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教育技術『道徳』

2018年03月17日 | 教育・学校

森友文書改ざんで揺れる国会 
 首相答弁「至誠」はどこに? 
野党議員の落選当てこすり/再三の朝日新聞批判

   毎日新聞2018年3月16日

  春の足音は近いのに、永田町は、いや安倍晋三政権は冬の嵐に逆戻りである。例の森友学園を巡る公文書改ざん問題で「モラルの底が抜けた」の感を深める人も多いだろう。今国会でも、相変わらず安倍首相の口から飛び出す「安倍語」を聞くと、政治こそ「底抜け」の元凶ではないか、とすら思えてしまう。【吉井理記】

   永田町が騒がしい。国会では与野党の紛糾が続き、首相官邸前では、公文書改ざん問題への抗議デモが連日のように続く。

 その国会を間近に望む憲政記念館。外の騒がしさがうそのように静かな2階の一角に、吉田茂以来の歴代首相の揮毫(きごう)が並んでいる。

 書は人なり、と言う。「経国済民」で、さっそうとした筆さばきを残したのは「所得倍増」を唱えた池田勇人氏。中曽根康弘氏の「風雪磨人」は、たくましい闊達(かったつ)さが墨痕ににじむ。鳩山由紀夫氏が、祖父・一郎氏と同様にしたためた「友愛」は素朴な味だ。

 さて、渦中の安倍首相の揮毫は「至誠」の2文字である。書には疎いが、素人目にも達筆である。首相が著書「新しい国へ」などで、「郷土・長州の英雄」と仰ぐ吉田松陰が好んだ孟子の言葉「至誠にして動かざる者は、いまだこれあらざるなり」からの引用か。

  広辞苑によると、「至誠」とは「きわめて誠実なこと。まごころ」とある。公文書改ざん問題で、財務省が調査結果を国会に報告した12日、報道陣に「行政全体の信頼を揺るがしかねない。なぜこんなことが起きたのか」と嘆いた安倍首相である。ならばこそ問いたい。今国会で「誠実さ」や「まごころ」をないがしろにした言動はないのか、と。

  「『詭弁(きべん)の社会』の到来です」と嘆き悲しむのは、政治評論家の森田実さん(85)だ。

  半世紀以上、永田町をウオッチしてきた大御所だが、2年前に胃潰瘍による大量出血で死線をさまよった。それでも、風雨をついて待ち合わせた当日、喫茶店に現れた森田さん、ほとばしるような語気で続けるのだ。

  「『詭弁の社会』とは何か。当たり前の、まっすぐな道義感が薄れた社会です。国民の範たる国会で、最低限の道徳観をも打ち破るような物言いをする指導者が、喜ばれるようになってしまった」

  例えば、2月26日の衆院予算委員会でこんな一幕があった。2012年の衆院選で落選し、昨秋に返り咲いた立憲民主党の本多平直氏の質問でのことだ。話題の森友学園問題で、妻昭恵氏の関与の有無を改めて問われた安倍首相は答弁に立つたび、こんな「枕ことば」を挟み込んだ。

  「(本多氏は)議員でおられなかったからご存じないかもしれませんが、昨年の国会で何度もご説明申し上げています」

 わずか数分のやり取りの間に3回も「この場におられなかったから」を繰り返し、最後に本多氏は「失礼なことを言うな」と怒り出して審議がストップしてしまった。聞きようによっては、落選中だったことをあげつらうかのような言葉である。通っている職場や学校などで、このような発言を繰り返す人物がいたら、読者はどうお感じになるか。

 「誠実に、真っすぐ答えるのではなく、相手をあざけるかのような応対をする。そうすると、自分の支持者が『うまい』と喜ぶからです。モラルが崩壊している。さらに深刻なのは……」と森田さんが言葉を継いだ。

  今国会の森友学園問題を巡る答弁で、首相が繰り返したのが朝日新聞批判である。例えば1月31日の参院予算委。民進党の小川敏夫氏が首相と森友学園との関わりをただしたのに対し、「(学園側が)朝日新聞に『安倍晋三記念小学校』として申請したと(証言した)。朝日新聞は裏を取らず、事実かのごとく報道した」と、質問にない朝日批判を繰り広げた。

