たかたかのトレッキング

駆け足登山は卒業、これからは一日で登れる山を二日かけ自然と語らいながら自由気ままに登りたい。

さようなら韓国

2014年11月06日 | 韓国
長いと思っていた1ヶ月も過ぎてしまえばアッと言う間の1ヶ月

明日はもう日本です

前回は勿論、山登りが目的でしたが観光的要素の濃い旅行でしたし

想いもかけぬ祭りが楽しめた華やかな旅でしたが

今回はセオウル号の事故により全ての祭りが自粛され

旅行者としては今一印象の薄い旅となってしまいました

しかし思い起こせば雄さんの語学力の向上により多くの人達と知り合えた旅でも有りました

すっかり聞き慣れた「イボン チョンジェジャ ヌン ×××」「タゥム  チョンジェジャ ヌン ×××」

韓国を旅していれば韓国語が解らない人でも自然に覚えてしまう この車内アナウンスを聞く事も無くなりました

何はともあれ、ここは地道に努力してきた雄さんに感謝しなければならないでしょう




利川バスターミナルは今日も賑やかでした

最初のバスは私達の直ぐ前で一杯になってしまいましたので次のバスを待つべく

ベンチに腰を下ろしていますとあれよあれよという間にもう列が出来ています

慌てて列に加わりましたがその時私達と次の女性二人組との間に割り込んだ若い男女

すかさず雄さん、注意しましたね

その男女、気まずそうに列から外れましたがどこの国にもこうした常識のない人間はいるものです


どの位、バスに揺られたでしょうか

車窓に満々と水を湛える漢江が見えてくれば、もうここはソウル

この辺りは記憶外の景色ですが

遠くビル群を見下ろす様に聳える北漢山(プッカンザン)は自分の足で歩いた山、懐かしさもひとしおでした




正面の山が北漢山です


漢江にまた橋が出来そうですね


バスは金浦国際空港を過ぎいよいよ仁川国際空港に近づきました

韓国は釜山を始め海に面した場所では埋め立て工事が進んでいますが

ここも例外では無く広範囲に埋め立てが始まっています




一旦、空港まで行きホテルを当たりますが周辺にホテルは見当たらず

最寄りのホテルまでタクシーを飛ばして貰いました

「私は韓国一の運転手です」と自負したり高級ホテルに横付けしたり

どこまでも気に入らないドライバーでしたが

ともかく雲西洞へ行ってくれればそれで良し

早くホテルを探して落ち着かない事には・・・だって明日、早起きしなくてはならないのですから

“安い、良さそう”を頭に入れて10分ぐらい歩いたでしょうか

裏通りからメイン道路に出た所で見つけたのが仁川エアポートホテル

有り難い事に空港までの無料ピックアップサービスが有りますのでバスや電車の時刻を気にしなくて済みます


雲西は空港が出来て街という体裁を整えたのでしょうか

何処となく作られた街という印象です


夕食はお豆腐は食べませんでしたが豆腐(スンツブ)料理専門店です


左スミに有る御釜、まるで日本の釜めしですね

味良し、マスターや店員のサービス良し

周辺に何軒も食堂は有りますが盛況なのは、そんな所に有るのでしょう


明けていよいよ帰国の日

ホテルのバスで仁川国際空港へ向かいました










そして離陸


機内食


およそ2時間、到着した日本は梅雨入り本番

江東区辺りで見たビルも雨に煙っています




高崎に着いたのが18時頃

姪が駅まで迎えに来てくれ夕食は姉の家でご馳走になり無事、帰宅です

そして翌朝

夏の留守とは違い草丈こそ伸びてはいなかったものの

四方八方に枝を伸ばし見るからに鬱蒼とした庭になっていました

生活していれば一ヶ月経っても、目に見えて伸びる事もないのに

人の気配をまるで知っているかのようです

元の庭に戻すまで一体、何日かかるのか・・・今日から木々や草と格闘です









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人間国宝 林恒鐸氏と池順鐸氏(利川)

