世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

あとがき

2012-09-16 08:01:23 | 月の世の物語・余編

ここまで、「月の世の物語」に付き合って下さった皆さん、本当にありがとうございます。
物語は、どうやら、ここらへんで、ようやく終わってくれるようです。昨日で、全編完結となります。後で何らかの整理をする可能性がありますが。

一応書いときますが、「悪」の編などに出てくる詩は、「詩」の編で聖域を開けて、知能器から出てきた魔法の詩の中の一節です。かなり強い魔法の力を持つことばです。

詩の言葉は強い力を持ちますから、什さんの書いた詩もやがて世界中に広がって、不思議な魔法を幾つも地球上に起こすことでしょう。

「蝶の道」で始まった物語は、なぜか「蝶」で終わりました。この解釈は、皆さんにおまかせします。物語は生きているから、読む人の中で様々な作用をして、それぞれの中で不思議な結晶を生むと思います。

読んでいただいた方々、本当にありがとうございました。また機会があれば、お話を書きたいと思います。では名残を惜しみつつ、絵を何枚か紹介して、さよならを。冒頭の画像はもちろん、什さんです。「雲」の編で、空を見あげているところです。



白髪近眼の聖者。青船から地球を見下ろしているところです。



古道の魔法使い。怖いですね。腐乱地獄の17階は、わたしもひどいと思いますよ。



竪琴弾き。やさしい人でしたね。この人は好きでした。



青年。「花」の編に出てきた、裏表のない正直な青年です。口には気をつけましょう。



少年たち。日照界の少年と月の世の少年です。刺青の少年は気に入ってるので、何回も書きましたね。でも多分これで最後。



梅花の君。切ない恋をしている人。きっと、離れていることに耐えられず、後を追いかけていったんですね。

それではみなさん、この辺で。明日からはまた新しいことを始めます。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2012-09-15 07:32:10 | 月の世の物語・余編

その夜、天の国は望月でございました。

醜女の君は、月の光の深く溶け込んだ水盤の水を、匙ですくっては手で丸めて、金の光の飴のような月珠を、懸命に作っておりました。あまりに速く、あまりに忙しく、手を動かすのに夢中になって、もうほかには何も見えないほどです。ああ何と楽しいのでしょう。この小さな手が作る光が、どれだけの人の歩く道を照らしてくれるでしょう。どれだけの人の苦しみを、癒してくれるでしょう。

醜女の君は、それを考えるだけで、幸せでならず、月珠をそれはたくさん作りました。この望月の夜などは、とくにがんばって、二樽ほども作りました。
「ああ、これでまた、多くの方を、お助けすることができるのだわ!」
醜女の君は、樽いっぱいに光る月珠を見ながら、本当に幸せそうに、笑いました。

そこへ、何気なく、小さな歌など歌いながら、王様がいらっしゃいました。王様は木々に縁取られた細い小径を通ってきて、水盤のそばで、一生懸命に、樽の中の月珠を白い袋に詰めている、醜女の君の、すぐ後ろまで歩いてきました。

「やあ、今宵もたくさんできましたね」
王様はやわらかなお声で、醜女の君に声をかけられました。すると醜女の君は、びっくりして振り向いて、王様の顔を見ました。あまりに仕事に一生懸命になっていたので、王様がすぐ近くまで来ていたのに、気付かなかったのです。それはそれはお美しく、お優しい王様が、自分を見て微笑んでいらっしゃいます。醜女の君は、急いで自分の顔を羽衣で隠しました。そして人知れず流れた涙をふき、震える声で、言いました。

「こ、今宵は、とてもよい望月でございましたので…」
「ああ、それなら、とてもよい月珠ができたでしょう。それは、本当によいものになって、人々に本当の幸せをもたらすでしょう」
「そ、そうでしょうか…」
「ええ、もちろん。なぜなら、あなたは、そんなにも、美しいのですから」
また王様がおっしゃるので、醜女の君はまた涙を流し、そこにくずおれるように座り込み、さめざめと泣き始めてしまいました。王様は、少し困った顔をなさいましたが、またおっしゃいました。

「わたしは、真実しかいいませんよ」
「おたわむれを、おたわむれを」
「真実しか、いわないというのに。それをいつ、あなたが信じてくれるか、わたしがどんなに長い間待っているか、あなたがわかって下されば、わたしも本当にうれしいのですが」王様はおっしゃいました。そして、静かに笑って、くるりと後ろを向き、王様はまた、小径を通って行ってしまわれました。残された醜女の君は、涙をふき、明るい月を見あげました。そして心を落ち着け、また月珠を袋に入れようとしたとき、ふと、何か光るものが、ひらひらと、醜女の君のところに、飛んできました。

「まあ、蝶。白い蝶。どこから飛んできたのかしら?」
まるで白い月のかけらの中に、桜の精がこっそりと住みこんでいるような、かすかに紅を帯びた白い蝶が一匹、ひらひらと飛んできて、醜女の君の、小さな白い花のような手の、指先にひらりと止まったのです。醜女の君はびっくりしました。自分の手が、あまりに白く、美しく見えたからです。でも醜女の君はすぐに「いけないわ」と思いました。「自分を美しいなどと思っては。そんなはずかしいことを考えては」

白い蝶は、風にひらりと飛び上がり、醜女の君の周りを一回くるりと回って飛んだあと、まるで、こちらへ来なさいと言うように、風に乗って飛んでゆきました。醜女の君は、吸い込まれるように、蝶のあとについていきました。すると、いつしか、彼女は、細道を歩いていく王様のあとを、小走りに追いかけていたのです。王様は、気配に気づいて、振り向きました。そしてあとについてくる醜女の君を見て、また微笑みました。

「おや、蝶だ。ああ、神よりの御文ですね」王様も、白い蝶を見つけて、おっしゃいました。
「神よりの御文?」醜女の君は、王様の近くまで走ってきて、言いました。
「ええ、蝶は、神がわたしたちに下さる、美しいおことばの手紙なのです。神のお導きの言葉が、その翅の文様に書かれています。魔法をもう少し勉強すれば、それが読めるようになりますよ」
「まあ、神様のお言葉が、蝶の翅に書かれているのですか?」
「ええ、そうです」
「どこにいくのでしょう?」
「さあ、追いかけてみましょう」

そうして二人は、しばらくの間、白い蝶を追いかけて、並んで道を歩いて行ったのです。やがて蝶は、明るい孔雀色の林の中に飛び込んで行って、そこで光にとけて、すらりと消えてしまいました。醜女の君は、そのときになって、王様とずっと二人きりで並んで歩いてきたことに気づいて、頬を染めて恥じらいました。森も、月の光も、王様も皆美しくて、胸が少しときめいて、しばしの間彼女は、自分が醜いことなど忘れてしまいました。なんだかとても気持ちがうれしく、醜女の君は、胸に白い花がぽうぽうと咲いたような気がして、しばしの間、王様といっしょに、蝶の消えて行った林の中に差しこむ、白いびろうどのような月の光を浴びていたのです。

やがて王様は、それはお美しい声で、おっしゃいました。
「あの蝶の翅に書いてあった歌を、歌ってさしあげましょう」そして王様は、空を見あげながら、澄んだ声で、とてもおやさしい歌を、歌い始めました。

ああ まことのそらの星の
なみだのかたる ちいさきことのはを
きくひとは ききたまえ

ああ そのみちの いと暗きも
いと難きも いとつらきも
ああ そのみちの まずしきも
さむきも あつきも くるしきも
すべては まことの月のみちなれば

ますぐなる琴の糸のように
しんじてすすみたまえ
はるか闇の底の 荒野に落ち
神の国のはての 風の波に溺れ
かなしみばかりが いばらのように
その足を傷つけようとも
それがかつてなき新しき道をつくる
愛のおおいなるこころとおもいたまえ

ああ みにくきも うつくしきも
たかきものも ひくきものも
そのむねに ききたまえ
まことのそらの 星のこころは
すべてを すべてを愛に導くと

王様の声は水晶の魚のように、風の中を素早く泳いで流れてゆきます。それがあまりに清らかで、お美しいので、醜女の君は、しばし我を忘れて聞き入っておりました。

ああ、王様は、真実のことしか、おっしゃらないのに、なぜわたしはそれを信じないのかしら? 醜女の君は、そう思いながら、自分の手を見ました。それはほんとうに、白い花のように清らかで、愛らしく、まるで赤ん坊の手をもっとかわいらしくして、きれいに整えたようなかたちをしていました。

ああ まことのそらの星の
なみだのかたる ちいさきことのはを
蝶のごとき ちいさき白き文にて
あなたのこころに とどけましょう

王様はそこで歌い終わると、傍らの醜女の君の方をご覧になり、やさしく透き通った声で、まるで眠っている赤ん坊にささやくように、おっしゃったのです。

「帰ってきますよ。人々が」
「人々が?」
「ええ、もうすぐ」

王様は微笑みました。醜女の君も、おずおずと微笑み返しました。そうして、王様と醜女の君は、しばしの間、小さな幸福をともにしながら、静かにまなざしを交わしました。

空の月は、その丸い顔を、天の国に触れんばかりに近づけて、そっとふたりの様子を見守っておりました。


(完)




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2012-09-14 07:24:29 | 月の世の物語・余編

什の住んでいる町には、広い川があった。いつもの散歩道から、少し遠くに足を伸ばすと、緑の草に覆われた古い土手があり、その上に細い散歩道がある。

その日、久しぶりに長い休憩を得ることができた什は、いつもより長い散歩をするつもりで外に出た。

季節は春だった。道の隅に咲いている花は、什を見るといつも同じ顔で笑ってくれた。同じ場所には、毎年違うが、毎年同じ花が咲く。それに什が気付いたのは、最近のことだ。気がおかしいと思われるので、誰にも言ってはいないが、たとえば近くの空き地の隅には、いつもきれいな露草が咲くのだが、その花の中にいる魂は、毎年同じ魂なのだ。この花は、いつもこの場所で、毎年花を咲かせているのだ。他の花も、ほとんど同じようだった。

だから、近所に咲く道端の花は皆、什の知り合いのようなものだった。みな、什のことを知っている。そしてかなり、特別な友達と思ってくれているらしい。什はそれがうれしかった。什がひどい孤独の病の中にあった頃、慰めてくれたあの林檎の木は、もう枯れてしまって、今はもういないが、友達はまだ、たくさんいた。

「什さん」後ろから声をかけられたので、振り向くと、るみがいる。什は微笑んで、「やあ、るみちゃん、仕事は休みなのかい?」と言った。るみは高校を卒業してから、小さな広告代理店に勤めていた。「今日は日曜よ。什さんカレンダー見てないでしょ」るみがそう言うと、什は明るく微笑み、「ああ、そうだった」と言った。

るみは周囲の目をちょっと気にしながらも、うれしそうに什の横に並び、散歩道を歩き出した。「ねえ、什さん、川の土手の方にいかない?ちょっと遠いけど、今、タンポポがいっぱい咲いているの」るみが言うと、什は少し考えたあと、言った。「ふうん、タンポポか。いいね」彼はいつもの自分の習慣を崩すのはあまり好きではなかったが、るみが、こうして時々、自分の殻を壊してくれるのは、なかなか心地よいことだと思っていた。新しいことは、いつもこういう形で、思いがけなくやってきたりするものだ。

いつもの角を逆に曲がり、少し遠い道を、二人で歩いて、彼らは川沿いの土手に向かった。るみの言っていたとおり、緑の草に覆われた土手には、黄色い星のようなタンポポが無数に咲き乱れている。什は、ほう、と感慨の声をあげた。タンポポはすばらしい。その美しい黄色と聞こえない愛の歌で、世界を賛美している。愛がしみこんでくる。こんな美しいものは見たことがないとさえ、彼は思った。

