世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

春の記憶

2007-11-30 14:28:01 | 箱庭写真集


季節は晩秋から冬にさしかかろうとしていますが、こちらでは、山々や町の木々が、美しい紅葉を見せてくれています。ご近所のケヤキも、ナンキンハゼも、目の覚めるように色づいています。

いつもなら、デジカメ片手に写真を撮っているところですが、今年の春に買ったばかりのデジカメくんが、早々と妖精さんになってしまったため、せっかくの紅葉をお見せすることができません。新しいのがほしいのだけど、ビンボー人の悲しさゆえ、今少し買い控えているところです。

なので、今日は、デジカメくんが元気だった頃の、春の写真をお届けしようと思います。季節はずれますが、しばしの間、春の気分をお楽しみください。トップは、近所の空き地の隅に咲いていた、シロバナタンポポです。



これは、おなじみのセンダンの木の生えている公園で見つけた、マツバウンラン。この頃は、花の名前を知りませんでした。見ていると、当時のわたしの気分も見えてきて、ちょっと切なくなりますね。新しい季節を向かえ、楽しいことがいっぱいあるだろうと、期待にいっぱいでした。もちろん、面白いこともいっぱいありましたが、しょっぱいこともありましたね。でも、いつものように、なんとか乗り越えられた。

季節季節、それぞれ、見えてくる新しい課題がある。振り返ると、この頃のわたしが、かわいいような、悲しいような。マツバウンランが少し悲しげに見えるのは、このときのわたしが、まだ何も知らなかったから。



これは菜の花。前のブログで使ったことがあるような気がしますね。冬がおわり、一番最初に歌い始める、金色の花です。この空き地には、なじみのくすのきが立っています。昔、いろいろあってとても孤独だった頃、心を開くことのできた、数少ない友達でしたが、あるときに、無残に半身を伐られてしまい、とても苦しくて、毎日訪れることができなくなりました。

苦しいことを乗り越えると、木も人も、とても美しくなりますが、この木は、苦しすぎることを乗り越えてしまって、一時期、まるで木のようには見えない木になっていました。そしてわたしも同じように、まるで人間ではないようなものになっていました。

今はその木も、わたしも、少し落ち着いています。いろいろありましたが、なんとか生きていけるという、気力が太ってきたような気がします。



これはもちろん、タンポポ。たぶん、長男の入学した高校の、グラウンドのすみで見つけました。16歳になった息子は、なかなか母親と話をしてくれません。細い背中が苦しいのは、息子が、若かった頃のわたしと、とても似ているから。

見えないものを背負って、細すぎる感性のナイフで、風を切って歩いていく。生きているだけで、一歩一歩歩いているだけで、心臓の芯の痛いところが、悲鳴をあげているようだ。

その痛みを知っているのは、自分だけではないってことを、若かった頃のわたしはまだ知らなかった。道端のタンポポも、何気なく目の前をよぎるちょうちょうも、みんなわたしの苦しさを知っていたと、わかったのは、もっと大人になってからでした。



愛してるよ。なんだってしてあげるよ。

世界中のすべてが、そうわたしの耳元でささやいていることを、すべての人の耳元に、同じ音楽が聞えていることを。

すべての人に伝えていくのが、これからもずっと、わたしの仕事です。


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フィンセント・ファン・ゴッホ

2007-11-29 09:53:14 | アートの小箱
《洋梨のある静物》 油彩 1887-88

どうも、デジカメどころかスキャナの調子も悪くなったらしく、少し画像がくすんでいます。ほんとうはもっと明るくてくっきりした色合いです。

ゴッホの魅力の一つは、燃えているというより、純粋には存在不可能なようなイオン化傾向の高すぎる金属が、それ自身存在するだけで燃えているかのような、黄色です。

ゴッホが描くと、麦畑も、夜のカフェの明かりも、空さえも、金属質の純真な愛の叫びに見える。死の壁を越えなければ見えないような、虚無の刃に引き絞られた愛の叫び。それが、まぶしいくらいの美しい黄色に現れているような気がします。

筆のあとが荒々しく見えるのに、対象の真実を明確につかんでいる。ナシはナシにしか見えない。布も布にしか見えない。それなのに、まるで何か別のもののように見える。ナシの奥で、見知らぬ新しい何かが燃えている。そんな風に感じる。美しい。激しく美しいのに、悲しいくらい、可憐。

後期印象派と、人は名づけたがりますが、ゴッホは印象派に学んで、まったく別のものを作り上げたような気がします。見るほどに苦しくなるのは、絵の奥で、近代文明の中では生きていくことの不可能な、純真な愛が、激しく殺され続けている叫びを感じるからです。

