横浜教会ニュース

インマヌエル横浜キリスト教会の様子をお知らせします

力の限り子どもの心を見守る

2007年07月04日 | 家庭・こども

「イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとにつれてきた」
 ・・イエスは、こう言われた
「子ども達をわたしのところに来させなさい」
 
                   (ルカ18:15ー16)

 三歳の息子が、教会学校で幼児クラスにいますが、毎週部屋に入ると、「早く、イエス様のおはなしききたい!!!」とさわぎます。
 イエス様の十字架の絵をさわりながら、傷のところに「ばんそうこうをはらないと」と言ったり、男の子が悪いことをしてしまった絵を見ながら、「これは“つみ”だよね」などと覚えたての
聖書的言葉を使ってみたりと大はりきりです。
 「ぼく、イエス様だいすき!」という日もあれば、反抗期まっただなか、「イエス様きらい!」という日もあります。でも、自分のかわりにイエス様は罪を背負われた、ことはわかるようで、
ひょうきんな彼も、まじめな顔で共に祈ります。
 幼児は本当に純粋に教えられたことを吸い込んでいくと実感しています。だから人生の最初にどんな価値観を知るか、ということは見過ごしてはならないことなのでしょう。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」(箴言4章23節)
  と聖書にあります。
 自分の心を見守るということですが、親にとっては、
 子どもの大事な心も見守る使命が与えられているのではないでしょうか?
 だからこそ「この子が、正しい神様のお心を知るように、そして救いに導かれるように」と教え、「神さまからも人からも愛されて安定した精神をもち将来自立できるように」と配慮し、だれかからいじめられているとわかればなりふりかまわず守ろうとする、そんな日々を送るのが子育てかもしれません。
 でも、力の限り見守っても、時には思ったようにいわゆる
“良い子”ではない道に入っていくこともあるかもしれない。とふと不安はよぎります・・・・・

 そうなったとき、もし“しっかりした親なら絶対にいい子が育つ”と思い込んでいたら、私達は打ちのめされてしまうかもしれません。
自分がだめだからこの子はダメになった”と。それはある意味
傲慢かもしれません。なぜならもし子どもがいい子に育った時、その人は、「自分がよかったからこの子は良くなった」と思い
子育てを自慢するでしょうから。
 そこには上のみ言葉のような“イエスのもとに子どもを連れて行く”という謙虚さが抜けています。
 むしろ教父アウグスチヌスが若い頃に道を踏み外した時代に、
彼が回心するようひたすら祈り続けていた母モニカの姿の中に、
我が子の心を見守る”ことの本質があるように思います。
私達の子どもたちの命を握ってくださるのは、主であることを
受け止め、
    うまく育っているように見えるときも
     全く道からそれて心痛めるときも
子どものために真剣に祈り “イエス様のところに祝福をもとめて連れていく”ことを忘れないようになりたいと思います。