「やあ、きれいだな。なんだかとてもいい詩がひとつできそうだ」什が言うと、るみはうれしそうに微笑んで尋ねた。「どんな詩?」「…いや、まだ形にはならない。なんと言うかな。生まれてくる前の赤ちゃんの、たましいのようなものが、自分の中に入ってくるような感じだ。タンポポがなにかをわたしにくれて、それをわたしの魂が育てて、それがいつか詩になって生まれてくる」「ふうん」「…るみちゃんはどうだい?ずっと文芸部で詩や短編小説など書いていたろう?」「わたしが書くのは、そんなたいしたものじゃないから」「一回くらい、見せてくれないか。そうしたら、いろいろ教えてあげられるのに」「だめ。見せられない。だって…」と、るみはそこで言うのをやめた。そして什より先に、堤防を上り始め、その上にある散歩道に上がった。什もその後をついていった。土手の上に上がると、向こうに青い川の風景が見え、川風が什の長い髪をゆらした。るみはそんな什を見ると、少しはにかむ表情を見せ、くるりと背を向け、土手の上の道を、什より先に歩きだした。

るみの部屋の本棚には、少女の頃に書いた詩のノートが今も残っている。鍵つきの日記帳で、中学生くらいの娘が好きになりそうな、薄紅のかわいい花模様の表紙をしていて、同じ模様をしたきれいなケースに入っていた。中には、什への思いばかりを書いた幼い詩がいっぱいつまっている。誰にも見せられない。死ぬ前には燃やさなきゃ、と思いつつ、るみにはそれができず、詩はあのノートの中で彼女の気持ちと一緒に眠り続けていた。

「什さんの詩集、この国より、外国の方でよく売れてるんですってね」どこからそんな話を聞いてくるものか、るみは歩きながら言った。什はその後を追いながら、「ああ」と言った。「外国の出版社が、なんでかわたしの詩集を気に入ってくれて、本を出してくれるんだ。それがなかなか売れてるらしい。もっとも、そこが出しているレインウォーターの小説の人気の勢いに乗って、わたしの詩集もついでに売れてるような感じなんだけど」
「あ、知ってるわ。向こうの国では、もう新作出てるでしょう。レインウォーターのファンタジーはこっちでも人気あるから。早く邦訳がでないかしら」
「『燃える月』はおもしろかったね。わたしも読んだ」

言いながら、什は空を見た、青菫色の空に、白すぎる雲が流れている。それが目に痛いほどしみ込んでくる。什は少し悲しみを含んだ目でそれをみあげながら、かすかに、ああ、とため息をついた。もう少しだ。もう少しで、帰れる…と什は思った。なぜこんなことを考えるのか、わからない。だが、帰ろうと考えると、空を流れる雲は、静かな聞こえない声を、彼の中にささやくのだ。

まだ帰ってきてはいけない。

なぜですか?と彼はたずねる。すると空の雲は、また静かな聞こえない声で、彼の中でささやく。

まだ、おまえにはしなければならないことがある。

什は微笑み、ただそのことばをうけいれ、わかりました、とだけ、心の中で答えるのだ。もうわかっている。あれは、父だ。わたしの、本当の、懐かしい、天にいる父なのだ。

るみは、鼻歌を歌いながら、什の前を静かに歩いていた。そしてふと、後ろの気配が冷たいような気がして、振り向いた。すると、そこに什の姿がなかった。るみは驚き、慌てて叫んだ。

「什さん! 什さん!!」

「え?なんだい」と什は答えて、るみの方を見た。その時初めて、什の姿が、るみの目に見えた。るみは目から涙をぽろぽろ流した。きっと什は知らないだろう。自分の姿が、時々こうして、人の目に見えなくなることを。什は昔から、物思いにふけるとまるで消えてしまいそうに見えることがあったが、このごろは、時々本当に見えなくなってしまうことがあった。これに気づいているのは、るみだけなのか、什のおかあさんや他の人は気付いているのか、それは知らない。でもるみは知っていた。什はときどき、心が別世界に行ってしまうと、ふと姿が見えなくなるのだ。なんでこんな不思議なことがあるのか、るみは、わからないようで、どこかわかるような気がしていた。

「どうしたんだ?何かあったの?」るみの涙がとまらないので、什は心配そうに言った。るみはポケットから出したハンカチで顔をふくと、しばらく顔を背けて、涙が止まるのを待った。什はその間、どうすることもできずに、足元のタンポポの方を見た。タンポポは微笑み、彼に言った。もういいでしょう。素晴らしい方よ。幸せにしてあげなさい。

るみは十六の時に什にプロポーズのようなことをしたときから、一切彼に結婚の話をしたことはなかった。十六のときに自分がしたことを思い出すと、今でも恥ずかしくてたまらなくなる。でも、るみはまだ什が好きだった。什はもう四十を過ぎて、五十になろうとしている。それでも什は若々しく、見ようによっては二十代にも見えた。無精で伸ばした髪も、白くて細い顔も、明るすぎるほど澄んだ瞳も、まるで子供みたいだ。この人には、わたしがいなくちゃいけない。るみはそう思う。その自分の思いが変わらないのは、やはり、やはり、自分がこの人を、…愛しているからだ。

そう、出会ったあのときから。ずっと、ずっと、好きだったのだ。

るみは涙を止めようとしたが、どうしてもできなかった。涙は次から次とあふれてくる。什は困り果てた。こんな場合どうしたらいいのかということを、彼は何も知らない。ただ、泣いている女の前に、茫然と突っ立っていることしかできない。それはわかっている。男と言うものはだいたいそういうものだが、什はもっと幼稚なのだ。

風が吹いた。タンポポが笑い、世界への賛歌をうたう。空を見あげると白い雲の中に神がいる。一瞬、るみの目に、また什の姿が消えかけて行くのが見えた。るみは大声で叫んだ。

「什さん!結婚して!」
え?と言う顔をして、什の姿がもどってきた。什はるみの顔を見て、笑いながら言った。「るみちゃん、もうそれは…」「わたしは本気なの。ずっと什さんといっしょにいる。什さん、結婚しよう。子どもの頃、約束した通りに」

什は目を見開いて、るみの真剣な顔を見た。「わたし、もう子供じゃないから。自分の気持ちくらいわかってる。什さんのことも、よくわかってる。什さんは、女の子を好きになるような人じゃないの。知ってる。でも、結婚しよう。わたしがいないと、什さんはこの世界からいなくなる」
「るみちゃん…」什は茫然とるみの話を聞いていた。タンポポがまた笑い、幸せにしてあげなさい、と言った。風が吹いた。るみはもう涙を止めようともせず、什に駆け寄って、その胸に飛び込んだ。

「一緒にいたいの。死ぬまで!」るみの叫びが、什の胸に熱く響いた。


その頃、地球の周りの軌道上を回る青船の中では、不思議なものが観測されていた。
「おや、なんだろう」と最初に言ったのは、観測機をのぞいていたガゼルの青年だった。ガゼルの青年は観測機を調整し、地球の一点に咲く渦の中心の映像を拡大してみた。そしてあっと息を飲んだ。「蝶だ。白い蝶。それも、ものすごい群れだ!」ガゼルの青年が、叫ぶように言うと、隣にいて、同じように観測機を見ていた月の世の青年が言った。「第一の渦の中心から白い蝶の大群が噴き出ている!記録と、分析を!」すると知能器の前にいた青年がキーボードを打ちながらすぐに言った。「もうやってる!」
ガゼルの青年は、白い星のかけらのような無数の蝶の群れを見ながら、イエス、と胸に割れた小さな亀裂のような思いをささやいた。「…なんて、美しいんだろう。でも一体なにが、起こっているんだ?」渦の中心から吐き出される白い蝶の群れは、そこから地球の上を這うように四方に散って飛び始め、まるで地球全体を覆ってしまいそうなほどの勢いで、広がっていった。各地に埋めた水晶球の光が、点滅のリズムを微妙に変え、地球上の風にまた新しい音楽を織り込んでゆく。

開いた青船の扉から、白い髪の聖者がそれを見ていた。そしてふと目を細め、かすかに笑った。彼の目にはもっとくっきりと、その真の姿が見えていた。白い蝶は、まるで、桜の花びらのように、かすかに紅を帯びていた。その白い蝶の何億と言う群れが、赤い嵐の渦の中心から噴き出てくる。それはなぜだか、赤い花のような不思議な火山の、音もなく真珠を吐く奥ゆかしい噴火のようにも見える。

やがて、三十分ほど時が経つと、白い蝶の群れは、雪が解けて行くかのように、青い地球の色の中に消えて見えなくなった。青年たちが記録映像を何度も見直し、暗号カードを持って船内を忙しく動き回っていた。聖者はただ、扉のそばに立ち、地球の渦を見下ろしていた。彼は思った。白い蝶の群れを吐く火山か。神の御言葉は、美しくも、難しく、そしてあまりにも簡単だ。

ふ、と聖者はかすかにささやいた。…もう全ては変わっている。

聖者は、目を地球上の第二の渦にやった。その渦は、第一の渦より少し色が薄かったが、予想以上の速さで大きくなり、西方大陸の全体をもうほとんど覆いつつあった。

「わたしは、オメガであり、アルファである」聖者は什のことばをつぶやいた。
人類よ、おまえたちが、どれだけたくさんの者に、どれだけ愛されているか、おまえたちはいつ知ることができるのか。彼が、自らの氷を溶かすような優しげな笑いをすると、その金の目の奥で、深い愛を語る小さな光の虫がうごめいた。愛よ、おまえはすべてをやっていくだろう。ただ愛する、それだけのために。そして人類よ。おまえたちも、これからやっていくのだ。あらゆることを。あらゆるもののために。
聖者はすぐに元の冷厳な表情を取り戻し、口から呪文を吐くと、青船の入り口からふわりと身を躍らせた。そして地球に向かってまっすぐに下りて行った。自らのやらねばならぬ仕事を、なすために。


河原の土手の上では、るみと什が並んで歩いていた。まだ自分にはしなければならないことがある。什は心の中で繰り返した。るみはだまっていた。什は隣を静かに歩いている、るみのことを思った。るみに出会うまで、自分の人生が、氷のようにさびしかったことを、彼は思った。人に裏切られ、奈落をのたうった日々があった。心がばらばらになるかと思うほど、ひどい罵倒を受け、精神を病んだ。木や花と心を交わし、孤独を埋めた。植物の愛は彼の冷えた心を温めてくれた。しかし、それでも、補いきれない何かを、るみは補ってくれた。るみは確かに、什の人生に暖かい一つの火を灯してくれたのだ。什はまた空を見あげた。

空の雲が白い。白すぎる。

世界の裏で、もう一つ別の世界が、できている。

「人類は助かるよ」什は空を見ながら、るみに、ぼそりとつぶやいた。るみは意味はわからなかったが、什を見て微笑んだ。什は、結婚の話に、イエスともノーとも言わなかった。ただ、笑っていた。るみが自分と一緒にいて、幸せになれるのか、彼には判断できなかったのだ。るみにも什の気持ちはわかった。でもるみは思った。こうして、いつまでも、いっしょに歩いていこう。ずっと、この人の、そばにいる。わたしは、きっとそうする。ただ、わたしがそうしたいから。ただそれだけで、いいから、わたしは…。

るみは什といっしょに空を見た。白すぎる雲が流れている。どこまでも、どこまでも、流れて、広がっていく。愛が、広がっていく。るみは体中に満ちてくる幸福に、たまらなくなった。

愛しているわ!