2014年11月04日 | 韓国
いよいよ韓国旅行も最後の地となりました

今日は統一地方選挙の投票日です

私達が済州に居たころ始まった選挙なのでどうしても行方が気になります

投票率は地区に寄って異なりますが総合では50%程度なので日本とそう変わり有りません

結果、セオウル号や地下鉄事故など政府への不信感が強く有力とみられたセヌリ党の候補は落選

ソウルの市長選は野党であるハンナラ党の勝利で終わりました

パク・クネ氏にとっては、これからの政権がかなり厳しい事を物語る結果になったわけです




一応、ホテルは朝食付きです

ですがパンとジャム、コーヒー、コーン、カップラーメンという侘しさ

それも、ウカウカしていると補充がないので朝食に有り付けない事も有ります

実際、私達は翌朝(この日は若者が3・4人宿泊していた)8時半頃、階下へ行きましたので

パンの一欠けらも口にする事が出来ませんでした

前置きはさて置いて

食堂の店員さんが教えて下さったバス停へ向かいます

日本で下調べしたところに寄りますとバス停は「ナムカジ・バスは114番」

そう待たずに114番のバスが来ましたので乗車し

「ナムカジまで」と言いますと「ナムカジ?ナムカジ?」と何度も問われ

「降りる所を教えるから前の席に座っていて下さい」と言われました

やはり食堂の店員さんが仰っていた通りナムカジなるバス停は存在しないのかもしれません

雑器が並ぶ賑やかな、みやげ通りを過ぎたバス停で降ろして下さいましたので

確認しましたがナムカジの文字は有りませんでした

そこから町に少し戻り最初に目に入ったのが「池順鐸窯」の看板です

ここで雄さんはお気に入りを一つ見つけました

ここは後でまた訪問する事になりますので後程、記したいと思います

次に私達が向かったのは廣州窯でしたが私達の好みに合わず見ただけにとどめました


すぐ先は先ほどバスで通り過ぎた土産屋さんが軒を連ねる場所です

そちらは料金も手ごろな観光客相手のお店が多くやはり心を動かされる物は有りませんでした

そうした土産屋が並ぶ中漢吉陶芸とお読みするのでしょうか

窯場を見つけましたので一寸、覗いてみます






奥様でしょうか、流暢な日本語で応対して下さいましたので

「随分、日本語がお上手ですね」と言いましたところ何と九州から此処へ嫁いで来られた方なのだそうです

以前、慶州で購入した抹茶茶碗の図柄が良く似ているのを思いだしお聞きしたところ

この図柄は主人しか描きませんからと仰っていました

それがこの茶碗です


結局、何も買わずに失礼しましたが

わざわざ、外まで見送ってくれ周辺の窯場の場所を教えて下さいました


先ず最初に訪れたのが海剛高麗青磁研究所


しかし残念な事に今日は休館日

「美術館は入れませんが、ご自由に見学なさって結構ですよ」との事


最初の画像が美術館です(クリックで大きくなります)

            

この像が初代の柳海剛(ユ・へガン)→「青磁の匠」という文字が見えると思います

後に訪れる地順鐸氏(チスンテク)と共に利川を再び陶芸の里として復活させた人物です

次の写真は2代目の柳光烈氏(ユグァンリョル)→(海剛美術館を設立しました)

