以前、香川県の屋島に住んでいたことがある。
志度や牟礼は近かったのでよく訪ねた事がある。
私が居た頃には岡の松もまだあった。
しかし、志度寺に海女の玉取り伝説という話が伝わっていたことは知らなかった。
最近、たまたま広島県庄原市の西城町に居城していた久代宮氏に関する書物で「久代記」という本を読んでいて「海女の玉取り伝説」を知った。
久代記の最初に宮氏の歴史が書いてあり、宮弾正左衛門利吉という人が和州宇多郡を官領していたと。
利吉の先祖は、藤原鎌足の子孫藤原不比等の子である藤原房前(久代記では房崎)の末裔であると伝えられています。
利吉は、明徳二年の山名陸奥守氏清が起こした謀反に加担したことが後に露わになりそれにより、備後国久代という所へ飛ばされてしまいました。
船で備後の鞆まで行く途中に房前の浦というところあり、先祖の藤原不比等(淡海公)の玉取り物語を思い出し、三年の月日を費やして見事に玉を取り戻し都に戻ったという事に自分の境遇を合わせ落涙するという下りがありました。
久代記には幾つかのバージョンがあり、兼利本では淡海公ではなく鎌足が玉を無くしたあるいは取り戻したかのような感じで書いていますが・・・まぁ、私にとっては伝記の正しさを求めていないので問題は無いのです。
海女の玉取り伝説を久代記で取り上げているということに面白みを感じました。
だいたい、武士の家系図などは「源平藤橘」の何れかに辿れるように書かれているものですが、都落ちして備後の山奥に行く途中で自分の出自をことさら強調する伝説を書いている点に奥ゆかしさというか何というかユーモラスな感じがします。
この久代記は江戸初期に書かれた物らしく、久代宮家は江戸時代には無くなっているので誰が何のために書いたのかが気になります。
読み物としては、西城町の天戸神社に関する伝記など面白い部分があります。それはまた別の機会に。
さて、肝心の「海女の玉取り伝説」ですが、「志度寺の縁起絵図」鎌倉―南北朝時代に描かれているようです。絵図では藤原不比等が玉を取り戻しに行くという設定。
室町時代には、大織冠という幸若舞があり、そこでは鎌足自身が玉を取り戻すという話になっている。
能では「海士」という作で不比等が玉を取り返すという話で現在まで伝わっている。
先に述べた久代記のバージョンによって玉を取り戻すのが不比等であったり鎌足であったりするのは、江戸時代の久代記の書き手がどちらを思い浮かべたかによって異なるのだろうなぁーっと考えております。
それ以前に書かれた物があるのかは知りませんが、古くから伝承されていたのでしょう。
今昔物語や日本書紀にこの物語と繋がる話があると言うことですが、読んでみてもそうなのかなぁーって感じです。
今昔物語 十一巻一五話
日本書紀 允恭天皇 阿波の海人
これらが関連あるなら、古事記のホヲリ(山幸彦)ホデリ(海幸彦)でも関連性はあると言えそうです。
ホヲリは何もせず3年間楽しく暮らして肝心の要件は豊玉姫にわけを話し、豊玉姫が綿津見神に問題を解決してもらうようにして無事に亡くした釣り針を取り戻し地上に戻る。
地上に戻る際に2つの珠(塩盈珠と塩乾珠)をもらい、兄のホデリを攻めて支配下に置く。そして地上で豊玉姫は子を産むのであるが、産むときの姿をホヲリに見られたので子を置いて海へと戻っていく。
海士の玉取り物語も龍神に奪われた「面向不背の珠」を不比等が取り戻しに行くのだが、そこで美しい海女と暮らし子供(藤原房前)をなす。三年の月日が経ち海女に自分の本来の目的を告げ海女に珠を取り戻してもらうが竜との戦いで海女は亡くなり、不比等は海女との間に出来た房前を連れて都にもどるという設定である。
女にモテるのも英雄の仕事だと言うことか・・・
2017年 さぬき市テアトロンから見た志度の海 スタレビのライブ終わりに撮影