るみは胸の中にあふれてとまらぬ思いを、唇をかみしめたまま、心の中で、自分の身も割れんほどに、叫んだ。それは隣の什の胸に響き、什が自分の口から吐いた白い蝶の群れに溶けて、ともに世界中に流れてゆく。愛が、流れてゆく。すべてを、変えてゆく。

アルファ。

ここから、始まる。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2012-09-13 07:29:29 | 月の世の物語・余編

果てしない砂漠と、墨のような空に浮かぶ、白い月がありました。砂漠の砂は、細やかな石英の砂であり、月に照らされて、砂丘は緩やかに波打ちながらどこまでも続き、けば立つようにかすかな白い光を放ちながら、彼の黒い目に焼きつくようにしみ込んでいきました。

彼は、まるで頭に藁がつまっているかのように何も考えることができず、ただ、ぼんやりと、風景を見ていました。自分が誰なのかも、なぜここにいるのかも、今はわかりませんでした。ただ、記憶というものは、透明な見えない風となって、時々自分の背中をひっそりとなでにきました。彼はそれを感じると何か恐ろしいものを見るような予感がして、震えながら身を縮めるのでした。

世界は静寂に満ちていました。彼の体はミイラのように干からびており、悲哀のかげが頭の中をよぎっても、流す涙もありませんでした。胸の重い虚ろが、内臓にこびりついた癌塊ように痛みました。それでも彼は、痛みに苦しむ声すら上げることができず、ただ、砂の上にじっと座っているばかりなのでした。

「やれやれ、やっと下りて来れた」ふと、後ろの方から声がしました。しかし彼は、そちらを振り向くことすらできませんでした。声の主は足音をたてて、ゆっくりと砂の上を歩いてくるようです。「やあ、ひさしぶりですね」なつかしさを感じる声が聞こえたかと思うと、声の主は、彼の視界に入るところまで歩いてきて、そこにゆっくりと座りました。その人は背中に負うていた竪琴を膝に乗せ、彼をやさしく、少し悲しげな目で見つめ、微笑みました。

「ずいぶんと長くここにいるような心地がしているでしょう。ここでは時を長く感じますから。でもほんとは、三日ほどしか経っていないんですよ。あなたが死んでから」
竪琴弾きが言いました。男は、砂の上についた自分の手を震わせ、動かそうとしました。彼に、抱きついて、泣き叫んでしまいたいほど、さびしかったからです。でも、手は動いてくれませんでした。竪琴弾きはまた微笑み、一息の優しい呪文を言いました。すると、男の目から涙が流れました。竪琴弾きは、目を閉じ、しばし沈黙して、ただ微笑んでいました。やがて彼は目を開け、彼に言いました。
「苦労したんですよ。ここに来るまで。ほんとはもう、あなたには会えないはずだったんだが、お役所に何度もお願いして、特別に、会いに来てもいいというお許しを頂いたんです。どうしても、お別れする前に、一度だけ、お話がしたくて」

「は、はな…し…」男は、言いました。竪琴弾きの魔法で、少し、しゃべることができるようになったからです。竪琴弾きは、胸の中に愛の痛みを感じつつ、微笑みを変えずに彼を見つめ、言いました。
「あなたとは、長い付き合いでしたね。いつも、いつも、同じことを、わたしはあなたに、言っていました。あなたはそのたび、うるさそうに横を向くだけで、何も聞いてはくれなかったけれど、わたしは、いつかきっと、あなたが分かってくれるときが来ると信じて、言い続けてきた。様々なことが、ありましたね。あなたは泥蛙になって臭い泥沼に沈んだり、猿になって永遠の行列について行ったりしたこともあった。時々わたしはあなたに会いに行って、よく言ったものだ。『少しはわかりましたか』と。あなたはいつも、わたしを邪魔者扱いして、いやな顔をするばっかりで、はやく帰れとでも言いたげに背を向けましたね…」そこでしばし、竪琴弾きは目を固く閉じてうつむき、しばし何かをこらえるように唇を噛んでいました。肩が少し震えています。男は、きょとんとした目で竪琴弾きを見ていました。

やがて竪琴弾きは顔をあげて、静かに言いました。「あんなことも、こんなことも、今思えば、いい思い出だ。苦しかったこともあったが、わたしたちは決して憎み合っていたわけじゃなかった。あなたがいた。わたしがいた。そしていろいろなことがあった。でも、こんな形で、お別れする時が来るとは、思いもしませんでした。…どうです?今でもあなたは、思っていますか?地上で悪いことでもずるいことでもなんでもして、人を馬鹿にして、自分が一番にして、金持ちになって偉い人になって、なんでも自分の好きなことをやれるようになるのが、一番の幸せだと」

それを聞いた男は、竪琴弾きの顔から目をそらし、何か言いたいのを我慢しているように、ふう、と深い息を落としました。竪琴弾きは静かな目で彼を見ていました。彼の手にはいつしか白い書類がもたれており、彼はそれを読みながら言いました。

「あなたのためにこの仕事をするのも、これが最後です。いつものとおり、まずは反省してみましょう。あなたは、このたびの人生で、詐欺をやりましたね。それも、とても大きな詐欺を」竪琴弾きが言うと、男はぎろりと目をむいて竪琴弾きをにらみました。彼は邪気を放ちましたが、竪琴弾きは竪琴を弾き、それを清めました。竪琴の音は、砂漠の中でまるで一つの光の流れのように、どこへともなく響き去っていきます。
「毎度のこと、あなたはいつも、人をだまして金をとることばかりの人生を送ってきましたが、今回はひどかった。ここまでくると、もうぼくの手には負えません。それどころか、月の世の地獄の手にさえ、負えません。どういうことかは、これから説明します。いいですか、驚かないで下さい。あなたはもう、この月の世にも、いることは、できません。地球にも、生まれることは、できません。ここは、あなたが、次の世界に行くための、準備の場所なんです。ぼくが来なくても、誰かが教えに来てはくれるのですが、特別に、ぼくがそれを説明しにくることを、許してもらいました」

そういうと、竪琴弾きは、ほろりと、頬に涙を流しました。目の前の男は、信じられないという顔をして、震えて竪琴弾きを見つめていました。「な、なんで…」と男が言いかけたとき、竪琴弾きはそれに声をかぶせるように、言ったのです。

「なぜ人は、人を侮辱することを、やめないのですか!」その声は、何もない砂漠の空気を、一瞬、ガラスのように割りました。「あなたは、自分を偉くするために、何人もの人を侮辱し、あるいは、卑怯な手を使って殺しました。その中に、決して侮辱してはいけない人がいたのです。その人を侮辱してはおしまいだと言う人を侮辱したのです。いいですか、その人は…」
竪琴弾きは、真実を男に教えました。男は、まるまると目を見開き、首を振りながら、言いました。「う、うそだ、あ、あんなやつが…!」

「いいですか。もうそれをやったら、おしまいなのです。あなたは、地球と人類を破滅させたと同じことをしたことになります。しかも、永遠にここからいなくなれとまで、彼に言ったのです。その言葉はあなたに返ってきます。いなくなるのは、彼ではなく、あなたです。あなたは、人をだまして金と権力を得、まるで神のようにふるまい、あるはずのないところから金を魔法のようにひねり出しては、それで様々な事業をなし、自分のなしたことを誇りながら、造化の神、創造の神とはおれのことかとさえ言った。誰も聞いてはいなかったと思ったでしょう。でも神の耳は聞き逃さなかった。あなたは神のようになりたかった。最高のものになりたかった。だから自分より美しいと感じた彼を、いかにも卑怯な方法で罠に落とし入れ、破滅のふちまでおいこんだ。彼は精神を患い、孤独の苦悩の底をのたうちまわり、一時は自殺まで考えた。そしてあなたは、彼の苦しみを嘲笑い、頭の悪い奴は死ねばいいと言ったのです」
竪琴弾きの頬は涙でぬれていました。男は、重い手を砂から引き抜き、それを上にあげようとしましたが、できずに、手をまた下におろしました。彼は竪琴弾きを、殴ろうとしたのです。

竪琴弾きは、罪びとから感じた邪気を、竪琴を鳴らして清めました。そして深く息を吸って、吐くと、また竪琴を鳴らして、自分を落ち着かせました。そしてさだめられた呪文を唱え、小さく神への儀式をした後、ふうと、息を吐き、罪びとを真剣な目で見つめて、言いました。

「これからは、わたしは神の代行としてあなたに言います。あなたに定められた運命を告げる、これは儀式です。あなたはそれに、否と言うことは、できません。否と言っても、それは無効になります。願わくは、あなたが、これをあなたに言わねばならぬものの苦しみを、わかってくださるように。…罪びとよ。あなたには、神によって、新しき名が授けられます。その名を、『エロヒム』と言います。万物創造、唯一絶対の神」

男はそれを聞いて、一瞬呆けたような顔をしました。神?自分が、神になるのか?
それは、生きていたとき、男が考えていたことを、神がかなえて下さったかのようにも思えました。しかし、彼には、どうしても自分を神と思うことができません。そんなことができるものか、絶対にできはしない。生きているときはともかく、死ねばだれもが神を知っている。あのすばらしい神を知っている。

竪琴弾きは、感情を奥にしまい、事務的に続けました。「あなたは、神になりました。よって、これからあなたは、あなた一人の力で、世界を、新しい世界を、創造しなくてはなりません。よって、あなたは、既存の世界である、地球にも、月の世にも、もちろん日照界にもいることはできません。『あるところ』としか今は言えないところに、これから行かねばなりません。そこがどこなのかは、行けばわかります。あなたは、永遠にここから去ります。戻ってくることは、できません。もう一度言います。あなたはそこで、神のように、自分だけの力で、世界を創造しなければなりません。自分の創った世界では、きっとあなたはたったひとりの神としてたいそう敬われ、拝まれることでしょう」

竪琴弾きはすべてを言い終わると、呪文を唱え、小さな儀式をし、神に祈りました。

男は、茫然と、聞いていました。何かを言おうとしましたが、喉に何かが詰まっているように、声を出すことができませんでした。ただ、涙が流れて、ほたほたと砂に落ちました。

「唯一にして孤独なる永遠の神エロヒムよ、あなたの世界は、幸福に満ちているでしょうか」竪琴弾きは、悲しく言いました。

ふと、何かの音に気付いて、竪琴弾きは空を見上げました。すると、白い月が何かを言いたげに、かすかに揺れています。竪琴弾きは目を細め、静かな声で言いました。「ああ、もうすぐだ。残り時間は少ない。もうあなたとは会えない。せめてもの、ことばです。どうか、聞いてください。これしか言えることはない。わたしは、あなたを、愛していました。深く、愛していました。信じてくれなくてもいい。ただ、ずっと、愛していました。そしてきっと、これからも、愛することでしょう」そう言うと竪琴弾きは、柔らかな指を躍らせて琴糸を弾き、この上なく美しい旋律を奏でました。アメシストの上で踊る光の群れのような清らかな涼しい音が砂漠を流れました。月が、最後の別れを言うように、一筋の水晶の光を、男のそばに落としました。

風が吹きました。男は急に寒さを感じ、「ああ」と言いました。竪琴弾きは目をつぶりました。見たくはなかったからです。月の光が、男に布のようにおおいかぶさり、その身にしみ込んでいきました。そして、だんだんと男の姿は、光に溶けていきました。まず、指がなくなりました。そして、腕がなくなり、足がなくなりました。臍の方から始まって、だんだんと胴体もなくなってゆき、最後は首だけになりました。鼻が、消えました。片目が、消えました。そのときになって、初めて、男は、はっきりと何かがわかり、まだ残っていた口で言ったのです。

「あ、あああ、あああ、に、にいさん、愛してる。おれも、愛してるよ!」

彼の頭が消えたのは、そのすぐ後でした。竪琴弾きは、男の気配が砂漠から消え去っても、竪琴を弾くのをやめませんでした。閉じた目から滂沱と涙が流れました。彼の指は狂ったように速く流れ、激しい音楽は、喉を切る叫びのように割れて、一瞬風のように砂漠の砂をふきあげました。

どれだけ時間が経ったか。いつしか竪琴弾きはぼんやりと砂漠の上に座って、男がいなくなった砂の上を見ていました。そこにはまだ、彼が座っていた跡の小さなくぼみが残っていましたが、それも風に吹かれて、やがて消えていきました。

彼は、一息呪文を歌い、悲哀を清めると、立ち上がりました。そして月の空を見あげながら、言いました。「神よ。どんな無駄だと思える努力でも、未来を信じてなしていくことを、わたしはやめません。わたしは、すべての人を、幸せにしたい。それは決してかなうことのない夢かもしれない。けれどわたしは永遠にその夢を追いかけてゆく。神よ、わたしは、そういう者です」どこからかやわらかな風が吹き、くっきりと光る彼の頬の輪郭をなでてゆきました。
竪琴弾きが、足元を見ると、彼が最後に残していった愛のかけらが、砂の上に残っていました。竪琴弾きはそれを拾い、呪文をかけて小さな水晶の玉にすると、自分のポケットにしまいました。そして彼の代わりに、彼のさみしい愛を、美しい歌にして、歌ったのでした。

