日航123便墜落の真相を考える-青山秀子著「日航123便墜落の新事実」(河出書房新社刊)等を手がかりに(上)
Ⅰ:1985年8月12日~35年後の今
私は1985年8月12日夕刻・夜間のことを未だに忘れることはできない。この日夕刻、日航123便、ボーイング747が行方不明となり、ダッチロールしていると報じられ、挙げ句に墜落現場は2転3転した。御巣鷹山と報じられたのは何時のことだったか?
当時の私はまだ軍事や航空情報に詳しくなかった。それでもあちこちから目撃証言が多数報じられ、また電子情報があるだろうに、何処に落ちたか分からないことは、ありえないと考えていた。救助に向かう足取りも遅く、嫌な予感がしたものだ。長野県側でゼミ合宿をやっていた学生グループが夜間を徹して上り、到着したときには、まだ人の声がしていたとの報道に、さもありなんと思った。だが救援拠点は群馬県上野村に統一されていたのだ。当時の私は何か異様なものを感じながら、それ以上踏み込めなかったのだ。
この後、同機のボデーに核物質が使用されている、医療用の核物質を積んでいたとの情報が入ってきた。このために捜索・救援が遅くなったのかと私は解していた。翌年春、私たちの反原発のグループが墜落地点の土砂を採取し、核物質の検出を依頼したが、結果はマイナスだった。この時、私は現地の山中に足を運んだ。手作りのような墓標が立ち並び、多数の帽子などの遺品が置かれていた。緑の森の中が黒く焼けただれた、鎮魂。そんな中で地図を頼りに私たちはあちこちの墜落・散乱現場を探し出した。
私は沖縄に関わりだしたお陰で墜落などの問題を身近に感じるようになってきた。たまたま2010年に青山秀子さんの「天空の星たちへ-日航123便 あの日の記憶」(マガジンランド)を手にし、読んでみた。疑いをもちながらも、半信半疑だった。その後、「日航123便 墜落の新事実」(河出書房新社 2017年7月刊)、「日航123便 墜落の波紋」2019年7月刊)、「日航123便 圧力隔壁説をくつがえす」(2020年7月刊)を読んできた。
今回の「圧力隔壁説をくつがえす」の著者は俄に核心に肉薄している。断言するまでになっており、これにやや面食らいながら、私は改めてこれら3冊を読み直した。これはかなり真実に迫っていると私は考える。以下、この闇に私なりに迫ってみたい。
Ⅱ:「事故」に至る経緯
①飛行経路から考える
JAL123便は、羽田空港を8月12日18:12大阪伊丹空港に向けて離陸。東京湾を南下し伊豆半島沖へ。18:24 12秒、シートベルト着用サインが点灯、18:24 35秒に衝撃音が走った。場所は伊豆半島の東伊豆町(熱川温泉や稲取付近)の東方沖、約2500m付近。垂直尾翼の一部が破断、機長は「緊急コード7700」を発信した。機体は高度を下げて行く。普通に考えれば、飛行に支障が出るほどの衝撃が走った場合、機長は、近くに飛行場がなければ、陸に向かうのではなく、海に着水を選ぶのが常道だろう。これならば、火災を起こす確率は低く、助かる人が少なからず出ると想定できる。一か八かではない冷静な判断が問われたはずだ。ベテラン機長だった彼に何が起きていたのだろうか。これを逆に選んだところが間違いの始まりだろう。それは何故か?
