鯨が丘の下井戸坂を下って、根道に入ります。
地図で言うと青い線の細い細い道です。
この看板には、徳川光圀公が歩いた道、と書いてありますね。。
●下井戸坂。
やがて、根道へと曲がります。。
これは、杉本坂。
この軽が、もうれつなスピードで登っていきました。
まるでヒルクライム。。
てっぺんの、一番狭いところもかまわずに、豪快に登り切って。
根道。
、、、今は普通の小径。
たしかに、めちゃ古い感じがします。。
むき出しの電線。。
水戸光圀公の隠居所、西山荘から直線距離で1kmもないところに、光圀公の生母をまつる久昌寺があります。
つまり、久昌寺のそばに、後から建てられた西山荘というわけです。
ご隠居様は、(TVドラマでは永かったけど)隠居後、約9年という短さで亡くなり、母の眠る寺の近くに光圀公の霊廟が残っています。
光圀公の霊廟と、その母の寺(寺は焼失により少し位置が変わっていますが)から、また直線距離で1kmもないところに、この古道の入口があるのです。
隠居したあと、(確かにご近所なので)足繁く久昌寺に参拝に訪れたとの話が伝わっています。
そして、またまたご近所の、この古道には光圀公が通った道、との伝説があるみたいです。
西山荘から、直線距離で僅かに1.5kmの、この道に。。
古道の終点には、若宮八幡神社があります。
若宮八幡神社のサイトによると、
光圀の父、徳川頼房が7歳の時重病に罹り、若宮八幡神社に祈願したところ見事快癒したことから歴代水戸藩主から崇敬され元禄5年(1692)には2代藩主徳川光圀によって太田郷の鎮守に選定され庇護されました。宝永5年(1708)に太田稲荷神社と共に現在地に遷座しています。
…との由来があるそうです。
若宮八幡神社は、元々はここの領主だった佐竹氏の居城があったところにありました。。
その城は、多くの坂道に囲まれた、この鯨に似た台地に有った、軍勢が攻め登るにはちょっときついところです。
しかし、佐竹氏は関ヶ原の合戦で徳川に背いたため、そこに入った水戸徳川家、という流れなのです。
神社は、光圀公が亡くなった後、数年で、佐竹氏の城跡から、すぐ隣の土地に移築されています。
さてさて、ここからは私の推理。
柳沢吉保さん。 (色々と肩書きが変わったので、あえて、さん付けで、、、)
この人は、光圀公が亡くなった後も権勢を拡大し続けましたね。
TVドラマに有る人物像は誇張されすぎでしょうが、各大名家をきびしく統括しようとしたことは(将軍の側近としては)当然だったと思われます。
当然、光圀公は柳沢吉保さんより、かなりの年上だったので『その後』を考えていたと思います。
そうすると、徳川に背いた武将の城跡にある神社を守る水戸家は、なにか口実にされまいか、、、と。
(武家の守り神である八幡神を大切にすること自体は、まぁ問題ないことだと思います。。)
そうでも思わないと、わざわざ、すぐ隣地に遷座した意味が私にはわかりません、、、
そもそも、ほとんど山城なのですから、隣に適当な空き地が有ったとは思えません。
すると、かなりの時間とお金を使って整地するところから始めたのでしょうし。
光圀公は、母の墓参の道すがら、遷座候補地を探しながら、この路をウォーキングしていたのではないかなー、、、って。 、、、違うか。。
●若宮八幡神社
と、三月に撮りました、ほとんど、お蔵入りの鯨が丘の風景でした。。
●さて、蛇足ながらもう一つ。
光圀公が亡くなったのが元禄十三年十二月。
殿中松の廊下で浅野内匠頭が刃傷事件をおこしたのが、元禄十四年三月。
わずかに百日くらいしか無い間の出来事でした。
もし、ご老公がご健在であったならば、柳沢吉保さんにナンと語ったことか。。。 なんてね。