ああ いかないでおくれ
消えないでおくれ
おまえが いないとさみしい
おまえが いないとくるしい

でもそれが くるしくて
わたしはいつも おまえをいじめるのだ
おまえがいると くるしいのだ
だって
おまえがいないと くるしいから

ああ いかないでおくれ
いとしい いとしいひとよ…



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2012-09-12 07:34:59 | 月の世の物語・余編

五人の黄色い制服を着た役人たちが、地球上の、ある乾いた広い空き地のようなところに立っていました。空にはようやく朝の気配が見え始め、東の空が白くかすみ、消えのこった星が、ゆっくりと空を傾きながら、彼らを見ていました。空き地の西側には、五十戸ばかりの家が身を寄せ合うようにしてかたまっている小さな村が見え、東側には広いトウモロコシ畑が見えます。

「ずいぶんと辺鄙なところだな」一人の役人が言うと、別の役人が答えました。「ええ。一番近い町とも、山二つ離れている。住民はほとんど自給自足の生活を送っています。」
役人たちは書類を繰りながら、話し合いました。
「ここの人間は井戸の水をたよりに、主にトウモロコシを作ったり鶏を飼ったりなどで暮らしている。他の村や町との間に交流はほとんどない。住民は貧しいが、それほど飢えることはなく、自分たちだけでなんとかやっている。贅沢さえ言わなければ、平穏に暮らしていけるところだが」「…一体なぜ、こんなところにこんな人怪がいるんでしょうね」「どこにでもいるよ、人怪は」「いや、そういう意味ではなく、なぜ、この人怪が、こんなところに生まれてきたかです。この怪はかなり特殊なネズミの怪だ。いつも、都会の家柄のよい家に生まれてきて、好き放題のことをやってきた。冷酷非道な詐欺や見るのも嫌になるむごい虐待や殺人ばかり。先の世界戦争では、軍に所属して、生きている捕虜の目をくりぬいて、それをフライパンで焼いたりしている」「…お願いだからそれは言わないでください。耐えられない」一人の役人が目をつぶり、吐き気をもよおしたかのように顔を背けました。隣の役人が彼をなぐさめるように、言いました。「心配するな、食べてはいないよ」それを聞いたさっきの役人は余計に気分が悪くなったようで、青い顔をしつつ呪文を唱えて、吐き気を抑えました。

「我々にとってはスペシャルクラスの怪だが、しかし本当に、そんなことが起こりえるのだろうか?」「上部からのご指導です。しかも、石の文書にも書いてある。人怪の肉体消滅、地球上での存在消滅。いずれそれが起こると…」「罪責数よりも、やってきたことの内容が重要だという。人間として、それができるのか、ということをやってきた。そういう人怪に、まれに肉体消滅という現象が起きると」「つまりは、我々がここで会う人怪に、今日それが起こると」「…はい、上部の予測では」

誰かが深いため息をつきました。

地平線に太陽が顔を見せると、村が動き始めました。各戸に煙が立ち上り、女たちが食事の準備をし始める音が聞こえました。犬が、何かを予感しているのか、しきりに吠える声が聞こえます。その犬を飼っているらしい男が何度叱っても、犬は吠えることをやめません。

少したって、村の方から、大人たちといっしょに、一群の子どもたちが、古いボールを持って、賑やかに走り出て来ました。大人たちはトウモロコシ畑で働き、子どもたちは村はずれのこの広場で、フットボールをし始めました。役人たちは目を光らせ、子どもたちを見まわしました。子どもは全部で十七人ほどいるでしょうか、その中に、ひときわ肌の黒い、背丈の小さな子どもがおり、それが異様な血のにおいを発していました。

「いた。あの子供だ。青い服を着ている」「よく化けていますね。予測時間まで、あと二十分です」「みな所定の位置に立て」班長が言うと、役人たちは遊ぶ子どもたちを取り囲んで、子どもたちの群れが動くたびに、微妙に自分の位置を調整していました。子どもたちは何も知らず、ボールを追いかけて遊んでいます。青い服の子どもも、うれしそうにはしゃぎながら、皆に混じって遊んでいました。

「五分前」と誰かが言いました。しかし、それは予定の時刻より、少し早く起こりました。班長が目を見開いて叫びました。「いかん、誤差が生じた!」子どもたちの群れの中にいた人怪の頭が、瞬間、風を受けて砂のようにいっぺんに崩れたのです。「やれ!」班長は反射的に叫びました。役人たちはそれぞれ子どもたちの肉体に入り、同化して、広場を走りました。子どもたちはきゃあきゃあと騒ぎながら、ボールを追いかけて、しまいにひとりがボールを手に抱えて、走り出してしまいました。「ずるいぞ!」とある子どもが言って、ボールを持った子どもの背中に抱きつきました。そして、子どもたちは次々とボールを持った子どもの上に重なって、広場の上に、子どもたちの山ができました。そのどさくさの間に、青い服の子どもの肉体は、ほぼ全身が消え、その着ていた服が風に吹き飛ばされようとするところを、班長はすぐに呪文を叫び、服を消して日照界の浄化所に送りました。

子どもたちは、だんごになって互いを叩いたり、けったりしていましたが、役人たちが少しずつ興奮した子どもたちを落ち着かせ、やがて子どもたちは一人、また一人と立ち上がり、みなばらばらになって広場に立ちました。子どもたちと同化していた役人たちは、それぞれに子どもたちの中から出てきて、しばし皆の様子を見守りました。
「手でボール持つのは反則なんだぞ!」「へんだ、いいじゃないか、ばーか!」子どもたちはいがみあっていましたが、自分たちの仲間が一人減ったことには、まるで気付いていないようでした。

班長が、さっきまで人間の子どもとして生きていたネズミの怪を捕獲して、水晶の瓶に封じ込めていました。ネズミは言葉をしゃべることができるらしく、しきりにわめいていました。
「なんだ?何が起こったんだ!」
役人たちはそれには答えず、互いの顔を見て話し合いました。「記憶操作の担当は君だな?」「はい。消えた子どもの家には九人の子どもがいますが、一人減ったことには多分だれも気付かないでしょう。あの子供のことは、村のものも、ほとんどが忘れているはずです」「彼が使っていた食器や服なども、できるだけ消しておきました。残ったものは、多分いくらかあると思いますが、それほど大きな問題にはならないでしょう」

「これが肉体消滅か」「ええ、あの子どもは、これで、最初からこの地球上に存在しなかったことになります」「なんと言う名だった?その人怪の子ども」「ナタニエルです」
役人たちは顔を見合せながら、少し苦い感情を交わしました。器の中のネズミが、騒いでいました。

「なんでなんだ!なんでもう終わるんだ!いやだ、おれはまだ生きるんだ!生きてみんなをぶっ殺すんだ!」

それを聞いた役人がネズミに、清めと封じの印を鼠に貼りました。するとネズミは急に言葉をしゃべることができなくなり、そのままころりと眠ってしまいました。

月の世のお役所に戻ってくると、例のネズミは早速研究室で分析にかけられました。水晶の器に入れられ、様々な呪文の清めを受けると、ネズミは自分のたくらんでいたことを、自らペラペラと喋り始めました。それを聞いた役人たちは、慣れてはいるものの、あまりのひどさに、しばし何も言うこともできませんでした。

今日捕まえたネズミの怪は、大人になると国の軍に入るなどして、武器を手に入れて、故郷の村人を全員殺すつもりだったそうでした。なぜそんなことをするのかと役人が聞くと、ネズミの怪はこともなげに、ただ「一度やってみたかっただけだ」と言いました。銃を用いて人々を脅し、強姦から強盗から拷問から、考え付く限りのひどいことを人間にやってみたかった。それも毎日。奴隷のように村人を扱って、一人か二人ずつ、毎日殺し、あの小さな村を消すつもりだったというのです。

「肉体消滅のおかげで、村は助かりましたね」「全く、ひどいことを考えるものだ」「記録映像は?」「はい、こちらに」と、一つの知能器の前にいる役人が手を上げて答えました。研究室の皆が、その知能器の周りに集まってきました。
「頭から崩れていますね。ほとんど一瞬のうちに、頭が消えている。それから二、三秒後に、両肩がへこんで腕が消え、そのあと一気に体全体が蒸発している。まさに消滅だ」「あらかじめ広場に浄化の陣を張っていたので、その影響で消滅はかなり乾いた形で起こりました。本当なら少し血が飛び散ったあとが残っても不思議ではありませんでしたが…しかしそのおかげで、予測時間に誤差が出た。何とか取り戻したものの、寸前で誰かに見られるところでした」「今後の教訓としましょう」

地上活動班の班長は知能器の前を離れ、鼠の入った水晶の器の前に戻ってきました。「ずいぶんと辺鄙なところに生まれたと思ったら、自分で一つの村の人間を全部殺してみたかったのか」「村の人間をみな消滅させたかったと本人は言っています。『消えろ』とか『いなくなってしまえ』というのは、人怪が人に対してよく使う言葉ですが、まさかそれを本当にやろうとするとは」「つまりは、やる前にその罪の反動がもう返ってきたのだな」「その通り。人類の罪責数は限度を超えすぎていますから、こういう人怪は、それをやろうと考えただけでやったことになり、すぐにその浄化が返ってきます。『おまえなど消えてしまえ』と人に言えば、自分が消えてしまう」「因果の法則がひっくりかえったというわけだ」「そういうことでしょう」

女性の役人が帳面を持ってきて、研究室の室長に渡しました。「肉体消滅の恐れのある人怪のリストです。ほとんどは先進国ではなく途上国の、それも山奥の少数民族や、森林や草原で原始的生活を送る村などに生まれていますね」「因果の法則の導きだろう。多分彼らは法則によって辺境に導かれ、人知れずそこで消えて行くのだ」「ええそうでしょう。しかし真実の探求はこれからです。とにかく、我々も放っておくことはできません。肉体消滅などという現象が地上の人間にわかったら、とんでもないことになる。消滅の予測時間が分かり次第、人員を配せるよう準備はできています」
「やれやれ、次々と問題が出てくるな」研究室の室長は、ため息をつきながら、帳面をめくり、そこに書いてある名前の列を眺めました。

その頃、地球上にある小さな村では、明るい空の月の光をたよりに、トウモロコシ畑の中を歩き回りながら、一人の女が、必死に何かを探していました。

「ナタニエル?…ナタニエル!」



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2012-09-11 07:30:09 | 月の世の物語・余編

彼は白く輝く首府の片隅に立ち、月を見あげた。首府から見えるサファイアブルーの空に輝く月は、目に見えない一点を中心に、時計のように一定の期間をかけて回っている。上部人たちはその動きを計算して、時間を測っていると言う。

上部に上がってきてから、下に降りて行くのは初めてのことだった。彼は師にある課題を課せられ、それに取り組むために、これから地球に向かうのだ。彼は呪文を唱え、スカイブルーに変わった自分の髪を元の黒髪に戻し、すっきりとした短髪にした後、常人の衣服に着替え、下に降りて行った。やがて眼下に、月の世の月が見えてきた。彼はなつかしさについ、ほう、と声をあげてしまった。

降りてゆくとき、準聖者は聖者と違い、髪の色や長さ以外にほとんど自分の姿を変えることはない。月に降りてきた彼は、ふと、役所にいる昔の友のことなどを思ったが、すぐにその思いを消し、再び空にふわりと浮かびあがり、地球へと向かった。旧友に出会ったとしても、今の彼が、昔の彼女だと気付く人は、少ないだろう。