因に静岡県東部、神奈川県、山梨県東部、東京都の大半、埼玉県の大半、群馬県、栃木県の西側一部、新潟県・長野県の一部は米軍の横田空域であり、米軍横田基地の管制官の了解なしに入域できない空域だ。機長は横田管制と交信し、横田飛行場に着陸許可を得て、右に舵を切ったはず。米軍は8月12日18:45横田基地への緊急着陸準備完了、災害即応部隊を結成し、スタンバっていた(「墜落の新事実」p130)。しかし何故か着陸不可となって、日航機は北西方向の山域に入っていく。この時点で米軍の関与があったことは間違いない。また19:10 横田基地から航空自衛隊に同基地所属のC―130輸送機が埼玉県秩父市西北30kmの山中で航空機らしきものが炎上中と連絡している。
②現場は伝えられていた
「墜落の新事実」には衝撃的な事実が幾つも出てくる。墜落現場となった地元の上野村小学校、中学校は文集をそれぞれ出した。「小さな目は見た」(85年9月30日発行 小学生148人の記録)と「かんな川5」(85年10月Ⅰ日発行 中学生87人の記録)だ。この詳細は本書をみていただきたいが、多くの現認報告があるのだ。子どもだから信用ならないのか。林業の村の子にとって、飛行機が間近に飛ぶのは極稀であり、ヘリも自衛隊や機動隊にも驚いたことだろう。
上野村村長黒澤丈夫さん以下、猟友会や消防団も具体的な地名まで特定し、国や群馬県、マスコミに報告したのに、無視されたそうだ。俄に信じがたいが、何者かの判断が情報を統制していたのだ。そもそも「御巣鷹山」と言われたが、これもまやかしだ。地図上にある御巣鷹山と墜落現場はかなり距離が離れていた。ミステリアス。ここに作為が働いたことは明白だろう。
③補足―自衛隊は知っていた
本機JAL123便の迷走について、自衛隊はどの時点から知っていたのだろうか? 確たることは分からないが、機長と米軍横田管制が交信した時点以降とみるべきだろう。18:24 35秒から18:45の間である。多分、18:25、26分頃ではないか。なお、電子情報による探知もおこなわれていたはずだ。空自の第44警戒隊(峯岡山)が千葉県南房総市愛宕山にあり、第22警戒隊(御前崎)が御前崎市御前崎にある。警戒隊は要所要所の防空・探知基地だ。敵機やミサイルの探知を行っており、敵味方の識別は最低限の任務。これが南房総と御前崎にあるのだ。正常なルートを外れ、米軍の横田空域に入ったのだから、瞬時に確認に動くはずだ。自衛隊が知りませんでしたでは、様にならない。
百里基地から空自のF-4ファントム戦闘機2機が発進したのは19:01だと自衛隊は言っている。ボーイング747が墜落した後になる。上野村で747とファントム(小型機)2機が追いかけ合っていたという報告が多数あり、辻褄が合わない。この時間が間違っているのか、別の2機なのか。別だとすれば何をやっていたのか?もしかしたら百里ではなく石川県小松基地から発進した可能性もあると、私は疑っている(当時の小松の航空団はF―4だった。)。尚、百里のF-4戦闘機とあるが、百里基地には第7航空団傘下に偵察航空隊がある。RF-4偵察機を飛ばした可能性が高いだろう。
④捜索・救援は何故遅れたのか?
自衛隊が747の墜落事故を知ったのは、19:01だという。中部航空方面隊司令官松永貞昭空将が発進命令を出している(「墜落の新事実」)。当然陸自にも同じ頃、災害派遣命令が出されたはずだ。
自衛隊で群馬県を担任しているのは当時第12師団(現在は第12旅団に改編)だった。この12師団が出動するのが近いし、早いはずだ。12師団は相馬原(群馬県榛東村)に師団司令部や偵察隊、高田(新潟県上越市)に第2普通科連隊、松本(長野県松本市)に第13普通科連隊、新発田(新潟県新発田市)に第30普通科連隊、新町(群馬県高崎市)に第12施設大隊、北宇都宮(栃木県宇都宮市)に第12飛行隊などがあった。現に上野村の人々の証言によれば、12日夜の墜落後に多数の自衛隊員、警察官が集まり、何機ものヘリが飛んでいたという。当時の陸自にも赤外線暗視装置もあれば、サーチライトもある。第12師団は山岳演習もやっており、特に松本の部隊には山岳救助隊が編成されている。山域での行動にも十分に対応できたはずだ。
現地の山は険しく、千葉県習志野駐屯地の陸自最強部隊といわれる空挺団を導入するとなったらしいが、上記の訓練を重ねている部隊が対応できないとは、私には考えられない。空挺団は当日夜に相馬が原駐屯地に派遣され、第1ヘリコプター団(千葉県木更津市)のヘリも相馬が原駐屯地に待機していた。
1995年8月27日の星条旗新聞に出た記事に注目。当時横田基地からC-130輸送機で現場探知に向かったマイケル・アントヌッチ元中尉の証言。「123便がレーダーから消えた後、自分たちはまだ2時間は飛べる燃料があったため、いちはやく現場上空に行き、19:15には既に墜落現場を発見してその位置情報を横田基地に伝えた。私たちは米海兵隊のヘリコプターに墜落地点まで無線で誘導した。米海兵隊の救援ヘリが20:50に地上の様子を偵察するために降下中なのを視認した。21:05墜落地上空から乗員を降下させようとしていたが、煙と炎がひどく着陸できないと連絡してきた。そこで位置を移動して、乗員を地上に降下させようとしたその時、日本側の救援機がきたからとの理由で即刻基地に帰還せよとの命令があり、しかたなくヘリは引き上げた」。同氏が日本の救援機を見たのは21:20、安心して基地に引き上げたとある(「墜落の新事実」から孫引き)。