 「指導者のモラル 底抜けた」

  森田さんは「特定のメディアや企業、個人を、名指しで公然と批判した首相が、これまでいたでしょうか」と前置きし、こんな例を挙げた。

  第二次大戦後の1950年。日本がサンフランシスコ平和条約を結ぶ前年、当時の吉田茂首相が、旧ソ連や中国を含む「全面講和」を唱えた東大学長・南原繁を「曲学阿世(きょくがくあせい)の徒」と批判し、大問題になったことがある。

  「これは非公開の、オフレコの場で漏らした吉田の一言が報道されたんです。今はどうか。一国の最高指導者が、公の場、しかも国会で一メディアを繰り返し名指しで批判する。指導者の、最低限のモラルも底が抜けてしまった」

  もちろん、メディア批判は一切許されないと言っているわけではない。憲法が保障する言論・表現の自由にかかわる問題である。

 前出の小川氏とのやり取りは、朝日新聞が朝刊1面(3月2日)で「森友文書書き換えの疑い」と最初に報じる前のことだが、安倍首相は、やはり森友学園問題を巡る問いに「いや、これ、こんなことを延々とここで議論されるという、この考え方がよく分からないんですが」と言い放っていた。国会に説明責任を負う行政府の長の姿勢としてどうなのか。

  森田さんは「安倍さんのような物言いが、国会で、日本社会で受け入れられてしまうようになった。安倍さんを支持する人も、日本をそんな国にしてよいのか、一度立ち止まって考えてほしい」。

  日本の政治潮流を考察しつづけてきた政治学者、杉田敦・法政大教授は、こんな見方を披露する。

 「国会の役割は、政府の権力行使の監視です。疑念があれば、質疑で政府をチェックする。これが三権分立と立憲主義の柱です。首相が自分を監視するメディアや野党、質問をバカにし、あるいは敵視したり、正面から答えなかったりするのは、監視が煙たい、彼らが邪魔だ、と感じているからではないか、と思えてなりません」

  今回の公文書改ざん問題でも、5日の参院予算委で、共産党の辰巳孝太郎氏が「改ざんが事実なら内閣総辞職に値する。最高責任者として責任をとるのか」と問うたが、「仮定の質問には答えられない」と正面から答えなかった。

 「仮定の質問には……」という答弁は一見、もっともらしい。しかし、安倍政権自身、「答えることが困難な仮定の質問」の定義について、「個別具体的な状況が明らかではない場合」などとする答弁書を昨年2月7日に出している。辰巳氏の問いは「個別具体的な状況」を明らかにしていないのか?

  杉田さんが首をひねる。「全く考えられない、あり得ない状況を前提にした問いには答えられませんが、そうでないならただの『逃げ』です。ここにも野党や国会、三権分立を軽視するような姿勢を感じます」

  付け加えれば、安倍首相は野党時代、民主党政権が戦後補償の関係資料を黒塗りにして国会に出したことに「それはひど過ぎる! 国会軽視もはなはだしい」(月刊誌WiLL、10年7月号)と憤っていた。

  そして今国会。裁量労働制の拡大をめぐる問題で、安倍政権が国会に示した関係資料が黒塗りだらけだったことは記憶に新しい。これまた「誠実」な対応と言えるのかどうか。

   さて「保守主義者」を自任する安倍首相、1月に亡くなった思想家、西部邁さんについて「一番共鳴するところ」があると記している(96年の共著「『保守革命』宣言」)。

  西部さんとの親交が深かった評論家の佐高信さんは「本当に西部さんの考えを理解しているのか。保守の知恵はもっと深い。だれかを敵視したり、バカにしたりするような考えには至らないはずだが」と苦笑いする。

       (中略) 

  右から左まで個々人の政治信条は異なっても、宰相として「至誠」かどうか、しっかり見極める時期にきたのかもしれない。


 

  「恥知らず内閣は確実に飛ぶ」昨年同日のブログ題名である。1年たってもまだしがみついている。みっともない限りだ。

   安倍政権の強いごり押しによって教科化された「道徳教育」。これが、あの方の理想の「徳」なのか!