地球世界への門をくぐり、久しぶりに地球を見たとき、彼はまた、ほう、と声をあげた。それは感嘆の声だった。地上に、赤い渦が巻いている。これが、師の言っていた、嵐の渦か。それも、ひとつではない。まるで木星の大赤斑のような渦が北半球の一点にあり、そこから九十度ほど東周りにはなれたところに、まだほんのりと薄くはあるが、確かに薔薇の花のような赤い小さな渦が見えていた。目を凝らすと、各地に埋めた水晶陣が、静かな交響楽を奏でるように歌いながら点滅しているのが見える。

地球の浄化は着々と進んでいる。彼は目を光らせ、流星のように一直線に地球に向かって下りていった。

数分後、彼はもう目的地についていた。そこは海辺にある小さな田舎町であった。老人が多く、人々は主に漁業や農業を営んで暮らしている。アスファルトの細い道を挟んで低い堤防と、古い街並みがあった。住宅の庭に植えられた木々の樹霊が、少し悲哀に沈んでいる。それは、この町に住んでいる人々の運命に、かすかに気付いているからだ。

彼はこの堤防から少し離れたところにある、割合に大きな仏教寺院へと向かった。寺の門の前には、まだ立てられてそう古くない地蔵菩薩の大きな石像があった。地蔵は優しく微笑んで下を見下ろし、今にも子どもの頭をなでてやりそうな形の、優しい手のひらをこちらに向けていた。その足元には、果物と菓子と、花が供えられている。
彼は地蔵菩薩の前に立つと、儀礼をし、頭を下げて、「ゆぇり」と言い、挨拶の言葉と自分の身分を述べた。するとすぐに、石像の中から声が返ってきた。
「常人言語に切り替えてくれ。その方が話しやすい」
すると彼は、言語を切り替えることを忘れていたことにやっと気付き、あわてて呪文を唱えた。「申し訳ありません。修行が足りませず」彼は深く頭を下げた。

「たいしたことではない」地蔵菩薩は柔らかな声で言った。そして、地蔵の石像はかすかに全身から光を放ったかと思うと、顔がゆらめき、地蔵菩薩の石像の中から、もう一人の地蔵菩薩がゆっくりと出てきた。準聖者は息を飲んだ。その変身の見事さ、美しさが、師から聞いていた以上にすばらしかったからだ。地蔵菩薩の顔は慈愛に満ち、どんな小さなことも見逃さず、全てのためになんでもしてやろうという、限りなくやさしい心が見えていた。飾り気のない白い衣をさらりとゆらし、暖かい焚火のような色をしながら水晶のごとく澄んだ光背を背負っている。それを見るだけで、心が安らぎ、生きて行く苦しみがどこかへと溶けてゆくような、本当にやさしいお姿であった。

「顔をみれば、誰の使いで来たかがわかる。入門者は師の影響を深く受けるからのう。彼も今はさぞ忙しいことであろう」地蔵菩薩が言った。「はい、日々、仏教是正のためにすばらしい仕事をなさっておいでです。そして定時がくると必ず、わたしを導きにいらして下さいます」準聖者は言った。地蔵菩薩は青い瞳を準聖者の方に向け、暖かに、優しく、微笑んだ。そして一息風を吸い込み、水晶玉を吐くような声で呪文を唱えると、変身を解いた。するとそこにもう地蔵菩薩の姿はなく、五十代ほどの壮年男性に見える、体躯の太い大きな聖者の姿があった。黒い髭を生やし、鼻が高く、見た目は地蔵と言うより天狗の方に近い。だが瞳はあの地蔵菩薩と同じ、優しくも深い微笑みをたたえた澄んだ青だった。

聖者はふうと息を吐き、「さても、君の師はさぞ苦労していることであろう。このまま放っておいては、仏教は壊滅する。文字通り、無に帰する。無の境地を最高の幸いとする仏教ならば、それが真の救いか、などというと…ふ、あまりおもしろい冗談ではないな。…ところで、君はわたしのことを、どれくらい聞いているのか」と準聖者に言った。
「はい。わたしも学びを積み、様々な仏に姿を変えることができるようになりましたが、他の仏に姿を変えるときは、体が鉛のごとく重くなるというのに、なぜか地蔵菩薩に姿を変えるときだけは、それがありませんでした。その訳を師にお尋ねしたところ、仏の中で、地蔵菩薩だけは実在しているといえるからだと、答えて下さいました。そしてそれは…」
「そう、わたしが地蔵菩薩の役割を担い、地球上でその活動をしているからだ」黒い髭の聖者は言いながら、空を見あげ、少し瞳の中に生まれた悲哀を空の光で洗った。

「わたしは、師からあなたのお話を聞き、ぜひお会いして学びを得たいと思いました。すると師はわたしに、あなたのところに行って、課題をはたしてくるようにと、言って下さいました」「ほ、課題とは?」「はい、しばしの間、同じように地蔵菩薩の姿をとり、あなたに習ってあなたと同じ仕事をして来いと」すると黒い髭の聖者はさもおかしそうに笑った。「それはそれは、ご苦労なことだ。いいだろう、やってみなさい。だが、つまらんぞ。おもしろいと思うてできるようなことではない」
聖者は笑いながらそう言うと、準聖者をつれて、空に飛び上がった。そして彼を、山を一つ二つ越えたところにある、小さな村の道の隅に立った、古ぼけた地蔵の所に連れて行った。地蔵の腹のあたりには、聖者によって書かれたらしい、分身の紋章が光っていた。こうしておくと、中に聖者がいない間、同じような仕事を、ある程度紋章が代わりにしてくれるのだ。

聖者は地蔵の前に立つと、その紋章を消した。そして地蔵の前に立ち、呪文を唱え、その地蔵菩薩そっくりの姿になり、ゆっくりと石像の中に入っていった。聖者は石像の中で姿勢を整えつつ、言った。「主な仕事は、ここを通る者たちに愛の声をかけ、そして人生の道を間違えないための教えと愛を投げてやることだ。時に、誰かが菓子や花を供えに来る。そのときは、優しく声をかけてやる。その身にどんな重い罪の影を見つけても、目をつぶり、深く愛を送る。そして、少しだけ、苦しみを軽くしてやる」
「それだけですか?」と準聖者がいうと、地蔵の中の聖者は、笑顔で答えた。「小さなことを重ねることが、大いなる道への近道だと君はいつ習った」「はい、若い頃に」「ならばよい」

そのとき、ふたりは誰かこちらに近づいてくる人間の気配を感じた。地蔵の中の聖者はそちらに目を向け、ああ、と笑いながら言った。「あの欲張りばあさん、まだ生きておったか」
見ると、大きな蜜柑を入れた袋と小さな花束を持った老婆が、ゆっくりとこちらに向かって道を歩いてくる。彼女は地蔵の前で立ち止まると、早速地蔵の前にひざまずき、蜜柑と花を供えて、手をこすり合わせて祈り始めた。その老婆の心の声は、地蔵にも準聖者にも聞こえた。

(お地蔵様、お地蔵様、どうか嫁にバチをあててください。息子も、叱ってやってください。どっちもわたしに、いやなことばかりするんです。あたしはつらいばかりだ。亭主は定年になったらさっさと死んでくれて、それは楽になったけど、今度は息子がわたしにつらくあたるんですよ。あの嫁が悪いんだ。あれが息子にいらんことをおしえるもんだから…)

地蔵は、瞬間少し呆れたような顔をしたが、すぐに元の明るい表情を戻し、苦しみを老婆とともにした。彼には、彼女の苦しみはほとんど彼女自身からくることがわかっていた。老婆自身が、人を愛そうとしないため、人に愛されないのだ。だから家族に冷たくされても、それは当然のことと言えた。だが、地蔵はやさしく、言ってやるのだ。

「つらかろう、ばあさんや。少し楽にしてやろう。でもな、少しはあんたも、息子や嫁に、よくしてやりなさい」

彼は老婆にわかりやすいことばでやさしく語りかけると、小さな呪文で愛を送ってやった。そして老婆の苦しみを少し軽くしてやり、荒れ気味の心の中を少し整理してやった。やがて老婆はひとしきり地蔵に不満を言い終わると、何やら少しすっきりしたような顔になり、最後に深々と地蔵に頭を下げて、黙って帰って行った。

老婆の姿が見えなくなると、地蔵は地蔵の中から出てきてすぐに聖者の姿に戻り、準聖者に語りかけた。「どうだね、感想は」すると準聖者は、老婆から受けた邪気を清めつつ、おかしげに笑いながら言った。「なんと申しますか。不思議な気分だ。ずっとやっていらっしゃるのですか。これを」「ああ、ずいぶんとな。人間には、本当に様々なものがいるが、地蔵は、よほどのことがない限り、人間を怒ることはない。全般的に、人に頼まれたら、冷たく突き放したりはせず、できるだけのことをしてやる良い人という感じでやっているとよい。ただ、見逃すことのできぬ悪いことをやっているやつには、遠慮なく罰をやって清める。最近はそう言うのがよほどたくさんいるから、地蔵もかなり大変だ」黒い髭の聖者が言うと、準聖者は微笑みながら呪文を唱え、今度は自分が地蔵に姿を変え、地蔵菩薩の石像の中に入っていった。準聖者が石像の中で姿勢を整えていると、黒い髭の聖者は思い出したように言った。「ああ、そうだ、君は、地質浄化はどれくらいできる?」「ええ、まだ役人レベルですが」「では、それでよい。地蔵の周りには、人間がよくああして邪気を持ってくるものだから、ほどよく地質浄化もしておらねばならない。中にはとても難しい邪気が立っているところに地蔵があることがあるが、ここはそうきついところではない。浄化に苦労はしないだろう」それだけ言うと、聖者は別れを告げようとした。そのとき、準聖者は、あわてて、「待って下さい」と彼をひきとめた。

「なぜ、あなたは地蔵菩薩になったのですか?」準聖者は、最も尋ねたかったことを彼に尋ねた。すると聖者は地蔵を振り向き、しばし彼を深い目で見つめた。そして、悲哀と愛に染まった青い瞳を細め、空を見あげてしばしはるか彼方を見たあと、まだ準聖者の身にはわからぬ、透き通った明るい微笑みを見せながら、彼は言ったのだ。

「わたしは、こいつらが、かわいくてならんのだ。この、馬鹿な人間どもが」

地蔵の中の準聖者は、しばし沈黙した。驚きを飲みこんで、彼は何かを言おうとしたが、その前に、「では」と言って、黒い髭の聖者は飛び去って行った。

空の向こうに聖者を見送ったあと、地蔵の中の準聖者は、驚きの眼をしながら、少しの間、考えていた。地蔵菩薩とは、一体どういうものなのか。

準聖者は、地蔵の中に落ち着くと、かの聖者をまねて、明るく微笑んでみた。そして、たまたまそこを通った少女に、「お嬢さん、まじめに勉強しなさいよ」と、声をかけ、愛の呪文を投げた。

少女は何も気づかず通り過ぎて行ったが、彼の投げた小さな愛の光が、その胸に溶けて、彼女の内部に優しさを作っていくのを、地蔵は見た。そして同時に、彼は少女が落としていったしびれるような影の痛みを感じた。

ああ…。地蔵は邪気を浄化しながらため息をついた。これを、やってきてくださったのか。何千年の間を、やってきてくださったのか。少しでも、人類の魂を、明るい方へと導くために。

石の地蔵の目に、少し涙が点ったような気がした。そうとも、何もかもは無駄かと思える努力でも、ただひたすらまっすぐに、こつこつとやってゆく。それが最も真実の幸福に近い道なのだ。

未来が明るくあることを、準聖者は神に願った。地蔵菩薩と、人間たちのために、祈った。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2012-09-10 07:45:33 | 月の世の物語・余編

「どうして、ぼくに、そんなにいれこんでくれるんですか?」とジョン・レインウォーターは言いました。彼はぺったりとした黒髪をした、四十前後の男で、背は低く少し太っておりましたが、髪や髭や服などをそれらしくすれば、偉いホビットのようにも見えるような、どこか不思議な雰囲気がありました。それはどういうことかというと、何か、彼の奥に、大切な宝物か、使命を秘められているかのような、強い光を感じるのです。

