世界はキラキラおもちゃ箱・2

わたしはてんこ。少々自閉傾向のある詩人です。わたしの仕事は、神様が世界中に隠した、キラキラおもちゃを探すこと。

2012-02-29 06:57:03 | 月の世の物語・別章

弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」
(「ルカによる福音書」9.46-48)

        *

 ジョバンニは、ああ、と深く息しました。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでもいっしょに行こう。僕はもう、あのさそりのように、ほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」
「うん。僕だってそうだ」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう」ジョバンニが言いました。
「僕わからない」カムパネルラがぼんやり言いました。
(「銀河鉄道の夜」宮沢賢治)

        *

ある休日のひととき、午後のお茶を飲みながら、ジュディスは夫クリスと議論しました。
「…つまりは、こういう意味ね。人間はみな、お金だとか地位だとか名誉だとかで、とにかく偉くなりたがるけど、それはみんな、自分には何もないと思ってるからよ。何か、他人に見せつけられるものを持っていないと、自分がいないみたいで、不安でしょうがないんだわ」
すると夫のクリスがすぐに言いました。
「なるほど、それが今回の君の作品のテーマだね。でもそれは、君の敬愛するアントワーヌが、もうすでに書いてるよ。うぬぼれ屋だとか、実業家だとか」
「これが、人間の永遠のテーマってものなのよ。名刺がなけりゃ自信がない人に、それらしいこと言ってかっこつけてほしくなんかないわ。人間はね、何にもなくても、自分がいるだけで、なんでも持ってるの。それが本当の幸せなのよ。わかるわけないでしょうけど、あんたに」
クリスは、口をつけかけたお茶を吹き出しそうになり、あっけにとられて妻の顔を見返し、笑い顔を固まらせたまま、しばし何を言うこともできませんでした。
(「幸」月の世の物語・別章)

       *

以上、あとがきに変えて。別章はいかがでしたか?
物語を書くのは、本当に楽しかったです。しばらくは、余韻にひたりつつ。




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2012-02-28 07:22:49 | 月の世の物語・別章

青い鳥船は、一人の聖者と、二十数人の青年を載せて、衛星のように、地球を回っていました。鳥船の内部には、各種の知能器や観測機などが装備され、青年たちが、常に地球の様子を観測しながら、知能器のキーボードを打ったり、観測機の画面をのぞきながら、さまざまなデータを記録したり、地上にいる聖者様や青年、少年たちから送られてくる情報の暗号を解読したり、たまに、何らかの事故で傷が生じた水晶球を修理するのを手伝うために、地球上に降りたりしていました。

青年たちは、月の世の青年と、日照界の青年と、ほぼ半々の数で構成されていました。月の世の青年は、日照界の青年の影のない明るい態度やまっすぐな発言に戸惑い、日照界の青年は、月の世の青年が、時に地球上の影を見るときの悲しげにも鋭い視線に、胸を突かれることがありました。ですが彼らは、人に違いがあるのは当然だと知っているので、特に何も気にすることもなく、お互いの違いをそれぞれに興味深く学びながら、助け合って仲良く協力しあい、日々の仕事をこなしていました。

聖者はただ、青船の中で一人立ちつくし、いつも、青船の扉を開いて、静かに地球を見下ろしていました。

「やあ、ガゼルくん」月の世の青年が、ある日照界の青年に声をかけました。彼は数年前まで、日照界においてガゼルの導きをしておりましたが、その仕事で少しミスをしてしまったことをきっかけに、しばらくガゼルの導きを他の青年に預け、代わりに、この地球の状況を観測する青船の仕事に志願し、それをお役所に認めてもらったのでした。
「これ、昨日のデータなんだが、翻訳してくれるかい?」彼を「ガゼルくん」と呼んだ月の世の青年は、彼に少し暗色に煙った水晶の板を渡しました。その日照界の青年は、実年齢に比しては少し幼げな少年のような顔をしており、それほど年の変わらぬ他の青年たちに、少々からかい気味に、「ガゼルくん」と呼ばれていました。彼はそれに時々苦笑もしましたが、気にしてもしょうがないと思い、なんとなくそう呼ばれるのを、自分にもみんなにも許していました。

ガゼルの青年は、月の世の青年から渡された水晶の板を、キーボードに放り込み、画面に映り出た複雑な暗号や紋章を解読し、普通の言葉に翻訳していきました。そして一仕事終わると、ふっと息をつき、何気なくすぐ横の窓を見て、ガラスに映る自分の顔を見ました。丸い大きな青い目の少し幼げな顔は、確かに、何となくガゼルに似ているようにも思えました。
(あの仕事も、長いことやってたからなあ…、僕も、だいぶガゼルに影響されたのかな)彼は髭の無い自分の顎をなでつつ、ガラスに映る自分に向かって、少し照れたような笑いを見せました。

ガゼルの青年は、翻訳したデータを再び水晶の板に記録し、透明になってキーボードから出てきた水晶の板を、さっきの月の世の青年に渡すために、立ち上がりました。

すると、ふと彼は、青船の扉のそばで、常に凍りついたように立ちつくし、地球を見下ろしている聖者の厳しい横顔に目が行きました。聖者は常に杖を離さず、ただそこにあるだけの人形のように立ちつくし、青年たちに何を命令することもなく、ただ地球を眺めていました。聖者が何をしているのか、青年たちには一切わかりませんでしたが、聖者が、地球を見ながら常に、自分たちには見えないものを見つめ、魂の奥で彼らには決してわからない仕事をしているのだということは、わかりました。聖者は時に、かすかに眉をゆがめ、目を閉じ、おお、と嘆きにも似た声を上げることがありました。青年たちは、それを聞くと、一瞬静まりかえり、手元の仕事から目を離して一斉に聖者の方を見ました。すると青年たちの胸に、まるで亀裂を生むような鋭い痛みが走りました。まだまだ修行が足りぬと言われる彼らにも、何となくわかることはありました。

きっと聖者様は、地上に今生きているという、あの『誰か』という人を、常に見ているのだろう。その『誰か』という人が、誰なのかは、聖者以外は誰も知りませんでしたが、ただ、『聖なるもの』を荷っている方だということは教えられていました。青年たちは、聖者の悲哀を感じながら、皆同じような感情をかみしめていましたが、それを口にすることはなく、沈黙のうちに、しばし、地球と、その『誰か』という人のために、皆で祈りを捧げるのでした。


その頃、日照界では、女性魔法学者が、同じように、地下の天文台の中で常に地球を観測していました。彼女は、知能器の上に浮かび上がる青い地球の幻を、キーボードをいじってくるくると回しながら、どんな小さな変化も見逃さず、記録してゆきました。
「あのゆらぎが見えてから、もう三年は経っている。でもあれから何も変化は見えない。聖なるものは何をしているのかしら」彼女は口元に手をあててしばらくじっと地球を凝視しているうちに、ふと飲み物が欲しくなり、助手を呼びそうになりました。
「ああら、いけない。彼は今いないのだわ」魔法学者は少々口を歪め、苦笑いしながら、右手で簡単な魔法をし、お茶を作りました。そしてそれを一口飲んで、言いました。
「ああ、やっぱりだめね。ちゃんとした魔法で作らないと。あまりおいしくないわ」そう言いつつも、彼女は再びお茶に口をつけ、まだ若く未熟だった頃の味などを思い出しながら、ゆっくりとそれを味わいました。そしてお茶の器を、また簡単な魔法で消すと、もう一度地球に目をやりました。

