おはようございます。本日は23年6月20日(火)。曇 梅雨空が続いています。この時期は例年、梅雨空が続きます。蒸してはいますが、涼しい。
今年の沖縄タイムスの紙面を見ていると、沖縄戦の記憶を辿り、慰霊の記事がいささか少ない気がしている。いずれにしても78年前の今頃、沖縄の人々は戦火の中で、じっと耐えながら、多くの人々が死んでいくのを殺されていくのを垣間見ながら生きていたのだ。「集団自決」というのは、生きる希望をこの国の軍隊によって奪われ、「白旗」をあげる道を封じられ、死を選ばされたのだ。だから「集団強制死」と指摘されるようになってきた。
人間とは醜いものだ。生きることと、死ぬことが葛藤し、身近な人を殺すこともある。個が生きるのは社会の中であり、その社会を造りだしているのが政治だ。権力・金力中心の政治からは、ろくなものが生まれない。戦後78年の今時の政治をみれば、そのことがはっきり見えてくる。
民主主義も基本的人権も平和主義も霞んでいる。濃霧の中にある。軍部が跋扈し、人の命は鴻毛の如しと言われていた、天皇が絶対だった時代に、形は違うが日々近づいている。「今は平和なのか?」という問いかけは、虚しく響く。しかしこの空しさに私は耐えなければらならない。空しさをそのままにしていたら、「平和」の中に戦争が充満していく。現実を直視しよう。
沖縄戦を語り継ぐのは、大切なことだ。あの時代を知っていた人が少なくなっている現在、益々大切になっている。しかしこの営みは、私たちが生きていくための仕事だ。つまり沖縄戦を語り継ぐのは、同時に、「今は平和なのか?」という問いを初め、今という時代、今の社会・政治をクローズアップすること抜きにできないだろう。
民主主義・基本的人権・平和主義がゴミ箱に吐き捨てられる時、私は両手両足を縛られ、身動きできなくなっているだろう。思えば、この3つの指標は、日本国憲法とは何かを語られるときに指摘されてきたと、私は記憶しているが、考えてみれば人類の共通な指標ではないか。万民が掲げるべき課題だろう。ロシアをみても、これらがかけている。米国を視ても同様だ。ロシアがウクライナに攻め込んだのは事実だが、米国はそれを待っていた感もある。
国内における対立が深まれば、その矛盾を外に向けたくなる。差別排外主義が深まり、戦争が歓迎される時代になる。それは自国民をも、疎んじる。悪循環が悪循環を呼び込んでいくのだ。
あの時代に、戦勝国となった米国が、日本に押しつけた日本国憲法だが、今思えば、遙かに価値がある。あった。しかし78年の時間の経過の中で、この国は国際法を無視する国に成り下がり、被爆国でありながら、核兵器禁止条約をド無視している。「核抑止力」を強調するなど、米国の政治を絶対化しながら、軍事化を進め、それが「国益」だと主張したり、「ナショナリズム」を煽る。偏った国になりさがっている。万民が生きる価値を貶めている。
琉球諸島を軍事化しながら、今に至ったこの10年余りを視て来た私は、落胆することが多かった。自分は気づきながらも、やるべき事をやらずに、遠慮しぎてきたのだ。ヤマトンチュだから、言わないでおこうは、なしだ。言うべきことを言う。6月8日~12日、東京に行ったが、戦争に向かう大きな流れに、押し流されつつあるようだ。しかし入管法改悪反対に立ち上がり、LGBTQ法をねじ曲げる動きに、公然と立ち上がった人々など分断を超える波もでてきた。
私はヘリ基地反対協のテント村を離れて2年が経とうとしているが、分断を超える意思はより鮮明になった。7000日集会に行かなかったが、私の意思はもっと明瞭だ。新基地建設を止め、琉球弧の軍事化をやめさせ、万民の指標を広げよう。民主主義・基本的人権・平和主義は理想論ではない。人間が生きていくための必要最低条件だ。これを理想論だというのは、やましい下心を秘めているからだ。
追記:先日作った「沖縄から視る『安保3文書』ー基地・軍事力のど真ん中からのリポート」は、広い意味でこのとっかかりだし、これからつくる「ジュゴンの海ー沖縄から」(仮題)に全力を尽くしたい。あちこちでスライド&トークを開催し、共に考えたい。