2022年11月1日(火)雨
「石橋を叩いて渡る」と言われた時代が、変わってしまったようだ。石橋を叩いて渡るのは、「私が」であり、数人程度の「私たちは」であれば可能だった。数百人、数万人が集まれば不可能となる。個が集団に埋もれてしまうからだ。生き残ろうと、もがけばもがくほどドツボに嵌まり、身動きが取れなくなる。まして坂道で、市街地だと周囲が見えない。どれだけ人が集まっているのか、判断できなくなる。
10月29日韓国のソウルで起きた大惨事もこれだろう。まして今頃、スマホを見て居る人が多いから、彼ら彼女らの視界は、距離30cm(異世界)、90度も見えていないのではないか。
警備態勢がまったくできていなかっとあるが、130名余りの警官で、10万人を裁くことはどだい不可。できっこない。ただ私がここで言いたいことは、自身で危険を察知する能力と手段を確保する努力を怠るなということ。上記のような状況に巻き込まれたら、自身の判断ができたとしても行動できなくなる。こうしたことが予想される場合の安全策は、近づかないことしかない。「楽しみを抑制できる」かという問題と重なる。「石橋を叩いて渡る」人はやめることができる。ただし事前情報を入手できることが不可欠だ。
インドでの吊り橋落下事故(10月30日141死亡)は、耐荷重量が100人余りの吊り橋に500名が押しかけたと言うから無茶だ。自分一人ぐらい乗っても大丈夫だろうという自意識は、大きな集団に膨れ上がれば、無効になる。個人の判断能力で全体を見極めることは、不可能になるのだ。吊り橋の管理者が警告の掲示をしているはずだが、なかったのだろうか。管理責任が明らかに問われる問題だ。
私は若い頃、登山で、雪渓を渡るとか、ぶらぶらの(足下が見える)吊り橋を渡るとか、よくやっていた。なかには一人一人が交互に渡らなければ危険なところもあった。雪渓など足下の雪質を判断し、慎重に渡るしかない。慎重に且つ迅速に。落ちたら氷水に流され死ぬわ。
現代社会は危険の質が変わっている。また個々人の危険予知能力が低下している。国家・行政はこうした状況を見て見ぬふりをしている。「自己責任」だと。山に登るのと、街のなかで暮らすのは違う。コロナ禍への対応もそうだが、私たちが普段気づいていない要注意ポイントを考えておかないと、土壇場でアウトになる。普段から住民と行政との接点と信頼関係を築くことが重要だ。
「石橋も叩いて渡る」と言えた時代を私は懐かしく思い出している。