「今頃彼は、あそこらへんにいるのね」彼女は地球上のある一点を指差し、そこに光をともしました。「神は、お優しくも、お厳しい。できることだろうけど、それをやるのはつらいでしょうね。あなたは…」魔法学者は、その地球上の一点の光を見つめながら、彼に語りかけるように言いました。そしてしばしの休息をした後、彼女は再び、地球を観測し、『聖なるもの』の降りていったという、地球上の、ある一点に光る青い大きな目印を見つめました。彼女はその青い光にも問いかけました。
「聖なるものを荷うという方、何をされているのですか。神は、あなたを、どうお導きになっているのですか?」
すると、知能器が作る幻の地球が、それに答えるように、かすかに横に揺らいだような気がしました。彼女は一瞬何かに魂をひきこまれるようなめまいを感じ、体が揺れて、足元がふらつきました。彼女は頭をぶんぶんと横に振って、すぐに自分を取り戻すと、目を見開いて驚きを見せ、幻の地球から顔をそむけて、ふう、と深い息をつきました。「…いけない。誤るところだったわ。聖域の秘密には決して触れてはいけない。そこに触れると、この私でさえ、嵐に巻き込まれる恐れがある…」
魔法学者は気を取り直し、再び知能器の前に座って、地球の幻を回して、観測を始めました。

そのようにして、何年かの月日が、過ぎました。ある日、魔法学者は、地球上に小さくも透明な美しい渦が巻いているのを見つけて、茫然と目を見開きました。
「聖なるものが、動き始めた!」彼女は思わず叫び、椅子から立ち上がりました。その渦は、ハリケーンやタイフーンのような雲の渦ではなく、目に見えない人類と怪の魂が作り上げる、血しぶきにも似た、心の叫びの渦でした。言葉を変えて言えば、それこそが地球の魂の渦でした。彼らは、地球上にあり得ない聖なるものの気配を感じ、恐れを抱き、魂を裂くような叫びをあげ、憎悪や狂気の嵐の中で自分を見失いつつありました。あの、渦の中心、風の結界に囲まれた聖域に、あの人はいらっしゃる。その恐ろしい霊圧の差に、人類は驚いて、逃げまどい、自ら起こす嵐の風に、これから迷っていくのだ。

「嵐だ、最初の嵐が起こった!」彼女は叫びました。そして、地球上のもう一点に点る光を見つめ、なつかしい彼のことを思いました。「…あなた、始まったわ、とうとう。あなたも、行くのね、あの嵐の中を。あのすさまじくも美しい、浄化の嵐の中を…」彼女はその一点を強い悲哀に満ちた目で見つめ、彼のために目を閉じ、指を組んで、神に祈りました。
「お導きを、彼にお導きを!神よ!」


その頃、青船の中では、大騒ぎが起こっていました。青年たちは知能器や観測機の間を飛び回り、データを投げ合っては、地球上に起こったその小さな渦を見つめ、茫然としながらも、刻々と変わっていく渦の状況を正確に記録してゆきました。地球各地に埋めた水晶球が、次々に点滅し、振動し、まるでその嵐を祝福するかのように、一定のリズムをとって単調な旋律を奏で始め、それが地球を少しずつ揺り動かしていくのを、観測機がとらえました。

青年たちが、観測機をのぞき、あるいは知能器の画面から、あるいは窓から直接地球を眺めながら、口々に言いました。
「これが、嵐か!」「すごい。すさまじくも醜いが、信じられないほど、美しい」「まるで、薔薇のようだ!」「神の道理とはこれだ。僕らの予測をはるかに超えている」「すごい、真実は、あまりに正確だ。こんなに正確な渦など、あり得るのか!」「本当に、本当に、地球に、渦が、咲いた!」

ガゼルの青年は、聖者のそばで、青船の扉から、地球に咲いた最初の渦を、茫然と見つめていました。人類が、おののいている。神が、動いていらっしゃる。地球上で、何かが、起こり始めている!

彼は、ふと、隣にいる聖者の、杖を持つ手が、かすかに震えているのに気付き、聖者の顔を見上げました。すると、聖者のひたすら地球を見つめている目のふちに、微量の液体がたまり、それが光の筋となって、聖者の頬を流れるのを、ガゼルの青年は見ました。聖者は静かに目を閉じ、あらゆる悲哀が自分に振りかかって来るかのように口を噛み、眉を歪め、おお、と嘆きの声をあげました。そしてガゼルの青年は、聖者が、まるで空耳のように、かすかな苦悶の声で、こうつぶやくのを聞きました。

イエ…ス…

青年ははっとし、まじまじと聖者の顔を見つめました。イエス?今イエスと言ったのですか?喉までこみあげてきた問いを、彼は無理やり飲み込み、ただ茫然と、聖者を見つめ、しばらくしてまた、地球の渦の方に目をやりました。

「イエス?あなたは、イエスなのか?」

ガゼルの青年は、脳裏にあの深くも鋭く澄んだ青い瞳を思い浮かべながら、渦の中心に向かって、問いかけました。


その頃。

天の国では、また、奏楽の途中で眠ってしまわれた王様の寝顔を、梅花の君が、そっとそばに寄り添い、悲哀のにじんだ優しげな微笑みで、見つめていらっしゃいました。
幻の王様は、いつもの御椅子にお座りになり、ひじかけにひじをついて頬を支え、眠りながらも、かすかに眉を歪め、少し苦しそうに、うっ、と、喉を鳴らされました。そしてしばらくすると、その閉じた目に小さな玉のような涙が滲み、それは頬を流れて、ほとりと彼の膝の上に落ちました。

「わが君…」梅花の君は、もはや自分の心を隠すこともなく、幻の王様に声をかけられました。「愛する、わが君…、苦しいのですか?そんなにも、苦しいのですか?」
彼女は手に持った琴の弦をかすかに鳴らし、その音で、王様の涙の苦しみを清めました。そして、ひじかけに置いた片方の王様の御手に、自分の手を、おそるおそる重ね、その清らかな御手に触れて、ああ、とため息をつかれました。彼女は、自分の愚かさを責めながらも、震えながら涙を流し、こうしてしばらく、幻とはいえ、愛する方とふたりでいられることの、静かな喜びに浸ることを、許してくださるようにと、神に願いました。
「わが君、…すべては、夢ですわ。ひとときの、ひとときの夢……」

梅花の君は、王様の御手に触れた自分の手を、聖なるものからおそるおそる逃げるように、そっと離すと、今度は琴を抱え、王様の眠りの邪魔をしないように、かすかな音をかき鳴らしながら、愛をこめて、子守唄のように清らかな慰めの歌を歌いました。
「いつかは、終わる夢…」
目を閉じると、彼女の脳裏に、青い地球の姿が浮かび、その上に咲いた、小さくも見事な、真実の赤い薔薇の花が見えました。

