題字/熊谷恒子
紬塾では幸田文著『きもの』を日常にまだ着物があった大正~昭和の時代に関する参考文献というような扱いで使わせてもらっていますが、同じく『黒い裾』という短い小説も大学生の時に姉の本棚にあったものを読み、今も手元に昭和49年7月30日九刷の茶色くなった文庫本があります。題字もすごいです!まさに崩れ行く絹の黒布を彷彿とさせます。
当時、幸田文(1904-1990)文学や着物に特別関心があったわけではありませんでしたが、一着の喪服を一生をかけて裾が擦り切れるまで着るという小説の筋書きに、人生と共にある着物というものはすごいものなのだと、深く記憶に残りました。昭和29年ごろに書かれた小説です。
16歳の女学生が、母の名代で初めて親戚の葬儀に行く。喪服の用意はなく、裏方の手伝いをするための挨拶からはじまる。
その挨拶は「今日は皆様ご苦労様に存じます。私ども母もお手伝いに参るのですが、持病がございまして私代ってお勝手元なんなりとご用いたしとうございます。なお……お恥ずかしゅうございますが紋服の用意がございませんので、不断着をおゆるしくださいますよう。」母親から教わった挨拶を、緊張し、汗だくでのべるのです。
その不断着は「じみな著物に新しい足袋、草履の鼻緒に黒いきれを巻いたのはせめてできるだけ身につくものから色を消したい心づかいだったが、そんなことをしてみても喪服のない肩身の狭さは心の底に滓(おり)になっていた。」と。母親はまだ学生だからちゃんとしていなくていいとなだめるのですが、なんと女学校卒業祝いはいらないので喪服を作ってほしいと母親に懇願する。しかも一生ものなのでいい生地でと註文をつけたとあります。
『きもの』の中でも生地に対するこだわりの箇所が随所にみられますが、子供のころから着物を着つくした幸田さん自身の実体験、体を通しての皮膚感覚、感受性の鋭さから生まれる言葉で書かれているのです。
その後、結婚もし、貧乏もし、離婚し、元夫を亡くし、戦争も経て、幾度かの葬儀も重ねた50代のある時、叔父の葬儀のために喪服を着て着姿のチェックのために座った鏡台の前で、立膝をついて起ちあがろうとしたその時、踵が裾に触れ裾に入っていた真綿が垂れ下がったように露わになっていた。時間がなく、それを裁ちばさみで裁ち落とし、応急処置で葬儀に間に合わせるという話で小説はほぼ終わるのですが、再読してみてもやはり面白くていろいろ自分に置き換えて読んでしまいました。
喪服一着のことで小説を書いてしまえる幸田文さんもすごいのですが、女にとって“着るもの”というのがどれだけ人生と共にあったかを改めて思います。喪服だけではありませんが、、。
私の両親の時には着るもののことを考えたり準備する時間的、経済的余裕もありませんでしたが、小説の主人公千代は若いのに先を見据えて十代で喪服を拵えるのは、時代が違うとはいえ、しっかりした大人だったのですね。。。
今はなんでも簡略化の時代ではありますが、むしろ自由にこじんまりとした葬儀やお別れの会、さまざまな追悼、供養のかたちというものがあります。そんな日に何を着るのか着物の正装、準礼装や略礼装なども視野に入れながら、自分らしい喪装がどんなものなのかを差し迫ってないときに考えたいと思います。
母が遺した喪服一式は一度羽織ってみたことはあるのですが、とても軽い錦紗縮緬でした。五つの抜き紋があり、戦後間もなくの結婚の時に祖母が持たせたものなのか、もしかすると祖母のものを持たせたのかわかりませんが、胴裏は座繰りの節のある薄手のものが使われています。黒の帯や小物も揃えてありました。それっきりになっていましたが、梅雨が完全に明けて空気の乾いた日に広げてみようと思います。
母の命日も近いですし、喪服を通して母と祖母と語り合ってみたいと思います。