アーヴィン・ハットンは、田舎町にあるジョンの小さな家の中で、香りのいいお茶をごちそうになりながら、熱い声で言うのでした。
「それはもちろん、ぼくが、あなたの作品をすばらしいと思うからです。ぜひ、弊社から出版してみたい。編集長はなかなかOKをくれないんですが、ぼくはがんばってみたい。あなたの、この今回の作品、読んでみたけど、これは絶対、多くの人に読んでもらうべきです。『燃える月』。悪魔の小人が火をつけて燃やし始めた月の光と命を、小さな小鳥と少年が助けに行く。構想と言い、発想と言い、思いがけない展開といい、すごいと思うんだ。読む者を吸い込んでゆく。筆力とはこういうものかと思う」

それを聞くと、ジョン・レインウォーターは、恥ずかしそうに頭をかき、申し訳なさそうに笑いました。「そんな風にほめてもらうと、返って恥ずかしいです。確かにぼくは、自分には力があると思うことがある。若い頃は、しゃかりきになって自分の作品を出版社に売り込みに行ったこともあるけれど、今は、こんなぼくは、外に出ちゃいけないような気がするんです」
「それは、なぜです?」アーヴィンが問うと、ジョンは悲しそうに笑いました。「こんなこというと、気がおかしいのかって言われるから、ずっと黙っていたのですけど、ぼくはもう、地球と言う世界はなくなっているような気がするんです。テレビなどで、いろんな人がしゃべったり、楽しそうに笑ってたりするけれど、みんな嘘に見える。本当はもう、地球はなくなっていて、みんな死んでいるのに、生きてるつもりで、幽霊になって滅んでしまった世界の幻の中にいるんじゃないかって。ぼくは、児童小説を書くのは好きだけど、こんな世界で派手なステータスは欲しくない。田舎で、ひっそりと書いて、分かってくれる人だけに読んでもらえれば…」

ジョンの言葉に、アーヴィンはしばし、黙りこみました。彼のいうことに、真実があると言う気がするからです。本を出しても、この人は、売れない方がいい。そんな気さえする。下手に売れてしまえば、彼はいろいろなものに利用されて、その才も人生も何もかもをつぶされてしまうかもしれない…。

「ありがとうございます。ハットンさん。今のところ、ぼくの書いたものを理解してくれる出版社の方はあなたくらいだ」ジョンはアーヴィンに笑顔でお礼をいいながら、手をさしのべ、握手を求めました。アーヴィンは握手に答えながら、悲しみに詰まる胸が石のように重くなるのを感じました。

アーヴィン・ハットンは、ジョンに別れを言って家を出ると、タクシーに乗って空港に向かい、空港から飛行機に乗り換えました。飛行機の中で、彼はまだ預かっているジョンの作品のコピーファイルを改めて読みました。

「コール・ネクスターは、洞窟の外に出ると、ふと空から光るものが落ちてくるのに気がつきました。はじめ、それは蛍か、雪かと思いましたが、よく見るとそれは赤く光っていて、地面に落ちると乾いた草に火をつけ、火は光る虫のように歩いてじりじりと草を焼いていくのです。
『火だ、火が降っている!』コールは叫びながら上を見ました。そしてあんぐりと口を開けました。月が、太陽のように燃えていて、そこから火の粉がたくさん落ちてきていたのです。」

アーヴィンはふっとため息をつき、ファイルを閉じました。(いいものなんだ。これはとてもいいものなんだ。もっと多くの人に読んでもらうべきだ。なのになぜ、それを分かってくれる人が、こんなに少ないんだろう。ぼくが間違ってるのか?でも、ダナ・フレッカーのクマの子シリーズより、内容も言葉もずっといい。どうすれば、本当にいいものを、人々に読んでもらうことができるんだろう?)アーヴィンは窓の向こうの白い雲の原を見ながら、思いました。

休日を利用しての日帰り訪問だったので、次の日の朝出社するとき、疲れの残った体が、重く感じられました。アーヴィンは編集室に入ると、皆に挨拶をし自分の机にカバンを置くや、編集長を捕まえて、ジョン・レインウォーターの話をしました。すると編集長は、見るからに機嫌が悪そうに彼を振り返り、唾を吐くように言ったのです。

「いいかげんもうやめろ。この業界は甘くない。ド田舎の素人の相手をする暇はないんだ。今は人気筋のダナ・フレッカーを中心に押していくんだ」「でも、一度でいいから、ジョンの作品を読んでくれませんか。一度でも読んで下されば、彼のすごさがわかると思うんです」アーヴィンは食い下がりました。すると編集長は今度は声を張り上げ、怒りに燃えたゴブリンのような形相で彼に怒鳴りつけたのです。「やめろといったろうが!」

それを聞いたアーヴィンは、柱のように茫然と立ち尽くし、どさりと持っていたコピーの束を落としました。くすくすと、編集室の中から笑い声が起こりました。アーヴィンは、氷に包まれたような寒さを感じながら、足元に落ちた、ジョン・レインウォーターの物語を拾いました。(コール・ネクスターは、背中の弓と矢を取り、すばやくかまえました。とうとう、見つけたのです。あの白い月を燃やした小人、オンネライコントルの、白狐のようなしっぽを!)アーヴィンの頭の中で、最終章の一節が、しばしの間、歌のように繰り返し流れていました。

仕事を終え、自宅のアパートに帰ってくると、疲れがどっと彼を押しつぶし、彼はスーツを着たままベッドの上に横たわり、そのまま寝込んでしまいました。時がたち、ふと目を覚ますと、壁の時計は午前二時を指していました。空腹を感じたので、アーヴィンはキッチンの棚からクラッカーを取り出し、それにジャムを付けて食べました。少し冷え過ぎた缶コーヒーを飲むと、目からぬるい涙が流れるのを感じました。

そうして、またベッドに座ってほっと息をつくと、ふと、彼は、自室の書棚にある本が、ひらりと光って、自分を呼んだような気がしました。彼は何かに導かれるように、ベッドを離れて、書棚の方に向かいました。光っていたのは、シノザキ・ジュウの新しい詩集でした。いつかまた訳そうと思いながらも、最近はジョン・レインウォーターのことで頭がいっぱいで、詩集をろくに開いてもいなかったことを、彼は今思い出しました。彼はジュウの詩集を開きました。アーヴィンの言語力はもうよほど高くなっており、苦労して訳さなくても、だいたい原語で読めるようになっていました。

白雪のごとく麗しき駿馬の風に踊るたてがみを見よ。
それはあなた自身である。
星々の祝福の金の音の鳴るを、その貝の耳を開きて聞くがよい。
私とはすばらしいものである。
すべては愛である。
神が、すべての愛が、待ち焦がれていたその時が、とうとうやってくる。
人々よ、鍵を左に回しなさい

とたんに、アーヴィンは本の奥から強い風が吹き、自分の頬を思い切り叩かれたかのようなショックを受けました。目を見開くと、涙がぽたぽたと本の上に落ちました。
「あ、ああ…?」
何か燃える火の塊のようなものが、自分の中に投げ込まれ、瞬間、自分が爆発したような気がしました。凍った沈黙の姿のままに、割れんばかりに魂が叫んでいました。そしてアーヴィンには、ジュウの言いたいことがいっぺんにわかりました。熱いエネルギィが全身を満たし、自分の輪郭が強く光を放つように厚くなったような気がしました。彼は、生きている自分を発見しました。それはあまりにも簡単でありながら奇跡的な邂逅でありました。そして彼は自分の意志で振り向き、自分の意志で窓を開け、自分の意志で窓の外を見ました。空には、レモンの形をした月がありました。月にかすかに照らされた家並みがまるで灰色の荒野のようにうっすらと浮かんで見えます。アーヴィンは魂が歓喜に震えているのを感じながら、空を見あげ、踊るように片手を振りあげ、指で天を指しながら、喉を殺して叫んだのです。

「わたし、わたし、わたしとは、すばらしいものである…!」

その三週間後、彼は、ある川沿いの公園で、ドラゴンと会う約束をしました。
「やあ、ひさしぶり。どうした、ちょっとやせたんじゃないか、アーヴィン」ドラゴンが言いながら公園のベンチの彼の隣に座ると、アーヴィンは少し笑いながら、言いました。「うん、ちょっとね、一週間ばかり、ろくに寝なかったことがあって、少し体調を崩したんだ」「大丈夫なのか?」「ああ、医者に薬をもらったし。大したことはない。ちょっとがんばりすぎただけだ」「がんばりすぎたって?」「うん、これさ」
そう言って、アーヴィンは、一冊のファイルをドラゴンに渡しました。
「ジュウの新しい詩集の訳詩だ。訳すのに夢中でろくに寝なかったら、ちょっと病気になった。おまけに無断欠勤までして、会社をクビになったよ」それを聞いたドラゴンは、目を見開いて驚きました。
「おい…、どうしたんだ?アーヴィン」
「ドラゴン!!」

突然、アーヴィンが叫ぶようにドラゴンの名を呼びました。公園にいた人が何人か振り向きましたが、ドラゴンは気付きませんでした。アーヴィンの表情があまりに真剣だったからです。
「それ、ジュウの詩集、全部読んでくれ、君ならわかると思う、絶対に」
ドラゴンは、言われるまま、アーヴィンの渡したファイルを、おそるおそる、開きました。思った通り、紙が燃えるように白く光り、自分の顔を焼くのを感じました。


人なるもの、人なるもの、なせしことのすべては、かよわきその背骨の、風にも揺らぐを隠し、おどけた道化の顔をして、王を殺して自らを王にせんとした。
他人の左腕のすりむいた傷を開き、毒を流しこんで殺した。ああ、どのような小さな陰も染みも見逃さず、人を辱め、おまえなど要らぬものだと言って、全てを下らぬ阿呆にして、自らのみを貴きとした。

人なるものよ、父の胸の銀の壺を壊し、故郷を遠く離れ、荒野に虹で幻の町を描いた。全ての人に、ローマの市民となるために、人を殺せと命じた。楽園に似せて作った町は、今草原の中に、白い柱を横たえて、遠い幻の白骨として、風の音を聞いている。

そこに永遠の幸福はあったか。なかった。なぜならばそれは正しくなかったからだ。愛ではなかったからだ。愛ではないものは、どのような嘘を用いてきらびやかにつくりあげようとも、いずれは虚無の風に冷え、薔薇の根の腐り萎えて行くように、月日の水の中に溶けてゆく。

時が来た。鍵を左に回せ。人々よ。もうお前たちは子どもではない。

美しいものは美しく、正しいものは正しくなる。虚無の風を脱ぎ、耳をすませ若き人よ。帰るべき故郷の声が、波のごとく繰り返し君の耳を洗う。沈黙する星の凍りついた涙を溶かし、いと高き愛を求め、帰って来なさい。


ドラゴンは突然左手に激痛を感じました。慌ててファイルから左手を離すと、手の真ん中に残っていた火傷の痕が、赤く光っていました。アーヴィンが言いました。

「わかった。ぼくには、ジュウのしようとしていることが」
「どうしたんだ?アーヴィン」
「ドラゴン、ぼくと一緒に、出版社を作らないか?」
突然アーヴィンが言ったので、ドラゴンは少し呆気にとられて、アーヴィンの顔を見返しました。
「真実の本を出したいんだ。売れる本じゃなくて。嘘っぱちばかり書いてある本じゃなくて、本物の、本物の本を、ぼくは出したい!」
「ちょっとまってくれ、アーヴィン」
「ぼくにはわかる。君は運命の人なんだ。レモン会社の営業マンなんかじゃない。君がいたら、君さえいてくれたら、ぼくはなんでもできる」
そういうとアーヴィンは眼鏡を外し、ドラゴンにずいと自分の顔を近付けると、言ったのです。

「ドラゴン…、ジュウは、シノザキ・ジュウは、人類を、救おうと、しているんだよ…!」

アーヴィンが、喉のかすれた声で、小さく言った言葉に、ドラゴンは瞬時に、自分の中にあった何かの塊を砕かれたような気がしました。左手の傷がまるで生きているように、ずくずくと震えました。
ふと何かを感じて、彼の目は、アーヴィンの頭上にある青い空に流れました。彼は目を見開きました。

