人生黄昏時

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羽地朝秀【2】

2020年07月01日 00時00分46秒 | 日記

  羽地朝秀は、父羽地王子朝泰(羽地御殿五世)の

七人兄弟の長男として1617年6月6日誕生

 

からびなー(童名)は思亀、からな(唐名)は呉象賢

名乗りは重家

 

呉象賢・羽地按司重家、号は通外である

 

1640年に家督、羽地御殿を継いで

羽地間切の按司地頭となる

 

朝秀は大和(薩摩)に留学し三年の間に数々の

学問を習得したと伝えられている

 

帰国後、尚質王の命により琉球国最初の国史

中山世鑑を編纂した

 

琉球国の創始(開闢説話)から

1555年四代目尚清王の治世まで

六冊を和文で記述されている

 

琉球の人々の祖先は、日本からの渡来人で

琉球最初の王統、舜天王は源為朝の子で

清和源氏の末裔と称している

 

源為朝は保元の乱で敗れて伊豆大島へ流刑になったが

為朝は島を脱出し嵐に遭い、

 

運を天に任せると祈ったところ、琉球に流れ着いた

着いたところを「運天」と名付けられている

 

その後、為朝は大里按司の妹を妻とし

子が生まれ尊敦と名付けた後の「舜天王」である

 

源為朝渡来伝説は、日本の文献最初は京都五山の

臨済宗僧侶月舟寿桂(1470~1533年)の

幻雲文集・鶴翁宇銘井序(1572)においてである

 

1807年頃には有名な曲亭馬琴の椿説張月や

鎮西琉球記などにも記され江戸時代には広く知られている

 

また為朝来琉説が十六世紀前半には京都五山の

僧侶の間では琉布していた事実が確認でき

琉日の僧侶の交流によって琉球国へ伝えられている

 

また琉球に滞在していた袋中僧侶が1605年に編纂した

琉球神道記にも源為朝来琉記記述されている

 

為朝琉布文献は、中山世鑑を編纂される際に大きな

影響を与えたのではないかと言われている

 

源為朝来琉説は史実的根拠はなく伝説の域を出ない

この伝説は羽地朝秀の琉日同祖論として多く議論されている

コメント
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