スナップ写部ログ

デジカメ写真のブログです!先客万歳コメント大歓迎! 

南の冠座

2011年08月30日 20時39分22秒 | 月・星・空

みなみのかんむり座  →  ウィキのリンク

、、、が見えましたので撮ってみました。

線を引くとこんなイメージ。。



形がきれいで、好きな星座です。
南の低空ですから、北関東からの見栄えは悪いです。。

夏に、さそり座が見えたら側に居ますからね。。


●若き ふくやぎの悩み。。

さて、

mountain~マウンテン

ocean~オーシャン

sun~サン

これの頭文字を順にとりまして、

M O S (モス)
⇒ ハンバーガー大手の『モスバーガー』の由来となりました。

モスの企業理念は、

mountain~山 ⇒ 山のように気高く堂々と

ocean~海 ⇒ 海のように深く広い心で

sun~太陽 ⇒ 太陽のように燃え尽きることのない情熱をもって

‥の『モス』です。

わたし、モスのスパイシーチリドックが好きで、行けば必ず食べますが、これからは、堂々と(大口開けて)深く情熱をもって食べたいと思いますデス。

●モスのライバル、ロッテリア。

ロッテのカフェテリアだから(合わせて)ロッテリアですが、そもそも、このガム、キャンディーやチョコレートでお馴染みのロッテですが、

ドイツの文豪ゲーテの著作『若きウェルテルの悩み』に出てくるヒロイン、

シャルロッテ(シャルロット)の後ろ半分の『ロッテ』なのだそうですよ。

●皆さんも、ロッテリアに行ったらシャルロッテを脳裏に浮かべ悶々としつつ‥

んな訳ないっスね!?



月子の月

2011年08月25日 21時59分51秒 | 月・星・空

(ずいぶん前ですが)月子さんからいただいた、月の夜景です。
すばらしい!

確かに、私のカメラより数段に上等なのですが、それ以上にすばらしい感性です。
脱帽です。


●私が、本日撮ったセミ。

これは、携帯電話ですからクオリティを求めないで下さい。。
(画像が荒いね、、)




これも、、、私が撮った、御者座。
単純な固定撮影ですから、クオリティを求めないで下さい。。
(画像が荒いね、、)



、、、ぶり返した暑さで、ビールの飲み過ぎ警報です。
明日は休肝日で謹慎します。。


住友生命さんが、
『日本の未来を強くするために必要なものを表す漢字一文字』を募集したところ、断然トップ~つまりダントツで選ばれたのが

⇒ 絆 きずな、でありました。

なのですが、余計な事を言いますと、絆の正しい語源は『牛などの家畜を繋ぐロープ』なのですね。
引き綱⇒きずな、って感じかな?

そもそも、絆の『半』自体がウシ由来だからネ‥

つまりアレでしょうか、自分と、意見の対立しがちな親兄弟との絆って、繋いであるロープみたいなものなのでしょうかね?

自分勝手な思惑や意地とかで繋がれている、縛られていると思い込んだら、まぁそこまでなのでしょう。

そこから一歩踏み出して、ロープなんか要らないよ~って(互いに)思った時に、本当の『絆』が見えてくるんぢゃないか、なんてね!

なんか意味不明ですいません。今(昨夜)、これを書きながら昨年のボジョレーヌーボー(売れ残り半額で買った)呑んでますんで。

亡くなった親父とは、確執ばかりで、とうとう縄を介した絆で終わってしまったなぁって。

『親』の部首は見です。
その意味は、やっぱり(子が)一番に身近で見ている存在であると言う事です。
(だからこそ、の反発もありますが)

●絆(きずな)を、ほだし、と読んだ場合、その意味は、馬の脚を繋ぐ縄、足枷(かせ)や手枷、自由を束縛するものという意味です。


●あ、ちなみに、絆創膏(ばんそうこう)は、分解して説明すると、創(傷)を治す(傷口を繋げる)為に膏薬~こうやく~を塗ったモノを貼り付ける、みたいな意味があります。

傷を癒やすための『絆』ですよ。

●創は、満身創痍(そうい)とかの場合の創(傷)は、部首の刀を見れば分かる通りに闘いで負った傷です。

創業とか、創造とか前人未踏の道を切り開いて行く事にも同じ漢字が使われますね。

かなり意味深い感じがします。


●すいません、結構に意気込んで始めたですが、急に疲れ始めたので、一端は訪問を始めましたが、
ここで、本日は終わりにしたいと思います。。

では、お休みなさい。。

根道

2011年08月22日 21時46分36秒 | 日常

鯨が丘の下井戸坂を下って、根道に入ります。
地図で言うと青い線の細い細い道です。

この看板には、徳川光圀公が歩いた道、と書いてありますね。。




●下井戸坂。







やがて、根道へと曲がります。。



これは、杉本坂。



この軽が、もうれつなスピードで登っていきました。



まるでヒルクライム。。

てっぺんの、一番狭いところもかまわずに、豪快に登り切って。



根道。
、、、今は普通の小径。



たしかに、めちゃ古い感じがします。。

むき出しの電線。。







水戸光圀公の隠居所、西山荘から直線距離で1kmもないところに、光圀公の生母をまつる久昌寺があります。

つまり、久昌寺のそばに、後から建てられた西山荘というわけです。
ご隠居様は、(TVドラマでは永かったけど)隠居後、約9年という短さで亡くなり、母の眠る寺の近くに光圀公の霊廟が残っています。