何かが、何かが、降りてくる! …ドラゴンは胸の中で叫びました。青空にある白い大きな雲の中から、透明な人の姿をしたものが、まるで雪が降るように、たくさん地上に降りて来るのが見えるのです。何だ?何が起こっているのだ?ドラゴンは混乱しました。空から降ってくる透明な人間は、ゆっくりと地上に降りてくると、そのまま風の中に溶けて消えて行きました。ドラゴンは周囲を見回しました。川辺の公園にはたくさんの人がいましたが、別に何かに驚く様子もなく、彼が見たことに気付いた人はいないようでした。ふと、一陣の風が起こり、彼の耳に熱いものを吹きこんでいきました。ドラゴンは目をつぶりました。すると瞼の裏に一瞬、青い太陽が二つ光るのを見たような気がしました。そして彼の頭の中で、誰かの声が重く響き、一つの詩をささやきました。

人なるもの、人なるもの、
神の壺をひっくり返し、
真の珠玉を割りてかすめ盗り、
神の衣を着て偽りのラッパを吹き鳴らし、
古納屋の地下の闇で金を数える者よ。
おまえが何に挑戦したのかを、
思い知る時がとうとうやってくる。

「ドラゴン!」アーヴィンの声がドラゴンの耳に刺さり、ドラゴンははっと我に戻りました。アーヴィンの真剣なまなざしが彼の青い目を吸い込むように見ていました。彼はどこかで、何かのスイッチが切り変わり、目に見える世界が、急に変わったような気がしました。そしてあの声は、彼の頭の中でもう一度、言いました。

時は来た。おまえが始まる。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2012-09-09 07:29:48 | 月の世の物語・余編

月のお役所には、一つだけ、小さなエレベーターがあり、最上階から、地下四十階までのフロアを、まっすぐに貫いていました。黒い役人は今、そのエレベーターに乗ろうとしていました。彼は、一人の同僚と一緒に、お役所の最上階の特務室にいて、主に、地球上での重い悪の処理をするための魔法を研究したり、神からの霊感を受けて、呪文や紋章を編んだり、時に地球上に降りて、重度の悪の試験的浄化をやっていました。

エレベーターは不思議に青白く霞んだ水晶の管の中を、繭のような形をした透明なカプセルが上下しているようなものでした。カプセルの中にはスイッチや階を示す数字板など何もなく、ただ乗った人の目的地を知っていて、そこに着くと勝手にとまってくれるのです。

そよと風を感じたかと思うと、黒い役人が乗ったエレベーターは静かに下りて止まり、扉をあけてくれました。目の前に、白い廊下があり、その突き当たりのドアが、かすかに光って見えます。「ありがとう」と彼は言ってエレベーターを降りました。するとエレベーターは「いいえ、いつでもご利用ください」と女性の声で答えました。

彼は廊下の突き当たりのドアまで歩くと、軽く頭を下げて、自分の名と用件を言いました。すると「どうぞ」と中から声がして、ドアは勝手に空きました。彼が「失礼します」と言いながら中に入っていくと、そこには、かなり広い空間があり、机がいくつかならんでいて、その上に並んだたくさんの水晶の器の中に、蜘蛛やらムカデやらトカゲやらの怪が、閉じ込められていました。十数人の役人がいて、それぞれ知能器の前に座ってあれこれと分析をしていたり、水晶の中の怪に、呪文をかけつつ、何かをしきりに帳面に書いていたり、蛸のような不思議な形をした機械の、いくつかの小さなレバーを微妙に調整したりしていました。

黒い役人が室内を見回していると、一人の女性の役人が近付いてきて言いました。「例の件ですね。分析結果は出ております。こちらにどうぞ」黒い役人は礼を言いつつ、女性役人のあとに従い、ある知能器の前に導かれてゆきました。知能器の前には別の若い役人が座っていて、キーボードをいじりつつ、画面の調整をしておりました。

「この前お預かりした、核個体の分析結果は、こちらです」と女性役人が言うと、知能器の前の若い役人が画面を調整して、手を止めました。すると黒い役人は、横から頭を突っ込み、知能器の白い画面に並んだ文字の行列を読んで、ほう、と言いました。

「幼い魂だと思っていたが、予想以上に古い怪ですね」彼が言うと、若い役人が答えました。「ええ、四万年と言うところです。そこでもう一切の霊的進歩を放棄している。長い年月を、非常に幼い状態のまま過ごし、ほとんど何も学んで来なかった。ゆえに、今の人類が普通にできることが、彼にはほとんどできません。集合個体を作り、自分のやりたいことはみな他の怪にやらせ、自分がしたことにしています。いや彼は実に、『それをしたい』と考えることすら、ほかの怪にやらせています。彼がなした多くの悪も、実際は皆、自分の元に集まった怪がやったこと。彼は、何もやっていません。しかし、道理の上では、彼がやったことになる」
「彼がこうなった、もともとの原因は何です?」黒い役人が尋ねると、女性役人が後ろから答えました。

「四万年前の人生で犯した罪ですわ。今でいうところの、連続婦女暴行殺人ということです。彼は女性が好きでならなかったのですが、女性に好かれなかったので、自分の気に入った女性を追いかけまわしては辱め、用が終わったら殺すと言うことを、八件ほどやりました。しかし、死後その罪の浄化が来るのを恐れて、彼は逃げ回り、神の愛に背を向けて怪に落ち、あまりの存在痛の苦しさゆえに、ほとんどの自己活動を閉鎖しました。こういう進化度の幼い魂に、怪はひかれやすく、小さな怪が集まって集合個体がよくできます。彼は自分のやることはすべて他の個体にやらせ、自分は核個体として、何もせずに、ただそこにいただけなのです。考えることも、感じることも、皆他の個体にやらせ、自分は一切何もやってはいない。そういうものが、恐ろしい悪の元になる」

黒い役人は、かすかに目を歪め、後ろを振り向いて、彼が地球上で捕獲してきた核個体の入っている水晶の容器を見つめました。その怪は、水晶の器の底にしかれた綿の上で、まるで小さな幼体のような細い体を横たわらせ、静かに眠っていました。
「まるで、虚無のようだ。いるにはいるが、まるでいないのと同じ。それなのにいる」と黒い役人が悲しげに言うと、女性役人が静かな声で言いました。「悪が存在しないということの重い意義がここにもあります。彼は、自分の罪から逃げ続けているうちに、とうとう、存在たるものの意義と活動をほとんど捨て、殻に閉じこもり、いるけれどもいないもの、というものに自らなってしまった。そういうものが、悪の核にある。それは虚無に等しきもの。ゆえに悪は虚無」若い役人がそれに続けて言いました。「こういう状態を、存在拒否と言います。死んでいるようですが、死んではいません。もっとも我々から見れば、死んでいる方がまだましですね。生きているがゆえに、他の怪に利用されて、様々な恐ろしい悪を犯し、その罪が全部自分のところにくるのですから」知能器の前の若い役人が言いました。「つまりは、自分で、自分が存在することを、拒否しているというか、認めていないわけですね」黒い役人が言いました。

「今は、石文書の分析が進み、こういう個体の導き方もわかりかけています。あの文書に書いてあることは、我々の予想をはるかに超えて深いものでした。数々の、重要な魔法の組みあげ方やヒントが、書いてある。その魔法が、彼らを導くのですが、ただ、本当に難しい。無駄とも思える作業を延々と繰り返し、やっと光が見えてくる」女性役人が、水晶の器に手を触れながらため息をつくと、黒い役人は、胸に感慨を感じながら言いました。「はてしなき道、ですね」すると女性役人は、かすかに笑い、言いました。「わたしたちはただ、目の前にある課題に取り組むだけです。それが命の意義と言うもの」「全く、その通りです」黒い役人は言いながら、水晶の容器の中の個体を見つめました。

その研究室で、分析結果の書類と暗号カードをもらった黒い役人は、感謝のあいさつをすると、すぐにそこを出てエレベーターに乗り、最上階の特務室に戻りました。そこでは、こげ茶色の髪の彼の同僚が、知能器に映る、先日浄化を終えたばかりのマンションを観察していました。黒い役人は部屋に入るなり彼に声をかけました。

「この前の個体の分析結果をもらってきました。いろいろと話も聞いてきましたが…」「ああ、そりゃいいことだ。対面対話して情報を得ることは好ましい。互いに深いところまで分かりあえる」同僚は画面に目を向けたまま言いました。
黒い役人は自分の机の知能器に向かうと、暗号カードをそれに放り込み、画面に現れた細かい情報に目を通しました。と、しばらくして、同僚が「おいおい」と呆れたような声をあげました。「何ですか?」と黒い役人が問いかけると、白い役人は彼を振り向き、口の端を歪めて笑いながら、言いました。「おなじみの風景だ。マンションの住人がお気に入りの女優を部屋に入れた。それも二人」黒い役人は少し呆れたように目を見開きましたが、あまり驚きもしませず、言いました。

「金、女、暴力、それは彼らの三種の神器ですからね」「女だよ。すべては、女」「やはりそれですか」

白い役人はやれやれと言いつつも、寝室でからみあっている男女の様子を観察していました。それも仕事だからです。黒い役人は、少しの間、自分の知能器に鍵をかけ、白い役人のそばまで行って、その知能器の画面に映る映像に見入りました。

「狂態ですね。ひどい」「部屋に書いておいた紋章がきいてきているんだ」画面の中の男は、淫らなことをする目的で女を呼んだものの、なかなかうまくいかないので、妙な形の道具や武器のようなもので、ひどく女をいじめていました。

白い役人は目を閉じ、後の記録を知能器に任せると、画面を切り替えました。「最近、このマンションの住人は、某銀行の預金の一部を没収されたそうだ」白い役人が言いました。「ああ、浄化が表面化してきたんですね」「まったく」

白い役人は席を立ち、窓の方に向かうと、外を見ながら、深く眉間にしわを寄せました。彼は友人でもあり頼りになる後輩でもある彼を振り向き、言いました。
「実際、なぜ人類が悪に染まり、ここまでひどいことになったか、わかるかい?」
「はい?…そうですね。答えは数種類あげられると思いますが、存在痛と答えましょうか?」黒い役人が言うと、白い役人は窓の向こうの空に錆びた青銅の針のような視線を投げ、まるで紙くずを捨てるように言ったのです。
「もともとの原因はだ、要するに、男が女に、嫉妬したからだ」

黒い役人は、例の核個体のことを思い出しました。そしてしばし沈黙した後、答えました。

「ええ、本当に。異議を唱えられる点は、どこを探してもありません」



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

休憩

2012-09-08 07:45:32 | 月の世の物語・余編
アーヴィン・ハットン、Irvine Hutton、24歳。

鉛筆で描いてみました。モノトーンなのでわからないけれど、目は茶色、髪も明るい茶色です。線の細い顔立ちをしてるけれど、視線が鋭い。彼は人間ですが、なかなかに学び進んでいるようです。自らも詩を書きますが、それよりも、他人の力や才能を見抜く才に恵まれているようだ。シノザキ・ジュウを掘り起こしたのも、彼。

そしてドラゴン・スナイダーを見つけたのも、彼。

今の世界、普通ならアーヴィンのような人は、生きてゆけない。だけども、彼が何とか生きていけるのは、ドラゴンがいるからなんです。彼はすごいと、アーヴィンは思っている。超人的な何かを持っていると、感じている。彼はファンタジー物語も好きで、トールキンやマクドナルドなども読んでいるらしいですが、ドラゴン・スナイダーといると、本当にドラゴンという生き物と一緒にいるような気がするのです。つまりは、彼の正体を自分の詩的感性の中で、見事に見抜いているわけだ。

