2024年7月27日(土)晴れ 勝連分屯地前10時からの抗議集会へ。
土曜日のせいか、スイスイついた。バスも速い。
内間入り口下車。
4ヶ月ぶりにここに立つ私。ゲート案内の意匠が変わっていた。9:41
上の石は変わっていない。下が全取っ替えされた。
当たり前と言えば当たり前だが、ここは、第15高射特科連隊の分屯地から「第7地対艦ミサイル連隊の分屯地」に変わったのだ。第7地対艦ミサイル連隊は第2特科団の傘下にあり、大分県日出生台に拠点を置いている。従来、地対艦ミサイル連隊は、北海道に第1特科団があり、ソ連・ロシアをターゲットにしてきた。これに第2特科団がこの3月に新編され、中国を睨む。この内の第7特科連隊は、勝連・奄美・宮古島・石垣島の特科隊(中隊)が一連の特科(対艦ミサイル部隊)連隊となり、その司令部が勝連半島に置かれたのだ。
この第7特科連隊は沖縄の陸上自衛隊第15旅団の傘下ではなく、西部方面隊の傘下に入っている。対して第15高射特科連隊は、第15旅団傘下の対空ミサイル部隊だ。対艦ミサイル部隊が編成され格上され、その背後で対空ミサイル部隊は、防空を担う。「専守防衛」はここでも崩れており、対艦ミサイルによる敵基地攻撃能力が前面に出てきたのだ。
自衛隊の軍事能力は、「専守防衛の自衛隊」から米国の指揮下で動く、先手攻撃軍に変わっている。今回のRD24は、こうした意味を把握するものとなるだろう。琉球諸島を再び戦場に据える作戦構想だからだ。
そしてこの隊旗の意味を考えてもらいたい。上の第7地対艦ミサイル連隊の「7」にライオン(獅子)のマーク。獅子奮迅という奴だろう。沖縄島や石垣島・宮古島・奄美大島など(周辺海域)を戦場に据える可能性が高い。
第15高射特科連隊のマークはどうだ。ワシの翼からミサイルが突き出ている。日本に生息しているワシ類にこんなのはいない。八重山にいるカンムリワシではない。頭が白いのは、アメリカハクトウワシだ。米国の国鳥。何故こうなのか? (因みに私は元日本野鳥の会東京支部幹事)
ここは1973年4月まで米国陸軍が管理していた。対空ミサイル部隊だ。アメリカハクトウワシの「精神」を自衛隊は引きついたのだろう。野生のアメリカハクトウワシには大変失礼だが、日米政府・軍はこんな茶番をやっているのだ。自衛隊と言いながら、米国の後釜として、1973年以降防空を担ってきたのだ。今度は米国の差し金で、対艦・対空の布陣を敷くのが「自衛隊」だ。JSDF(日本自衛軍)の嘘を暴く延長線に私達はRD24批判を据えなければならないようだ。
9:56 ゲート前の表札。これも取り替えられている。第102特科直接支援大隊は第7地対艦ミサイル連隊の補助部隊。弾薬(ミサイル等)を確保・補給し、ガソリンの補給、部隊の移動などを支援する。
軍隊用語は私たちに、馴染みがないので分かりづらいが、分かれば深読みできるようになる。
9:57 集会の主催者は、ミサイル配備から命を守るうるま市民の会。
「うるまが標的にされる」とあるが、どうだろうか?
第1に日本の軍隊の対艦ミサイルで攻撃するから反撃されるのだ。何の目的で、如何なる時に攻撃するのか?
第2に、標的にされるのはうるま市内だけか? 否だ。日米両軍が跋扈している地域は、狙われるだろう。無論ここが第7対艦ミサイル連隊の司令部だから、特に狙われることを忘れてはならない。当然、日本国全体に波及していくよ。
もはや米日政府は「専守防衛」など意に介していないのだ。本気で戦争を仕掛けるときは、専制攻撃こそが、より強い打撃力になるからね。だからこそ、打ち合いになって一方的にやられるのは、軍隊ではない。私たち市民がやられてしまう。軍事力(戦争)で「国益」を高めるってどういうことだろう? おかしいモノはおかしい!!
ゲート前。歩哨に立つ女性兵士。小銃をもっている。10:10
何名かが発言したが、略させて頂く。10:13
彼は島袋(しまぶく)恵祐君。弾薬庫建設に反対する沖縄市民の会。元自衛官、元県議。今後も頑張って欲しい若者の一人だ。
山内末子県議。うるま市民の会の役員でもある。前を向いて、諦めず、RD24を許さないと。10:32
最後に当直指令に要請書を手渡した。10:37
やめろと言うことに、簡単にはいそうですかとならないだろう。私たちが、国が戦争する・できる余地を封じていかなければならないだろう。
繰返し、声を上げていこう。広範な市民の声を共に打ち出していきたい。
10:41 赤旗の記者が食い下がる。
抗議のシュプレヒコールが轟く。10:42
当直司令に訴える仲間。何故住民説明会をやらなかったのか、やるべきだろうと肉薄していた。10:43
住民説明会もやらずに米日共同統合訓練に踏み込むことじたいが、余りにも可笑しな事だ。戦争は住民を無視できなければ不可能なのだ。絶対に反対する。
11時前に終了し、私は仲間たちと会食した。明日から飯の確保が厳しい場に行くのだと思えば、沢山食べておこう。4才で沖縄戦を体験させられた人の話を改めて聞いた。涙なしに聞けない話。彼の日頃の冷静な動きは、こうした体験と、お父様の教えによると、知ったのだった。