ああ……

眠る王様が、ため息のように、かすかな声をあげられました。

天の国の月は、その夜、望月でございました。

(完)

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2012-02-26 07:37:41 | 月の世の物語・別章

女性魔法学者は、天文台の中で、聖者の治療によって仮に与えられた腕を使い、知能器の画面を見ながら、キーボードをカチカチと打っていました。彼女の体が元に戻るには、まだよほど時間が要りましたが、聖者の作ってくださった腕はとても性能がよく、彼女の仕事を大いに助け、彼女は簡単な魔法が使えるまでに、回復していました。

彼女が、画面に映る青い地球の画像をじっと眺めていると、不意に犬の頭の助手が彼女のそばに姿を現し、「先生」と声をかけました。彼女は彼を振り向くこともなく、言いました。「わかってるわ。お役所から入胎命令が出たのでしょう」すると助手は、彼女の相変わらず冷たく厳しい横顔をしばし見つめ、言いました。「はい。そのとおりです。しばらく、先生のお世話ができなくなります。大変な時を、申し訳ありません」
「謝る必要はないわ。わたしも自分の世話くらいはできるようになったし。上部のお決めになったことに間違いはないのだから、あなたはあなたのするべきことをしなさい」魔法学者は冷静に、助手の顔を一瞥もせず、ただ画面に映る地球の表面を注意深く観察していました。

「ありがとうございます」助手は言いましたが、魔法学者は地球を観察するのに集中し、それには答えませんでした。ふと、彼女は、地球上に何かを見つけたように、「あ」と声をあげました。「ゆらいだ。あの子が、夢を見始めたのだわ」彼女は言いましたが、そのときにはもう、助手の姿はそこにありませんでした。

犬の頭をした青年は、ある、激しく岸を打つ荒波の海を前にして、岸辺の岩の上にまっすぐに立ち、海のはるか向こうを見ていました。彼は空を見上げ雲の向こうにかすむ日照を見たあと、風を一息飲みこみ、小さな炎を吐いて、呪文を唱えました。すると彼はいつしか、一匹の細長く白い竜に姿を変え、海から吹いてくる強い風に立ち向かい、飛び出しました。彼は青灰色の荒波の海の上を、時折風に押し戻されながらも、恐れることなく道を信じ、ただひたすら目的地を目指して飛んでゆきました。

そうして数日も海を飛んでゆくと、行く手の霧の向こうに、うっすらと、黒い島影が見えてきました。彼はその島を目指し、まっすぐに飛びました。それは、黒い玄武岩でできた、小さな岩の島でした。白い竜はその島に近づくと、その島に降りることはなく、ただ岸辺の近くの海すれすれに体勢を整えて止まり、ほおおおおっ、と声をあげました。すると、かちん、と空気の割れるような音がして、世界が変わりました。白い竜は一切移動していませんでしたが、世界そのものが、移動して、彼はさっきとは全く違うところにいました。彼はそれがどういうことなのかはわかっていました。竜は海面に降りると、ひざまずくように手足を海面につき、深く頭を下げました。

と、不意に、玄武岩の島そのものが、巨大な竜の神の顔になりました。おおおおおお、と竜の神は空を揺らす声をあげて、小さな白い竜を迎えました。白い竜はますます深く頭を下げ、感謝の祈りを捧げました。神が、空に響き渡る、厳かな声でおっしゃいました。

「ドゥラーゴン、小さき竜の子よ」
すると小さい白い竜は顔をあげ、はい、と答えました。神はその素直なまなざしを見つめ返し、またおっしゃいました
「ドゥラーーゴンン…、愛し児よ、行くか…」
小さい白い竜はただ、はい、と答えました。すると神は目を細め、しばし沈黙し、海の上を吹く荒い風を鎮まらせました。風は神の心に従って暴れるのをやめ、海もまた叫ぶのをやめて、静かに沈黙をゆらすかすかな歌を歌い始めました。

神は悲しみとも喜びともつかぬ、美しくも激しく澄み渡った瞳で彼を見つめました。そのまなざしの中、白い竜は凍りつくように動けなくなりました。彼は自分の全身を測られ、存在そのものを丸裸にされて全ての真実を見抜かれているのを感じました。彼は自分の小ささを痛いほど感じざるを得ませんでしたが、それでも恥じることなく、額をあげ、小さくも確かな存在の光として、神のまなざしに答えました。神は、目を細め、かすかに微笑みました。そしてまた、おっしゃいました。

「ドゥラーゴンン…、神の小さき竜よ。おまえは、石つぶての渦まく、嵐の中を、進まねばならぬ…」

「はい、わかっております」

「ドゥラーーゴンンン…、わが子よ、おまえは、愛のしるしの元、人類を、炎の鞭で、打たねばならぬ…」

すると小さい白い竜は目を閉じ、しばし神のことばをかみしめた後、目ににじむ涙を感じながら、「はい、わかっております」と答えました。

「行くか、わが子よ」神がおっしゃると、小さい白い竜は、ただ「はい」と答えました。神はその答えを深くその御心に吸い込み、小さい白い竜の心と決意を確かめたあと、ため息とともに、口から金色の炎を吐き、それで白い竜を焼きました。

小さい白い竜は、炎の熱の激しさに、微塵も動かずにただ黙って耐えました。炎は彼の全身を焼き清め、静かな風の中に消えたかと思うと、いつしか白い竜の体は、日照の金色に染まって、輝いていました。神はおっしゃいました。
「ドゥラーーゴンン…、神の幼な子よ、おまえに、使命を与える。…行け」

すると金色の竜はただ、「はい」と答え、空に浮かび上がりました。それと同時に、瞬時に世界は元に戻り、神の気配は消え去りました。金色の竜は、日照界の空に次元のカーテンを作り、それをくぐって、地球へと向かいました。

やがて彼は、地球上に降り、犬の頭の青年の姿となって、ある国の片隅にある、小さな教会の中にいました。今、その教会の中で、一人の女が、目の前に高々と掲げられた金色の十字架を前にひざまずき、一心に祈っていました。彼女の夫は今、兵として他国に任務しているのですが、もうすぐその任務も終わり、国に帰ってくることになっていました。彼女はただひたすら、夫が自分の元に帰って来るまで彼が無事でいてくれることを、神に願っていました。

犬の頭の青年は、これから約二年後、彼女の末子として、生まれることになっていました。彼はやがて母となるだろうその女性の背中を見つめた後、教会に飾られた金の大きな十字架に目をやりました。すると、その十字架には、大蛇のように大きなムカデが一匹まきついており、彼女に向かって、しきりに、「ワガコトヲセヨ、ワガコトヲセヨ」とささやいていました。それは、怪に従い、悪を行えという意味でした。犬の頭の青年は、口からふっと銀の針を吐き、そのムカデを刺し貫きました。すると大きなムカデは、ぐっ、と声をあげ、しゅう、と音を立てて縮み、元の小さなムカデの姿に戻りました。犬の頭の青年は、銀の針の刺さったムカデを呪文で手元に呼ぶと、それをしばし冷たい目で観察し、また呪文を唱えて、それを月の世に送りました。ムカデはすぐに、彼の手元から消えました。