光圀公の霊廟と、その母の寺(寺は焼失により少し位置が変わっていますが)から、また直線距離で1kmもないところに、この古道の入口があるのです。



隠居したあと、(確かにご近所なので)足繁く久昌寺に参拝に訪れたとの話が伝わっています。

そして、またまたご近所の、この古道には光圀公が通った道、との伝説があるみたいです。
西山荘から、直線距離で僅かに1.5kmの、この道に。。










古道の終点には、若宮八幡神社があります。

若宮八幡神社のサイトによると、

光圀の父、徳川頼房が7歳の時重病に罹り、若宮八幡神社に祈願したところ見事快癒したことから歴代水戸藩主から崇敬され元禄5年(1692)には2代藩主徳川光圀によって太田郷の鎮守に選定され庇護されました。宝永5年(1708)に太田稲荷神社と共に現在地に遷座しています。

…との由来があるそうです。

若宮八幡神社は、元々はここの領主だった佐竹氏の居城があったところにありました。。
その城は、多くの坂道に囲まれた、この鯨に似た台地に有った、軍勢が攻め登るにはちょっときついところです。

しかし、佐竹氏は関ヶ原の合戦で徳川に背いたため、そこに入った水戸徳川家、という流れなのです。

神社は、光圀公が亡くなった後、数年で、佐竹氏の城跡から、すぐ隣の土地に移築されています。


さてさて、ここからは私の推理。


柳沢吉保さん。 (色々と肩書きが変わったので、あえて、さん付けで、、、)

この人は、光圀公が亡くなった後も権勢を拡大し続けましたね。
TVドラマに有る人物像は誇張されすぎでしょうが、各大名家をきびしく統括しようとしたことは(将軍の側近としては)当然だったと思われます。

当然、光圀公は柳沢吉保さんより、かなりの年上だったので『その後』を考えていたと思います。

そうすると、徳川に背いた武将の城跡にある神社を守る水戸家は、なにか口実にされまいか、、、と。
(武家の守り神である八幡神を大切にすること自体は、まぁ問題ないことだと思います。。)


そうでも思わないと、わざわざ、すぐ隣地に遷座した意味が私にはわかりません、、、
そもそも、ほとんど山城なのですから、隣に適当な空き地が有ったとは思えません。
すると、かなりの時間とお金を使って整地するところから始めたのでしょうし。

光圀公は、母の墓参の道すがら、遷座候補地を探しながら、この路をウォーキングしていたのではないかなー、、、って。  、、、違うか。。


●若宮八幡神社








と、三月に撮りました、ほとんど、お蔵入りの鯨が丘の風景でした。。



●さて、蛇足ながらもう一つ。


光圀公が亡くなったのが元禄十三年十二月。

殿中松の廊下で浅野内匠頭が刃傷事件をおこしたのが、元禄十四年三月。
わずかに百日くらいしか無い間の出来事でした。

もし、ご老公がご健在であったならば、柳沢吉保さんにナンと語ったことか。。。   なんてね。


板谷坂

2011年08月19日 22時06分37秒 | 日常

前回の、鯨が丘にある板谷坂です。。

味わい深い?消火栓がありましたのでアップしてみました。





途中で疲れた時のお休みどころがありますね。。

  

遙か彼方まで見通せます。。




ちょうど、ひな祭りのイベント、古い飾りがありました。。



お寺。







これは、別の坂、ここを降りて、まだまだ散策は続きます。。






●昨夕の風景。 散歩の途中で、携帯電話で撮りました。



では。。

鯨が丘

2011年08月16日 22時37分38秒 | 日常

茨城県北部に有る街、鯨が丘商店街の写真です。
数回にわたりアップします。

撮影は、もう99%?お蔵入りの3月6日。

大地震の5日前の日曜日でした。。







リンクはここ  → 鯨が丘



坂が多く古びた街並み、5日後には少なからぬ被害が有ったと聞きます。。




  

   

    

     


ちょっと、数百年前からの、ゆっくりした時間が流れる街並み、約120時間後の大地震は夢にも思いませんでした。。