ちょっと、というか全然関係ないけど。
晴明神社は、前から行きたいと思っていたところ。
昨日行ってきました。
脳年齢の結果は、2年前のだけど、 ちょっと凄くない?
あ、60才で48才の脳年齢だったから、その日は気分よかったわ。
100人中6位って。成績はいつもクラスの中でも
後半だったけど。
ちょっと、というか全然関係ないけど。
晴明神社は、前から行きたいと思っていたところ。
昨日行ってきました。
脳年齢の結果は、2年前のだけど、 ちょっと凄くない?
あ、60才で48才の脳年齢だったから、その日は気分よかったわ。
100人中6位って。成績はいつもクラスの中でも
後半だったけど。
2011年の3.11のこと、9年前記事を書いてました。
今日は、無事な一日でよかった。
過去の自分のブログ、いいこといっぱい書いていました。
今より若い自分は前向きで気力がありました。
ここんとこ不調で、特に大運変わってから体調面の崩れが大きい。
で、温灸再開しました。やっぱり、気持ちいいわー。
「痛痒気持ちいい」を、再体験したくてまた温灸器を購入して。
うー、煙がすごいー、でも大丈夫、うんうんこんな煙だった。
小説家や企業家などが、自分にはファンがたくさんいるというようなことをよく言われているが、ファンという言い方に違和感を覚える。
読んだ本が面白かったら、その作家の他の作品を読むことはあるが、ファンと言われると何か違うと思う。小説に共感はするが、全てではない。同じ1人の人間として捉えている。
だが読者は作家にとっては、単なるファンの1人という範疇なのか。自分を自分で特別な人扱いしてると思うのだ。
例えば、嵐のファンというのはわかる。ステージの彼らはある種虚構の世界で、夢を見せてくれるスターだ。私の中では夢を見せてくれる人にファンがつくものだという認識なのだ。小説も夢を見せてくれるものかもしれないが、それは小説の世界の中であって小説家本人ではない。登場人物のファンならわかるが、小説家自身のファンではないのだ。
浦和の12日町へ行ってきました。今年は大々的に熊手が売られていました。
去年まったくなかったのは、いったいどうしてだったのかわからない。
歩いている人を見ても熊手を持っている人がいなかった。
何より、神社の熊手自体なかった。
去年は私が異界へ迷い込んでいたんだろうか?業者の方は毎年来ていると言っていたし。
去年、見世物小屋らしきものがあったところに、今年はお化け屋敷?!があった。
そしてその手前には熊手が立ち並ぶ通りがあった。
買った熊手を持って歩いている人もいっぱいいた。
録画しておいた「旅猫リポート」、先日見ました。
不意打ちをくらって号泣。涙が止まらなくなってしまった。
久々に映画で泣いて癒しになった。
病院で悟が亡くなるとき、ナナが入れて本当によかったと思った。
猫があんな演技するなんて。
メイキング映像では、泣いたり、じゃれて遊んだり、普通の猫でした。
私もうちの猫連れて旅に出たいなあ、でも、車が嫌いだから厳しいなあ。
そんなことをつらつらと考えています。