彼はまた、祈り続けている女の背中を見ました。すると、どこからか、かすかな声が聞こえてきて、彼は目をあげました。金色の十字架が、前よりも少しつやめいて見え、清らかに澄んだ光を放っていました。そのかすかな声は、その十字架の向こうから、繰り返し聞こえてきました。彼は耳を澄まし、そのはるか遠くから響いてくる音律を、探り出しました。それは単調で素直な調べではありますが、確かな自信に満ちた声で、こう言っていました。

「義のために、迫害される人々は、幸いである。天の国は、その人たちのものである」

犬の頭の青年が目を見開き、驚いていると、不意に、目の前に、透きとおった、これまでに見たこともないほど大きな精霊の顔が現れ、その澄んだまなざしで彼を見つめ、言いました。

「正しいことをしなさい。それで人にいじめられても、それは苦しいことではない。ましてや喜びなのだ。なぜならわたしたちは、どんなに苦しい目に会おうとも、神の愛の真実を信じ、決してその道を踏み外すことはないのだから」。

犬の頭の青年は、しばし、精霊の顔を見つめ、驚きから逃げられずにいました。精霊はまるで、神のように微笑み、ただ静かに彼の答えを待っていました。犬の頭の青年は、そのまなざしを受け入れ、竜の深い声で、「はい、わかっております」と言いました。すると、精霊の顔はその言葉をとても喜び、微笑みの中に静かに消えてゆきました。

ふと、祈り続けていた女が、何かの気配を感じたかのように顔をあげ、不安げにあたりを見回しました。教会には彼女の他に誰の姿もなく、ただ金色の十字架だけが、彼女を見つめていました。犬の頭の青年は、彼女にささやきました。「心配することはない。あなたの夫は必ず無事に帰って来る。安心して待っていてください」すると女は、少し気持ちが落ち着いたように、ほっと息をつき、また十字架を見上げて儀礼をすると、そこを立ち上がり、教会を出て行こうとしました。犬の頭の青年はその後ろ姿に声をかけました。

「すまない。あなたには迷惑をかける。私はここで、やるべきことをやらねばならないから…」

女は、何にも気づくことはなく、ただ、胸に小さな希望の明かりをともして、静かに教会を出てゆきました。家では、彼女の、愛おしい二人の子供が、待っているはずでした。



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2012-02-25 07:17:01 | 月の世の物語・別章

緑の山々の景色を、遠くに眺められる、静かな森に囲まれた白い立派な別荘の庭で、一人の男が、妻と娘たちに囲まれ、ゴルフの練習をしていました。彼が不器用ながらもそれなりにかっこよくスイングを決めると、家族はこぞって彼をほめそやし、「すてきよ、パパ」と声をあげました。

その様子を、少し上空から、豆のさやの形の船に乗って、眼鏡の少年と、一人の女性役人がじっと見守っていました。少年が言いました。「…いいんですかね。あんなことしてて。彼、今大変なはずでしょ?」すると女性役人は、手に持ったガラスの容器を弄びつつ、下を見ながら言いました。「まあね、あれでも小国とは言え、一国の元首だもの」「国は今、資源問題で大国と対立を深めてる。彼の国でとれる資源が、別国に流れてその兵器開発に関連してるって…」「彼が今その問題で何を考えてるかはわからないけれど、もうこれ以上は無理ね。そろそろだわ」女性役人が腕時計を見ながら言いました。彼女は時計の針を見つめながら、「…五、四、三、二、一、…ボン!」と言いました。

そのとき、眼下でパターを握っていた男が、ぐ、と喉をつまらせ、頭を引っ張られたかのように背筋がぴんとひきつったかと思うと、突然大量の汚物を吐きだし、そのままばたりと地面に倒れました。家族が悲鳴を上げ、隠れて見守っていた警護員が一斉に彼の周りに集まりました。

「心臓マヒね。さて」女性役人は、ガラスの容器の蓋を開けると、「ズムドルクン・オルゾ」と言いました。すると、眼下の庭に横たわった死体の中から、もぞり、と一匹のムカデが姿を現し、女性役人の声に引き込まれるように、ぎいぎいと声を上げながら船に向かって上ってきたかと思うと、すっとガラスの容器に吸い込まれました。「一国の元首が、人怪とはね」言いながら、彼女はムカデを収容したガラスの容器に蓋をしました。「珍しいことじゃないですよ、地球では。でもなんです?ズムドルなんとかって、聞いたことのない呪文だけど」「この怪が、まだ人間だったときの最後の名前よ、見て」言いながら、彼女はムカデの入った容器を、少年に見せました。少年はそのムカデを見て、眼鏡を外しながら驚いた声をあげました。「うわ、頭が、二つある!」ムカデは、細長い体が途中でY字形に枝分かれして、それぞれの先に別の頭を持っていました。「怪の最終形態よ。存在たるものが悪を犯しすぎて、限界に近づくと、存在の愛なるものとの矛盾が巨大化して破裂しそうになり、あまりの苦しみに、意識層にある自我が愛なる自己存在から逃げようとしてこうなるの。とうとう、ここまできたのよ、人類は」女性役人の言葉に、少年は、茫然と頭を振りながら、二つ頭のムカデを見つめていました。「さて」女性役人は言うと、ガラスの容器にぺたりと月の世の紋章を貼り、呪文を唱え、それを月の世のお役所に送りました。ガラスの容器はすぐに彼女の手の中から消えました。

二人は、眼下の人々の大騒ぎを一通り見回し、記録するべき情報を記録したあと、ゆっくりと船を回し、空に向かって飛び出しました。

その頃、月のお役所では、女性役人が送ってきたガラスの容器を受け取り、さっそくその分析を始めました。二つ頭のムカデは、たくさんのコードを結びつけられた水晶製の大きな別の容器に入れられ、ある研究室の真ん中の机の上で、十数人の役人たちの視線を一斉に浴びていました。

「ズムドルクン・オルゾ。三万年前、彼はある森林の国の神官だった。しかし彼は神殿に大勢の女を集め、彼女らを神女と呼んで、神殿に供物を納めた男を相手に、みだらな行為をさせた。それに反発する神官を彼は八人殺している。女たちは彼に操られ、恥ずかしい仕事を毎日やらされた挙句、男が欲望を彼女らに示さなくなると、殺された…」ひとりの若い役人が、帳面を読みながら言いました。だれかがため息をつきましたが、役人たちは顔をゆがめながらも、それほど珍しいことではないとでもいうように、特に大きな反応は示しませんでした。と、研究室の知能器の前にいた役人が、「ひゃっほう!」と声をあげました。
「すごい罪歴だ、すごい罪歴だ。どんどん出てきますよ。うわあ、果てしない。人殺し、姦淫、盗み、詐欺、虚偽、凌辱、裏切り、おお、虐殺、戦、拷問、謀略、破壊、捏造、罠、お、お、惨い、これは惨い!」「そんなものいちいち見るな、飛ばせ!」そう言うと、研究室の室長が彼の脇から知能器のキーをポンと押し、画面は彼の罪歴の最後のページに飛びました。そこには十七行の文字の列があり、一番下の行には、ほんのさっきまで一国の元首として生きていた彼の名が太字で書かれ、その下では、「危険、注意」という大きな赤い文字が激しく点滅していました。

