大鳥居を抜け松並木の参道を行きます。
が、その前に・・
右側の民家の横を少し入ったところに
「弁慶塚」
説明板によると;
武蔵国稲毛(川崎市)領主 稲毛三郎重成が、亡妻の供養のため
相模川に橋を架け、1198(建久9)年 その落成供養には源頼朝が
大勢の家臣を連れて参列し盛大に行われましたが、その帰途に
鶴嶺八幡宮付近にさしかかった時、突然乗っていた馬が棒立ちに
なったため頼朝は落馬して重傷。それがもとで、翌年死去しました。
馬が暴れたのは、義経・行家ら一族の亡霊の出現に驚いたためといわれた
ことから、後年 里人達が相計り供養塚を造立して霊を慰めたと伝わります。
約800mも続くという松並木を歩きます。
やがて、石造りの鳥居と可愛らしい太鼓橋
その先も、松並木が続いて・・
ようやく、社殿が現れました☆
「鶴嶺八幡宮」
祭神: 応神天皇・仁徳天皇
佐塚大神・菅原道真
康平年間(1058~1065)に源頼義が東征の折、石清水八幡を勧請して
神社を建立したことに始まるといわれ、源家の篤い庇護を受け繁栄しました。
後北條氏滅亡の後 荒廃していましたが、当社の別当寺住職 朝恵上人が
浜之郷村領主 山岡氏の援助を得て、社殿・拝殿を再建。 1649(慶安2)年
徳川幕府より7石の御朱印を受けたのを記念し、あの沢山の松を植えたとか。
ご神木(槇) 大イチョウ
ご神木の槇は、前九年の役で父 頼義の応援に向かう源義家が戦勝を
祈願して植えたものとか。 県天然記念物に指定された大イチョウは
推定樹齢 950年 ・根周り 8.5m ・目通り 9mというみごとな大樹です。
朱塗りの鳥居まで戻って、また東海道を進みます☆
「日本橋から60km」だって・・
街道の左側に、「神明神社」
ひと気のない境内には、
双体道祖神と、「厄除大権現」と刻まれた石碑がありました。
やがて、左手に・・
「相模川橋脚跡」
1923(大正12)年の関東大震災と翌年の余震による隆起で、水田に太い木柱が出現。
調査により、先述の稲毛重成が相模川に架けた橋の橋脚と確認されました。
鎌倉時代には、相模川はこの辺りを流れていたのですね。
出現当時の様子
(展示パネルの写真)
計10本の桧の丸柱が、南北方向に4列 東西方向に3列並ぶ様子から
幅約9m 長さ40m以上の橋が南北方向に架けられていたと推測され、
1926(大正15)年に 国の史跡に指定されました。
現在 プール状の池に展示されているのは、復元されたレプリカで
実物は防腐処理を施し、地下2m65cmの所に保存されているそうです。
「下町屋橋」
下を流れるのは、「小出川」です。
橋を渡って暫く行くと、通りの右側に
「妙巌山 信隆寺」
日蓮宗のお寺。
開創: 1253(建長5)年
本尊: 釈迦牟尼仏
武田信玄の従兄弟に当たる 勝沼信就が、武田勝頼に従い
天目山の戦で織田・徳川の連合軍に敗れた時、家臣数名と
共にここまで逃れて剃髪し、開いたお寺と伝えられています。
「日蓮上人坐像」
(説明パネルより)
像高 42. 2cm 玉眼寄木造りの木像です。
市指定重要文化財で、1564(永禄7)年の銘。
今宿からここ中島辺りの街道筋には、敷地も広く
重厚な構えの民家が多く見受けられます。
やがて、「平塚市」に入っていきます☆
「馬入(ばにゅう)橋」
下を流れる相模川は、頼朝落馬のあの故事に因み「馬入川」と
呼ばれています。 下流に見えるのは、JR東海道線の鉄橋。
橋の途中に
「日本橋から62km」の標識
橋を渡りきると、道は平塚市街に入っていきます☆
次回は、「平塚宿」を歩いてみることにしましょう☆
27,410歩
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