印象派の原動力の一つとなったマネは、近代文明の矛盾と偽善を暴きながらも、それに巻き込まれていかざるをえない悲哀に浸りこみ、死んでいった。けれどもゴッホは狂気の中で、真実の愛を非情な現実の嘲笑にぶつけて、自ら粉々に砕くような生き方をした。それ以外では生きられなかった人は、それ以外に道がなかったかのような時代でした。

美しすぎるものが、激しく壊されていく時代、ゴッホの絵は、壊れていく真実の向こうから、何かが見え始めてくるという予兆をも見せています。それが本当に見えてくるのは、もっと後になってからです。

芸術はそれから、シュルレアリズム、キュビズムと、自らを破壊し始める方向に向かいます。その向こうで、新しい何かが見えてくる。現代は、まさしく、その新しいものが何なのかを、求めていく時代です。

美しいものが、美しいものに、帰って行く。本来の正しい姿に戻っていく。安らかで気持ちのいい故郷に、魂が戻っていく。

これからの芸術は、きっとそうなっていくでしょう。


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キチョウ

2007-11-28 09:40:46 | 生命

シロチョウ科モンキチョウ亜科。

今年の秋、幼稚園のお庭で見つけました。せかせかと飛ぶシロチョウの類は、とろいわたしにとって難しい被写体ですが、キチョウだけは、葉陰などに止まるとしばらくじっとしていてくれるので、何枚も撮らせてくれました。

11月も終わりに近く、南国のここでも、もう虫は滅多に見られなくなりましたね。ときどき小さなアブが、プランターのパンジーの周りに見えるくらい。最近まで、草むらを踊っていたヤマトシジミも、もうなりを潜めてしまいました。

山々の紅葉が目にしみるような季節になりました。来年の春まで、もう虫たちとはあえなくなる。寂しいですが、またそれなりの楽しみもあります。

風の中を踊るチョウや、草むらで息を潜めているバッタやカマキリなどの気配がなくなると、世界がなんと静かになることか。虫たちが生きていることが、この世界をどんなにか暖めていたということに気づく。

命が息づいているということが、たとえ見えなくても、確かに、何かのために何かをやっていてくれたのだと気づく。静まりかえった世界の、厳しい寒さの影で、また何かをやるために、今は眠っているものたちが、次の季節にも必ずきてくれることを、わたしたちは知っている。

また会える。きっと会える。いとおしいものたちと、必ず会える。だから、冬は、楽しい。

目を覚ませば、すべてが美しい。

そういう世界に、わたしたちは生きている。

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鬼神を敬して

2007-11-27 09:57:14 | てんこの論語

樊遅、知を問う。子曰く、「民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく。知と謂うべし。」(雍也)
(はんち、ちをとう。しいわく、たみのぎをつとめ、きしんをけいしてこれをとおざく。ちというべし。)

樊遅が知についてたずねた。先生はおっしゃった。「人間としてやるべきことをきちんとやり、人間にはわかりかねることには、礼儀を尽くして、遠ざかっていること。これが知というものです。」



毎日は書けないかもしれないなどといいながら、いったん書き始めると、次々と書きたいことが出てきてしまいます。この上は、毎日カテゴリを変えながら、一通り全部書いていこう、なんていうことを考えています。パターンを作って、きちんとそれを踏んでいきたいっていうのが、どうやらわたしの性分のようで。しばしおつきあいくださいね。

孔子の大きな特徴の一つは、神などの、この世を越えた存在については、深く言及しなかったことです。ほかにも、「知るを知るとなし、知らざるを知らざるとなせ」などのことばがありますが、人間を越えた存在を考えすぎると、人間が、馬鹿なことをし始めるということを、彼が経験上知っていたからだとわたしは考えています。

確かに、人間を越えた存在はありますが、それは、人間の知では計り知れないこと。つかもうとしても、つかみきれないもの。おおすじで、こういうものだということは、わかりますが、すべてを感じ、すべてをつかむことは、とうていできないものです。

神はすべてであり、すべての知を越えたもの。それを知でつかむことは、不可能なもの。あまりに大きすぎるからです。

かといって、人間が馬鹿なわけではありません。人間の知は、人間として生きていくにちょうどよくできているものだからです。人間は、本来人間らしい人間として生きていくに必要な知は持っている。それを、本来の正しい形で使っていくことが、先なのです。人間本来の正しい知を使って、正しく生きるとき、人間は人間のすばらしさを感じることができるのです。