後にインターネットで所蔵の作品を見ますとそれはそれは素晴らしい名品揃い

休館で有ったとは返す返すも残念な事でした




こちらは「漢吉陶芸」の奥様が「白磁の分野では第一人者ですが、ちょっとお値段は張りますよ」と

仰っていた林恒鐸氏(イム・ハンテク)の工房です

林恒鐸氏は辰砂の技術に優れ人間国宝の認定を受けています






展示室に行きますと

「良くいらっしゃいました、どうぞどうぞ」と高名な工芸家とは思えぬ歓待振りです

煎れて下さったコーヒーを戴きながら陶器や飾って有った琴について話が盛り上がった所で

「お名前をこの紙に書いて下さい」

いきなり、そう言われたので一体何故と思いながら私達の名前を書きますと

奥から氏の作品が収録された本をもってきて、その本にサインをし記念にと下さったのです








当時の国会議員だった頃のパク・クネ氏と隣は前大統領キム・ヨンサン氏


林氏のお嬢さんは現在、日本の有田に勉強に行っているそうです

日本の陶磁器の故郷である韓国から日本へ留学とは考えさせられるものが

焼きは本当に素晴らしいのですが絵付けを日本の陶磁器に学ぶところが有ると言う事なのでしょうか

私達は氏の作品を一つ求めようかと思っていましたが現金も乏しくビザカードが使えないと言いますので

飾って有った作品の中から上品な染付の箸置きを購入する事にしました

この箸置きは30年前に作った物だそうで今後つくる予定はないそうです

思うに多分、韓国では箸置きを使う習慣が無いので、その辺りが作らない理由なのでしょうか

ビザカードが使えなかった事が効を奏して貴重な箸置きを手に入れる事が出来たのは幸運でした


最後に向かったのは雄さんが目を付けていた池順鐸(チスンテク)窯です






先にも触れましたが順鐸氏は李朝時代以降、途絶えてしまった高麗青磁を復活させようと

柳海剛氏と共に再現と収集に尽力された陶工です

惜しい事に1993年 81歳で亡くなられました












こうした中から雄さんが選んだのが次の写真の花活けです


帰り利川駅まで送って上げますというお言葉に甘えましたが

東京で展覧会を開くと皮膚科の医師が必ず見えて殆どを買い占めてしまうのだとか

そんな話をされていました


時代の流れと言うか最近では一寸したレストランでもベークライトの食器が使われているのを見受けますが

自国の素晴らしい文化に対する理解が落ちているのは少し残念です




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陶器の町 利川へ

2014年10月31日 | 韓国
昨夜の事

いきなり部屋の電話が鳴りました

受話器を取った雄さん言うに

「“ブーがどうとか言っていた”訳が解らないから“受付へ行きます”と言うと

相手の方でこちらへ来るという返事が返ってきた」

暫くしてドアをノックする音がしましたので開けますと

そこに立っていたのは、あのアジュンマではなく

お水2本、コーヒーステック4本、何故か精力剤2本を抱えた若い女性でした


独立記念館から帰った時、喉が渇いたので冷蔵庫を開けると無い・・・水が、コーヒーが

お掃除をした形跡は有りましたが、それらの補充が無かったので

“どこまでいい加減なのか”と呆れ半分で仕方なくスーパーへ買い出しに行くはめになりました

夜、遅くの電話は 補充しなかった事に気付いて慌てて連絡をよこしたのでしょう

まぁ、これでここの評価を少~~しばかり上げる事にしましょう


今日は日本を出る前から楽しみにしていた利川へ移動です

昨夜、地図を見ながら利川へ行くのに乗り換えが必要かもしれないと心配していましたが

バスターミナルで調べたところ上手い具合に直通バスが出ていたのはラッキーでした

車窓に映る景色は殆ど田舎の景色です

バスの殆どが高速を利用している中、利川に到着するまで長閑な景色が眺められる路線は

ある意味、貴重で有りホッとするバス旅になりました


指名手配中のユ・ビョンオン取り締まりの光景は今では日常茶飯事です


利川へは不覚にも所要時間を書いた紙を紛失し分かりませんが確か小一時間(?)で到着したと思います

バスは11番  料金は8300ウオンでした

写真はバスの待合所の模様

写真左側には小さな食堂や売店がズラリと並んでいます


