皆さん、
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
いろいろな事情で以前ほどマメにはかけませんが、教会の係り一同協力して少しづつでも書けるようにしたいと思います。
1月2日に「新年聖会」という集会に参加しました。
そこでのメッセージで聖書は「ヨハネ11章」が開かれました。
マリヤとマルタという姉妹その下にラザロという弟がいて、イエス様と親しい間柄でした。ラザロが重病で倒れたとき、イエスさまに使いを送り、いやしを願ったのですが、「この病気は死で終わるだけのものでなく、神の栄光のためのものです」とおっしゃり、イエス様は二日間とどまられ、ラザロが死んでしまったのです。墓に入れられた後、到着されたイエス様と姉妹のやりとりが書かれています。
説教者は「私たちの周りにいる、神に愛されているはずの人々に、時折り『なぜこんな大変なことがおきるのか、神様はなぜこんな状況をゆるされたのか』と思うようなことが起こる。と述べていました。
姉のマルタがまずイエスさまを迎えます。彼女に、「わたしはよみがえりです。命です。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。・・・・このことをあなたは信じますか?」と問いかけられました。マルタは、「はい、主よ。私は、あなたが世にこられる神の子キリストである、と信じております。」と答えました。
「マルタの答えは、ペーパーテストなら100点満点だったでしょう。しかし、イエスさまが聞いておられたことは、「あなたは弟が死んだというこのような絶望のただ中で、今でもわたしがよみがえりであり、命を与える神だとリアルに受け止めているのか」という迫りであった」と説教者がおっしゃっていた言葉が私の心にとまりました。神様を信じるというのはそういうことでもあるのだ、と。
私たちの日々は時にもうだめだ、という絶望や、あるいは突き抜けない灰色の無力感に襲われることもあるのではないでしょうか。その現実を無視して、イエスは「わたしを信じよ。」といっているのではないのです。イエスはマリヤや人々が泣いているのをご覧になって「涙を流された」と書かれています。わたしたちの現実の痛みを共に担いつつ、その上で「このただ中にあってわたし(イエス)が命の源であると信じか? 」
という問いを今日もわたしたちにかけられている・・・・そのようなメッセージでした。
あなたはこの問いかけをどう受け止めますか?