「きつねうどん」か「たぬきそば」かで迷うとしてもかなりの確率で蕎麦を選んでしまう
だいたい「麺好き」ならどちらも好んで召し上がるのではないだろうか
高校の頃、母校の近くにあった「藤屋」の「たぬきそば」が忘れられない
醤油のような濃い色のスープにしっかりした麺と丼の表面を覆う「揚げ玉」とネギの存在感、たまに先生と同席したのも懐かしい
上京してから長く住んだ私鉄沿線の街での小さな蕎麦屋さんもよく通った
日中店外の大きなざるに鰹節を並べて干してあったのが印象に残っている、ネギが美味しかった
その蕎麦屋さんの対角にあったのが「讃岐うどん」のお店
ガラス越しのテーブルで麺を打つのを見せるのが売り物だった、透明なスープに歯ごたえのある太めの麺、ここで「讃岐うどん」という存在を認識した
この街で過ごした長い独身時代、2軒のお好み焼き屋さん、小さな洋食屋さん、深夜営業していた居酒屋さん、寿司屋さん、おにぎりが美味しかった飲み屋さん、映画のカメラマン夫妻が経営していた飲み屋さん、そして定食屋さん
当時自分と同年代の方が始めた定食屋さんに「行ってみたいなあ」と思ってウェブを検索したら、残念ながら数年前に閉店していた
玉ねぎとピーマンの入ったウィンナー炒めやら焼き魚の定食でお世話になったこのお店、幼児を背中におぶった奥様と二人で経営していた
閉店を惜しむ私のような田舎から来ていたファンが集い、なんでも出身地の茨城に引っ込んでご子息がお店を開店したという
さてそんな街の近くで営業したこともあった蕎麦の名店「達磨」の文庫本を読んだ
ほとんど禅宗に近いような研鑽の日々を読んでいると軽々しく注文できないなと思う
そのご主人の蕎麦を打つ姿を偶然日本橋の百貨店でお見かけした
全身サポーターで補強しているように見える姿は近寄りがたく道を究めることの荘厳さを感じさせられた
茨城に広大な農地を持つF君に「蕎麦を育てたら?」と誘ったのもこの本がきっかけだった
後で聞いたら40坪ほど蕎麦の栽培に挑戦したというではないか、しかし残念ながらカラスの被害にあって栽培を断念したという
栽培は諦めたが、蕎麦を打つことに情熱を傾けて振舞ってくれた
広い農家の一角でいただいた蕎麦の味も忘れられない
丸の内にあった赤坂更科の白い蕎麦も好きだった
蕎麦もラーメンも細くてコシがなくてはいけないというのがせめてもの私のこだわり
出雲蕎麦の「割子(わりご)蕎麦」も好きだ
丸い漆器の中に蕎麦が収められかつお節や大根おろしなど具が載せられ、そこにそばつゆをかけて頂く
『割子(わりご)」とは重箱のことを指すようで、お弁当を持って野外に出かける趣味人が始めたようだ
四角い重箱は隅っこが洗いにくいことから丸くなったという
私が育った郷里はもっぱら麦が栽培され蕎麦の文化圏ではなかったように思う
「うどん屋」という屋号の「うどん製造直売処(兼)食品雑貨店」があったくらい「うどん」の方が一般的であった
ベルトの回る機械で大量の「うどん粉」を練り製麺する、機械から流れ落ちる麺を包丁で切る
五右衛門風呂のような大釜で麺を茹でては一かたまりにして木箱に並べる、持ってきた鍋にうどんを入れてもらい5円か10円のお代を払う、そんな時代だった
新宿のそば屋さんで旬の頃だけ「牡蠣」を入れたメニューがあった
温かい蕎麦に大ぶりの牡蠣は贅沢の極み、結局自分は具の方に目がいってしまうただの食いしん坊なのかもしれない
嗚呼、藤屋のたぬきそば、よ
高橋名人 そは?打ち
手打そば・蕎麦料理 京都有喜屋 国の現代の名工 三嶋吉晴(店主)
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