街を眺める前に先ずは宿探し

あちこち歩き回って探し出したのが奇抜な色の「スカイホテル」でした

宿泊料金は2泊で10000ウオン、この辺りの相場は大体こんなものです


落ち着いた所で街に繰り出してみましょう

私の想像では利川はこじんまりした町なのかと思っていましたが

どうしてどうして車の往来の激しい賑やかな街でした






横断するのも必至な私です


利川にも温泉場が有ったなんて知りませんでした


おまけの写真






朝食もとらずに来てしまいましたので例のターミナルに並ぶ食堂に入る事にしました

食事をとりながら明日行く陶芸村について検討しましたが、やはりバス路線が今一わからず

食堂の店員さんに陶芸村を通る広州行きの広州の読み方を尋ねますと一瞬困ったような顔をして

仲間の店員に助けを求めますが、その店員もお手上げです

中に居た料理人のアジュンマ二人も加わりましたが首を捻るばかり

暫くしてその内の一人が「アッ、カンジュ、そうカンジュよ」・・思い出してくれたのです

それは取り敢えず一見落着しましたが陶芸村のナムカジと言うバス停を尋ねる段になった時

またまた「そんな名前の停留所なんて有るのかしら」と当惑顔をされてしまいました

「取り敢えずバス乗り場を教えてあげるわね」と店員が私達に案内してくれたのは

バスターミナルから一旦出た通りの反対側に有る為、教えて頂かなかったらまた悩むところでした

しかし、今の韓国人の多くはハングル文字で教育されているせいか漢字が読めない人が多いようです

ただ色々と不都合がある様で最近では漢字にに戻そうという動きも出てきているのだとか

ハングル文字は一般庶民にも読み書き出来るよう世宗が発案した文字ですが

これは日本文字で言えばカタカナの様なもの

状況や繋がりで理解できる物は良いとして単語で言葉を発した場合

“ハシ”では橋なのか箸なのか端なのか難しい部分が出てきます

実際、バスのチケットを購入する時

売り手が何度も「~~ですね」と念を押すのは、そんな所に有るのでしょう

写真はバスの停留所を教えて下さった店員に思わず雄さんが「コマスミダ~」と手を握ったため

戸惑った姿が可愛くて思わずパチリと


通りの一角でモウモウと煙をあげる御饅頭やさん、何だかとても美味しそう

思わず「3ヶください」


外からカメラを向けた時、中に居たお兄さんに何度も手招きされました

「中に入って写真を撮っていいよ」と言っているのです

それでは、お言葉に甘えて・・・・・・・・・・・・・






宿に戻りアツアツの御饅頭を食べている内に外はもう夕闇が迫っていました

明日が楽しみです





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その2・独立記念館 (天安)

2014年10月29日 | 韓国
独立記念館は全斗換大統領の命に寄り独立の為に亡くなった人々を弔うため1987年に設立されたものです

2コーナーからは、とうとう侵略や統治の問題に当時の韓国の人々が如何に苦しんだか

これでもかという程の量が展示されていました

「独立」と言う事なので仕方の無いことなのかもしれませんが

あたかも韓国5千年の歴史の4千年以上が日本に侵略されていたような錯覚さえ覚えてしまいます

日本の全てが正しいとは言いませんが

これでは「独立記念館」と言うよりも「反日記念館」と名を変えた方が良さそうです


先ずは写真で追いたいと思います(暗い中での撮影でしたので写りが良く有りません)

韓国を植民地とした日本軍はここで日韓乙巳勒約協定が結ばれました

(写真、中央の人物が伊藤博文)


今も問題になっている慰安婦を連行するシーンですが

強制的という問題に関して言いますと必ずしもそうでは無かったようです

日本軍は大卒の主任級が月収20円の頃、月収300円という高額で公募を募りました

結果、中には貧しくて自ら応募した者、親に売られてしまった者、借金を背負っている者達が

応募したと言うのが真実だからです

車に乗せている男性も実は日本人では有りません

(と言うより併合時代は国際法上、韓国人も日本人でしたから

日本人がこの様な事をしたと言われる部分も有るのでしょうが)



独立に関わった運動家(キム・ケナン キム・ボッカン)




