兵ですら、西方に出兵した者以外は敵と戦った事がない状態でした。
●そこで相馬に落ち着いた薩長軍は、降伏した相馬藩に食料から雑役(ざつえき)の人手を遠慮なく要求してきたのです。
薩長兵士だけでなく、集めた人足、軍馬の食料、経費、接待の女性までを2ヶ月以上出し続けた浜通りの藩や集落、まさに極貧状態になってしまったとの話しです。
田畑も荒らされ、働き手も連れて行かれた上で。
●それが尾をひいて苦しい財政状態が続き、原発誘致につながった、とは極論でしょうが、負けた同盟軍の海沿いの領地と、東電や東北電力の発電所の位置って、妙に重なって見える私です。
⇒長くなりすぎました。今日の話しは、私見混ざりです。福島訪問の本題は次回に。