「これが最終形態か…、石の文書にあった図とそっくりですね」役人の一人が水晶の容器の中でうごめく怪を見つめながら言いました。「ああ。愛なる存在が、その真実に反したことをあまりにやりすぎて、限界に近付くと、こうなる。つまり、悪と愛の激しい矛盾があまりにも苦しくて、存在がその存在であることを、拒否しようとするんだ。それゆえに彼は今、ものすごい存在痛と虚無感を味わっている。あまりにつらい。あまりにさびしい。自分が、壊れていくような、すさまじい恐怖感。愛に見放されるかもしれないというおびえ。彼は愛を侮辱しながらも、それを影に引きずりながら、長い長い時を愛たる自分存在を裏切り続け、ひたすら悪を行ってきた。そしてとうとう、こうなった」室長が言いました。

「このまま放っておくとどうなるんです?」「善と悪の二つに分かれるというのは、考えられませんね」「悪は存在しない。彼がどんなに自分という存在を憎んでも、存在が存在である限り愛からは離れられない。それゆえに、完全に分裂するということはあり得ない。だが彼はその自己存在たる愛から今、懸命に逃げようとしている。しかし、愛が自分から全く離れてしまえば自分は存在しないことになる。だが、彼はその愛から逃げ、悪を信じようとする。しかし、愛を離れて全く悪になってしまえば、自分は消えてしまうことになる。かといって愛を受け入れて悪を退ければ今まで自分がやってきたことが全て愚かなことになり、それを彼のプライドは許さない。しかし悪を信じ続けて愛を退ければ自分は消滅する…同じ苦悩を繰り返す愚かなる永遠の矛盾運動だ。彼が愛なる自己存在の真実に目覚めない限り、このまま放置しておけば、彼はその恐ろしい矛盾の回転の中に引き裂かれ、やがては自己崩壊を起こし、自分自身の毒を飲んで自分を殺してしまう。要するに、自分で自分存在であることを放棄し、死者の死者の一員となり、恐ろしく深い地獄の底で永遠の浄化の荒波に洗われることになる」室長は言いました。

「死者の死者か」「…結局は、それか」役人たちは、それぞれに、知能器の画面や水晶の容器の中のムカデを見ながら、悲しげな顔をしました。

「データはとれたか」室長が、別の知能器の前にいる役人に声をかけました。するとその役人は答えました。「はい。怪の苦しみは相当なものです。魂の核が割れるように叫んでいる。それでいて、表面は凍りついたように動かない。表層自我の活動は大部分死んでいるのと同じです。その彼をかろうじて今動かしているのは…」「愛だろう」室長が言うと、知能器の前の役人は振り向きもせず、「そうです。それのみです」と答えました。「なんという矛盾だ」誰かが言いました。「こうまでなっても、やはり愛は愛するのか」。

「さて、次だ」室長は、短い呪文を唱えて、手の中に厚い帳面を出すと、それをぺらぺらとめくりながら、言いました。「とにかく、私たちは、この怪が死者の死者に落ちる前に、何とか助けねばならない」彼は帳面に息を吹きかけて、ある一ページのコピーを何枚か作り、それを周りにいる何人かの役人たちに渡しました。
役人たちは、そのコピーを読み終わると、お互いの顔を見合わせ、もの言わぬままうなずきあい、それぞれの役目を決めました。

真ん中に水晶にとじこめた怪を取り囲むと、ある役人が、天井に響く高い声をあげ、聞いたこともない呪文の古謡を歌い始めました。別の役人は、その声を追い、それに和するように、少し低い声で、同じ呪謡を歌い始めました。また別の役人は、宙に指を踊らせて小さな細い銀のペンを出し、そこから光を出して、水晶の器の中のムカデの、ちょうど頭の分かれたところに、曲線と記号の複雑に入り組んだ小さな愛の紋章を描き始めました。室長は、彼らがそれぞれに魔法の流れに乗ってきたのを確かめると、片足で床を叩きながらリズムを打ち、低い声で、ず、ず、と腹の底に響くような声で歌い始めました。一人の女性役人が、愛を表現するために、研究室の中に花園の幻を描きました。

その他の役人たちは、ただ黙って、彼らの魔法を見守っていました。魚の知恵の石文書に書いてあった、古い古い再生の儀式が、始まろうとしていました。

突然、背後から見守っていた役人の一人が、何かに引き込まれたかのように、魔法の輪に加わり、石文書には書いてなかった呪謡を歌い出しました。室長はリズムをとりながら、彼の方を見ましたが、彼の瞳が、何かに魂を奪われたかのように宙を見上げたまま凍りついているのを見て、黙って儀式を続けました。神が降りたのでした。そのようにしていつしか、研究室にいる役人たち全員が、それぞれに微妙に違う旋律の、違う呪文を歌い、天を見上げながら不思議な合唱を行っていました。ただ、ムカデに銀のペンを向けている役人だけが、じっとムカデの様子を見守っていました。

やがて、合唱が何かに操られるように不思議な高みに登ろうとしたとき、むり、とかすかな音がして、分かれたムカデの体が、だんだんと根元から融合し始めました。銀のペンを持つ役人は、声もたてず、静かにその様子を見守っていました。ムカデの体に描かれた紋章は、呪文のリズムに合わせて点滅を繰り返しながら、歌が流れてゆくに従ってゆっくりとムカデの体の中にしみ込んでいきました。室長の打つリズムが、呪謡の終章を知らせ始めると、Y字形だったムカデの体はほぼ一本の線になり、やがて、しっかりと頭が融合して、普通のムカデの姿に戻りました。花園が消え、元の研究室の背景が戻ってきました。役人たちは歌い終わり、室長が、一つ、ずん、と声を打ちました。

ふう、と誰かが息をつきました。すると、皆が、今初めて夢から目を覚ましたかのように、ざわりとして互いの顔を見合わせました。役人たちは、神がともにいて魔法を行って下さったことに軽い衝撃を受け、驚きを感じていました。なんてことだろう、と、一人の若い役人が言いました。いったい自分は何をやったのか、彼はいまだにわかっていなかったのです。

神のもたらしたひとときの愛の唱和の名残を感じながら、室長は深いため息をつき、水晶の器に手をついて、小さな声でムカデにささやきました。「ズムドルクン・オルゾ。罪びとよ、神はおまえを見捨てなかった」。

研究室にいた役人たちが、一斉に室長を見ました。「神は、すべての怪をも、救うつもりなのだ」室長は静かに言いました。

役人たちは、少しの間、苦しいような、眩しいような目つきで、室長と、水晶の器の中のムカデを、かわるがわる見ていました。ひとりの役人が、感極まったかのように、強く瞼を閉じて唇を噛み、こらえきれなかった涙で頬をぬらしながら、天を見上げ、叫ぶように言いました。
「神よ、…感謝します!」。

室長は、そんな彼を一瞥すると、自分もまた胸に手をあてて天を見上げ、「愛なるものに御栄あれ」と彼に続いて祈りました。そして、ふっと息をつくと、すぐ皆の顔を見回して指をぱちんと弾き、言いました。「さあみんな、何もかもは、これからだ。神は常に我々とともにある。我々の仕事は、始まったばかりだ」すると役人たちは一斉に「はい」と答え、それぞれの机に向かって、自分の仕事を始めました。

ズムドルクン・オルゾは、水晶の器の中で、もぞもぞと動きながら、自分の身に何が起こったのかも知らずに、ただぼんやりと、彼らの様子を見守っていました。




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2012-02-23 07:58:24 | 月の世の物語・別章

枯れ草と痛い小石の混じる果てもない荒野の中を、カメリアは、息を切らせながら、走っていました。後ろを見ると、影のように黒い男たちが、にやにやと笑いながら、自分を追いかけて走ってくるのが見えました。
いや!いや!いや! カメリアは叫びながら、懸命に逃げました。しかし男たちは彼女を追いかけることをやめず、その黒い腕を蛇のように伸ばし、彼女の襟首を捕まえたかと思うと、恐ろしい力で彼女をひっぱり、痛い荒野の石の上にぼろ人形のように投げ倒しました。

ああああああ!!

悲鳴を上げて、カメリアは寝床から飛び起きました。激しい息が肩を揺らし、涙で頬が濡れていました。隣で眠っていた母親が、その声に飛び起きて、「カメリア、どうしたの?」と声をかけました。カメリアは涙に震えながら、母親の胸に飛び込み、声をあげて泣き始めました。

「また昔の夢をみたのね」母親は、カメリアの背中をなでながら、言いました。「大丈夫。もうとっくに終わった夢よ」母親は、カメリアを抱きながら、しばし慰めの呪文の歌を歌いました。そうしていると、少しずつ、カメリアの気持ちも静かになってきて、怖い夢にもだんだんと幕が下がり、涙もかすみ、やがて彼女は、ふうと安堵の息をつきました。すると今度は、胸の中にたまらない悔しさが生まれてきて、カメリアは母の顔を見上げて訴えるように言いました。

「わたし、男は嫌い。いやって言ったのに、いやって言ったのに!」すると母親はカメリアを抱く腕を強めて、言いました。「…カメリア、あなたと同じ思いをした女は、星の数ほどいるわ」母親もまた、遠い昔のことに思いをはせ、苦しそうに眉をゆがめました。彼女は、覚めた悲しみの中に閉じてゆく自分の心を感じながら、娘の長い金髪を、指で静かになでて、言いました。

「カメリア、あなたはかわいいわ。男はね、女よりも、よっぽど、子供なのよ。あなたがかわいくて、好きになりすぎてしまうのが、怖いの。本当に愛してしまったら、自分が女に支配されてしまうんじゃないかって、それが怖いのよ。だから男はいつも、女に意地悪ばかりするの…」母親が言うと、カメリアは母の顔をじっと見つめました。「お母さんも、同じような思いをしたことがあるの?」すると母は切なそうな遠い目をして笑い、言いました。「…もう、何を言っても、どうにもならないことよ。終わったことは、忘れたほうがいいの…」カメリアは、苦しそうな目で母の顔を見つめ、しばし唇を噛んで、黙っていました。

まだ起きるには少し早い時間でしたが、ふたりとも、もう眠れそうになかったので、今日は早めに起きることにして、親子は普段着に着替え、ふたりで朝食の準備を始めました。カメリアは賢く、母親のしつけと教育もよかったせいか、料理や縫物がとても得意な、良い娘になりました。定期的に家にやってくる役人からも、たくさんのことを教えてもらい、魔法もいろいろ使えるようになっていました。彼女は今十七歳。運命の日が来るまで、あと三年と迫っていました。役人はいつも、彼女に、「君はあらゆる怪のための道を開く使命を持っている」と言いました。その言葉は、まだ少女であるカメリアには、とても重い荷のような感じがしましたが、しかし自分がかつて怪であって、数々の罪を犯してきたことも覚えていたので、いつか、その日がくれば、やらねばならないことをやるために、行かねばならないということは、十分に覚悟していました。

カメリアは家の掃除を終えた後、母親を手伝って、薬草畑の世話をしました。薬草に魔法の水をやり終わると、彼女は背を伸ばして空を見上げ、月の光を目に吸い込みました。露草色の空の月は美しく森を照らし、カメリアの心の悲しみを、幾分澄ませてくれました。

お母さんは、忘れた方がいいと言うけれど、わたしはなかなか忘れられない。あの痛み、苦しみ、悔しさ…。どうやったら、お母さんのように、忘れることができるの?乗り越えることができるの?カメリアの悲しみが、かすかに風を揺り動かし、何か目に見えぬ魂を呼び起こして、それは聞こえぬ声を発して、少女よ、とカメリアに語りかけました。

しかし、その声は母と娘のどちらの耳にも届くことはなく、ふたりは薬草の世話を終わると、家に入りました。そして簡単な昼食を済ませ、休息に入ろうとした、ちょうどそのときでした。

「やあ、こんにちは、奥さん、カメリア!」
突然、半月島の博士が、まるで勝手を知っているという感じで家の扉を開き、中に飛び込んできました。博士は笑いながら、母親とカメリアに小さく手をあげて挨拶すると、持っていた大きな袋を、テーブルの上に、どんと置きました。博士は、何やらうれしそうに笑いながら、ふたりに声をかけました。

「今月の分の薬を持ってきたよ、カメリア。それとほかにもいろいろ…。いや、僕もね、君のおかげで役人さんと会う機会が増えて、かなり勉強したもんだから。なんかいろんなものがたくさんできてしまったんだ。まずはこれ、ヨハネの新しい食べ物だよ。今までのものにね、ちょっと魔法を加えてみたんだが。いや、科学も大事だが、やはり怪を助けるためには、魔法と愛が大事だね。よくわかったよ」

家に入って来るなり、袋から次々とものを出しながら、はしゃぐように説明する博士を、カメリアは少し硬い顔をして見つめていました。母親は、そんな娘の顔を、少し心配そうに見ていました。

「…それとね、こいつはこの前の君の検査結果だ。ええとね、一応薬は持ってきたんだが、君の罪責のこともあって、だんだんと薬が効かなくなってきてるんだよ。それでどうしても解毒が追いつかないからね、ちょっとちがうものを工夫してみたんだが…」

そのときふと、家の中を、不思議な風がよぎりました。そのかすかな香りと聞こえない声の気配に、心の奥の何かを呼びさまされて、カメリアの胸の中で何かがはじけ、彼女はぽろぽろと涙を流し始めたと思うと、突然、「先生!」と叫んで駆け出し、その胸に飛び込んでしまいました。

「う、うわ!」博士はびっくりして、思わず足元がふらついて、後ずさりしました。カメリアの思わぬ行動に、母親も驚いて、あっと声をあげました。

「ど、どうしたんだい?カメリア・・・」博士は、自分の胸に顔をうずめているカメリアを見て、ただおろおろと、立ちつくしていました。カメリアは、博士の青いセーターをぎゅっとつかんで、額をぐいぐいと博士の胸におしつけました。博士は困ったような顔をして、母親の方を見ました。母親も、ちょっと困ったような顔をしましたが、何か、不思議な魔法の気配を感じて、何も言ってはいけないような気がして、戸惑いながらも、口を閉じて、すまなそうに小さく目を下げて博士に謝りました。

「ええ、ええと…、カメリア、つらいことが、あったのかい?」博士は言いましたが、カメリアは答えず、ただ彼の胸の中でじっと声もたてず泣いていました。

…ああ。
だれか、見えないものが、ささやきました。どうしようもない。たすけてあげよう。聞こえない声が言いました。

すると博士は、いつか、聖者に魔法で操られたときのように、自分の手が勝手に動き出すのを感じました。え、え? 博士は、自分の腕が、胸の中のカメリアの体を抱こうとするのを、茫然と見ていました。いかん、まずい、これはまずい。彼は心の中で叫びましたが、見えないものは、無理やり彼を黙らせました。

そうして、博士は、とうとう、彼女を、自分の胸深く、抱き沈めてしまいました。博士は、カメリアの体が細く、柔らかく、あまりに小さいのに、驚いて、身の内を何かに貫かれたようなめまいがしました。甘やかな香りが、博士の頭をくらくらと揺らしました。博士は腰が砕けて倒れてしまいそうになりましたが、また、見えない何かがそれを支えて、何とか彼を立たせました。

母親は、頭の中では天地がひっくりかえるような思いを感じていましたが、何とか冷静を保ち、彼らから顔をそむけて、ヨハネの水槽などを見ながら、何も気づかないかのような振りをしていました。ふと彼女は、家の中の空気の密度が、なぜかしらいつもより濃く、灯りの火も幾分明るいのに気付きました。…ああ、なあるほど。彼女はようやく合点がいきました。何かが家の中にいる。きっと、このへんの山に棲んでいる木霊の精霊か何かが、よけいなことをしているんだわ…。

「カ、カメリア、ごめん、ごめんよ・・・」博士は何が何だかわからず、とにかく謝らなければと思いました。しかしどうしても、彼女を抱きしめている自分の手を動かすことができず、一体どうしたらいいのかと、これはなんなんだと、本当に、自分は何をしているんだと、胸の中でくりかえしながら、それでも、腕の中のカメリアの温かさを全身で感じて、こみあげてくる何かに溺れそうになるのを、必死にこらえていました。
そしてカメリアは、博士の腕に包まれて、どうしても、このまま溶けていくような幸福を感じざるをえませんでした。いやよ。本当は男なんて、大嫌い。みんな意地悪なんだもの。でも、どうして、先生は、先生だけは…。

どれだけ時間が経ったものか、やがてカメリアは、胸に十分に愛が満ちて、そっと顔を博士の胸から離し、うつむいて涙を拭きながら、「ごめんなさい、先生」とつぶやきました。「い、いや、僕の方こそ…」博士は、再び自分の腕が自由になり、ほっとしましたが、同時に、カメリアが自分の腕から離れてしまったことを、少し残念がっている自分に気づいて、また混乱しました。

なんなんだこれは。ちょっと待て。落ち着け。よおく考えろ。一体何をしにきたんだ、僕は。博士はずり落ちた眼鏡をなおすと、ようやく一番大事な用を思い出し、袋の中を探って、中からひとつの細長い箱を取り出しました。

「…そう、そうだ。ぼ、僕もね、ようやく、魔法を、いろいろ使えるようになったんだよ。いや、呪文と言っても、けっこう難しいもんだね。ほら、その、Fのね、発音が特殊なんだ。舌をね、かなり無理な感じにねじらないと、言えないんだね。でも練習して、なんとかできるようになったんだ。ほら、見てごらん」

そう言うと、博士はその細長い箱を開けて、二人に見せました。その箱の中には、黄色みがかった薄紅色の、雫の形をした小さな石を、細い銀の鎖に通した、きれいなペンダントが入っていました。

「月光質薔薇輝石というんだ。普通、薔薇輝石は薔薇色なんだけどね、呪文をかけて、七日ほど月光の中に干しておくと、変質してこうなるんだよ。これがね、その、良いんだ。君の体の毒を抑えることもできるし、君が悪い夢を見たり、つらい思いをするときにね、助けてくれるんだよ。薬と併用して使うといい。眠るときもつけているといいよ。…いやね、僕はね、最初、石のまま、お守り袋に入れて、君にあげようと思ったんだが、君も知ってる通り、僕には生意気な助手がひとりいてね、あんまりだっていうんだよ。それが、女の子へのプレゼントですかって。もっと気のきいたことができないんですかって。なんていうか頑固なやつでね、とにかくそう言ってきかないもんだから、僕も仕方なく、職人に頼んで、こうしてペンダントにしてもらったんだけど…」

カメリアと母親は、せっかく博士が優しい心の贈り物をしてくれようとしているというのに、博士のうろたえようがおかしくて、こらえることができず、ふたり顔を見合わせて、くすくすと笑いだしてしまいました。博士はまた、え?という顔をして、なんでこうなるんだと、ペンダントの箱を持ったまま、ぽかんと二人の顔を見つめていました。

しょうがないですねえ、また助けてあげますよ。ほうら、馬鹿になってしまいなさい。道化になってしまいなさい!

聞こえない声が、博士の耳にささやきました。博士は、何となく、何かがわかったような気がして、「ごめん、なにか、…まずいこと、言ったかな?」と言って、笑いながら、少し首をすくめました。

カメリアは、「そんなこと、全然ないわ」と言ってかぶりをふると、博士が差し出す月光質薔薇輝石のペンダントを、喜んで受け取りました。「ありがとう、先生」カメリアが嬉しそうにお礼を言ってくれたので、博士もほっと安心しました。カメリアはさっそく、そのペンダントをつけてみました。すると、本当に、なんだか、胸の中にあった重いものが軽くなり、彼女は薄紅色の希望が心の内に広がってくるように感じました。あの怖い夢の記憶も、だんだんとどこかに遠ざかって、もう忘れてもいいような気さえしました。

母親は、何かしら目の色が明るんだ娘の顔を見て、胸に安堵を感じつつ、言いました。「ありがとう。先生のおかげで、いつも本当に助かるわ」
「いや、別に、当たり前のことですよ。もともとは、僕が彼女のことを頼んだのだし…」
博士は頭をかきながら、言いました。カメリアは、博士に、お茶でも召しあがる?と声をかけましたが、博士は手を振ってそれを断り、言いました。「あ、その、研究所に用事があるから。また今度ゆっくりいただくよ。ありがとう。じゃあまた」

そして博士は、袋をテーブルの上に置いたまま、逃げるように家を飛び出すと、飛ぶように走って森の向こうに帰ってしまいました。その後ろ姿を見送った母親は、カメリアを振りかえり、少し目をとがらせて、言いました。「いたずらはだめよ、カメリア。先生が困ってたじゃないの」するとカメリアは、少し目を伏せて、小さな声で謝りました。「ごめんなさい。でも、いたずらをしたわけじゃないの。自分でも思いもしないうちに、いつの間にか、飛び込んでたの…」母親は、ふうと息をつき、笑いつつも、頭を横に振りました。いたずらっ子は、目に見えないあいつの方ね。ふたりとも、とんでもないおせっかいをされてしまったわ。