この人物は「ソ・ジェビル」で韓国に失望して日本やアメリカに亡命を繰り返した人です

説明では日本に留学していた頃「大韓民国万歳」と唱えたと有りますが

韓国に帰国し金玉均と共に「甲申政変」を起こしそれが失敗すると再び日本へ亡命するわけで

残された家族は(三親等まで)残忍な方法で処刑されたといいます


そして誰でもが知る伊藤博文を射殺した安重根(アン・ジュングン)ですが

射殺後、即刻ロシア官憲が逮捕し日本官憲に引き渡されてその翌年、死刑となりました




昭和天皇暗殺を試みたテロリスト李奉昌


何だか疲れました、喉がカラカラです

ここらでちょっと一服した方が良さそうです


気を取り直して次に進みましょう

私がショックを受けた際限シーン 多分、平静な気持ちで観る事は出来ないでしょうが目を逸らさないで下さい

日本軍によるとされる拷問シーンの一部で他に目を覆う様な残忍なシーンも有りました

かなり誇張されているのかもしれませんが実際、私には良く分かりません

ただ言えるのは何が悪いのかと言うと戦争なのです

戦争が始まれば何でもするのが国であり人間なのです




















韓国を植民地とした日本は日本語を韓国人に強要しました





















そして1945年、ついに韓国は独立を宣言しました

と言いましても独立できたのは国民の力と言うより日本が敗戦した事で植民地から逃れたわけですが

これはその時の大韓民国臨時政府の要人たちです


しかし思うに、はたして韓国民の全部が反日運動をしてたのでしょうか

当時の日本の力を借りて近代化を図った人たちも多くいたはずで

ある意味 彼らは韓国の独立に戦っていたのではないでしょうか

しかし

それらの正当な評価を受けていない改革派と言われる人達の展示資料が皆無で有った事は解せません

韓国人が異常に自己を誇示するのは独立運動を始めとし

執拗に主張しないと韓国人のアイデンティティは存在しないとの恐怖感が絶えずある様に思えてならないのです

あるコーナーでは課外授業の一環でしょうか

教師の説明に熱心に耳を傾けている小学生の姿が有りました

無垢な子供に日本が行った惨たらしい行為を語っているのです

この説明を受けた後「日本人は悪人か」と教師に問われれば「悪人です」と答えるでしょう

出来るならば両国の歴史家が主観を排除し客観的な資料を元に作り

それを子供たちに学ばせてやるべきではないでしょうか

摺り込まれた過去にとらわれず歩み寄らない限り日韓の関係は平行線を辿るばかりで進展は有りません

日本は敗戦と言う屈辱を味わいながらも恥を忍びつつ乗り越えてきたからこそ今の日本が有るのです

原爆の被災者は殆どが非戦闘員でした

日本国民にとって決して忘れられないこれこそ許しがたい行為です

しかし日本はその悔しさを礎に立ち上がりました

韓国が言う「歴史を忘れた民族に未来は無い」ではなく

未来の為に耐えなければならない事も有るのではないでしょうか

何時までも過去に拘り相手を批判して良い事があるのでしょうか


一通り見学し終わり売店で土産品を見ている私達に支配人が声を掛けてきました

色々話す中で「日本人は此処を訪れますか?」と問いますと

「今は日韓の関係が良くないのでお見えになりませんね」と言っていました

又「今の日本人は現実を国政やメディアの言う事をそのまま信じる人は少なくなっていますが

韓国はどうですか?」の問いには「未だそこまでなっていない」との事でした

私達が土産にしたのは仮面のストラップ

仮面の下に隠された顔が穏やかで有ります様に祈りを込めて




外に出ますと雨は止んでいました

三義士(左からコン・ボンキル アン・ジュングン キム・シャシン)の胸を張る像が見下ろしており

近くにはこうした憩いの池も有ります

ここは日本人が来て決して楽しい所では無いでしょう

しかし、一度は来て今の韓国の実情を確認するには有用な場所だと思います

再度、巨大なモニュメントタワーを見ると韓国人の複雑な心情が垣間見える様で

何か苦しい思いにかられました

多分、韓国及び韓国人は様々な要素で苦しんでいるのだろうと思います

肩をいからせず相手の事を配慮し

本当の先進国となって普通に暮らせる日が訪れる事を願い記念館を後にしました


ふとマイミクさんが書いた

恨みを晴らすのに恨みを持ってするならば人の世に恨みの亡くなる事はない

恨みを越えた広い心を持って全ての人が救われる道を求めよ

その言葉が脳裏を横切りました




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独立記念館 (天安)

2014年10月27日 | 韓国
天安バスターミナルから約30分

昨夜のニュースに寄ると台風が接近しており済州へのフェリーが欠航と言う事でした

その余波か今日も風雨が激しい朝でした

独立記念館でバスを降りても雨の勢いは変わらず

これから見学する記念館が決して楽しい所ではない事をまるで暗示しているかの様な降りでした

最初に見えてくるのが高さ52mのモニュメント、キョレの塔

空に羽ばたこうとする鳥の翼をイメージしたとも祈りを捧げている手を現したとも言われている塔です


ここから記念館までは少し距離が有ります

普段はハンオリと言うオモチャの様な電車が繋いでいますが今日は動いている様子が見られませんでした

私達は傘を差し足元の跳ね返りを気にしながら長いアプローチをキョレの家を目指して近づきます

その間にはためく無数の大極旗は圧巻と表現するしかないでしょう

入口で出迎えるのは「不屈の韓国人像」、小旗が風を受けてザワザワと音を立てていました






先ずは韓国人として意識下に置きたい「慰安婦問題」次が「竹島」

そして「何故東海では無く日本海なのか」

それらを知っていますか?というメッセージで展示館外に掲示してありました

クリックしていただければ大きくなります

         

見学コーナーは7コーナー有り一室目は韓国5千年の歴史と称したコーナーです

土器・青銅器時代の道具や生活ぶりを表した遺物やジオラマでの展示で

我が国の弥生文化の母所とも思われるそれらは我が国との関係を伺わせます

(一枚目は暦)

        
 


しかし人が権力を持つ様になると権力を廻って血なまぐさい争いが置きる様になります

写真は「高麗の亀州大捷」と言いまして亀州で契丹を破った時の模様が再現されています




これは先日イ・スンシンのコーナーで紹介した亀甲船ですね










そして私達はいよいよ第二室「民族の試練」コーナーへと入りました

時代は180年代~1900年代

韓国にも近代化の波が訪れる事になりました




ここまでは、良かったのですが・・・

続き


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