ドラゴンは、自分が誰なのかということには、あまり興味を持たない。不思議な経験を時々するが、特に反応することもなく、普通に通り過ぎて行く。それほど変わったことでもないように。彼はただじっと自分の感情を自分の奥に隠している。というより、この世界で生きるために、本当の自分を、自分の中にある硬い檻の中に閉じ込めているような風がある。そうでないと、生きていけないからだ。けれど、アーヴィンに出会って、彼は自分の中に閉じ込めた自分を、少しずつ開き始めてきた。

彼ら二人は、これからどうなっていくのでしょう。

明日からまたお話が始まります。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2012-09-07 07:32:28 | 月の世の物語・余編

休日のカフェは少し混んでいました。学生時代によく寄ったカフェですが、壁に飾ってある小さなルオーの複製画や、黒っぽい椅子やテーブル、店の隅に何気なくおいてある大きな木彫りの猫の人形などは、ほとんど変わっていませんでした。記憶と少し異なるのは、床の色くらいです。古くなったので、洗浄したか、床を打ちなおしたかしたのでしょう。

「やあ、ドラゴン!」と、カウンターの奥から声がしたので、店にいた人々が、びっくりしたように一斉に彼の方を見ました。カフェの入り口に立っていたドラゴン・スナイダーは、困ったような顔をしつつ、彼を見てうれしそうに手を振っているアーヴィン・ハットンの方を見ました。

「大声でその名前を呼ばないでくれないか」とドラゴンはアーヴィンの隣に座りながら言いました。「ごめん。ミスター・スナイダー」アーヴィンが言うと、ドラゴンは店員にモカを頼んでから、「それもやめてくれ。なんだか気持が悪い」と言いました。「じゃあどう呼べばいいんだい?」「…ドラゴンでいいよ。ただし人前ではあまり大声で言わないでくれ。この名前で、けっこうぼくは苦労してるんだ」ドラゴンは、自分の背中に他人の視線が集中しているのを感じつつ、言いました。

ふと耳に、若い男の声で「何だ?ドラゴンて、人間の名前なのか?」と揶揄するような声が聞こえました。ドラゴンはすぐに振り向き、その声の主らしい若い男を、じろりと睨みました。すると男は、一瞬目をひきつらせて、飲んでいたコーヒーを急いでテーブルの上に置くと、そそくさと金を払って店を出て行きました。ドラゴンは、ふう、と息をつくと、前に向き直って、出されたモカに口をつけました。

「ドラゴン・アイズだ、変わってないね」とアーヴィンはうれしげに言いました。ドラゴンは目つきに迫力があるらしく、その青い目でじろりと睨まれると、それだけでたいていの人は肝が縮みあがってしまうらしいのです。それを学生時代は、みなが「ドラゴン・アイズ」と言って、おもしろげに真似したりしていました。本人は特にそんなことには興味も持たず、通り過ぎていっただけでしたが。

「君の目は不思議だな。青い目はたくさんあるけど、君みたいな目をした人は見たことがない」アーヴィンは昔と変わらぬ明るい声で言いました。「そうかな」とドラゴンはそっけなく言いました。

ドラゴンは、アーヴィンと会うのは一年ぶりでした。しかしその月日の空白も、アーヴィンの明るい呼び声で、一気に吹き飛んだかのようでした。彼らはコーヒーの香りを楽しみながら、昨日会ったばかりだという様子で、色々と仲良く話をしました。

「どうだい、仕事の方は?」とドラゴンが尋ねると、アーヴィンは、笑顔を一瞬固まらせ、目を微妙にドラゴンの顔からそらしながら、言いました。「うん、今は、児童向けの詩のアンソロジーを作ってる。ぼくとしては本当は文学誌の編集に回りたいんだけど。児童文学もなかなかおもしろいよ」アーヴィン・ハットンは大学を卒業後、ある出版社に勤めていました。
「詩の方はどう?まだ書いてるんだろう?」ドラゴンがまた尋ねると、アーヴィンは当たり前のように言いました。「そりゃそうさ。詩とぼくの縁は一生切れない。いずれは詩集を出すつもりだけど、まだ今の自分では、経験も力も足らなすぎる気がしているんだ」「へえ」
「仕事柄、いろんな作家に出会う。中には胡散臭い作家もいるんだけど、時々、何かこれはすごい、と感じる作家もいるんだ。言葉でゴリゴリ脳みそをこすられるようなファンタジー小説を書く人が一人いる。かなり面白い感性をしてる。その人の心の中では、地球はいつも燃えているんだってさ。そして、だんだんと炭になってきてるんだって。ぼくはなかなかいいと思うんだけど、編集長は彼を認めてくれない。なんでかな、ぼくがいいと思う作家はいつも、編集部の誰にも認めてもらえないんだ」「…今はね、時代が時代なんだよ。ほんものであればあるほど、なぜか暗い田舎の隅にいたりするんだ」ドラゴンがいうと、アーヴィンはふと目を曇らせ、うつむいて、カップの中のコーヒーに映った自分の顔を見ました。そのアーヴィンらしくない顔を、ドラゴンは見逃しませんでした。

「どうした?何か苦しいことでもあるのかい?」ドラゴンの問いに、アーヴィンはしばし黙っていましたが、やがて眼鏡を外して目をこすりながら、少し重いため息をつき、言いました。「…まあね、いろいろあるよ、そりゃ仕事だから。それより君の方はどうなの?」アーヴィンが話をドラゴンの方に向けると、ドラゴンはなんでもないように言いました。「ああ、毎日レモンを売り歩いてるよ。大手のレストランチェーンとか、スーパーマーケットなどに行ってね、いかがですか?ムーンライト・レモン!」ドラゴンが笑いながら言うと、アーヴィンもくすくすと笑いました。「君がレモン農場の販売会社に勤めるとは思ってなかったよ。ドラゴンとレモンなんてまるで似合わない。君の父さんや兄さんたちみたいに、軍に入ると思ってたけどな」「戦争は嫌いなんだ」ドラゴンは一言で、切り捨てるように言いました。

「あ、そうだ。そういえば君に見せたいものがあるんだよ」ふと、アーヴィンが思い出したように言って、傍らのカバンの中を探り、中から何かを取り出しました。「実はね、シノザキ・ジュウにファンレターを書いてみたんだ。取り寄せた詩集に住所が書いてあったからさ」「へえ、異国の詩人にファンレターね」そういうドラゴンの前に、アーヴィンは何冊かの本と封書に入った手紙を出しました。手紙には、白い蝶の絵が描かれた美しい異国の切手が貼られており、それはまるで今にもこちらに向かって、飛び出して来そうに見えました。

「僕もだいぶ、あっちの言葉がわかるようになってきたからさ、向こうの言葉で手紙書いたんだ。そしたらすぐに返事がきたよ。外国に、自分のファンクラブがあるなんて知らなかったって、驚いていた」「…ファンクラブ?それって、もしかしたらぼくも入ってるのかい?」「もちろん。だって君、ぼくが訳した彼の詩、ほとんど読んでるじゃないか」「そりゃそうだけど」

ドラゴンは、目の前に置かれた詩集の中の一冊を手にとって、ぱらぱらとめくってみました。すると何だか、紙の奥から、水晶の香りとでも表現したいような、冷たくも涼しい香りが漂ってきました。もちろん彼には異国の文字は全然読めませんでしたが、何か、かすかに、もやもやした意味になる前の形のようなものを、感じました。

「それは彼の第二詩集だよ。ほとんど君は読んでる。君の好きな、Camphor Treeもその中に入ってる」「ああ、そうか」「それを訳すのにはほんと苦労したよ。まだ言葉の勉強を始めたばっかりだったし。詩人の言葉ってのは難しい。詩人はたいていそうだけど、ジュウは普通の辞書には載らない言葉をたくさん使うんだよ。ミザールとかエルナトとかいう単語が、星の名前だってわかるまで、三か月かかったこともあった」「へえ、君は根気いいね、アーヴィン」「…まあ、好きなことにはね。おかげでだいぶ天文や鉱物や植物に関する知識が増えた。ジュウはなかなか教養人らしい。自分は世間知らずのぼっちゃんだって手紙では言ってだけど、なんだか不思議に、妙なことをたくさん知ってるんだ。そこも魅力的なんだけどね」

ドラゴンはアーヴィンのおしゃべりを聞きながら、もう一冊の詩集に手を伸ばしました。アーヴィンが「あ、それが最近出たやつ。つい三日ほど前、ジュウがぼくに送ってくれたんだよ。これから訳すつもりなんだけど。タイトルはこちらの言葉で、Heaven Treeだ」
「へえ」と言いながら、ドラゴンは詩集を開きました。

その時、彼は何か熱い、焼けるような光を、顔に浴びたような気がしました。その光のせいで、一瞬、開いたページが真っ白に見えました。時計が止まりました。それは一瞬でありましたが、彼にとっては十分ほどの間に起こった出来事でした。真っ白に光る白い本の中から、不思議な声が聞こえ、そのページに書かれていた詩の一編を、彼の知っている言語に変換して朗読したのです。


白雪のごとく麗しき駿馬の風に踊るたてがみを見よ。
それはあなた自身である。
星々の祝福の金の音の鳴るを、その貝の耳を開きて聞くがよい。
私とはすばらしいものである。
すべては愛である。
神が、すべての愛が、待ち焦がれていたその時が、とうとうやってくる。
人々よ、鍵を左に回しなさい


強い衝撃が、彼の瞳を通して脳髄の奥を打ちました。彼は無意識のうちに、ページをめくりました。するとまた、本の中から声が聞こえ、詩を読みました。


あばらの籠に白い二羽の鳩を飼い
片方に光、片方に闇と名をつけた
しかしそれは現象であってそのものではない
二羽の鳩には真の名があった
片方の名を「いるもの」といい
もう片方を「いないもの」といった
二羽の鳩は 本当は一羽しかいなかったのだ
人々はやがて気付き 歩き出す
胸にただ一羽の白い鳩を抱き
虚無の風がからっぽの骨を悲しく冷やす
灰の幻の岸辺を離れ
なつかしい父の住む 
銀の星の灯る藁屋根の家に
もうすぐ帰ってくる


ドラゴンは、これ以上読んではだめだ、と危機感を感じ、あわてて本を閉じました。すると、止まっていた時が動き始め、カフェの中のざわめきとともに、店の中に流れていたクラシック音楽が彼の耳に乱暴に入ってきました。彼は瞬間だが、自分が別の世界にいって、たった今そこから戻ってきたような気がしました。

隣のアーヴィンは、何にも気づかなかったように、一冊の詩集をぱらぱらとめくっていました。ドラゴンは詩集を持っている手が焼けるように熱く感じました。いや、本当に焼けているようでした。ドラゴンは左手を、そっと詩集から離し、おそるおそるその手のひらを見て、驚きました。手の真ん中に、まるでキリストの聖痕のような小さな丸い火傷の痕があったからです。右手も見てみましたが、右手にはそれはありませんでした。

「おや、カノンだ」アーヴィンが、流れてくる音楽に気がついて、天井を見あげました。ドラゴンは何もなかったかのように、本を元のところに戻し、ずきずきと痛む左手をカウンターの上で握りしめました。
「この曲を聴くと、なんだか故郷に帰りたくなるような気がしないかい?」とアーヴィンは言いました。ドラゴンは音楽に耳を傾けながら、「ああ、そうだね」と静かに言いました。アーヴィンは、音楽に自分の詩情を刺激されたらしく、少しの間目を閉じたあと、自分で即興の詩を歌ってみました。


故郷を持つ人は幸せだ
それがはるか向こう
白い雪原の真中に孤独に立つ
小さなもみの木のてっぺんの
星の光の中にあることを
知っている人は幸せだ
ぼくたちはいつも 
絵にかいた幸せの中で
これでいいんだと言いながら
笑っているけれど
本当はあの 本当の故郷に
いつでも 帰りたいのだ


アーヴィンはしばしその言葉の余韻に浸りました。そしてカノンの曲が終わり、次の曲に変わると、隣のドラゴンを見て、「どう?今の。たっぷりジュウの影響受けてるけど」と尋ねました。ドラゴンは少し悲しげに笑いながら、友を見つめ、言いました。

「わかるよ、友達」



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする