Ⅰ:菅政権の果てに
2021年7月27日18時。菅首相は「人流が減っている」と語ったようだ。本当なのか? まさかだが、そうかもしれない。彼の頭に、オリンピックはやるものだと刻印されているからだ。彼の想念には「有観客」を「無観客」にした、だから減っているはずとの計算が働いている。ボランティアは大幅に減っているし、弁当も毎日、大量廃棄している。「時代の先端」をいっているつもりだ。
私たちがやるべきことは、彼らを冷笑したり、怒るだけではない。事実を直視することだ。彼の頭にはオリンピックをやる、これしかない。オリンピックは世紀のビッグイベントであり、巨大な利権だから。ここにおいて、軍事・基地と明確に重なっている。似ているのではない。重なっているのだ。
他方で、医療や公衆衛生は、ろくな利権に結びつかないと考えている。もっと大きな利権の前には潰すべきだとすら考えている。
このままいけば、私たちは生きていけなくなるだろう。彼ら(自公政権)は、巨大な利権の前には、人々の生や死など関係ない。あるとすれば、政権を維持できなくなる事態を回避するためだ。地に落ちたとはこのことだが、これがクールな政治。
さて私たちはどうしよう? ①ただただ反対する、②このまま流されていく、③新たな道を探し出す。私は③を選ぶ。③を生きたい。
Ⅱ民主主義の屍の中で
戦後76年の今、私たちを取り巻く民主主義は殺されてきた。議会制民主主義という政治が機能していない。「王様は裸だ」と叫ぶ民衆が圧倒的に少ない。原発は再稼働され、原発生き残りに舵を切っている。馬鹿げている。軍事は巨大な利権を生み出すからもてはやされている。戦争態勢が作り出され、海外へ。ついに空母まで持つに至る。非武装のメッキは剥がれ落ちたのだ。
どうしてこうなったのだろうか? 私たちは熟考しなければなるまい。戦後76年間の中で何があったのか。何が民主主義を殺してきたのか? 制度、政治、意識。この3つが重なりあっている。
私にとって忘れられないことが、いくつかある。例えばこうだ。
①1973年 米国はベトナム戦争に敗れていくのに、だからか、横須賀(神奈川県)を空母の母港にした。
②1983年 中曽根行革が始まり、87年国鉄は分割民営化された。戦後政治の基本枠組みが壊されていったのだ。
③1994年 小選挙区・比例代表制導入。自・社・さ連立政権。中曽根が唱えた「戦後政治の総決算」の完成へ。
④1996年 「安保再定義」米ソ冷戦構造崩壊後の米日同盟へ。
そして今、オリンピックが絶対化されている。
しかし、肝心要のことを忘れていないか。制度と意識に関わっている。1946・7年に作られた日本国憲法だ。民主主義と言われながら、この憲法の王冠は天皇制にある。主権は「国民」なのか。まず憲法第1章が天皇だ、第2章が戦争放棄、第3章が国民の権利・義務。なぜこうなっているのだろう。この「国民」は、戦前の植民地の人々を切り捨てた「国民」だ。今言うところの日本領土に暮らしていた人たちの日本国籍も切って捨てた(1952年)。沖縄を基地の島にして、これも放棄。こうして「民主主義」がもてはやされながら、内側(「国民」)に純化され、やり過ごしてきた。台湾・朝鮮半島・「満州」(中国東北部)・「南洋群島」も、難民も入管も、沖縄のことすら見過ごしてきた。
私たちは、民主主義を育てる土壌を流し、捨ててきたのだ。こうした結果、権力によるオリンピック強行を読めないほどに私たちは切り刻まれてきてしまったのだ。
Ⅲ:私が選ぶ道とは何か
オリンピックを中止しろと言うしかない。言い続けるしかない。だがこれだけでは足りない。去る都議選で共産党はこういった。「オリンピックは中止、命が大事だと」。しかしこの事態の中でもプラスⅠにしかならなかった。立憲がプラス5。自公だけでは過半数をとれなかったが、思いのほか、都民ファーストが踏みとどまり、合わせれば3分の2を占めている。あちゃーだ。
何が足りないのだろう。無関心層を動かせていないのだ。諦めてる人たちに何を言っても通じない。しかし私たちは、政権と共にこのまま心中したくない。私たちの命を譲り渡したくない。
どうしたらいいのだろう。政治と民衆意識の溝を埋めること。投票に行こうと言っても、このままでは難しい。「主権者はあなただ」と言っても、虚ろに響く。ここをつなげなければならない。私はまだおぼろげだが、ひとつある。
私が考えていることは、Lifeの捕まえ方だ。これは日本では、「命」と「暮らし」に分割され、理解されてきた。これでいいのだろうか。私はバツだと思う。命があるからこそ暮らしているし、暮らし方が問題になる。暮らしとは命がある人に関わる諸々のことだ。弔いは暮らしの一つだが、生きていた人がおり、その人との暮らしがあったからこそ弔いが生じる。
私は「命の営み」だと考え、この場でも何度も言ってきた。これは言葉尻の問題ではない。生きているからこそ暮らしがあるし、どう暮らすのかが問題になる。ここには、想像力と科学的な認識力が求められる。また、個人の問題を超えて、個人・諸個人が如何なる社会を織りなしながら生きるかを抜きに、命の営みを考え、作り出していくことはできない。人の命も他者との関わりなしには、営めないのだ。ここに個人を超える関係が芽生えていく。家族をも超えていく。
想像力と科学的認識力(洞察力)については、補足するまでもないだろう。命の営みを政治に重ねていこう。未だに経済成長主義しかない日本は、この国際舞台の中で、毎日ボランティアのために用意したお弁当を大量廃棄している。エコと真逆なありかた。金儲けの道(契約)を保持するために。
命の営みだと考えたら、オリンピック中止しかない。金儲けの政治を打破したい。命の営みと言うとき、人間関係を大切にする、ジェンダー平等、性教育を大切にするなども全部入ってくる。ごちゃっとある問題を整理し直しながら、前に進みたい。
私たちが前を見るとき、後ろも、左・右の横も、上も下も見る。あぁ、難儀だが、潰されてはたまらない。生き続けよう。