安倍政権、菅政権は、何が何でもオリンピックをやると言う。引き返すことを知らない。「昔、陸軍」などと言ってきたが、彼らは歴史を振り返る頭がない(ゼロ)のだから、こうした批判をしても意味がないようだ。
猪突猛進の彼らが、もしも登山家だったら、何回死んでいるのだろう。私なんか自慢じゃないが、山で何度危機突破を、撤退、変更などなど繰返してきた。だから生きている。彼らにこうした緊張感はないのだろう。慢心しているのだ。
こうした連中が権力をもつ、権力になることは、あまりもヤバい。野党はたいしたことないし、新聞は取り込んでいるし、学術会議の一角を突き崩したし、市民は寄らば大樹だし、安泰・安泰。一途に金儲けのために。
彼らの後ろにある者は、何か? 財界。官僚・内閣のメインスタッフ。金と欲望の政治。まだまだ私たちは彼らを脅かす力をもてていない。だから自信過剰になっている彼ら。何をやっても平気だ。
呆れかえるのは、彼らは「国民のくらしのために働く内閣」と自称できるのだ。厚顔無恥ぶりは、さすがだが、私たちはこれを打破できていない。言った者勝ちになっている。
例えば、未だに沖縄の新聞2紙(沖縄タイムスと琉球新報)は「オリンピックやりたい」派だ。情けない。日本ナショナリズムに漬かっていたいのだ。
彼らを政権の座からたたき落とす為には、選挙だけでは困難だ。最大の壁である政治無関心層が厚いからだ。今の政治が私たちの暮らしの足下を崩壊させることに気づいていないのだ。何とかなると、寄らば大樹の陰を決め込んでいる。入管法改悪を止めたのは、外国人のことが、自分たちに跳ね返ってくるという危機感が溢れ出てきたからだ。しかし影を踏んでも痛くもかゆくもない。本体を捕まえて、私達が彼らを踏みつけない限り感じないのだ。
《私は生きている》ことを実感できなければ、動く意欲も湧かないだろう。命の営みを取り戻すことがなければ、動く気にならないだろう。
昔、私は高山を歩いていて、雲に乗って移動したいと何度思ったか。それは確実に死をもたらすことだがら、思いとどまったが。
今の人達には、生死の境が見えなくなっているのだろう。確かに戦争中はそうだったようだ。天皇の臣民として身も心も捧げさせられていたのだから。特攻も玉砕も当たり前だった。「死んで神になる」んだったし。しかし今は違うはずなんだがナ。それでも明確な区別をつけていないのだ。敗戦を「終戦」と言い、国家に操られたことを総括できなかったのだ。そんなこんなで76年が経ち、今がある。
こうした総括は、自虐ではない。歩み出すための第一歩だ。菅が言う「自助・共助・公助」も国家の催眠術の中で生きなさいと言っているのだ。操られていれば倖せになれるのか。
私たちが生きていくリアリズムが必要だ。それはウソだと言えるリアリズム。雲に乗せられないリアリズム。ドシンと落ちるリアリズム。
生きるのも、死ぬのも誰かの命ではないのだ。自分の命なのだ。オリンピックのために何で私たちが死ななきゃならないわけ? 2021年を、悪夢から覚める私たちにしたいものだ。