ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

高校運動部で自殺に追い込まれた事件について(20210222)

2021年02月22日 | その他の論考

 私はスポーツなるものについて、ほぼ全般的に興味がない。やったのは三角べースに走り高跳び、登山、ハーフマラソンぐらいだ。走り高跳びは、庭にバーを設置して、ベリーロール。この成果は高校時代でも通用した。高校体育で、他のスポーツでは全然ダメなのだが、これだけは上位に入っていた。ハーフマラソンは中学・高校と走らされたが、学年何位のレベルだった。

 登山は、私にとってスポーツと言うよりも多角的な楽しみだったので、ちょっと別に扱いたい。要するに個人競技しかできなかったし、集団で何かやる気がなかった。そんな私からすると「高2、叱責苦に自殺かー運動部主将 顧問ら遺族に謝罪」(琉球新報2021年2月13日)の記事にはドッキリさせられた。よくよめば、高校のクラブの顧問(監督)が度過ぎた指導ならぬ、指導を踏み外した人格攻撃の果てに死地に追いやったとしか思えない。勝ち負けを絶対化した挙げ句、「お前が悪い」視されていたようだ。指導というものは、ここが弱点だからこう直せよとか、ここをもっと強化すればいいとかのはずだ。人の良いとこを引き出し悪いとこを押さえるのが指導。

 もっともこうした基本を弁えずに、押し込んでくる輩は何事にもどこにもいるが、大変困る。そうでなくとも教員は押しつけがましさが職業病みたいだから、こうした者が過度に取り組むとこうした悲惨な結果を招くのだ。死んじまったら、謝罪したってお金を積んだって命は返ってこない。

 またこうしたことを特殊な指導者のせいにするのも間違っている。運動競技の指導能力であれば、その専門があり、部外者には立ち入れないこともあるだろう。このケースは違う。人格をどうみるのか、人格破壊になっていないかを見るのは教員の基本の基だからだ。生徒達が異を唱える場と信頼関係が学校になかったのだろう。実に残念だ。

 関連して、私が近頃反省していることをあげておきたい。人間って、子どもから大人への成長過程が大切なのだ。年齢一桁の子については、教えることが多い。だがティーンエイジャーの年齢になれば、自分が大人になる事を意識し、自我が個性がドンドン開発されていく。このときに大人が子の自我や個性を見極めながらでないと、押し潰していくことになりかねない。大きくなったからもう一安心だと思い込んでいた自分がいたから思うことだ。今更反省しても遅いと言われそうだけどな。

 そして関連して、もうひと言触れておく。私の知り合いに、芸術家を名乗る奴がいる。彼女曰く「平和な社会をめざしたい」と。彼女が言う「平和な社会(世界)」とは何か?「ひとり一人がやりたいことをやれる社会だ」と。これは卓見だ。平和は静的なことではなく、動的な関係史だ。この関係史の中で「ひとり一人がやりたいことをやれる社会(世界)」をつくることが目指すべき事だといっているわけだ。こう考えれば、個人間の問題から国家間の問題まで、すべて普遍的な指摘だといえる。むろん各ケースによって問題点・是正すべき点を具体的に抉りだし、論じなければならないが、私はこうした考えは優れていると思う。

 今日(2021年2月22日)の沖縄タイムスの社説に「運動部主将自殺 とても指導とは呼べぬ」がでている。内容は上記の私の指摘に重なっている。

 人を死に追いやってまでやるべしのスポーツなどないのだ。



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