人生黄昏時

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中城城 【4】

2019年12月05日 00時00分21秒 | 日記

  護佐丸が山田城主のとき

首里城城主になっていた尚巴志(1372~1439年)が

 

1416年に今帰仁城を攻略しようと軍を進めた

その時護佐丸も兵を率い参戦した

 

尚巴志の本軍は海路を

護佐丸は陸路を指揮官として進軍した

 

難攻不落の今帰仁城を攻め、終には攻め落とし

護佐丸は大きな功績をあげ

 

これを機に読谷の座喜味にグシクを築き

読谷山按司と名乗り十八年間居城とした

 

第一王統三代目尚忠王のとき

王府の命により護佐丸は中城城に移り

中城按司と名乗る

 

伝承によると勝連按司阿麻和利が勢力を拡大していた

阿麻和利を牽制するためだと言われている

 

尚王統は王位継承で内乱状態

志魯・布里の乱が起き、尚里も失脚し

第一王統六代目に尚泰久が王位についた

 

護佐丸の娘を正室にしていた尚泰久は

長女百十踏揚(ももとふみあがり)を阿麻和利に嫁がせ

内乱で失墜していた王権を不動のものにした

 

護佐丸は阿麻和利を牽制するため軍事訓練をしていた

ところがこれを見た阿麻和利は

王府に謀反の動きありと、讒言した

 

これを聞いた尚泰久は阿麻和利を総大将に任じ

1458年に中城城を包囲した

 

王府軍と聞いた護佐丸は反撃せず

幼児だった三男を乳母に託し

妻、長男、次男もろとも自害した

 

その後阿麻和利は、首里に進軍するが

王府軍に敗れ阿麻和利は戦死する

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