時々これは何だと思わせる話題が出てくる。朝日新聞の投書欄で山口県の村本さんという方が「頂きます」のない給食とはとの一文を寄せている。研修会で聞いた話だそうだが、ある小学校では給食の時間、配膳が終わるとピーと笛の合図があり、「頂きます」を言わないまま食事が始まるという。太鼓をドンと鳴らして合図をする教室もあるらしい。
何故「頂きます」を言わせないかというと、ある親から「お金を払っているのに頂きますと言わせるのはおかしい」とクレームがあったからしい。こんな意見がまかり通ることにあきれ返ると筆者が書いているが、先生たちや他の親たちもこのクレームをそのまま当然と受け取った処置なのだろうか。
皆さんもそうだと思うが小生なども子どもの時から、食前の「頂きます」、食後の「ごちそうさま」は、食事が頂けることへの感謝の気持ちだと教わってきている。駅弁などを食べる時にも、弁当のふたに付いたご飯粒もひとつ残らず食べる様にと教わってきている。
聞くところによると給食費を徴取するようになってから、義務教育なのだから給食費も当然国が負担すべきと、給食費の支払いを拒否する親が居るとも言われる。お金を払うか払わないかに関係なく、多くの人々の努力により食膳の食べ物が用意される。それを感謝しながら「頂きます」「ごちそうさま」と唱和させるのは、人間としての教えの一貫だと思うのだがどうだろうか。
何故「頂きます」を言わせないかというと、ある親から「お金を払っているのに頂きますと言わせるのはおかしい」とクレームがあったからしい。こんな意見がまかり通ることにあきれ返ると筆者が書いているが、先生たちや他の親たちもこのクレームをそのまま当然と受け取った処置なのだろうか。
皆さんもそうだと思うが小生なども子どもの時から、食前の「頂きます」、食後の「ごちそうさま」は、食事が頂けることへの感謝の気持ちだと教わってきている。駅弁などを食べる時にも、弁当のふたに付いたご飯粒もひとつ残らず食べる様にと教わってきている。
聞くところによると給食費を徴取するようになってから、義務教育なのだから給食費も当然国が負担すべきと、給食費の支払いを拒否する親が居るとも言われる。お金を払うか払わないかに関係なく、多くの人々の努力により食膳の食べ物が用意される。それを感謝しながら「頂きます」「ごちそうさま」と唱和させるのは、人間としての教えの一貫だと思うのだがどうだろうか。
私は終戦後(小学生時代)田舎へ疎開して居りまして、一粒のお米には『天地人』の神様が宿って居るので心して食べなければいけないと教わった記憶が有ります。(一粒と言えども残してはいけない)
作物は「天」の恵み、「地」の潤い、「人」の知恵・努力に依るものとの言い聞かせなのでしょうか?
小生も同様に田舎で米のひとつぶひとぶつの大切さを教わりました。
今の世代の方々の考えが分かりませんが、「頂きます」「ごちそうさま」を言わせないなどは理解が出来ません。
貴兄もそうでしょうが、我々の時代は人に感謝することを教わってきていますね。今の世代の方々にもそれを理解させることが必要なのでしょうね。
私も中学生の野球選手と毎週接しておりますが,中にはこの記事と似たような考えを持つ親御さんもいます。
私より年上の方なのですが,子供さんの可愛がり方が少々ずれている気がするんです…。
食事の時は多くの方の手によって用意されたものを感謝する気持ちの大切さを教わってきています。
そんな気持ちが若い人に無くなっているとすると哀しいことですね。
小生もこの投書を読んでまさかと思いましたがそれぞれに育った環境なのでしょうかね。
常に人に感謝の気持ちがあれば、自然に頂きます、ごちそうさまは出てくると思うのですが。
貴兄の周辺ににも同じような考えの方がおられるの困ったことですな。
こういう輩はこういう親に育てられたのか
悲しくなります。
それにしても先生も毅然とした態度が取れないのはマスコミにも責任があるのでしょう。
やはりどう考えても可笑しな考えで、親も教師もどうなっているのでしょうかね。
こんな考えが蔓延しない様に願いたいですね。