しかし、人間が本来の人間らしさを忘れ、人間を越えたものに惹かれすぎると、まちがいが起こってきます。それらのあまりの大きさ、すごさに、人間がちっぽけなつまらないものに思え、人間として努力することが、くだらないことに思えてくるからです。そして、生きることがたまらなく辛くなる。苦しくなる。

その苦しみを、人間を越えたものに、救ってくれと頼んでも、滅多に救ってはくれません。なぜなら、人間を越えたものは、必ず知っているからです。人間が、自分で自分を救わない限り、救われないということを。人間が、人間本来の美しさに目覚めない限り、すべては動かないということを。

あまりに大きすぎることを考えすぎると、人は何もできなくなる。まずは、等身大の自分を感じ、その存在の力に目を覚まし、自分を動かし始めること。本当の自分を、やること。それがまず最初なのだということが、わかっていること。それが本当の知なのです。そしてそれがわかっていて初めて、人間を越えたものの本当のすばらしさがわかり、心から敬することができるのです。そして、自分のやるべきことを、むやみに越えてはいけないのだという、節度が備わってくる。

本当の自分に目覚める。ただそれだけで、自然に、すべてがわかってくる。それが知というものなのです。

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はるか かなた

2007-11-26 10:40:34 | 詩集・貝の琴

はるか かなた
とおく はなれて しまった

ちちの ふところの
ぎんの つぼを
こわしてから
おれは こきょうを すてた
あれのに にじをかき
あふれるほど うそをつき
あたらしい らくえんを
つくる

なにもない きおくの
うつろに わらの
かめんを かぶせ
とうとい ぎんを
灰の 罪で つくる

あらゆる いつわりを
きざんだ たばこに まぜ
どくを さけに うすめ
あまい うたげを
げひんな じょうだんの なかに
かみつぶして ゆく

あらゆるものは ただの
あほう だ
なにもない なにもない
なにもない
は は は は は

はるか かなた
かぜの こえをきく
おれは おれの
みみを つぶす


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かへりきぬ

2007-11-25 10:18:26 | 歌集・恋のゆくへ

神よりの あまきこころを ことのはに
             とかさむとして きみいひよどむ

ひらかざる さくらのかひの かたくなに
              いはざることを とはむとぞする

きよきことを ちかはむとして ためらふは
               このよの愛の たよりなきゆゑ

かへりきぬ おれたる薔薇の ふるえだを
               いかにせむとて 見ぬ箱に捨つ


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コウヤボウキ

2007-11-24 10:18:50 | 花や木

キク科コウヤボウキ属。Pertya scandens

いつもいく近くの山で見つけました。写真に元気がないのは、病中だったからです。少し元気になったかなと、出かけましたら、散策の後、しばらく車の中で動けなくなりました。

デジカメくんも、わたしの影響を受けてか、とうとう妖精さんになってしまいました。買って一年も経っていないのに、ピントも色も苦しくなってしまって、とても使えません。しばらく写真は無理なようです。また新しいのを買わないと。

うすべにの糸を小さく束ねたようなこの花は、一見地味で、秋の山の中では見つけにくいのですが、こうして近くによってみると、とてもきれいで、愛らしいのです。とても疲れているときにみると、心に溶けてきそうなほどに、心配してくれている。

休んでいる間に、いろいろとありました。少し疲れすぎて、硬い繭の中で折れかけた背骨を癒していた。

なぜ、人は人を滅ぼす必要があるでしょう。

なぜ、憎む必要があるでしょう。

世界の空気をやぶって、消えていく人の叫びが、塩粒のように凍り付いていく。
うつくしいものはうつくしいと、いえなかった人のうめきが、溶けていく水さえもない闇で、あるはずのない霜にしばられていく。

櫂を持つ天使の群れが、岸辺に並んでいる。愛しているよ。

みなさん。

人類は滅びません。

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奏楽の天使・琴

2007-11-22 19:37:23 | 画集・ウェヌスたちよ

ひさしぶりの更新です。みなさん、突然挨拶もせず、ながいことお休みして、すみませんでした。

体調をくずし、どうしても書くことができませんでした。

低空飛行どころか、地べたを転げまわる、なんて日々もありましたが、光が見えてきたので、また書き始めることにしました。しばらくは、毎日は無理だと思いますが、できるだけ、やっていきたいと思っています。

これは、体力がおちて、通常の大きさの作品ができなくなってきた頃、描いていた小品です。小さな作品ですが、気に入って、玄関に飾っています。

11月も終わりにちかく、寒くなってきましたね。
お体には気をつけて、暖かく、この冬をすごしてください。

コメント (4)
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