日本政府(当時の指揮系統は不明)は、何故か翌朝まで捜索・救援活動を遅らせたのだ。
Ⅲ:圧力隔壁説
本件の事故原因は「圧力隔壁説」による事故だったとされて35年が経つ。これをスクープしたのは毎日新聞の8月16日号だった。1978年6月2日に同機が尻餅事故を起こし、このときのボーイング社の修理ミスが原因とされていく。
群馬地検は、85年の「事故」を日航、運輸省職員、ボーイング社社員(氏名不詳)を書類送検したが、結果は不起訴。520人の命(+胎児がひとつ=521人の命)が失われた案件である。刑事事件としてはうやむやにされてしまった。
この圧力隔壁説とは、機体後方の壁が修理ミスによって劣化しているところに何らかの力が掛かり、内側の気圧が最後部に漏れて、その衝撃で垂直尾翼が破断したという。これまたありそうな話ではある。しかし謎が多いのだ。一番の謎は証拠物が回収されず、また破棄されてしまったことだ。原因究明に一番大切なことは証拠物の回収であり保存だ。如何なる事故・事件でも、これがイロハのイだ。
伊豆半島沖に落ちている垂直尾翼等の残骸の回収がやられていないのだ。水深160mの海底であり、不可能な海域ではない。やる気が無いだけだ。2015年8月のANN放送は水中カメラでこの残骸と思しきものを捉えており、放送されている。
圧力隔壁を唱えるためには、現物の回収が必要であり、現物から裏付けを示せなければならないはずだ。
しかし陸上自衛隊が、墜落現場で、これを解体し、処分したのだ。ありえない。
垂直尾翼の破断ははっきりしており、これと接続する部分を「不存在」にしてしまうのは、何らかの意図があっと推定せざるをえない。
破断した機体を山から下ろすのは困難だっただろう。しかしヘリがあり、分解するにしても、それなりの方法で慎重にやるべきだったことは言うまでもない。
さらにボイスレコーダー、フライトレコーダーの回収と精査が重要だ。8月14日に無事に回収されたが、18:24から18:56の全面的なものが情報公開されないままだ。交信記録は完全に残されていないかもしれないが、横田管制とのやりとりや自衛隊機とのやりとりもあるはずだ。機長らがぎょっとしたものの雄叫びもあるかもしれない。
真実が不都合だから隠すのは、沖縄で米軍の行いをみていれば、さもありなん。日本政府の行いも安倍政権に始まったわけではない。35年前の本件を私たちが凝視することから、沖縄と「日本」の分断を超えるひとつの視点を私は掴みたい。521名の命を想起しながら、私も歩ませていただきたい。
私たちは科学擬き(モドキ)を容認してはならない。ここに国家の犯罪が潜んでいるとすれば、これを明らかにしなければ、私たちの命を左右するウソが積み重ねられていく。
◎一回で終る予定だったが、軍事的政治的な検討はもうすこしかかる。次回をお待ち願いたい。
さて、賛同し、そちらのサイトも確認いたしましたが、連絡のログインの方法が分からず、ひとまずコメントでの対応とさせて頂きます。
私への連絡は以下に願います。
pzyamahide@lemon.plala.or.jp
http://chng.it/fYMnPwJBQz
お力添えを頂きたく、よろしければ、以下から連絡頂けたら幸いです。
「御巣鷹の謎」研究会 サイト
https://jmty.jp/gunma/com-etc/article-fi0mk
具体的なことを思い出せず、残念です。ただ「ウソつけ」という情報が流れ、情報の配信が混乱していることを、はっきりと受け止めました。
不自然な点がいくつかあり、書かれていた18時25分から45分の航路や不具合の調査報告書の内容が疑われます。
例えば、事故の日に、日本テレビのスタッフが青梅市上空で、18時40分くらいに日航ジャンボ機らしい機体を目撃し、スタジオに戻り、説明をしています。しかし、実際には、事故調査報告書では、その時間は山梨県大月市で降下を始めた時間です。
加えて、当日の官邸は、中曽根首相が休養先から帰るのを待ち構える官邸記者が溢れ、当初は三光汽船問題で、河本氏に会う記事を書くためでした。ところが、この日の19時前にニュース速報が入り、大変なゴタゴタになっていたそうです。しかも、公式に19時13分に時事通信のフラッシュが最初の報道と言われる中、官邸記者クラブにいた記者は、18時58分くらいに速報を見ているのです。一般人でも、19時前にニュース速報を記憶している人が多く、何故か初報が消されています。また、この日の共同通信の動きがわからず、後に、共同通信はこの日の報道に関して、大量の懲戒処分が出ています。
そこで、質問ですが、この日の事故は最初に何を見て知ることになりましたか?