母親は家の中を見回しましたが、部屋の空気はがらんとしていて、見えないものの気配はもう何もありませんでした。母親は、カメリアに言いました。「今度先生が来るときのために、お礼とお詫びのものを、何か用意をしておかなくては。カメリア、それはあなたがやりなさいね」カメリアは、胸のペンダントに触りながら、はい、と答え、言いました。
「わたし、もっと勉強したい。先生も、役人さんも、お母さんも、みんなわたしを助けてくれる。みんなのためにも、わたしがやらなくてはいけないことは、ちゃんとやっていきたい…」
その言葉に、母親は何も言わず、ただ静かに笑っていました。そして、博士が去っていった森の向こうを見ながら、いつか、娘がその使命を終えたとき、彼女に小さな幸せが来るようにと、神に願いました。

さて、博士は、半月島の自分の研究所に戻ると、研究室に入るなり、机の前に座り、疲れ果てたというように、どたりと半身を机の上に落としました。その姿を見て、どこからか助手の少年が近付いてきて、言いました。
「どうしたんです?先生。なんか、よれよれですよ。まるで、敗残兵って感じ」
すると博士は、背中で深くため息をつき、言いました。「おい、少年、おーんなのこってのは、たまらんなあ…」
「何言ってんですか、先生も男でしょ、一応」
「…だめだ、僕は」
そう言って、机の上にへたり込んだまま動かない博士の姿を見て、少年はあきれたようにため息をつき、こりゃしばらく、使い物にならないなと思いました。そして、博士の机の上のペン立てから、勝手に一本の銀のペンを取り出すと、言いました。
「先生、怪の水槽の魔法印は、僕が書き直しておきますから。いいですね」
「…ああ、たのむよ」
そう言うと博士はまた、背中で深いため息をつきました。

机の上に投げ出した自分の腕に、カメリアを抱きしめたときのやわらかな感触が、まだ残っていました。



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2012-02-22 11:15:57 | 月の世の物語・別章

「出せ!ここから出せ!!おれはやってない!悪いことなんかしてない!馬鹿はやめろ!ここから出せえ!!」
一人の男が、井戸のように深く暗い穴の底で、繰り返し叫んでいました。一人の青年と、一人の少年が今、その穴の底にいる男の元を訪ねようと、穴の上からそれぞれに綱を下ろし、その綱を手繰って、ゆっくりと下に降りてゆきました。

「すみません、手伝ってもらって。僕だけではどうしても手に負えなくて」綱にそって用心深く下を目指しながら、少年が言いました。「いや、困った時はお互い様だ。それにしても、めんどうだな。普通ならひとっ飛びで降りられるというのに」青年が綱を伝って降りながら言うと、少年が答えました。「罪びとが僕らの導きを拒否してるからなんですよ。こうやって綱で降りて行かないと、底の方から風圧が起こって僕たちを中に入れてくれないんです。とにかく彼は、自分の罪を認めたくなくて、ただ、いやだいやだって、ああしてずっと叫んでるんです。で、そうやって叫ぶたびに穴が深くなっていくんですよって、何度も何度も教えたんですけど、ずっとああして叫んでるんですよ」青年は、月光をこもらせた水晶の板をはめ込んだ眼鏡で、深い穴の闇の中、はるか下に小さく見える、男の方を見下ろしました。男は相変わらず、穴の壁をたたきながら、叫んでいました。

「ああそうだよ!おれはやったよ!あの下品な馬鹿野郎に、たらふく金を食わせてやったよ!でもそんなことは誰でもやってることじゃないか!おかげで会社は太ったしみんな儲けていいことになった!それがどうだっていうんだ!なんでこうなるんだ!おれがどうしてこうなるんだ!!」

「下品な馬鹿野郎って?」と青年が尋ねると、少年は少々ため息をついて答えました。「某元議会議員のことです。彼はまだ地球にいて、立派な邸宅で悠々と余生を送ってます。要するに贈賄ですね。罪はそれだけじゃないんですけど。…困ったなあ、また深くなってるよ。これじゃあ、どんなに追いかけても追いつかない。先輩、『天使の術』の免許、持ってますよね?」「…ああ、持ってるが?」「じゃ、それ使ってくれませんか。彼、一応キリスト教徒だし、天使の姿なら、僕たちを受け入れてくれるかもしれない」「あれは、よほどのときじゃないと使えないんだ。この場合はどうかな?」少年は困ったように下を見ながら、またため息をつきました。「そうですねえ、やっぱり綱で降りていくしかないか…」。

彼らが懸命に綱をつかみながら下に降りている間も、男はぶつぶつと穴の底で文句を言っていました。
「ちきしょう、ちきしょう、みんな、みんな、おれのせいにしやがって。死人に口なしだって、みんなおれのせいにしやがって。のうのうと生きてやってやがる。おまえらもやったじゃないか!あの野郎、あの野郎!おれがやってやったのに、おれがみんなやってやったのに!」そうして彼が文句を言うたびに、穴はどんどん深くなり、彼はますます青年たちから遠ざかってゆきました。

青年は困ったように顔を歪め、息をふっと吐くと、目の前に書類を出して、それを読みました。そしてしばらくして、「…おお」と声をあげました。少年は、「わかりましたか?」と言いました。「ああ、なんとまあ、立派なキリスト教徒だ。彼は七人も、イエスを殺してるんだ」「…ええ、そうです。しかも美しい女性ばっかり」青年は書類を読み込みながら、呆れたように頭を振りました。『イエスを殺す』とは、彼らの隠語で、集団で一人をいじめて殺す、あるいは破滅させるということを意味しました。

「ひどいな、これは」「ええ、彼はある会社の社長になって金と力を手に入れると、それを使って社員を操り、とんでもない卑怯な方法で裏から手を回して、きれいな女性ばっかりいじめて陥れているんです。それで彼女らの人生を破滅させています。そのうちの一人は、ビルの上から飛び降りて、死後彼にとりついて復讐したために、月の世で今罪を償っています」少年はできる限り早く手足を動かして綱を下りながら、言いました。青年は手の力を緩め、少しの間綱の上を滑るようにしながら下に降りていきました。しかし、彼らがどんなに急いで降りていっても、男は文句を言うことを止めず、どんどん穴は深くなり、青年たちはどうしても彼のいるところに追いつくことができませんでした。

「ええい、仕方ない!」青年はそういうと、呪文を唱え、天使に姿を変え、少年に自分の背に乗るよう合図しました。少年が天使の背に乗ると、天使は綱を離し、穴の中で翼を広げました。すると、まるで待っていたかのように風が起こり、天使は吸い込まれるように底に向かって降りて行きました。穴の底の男は、光をまとって降りてくる天使の姿を見ると、自分を救いに来てくれたものだと思って、その姿に向かって手を組み、「て、天使さま!」と叫びました。

「罪びとよ」天使は穴の底に舞い降りて、言いました。「あなたの罪は暴かれた。あなたは逃げることはできない。どのような深い闇に隠れようとも、神のまなざしを避けることはできない。神は全てをご存じである。見なさい」そういうと天使は、右手を舞うように降りあげ、天を指差しました。すると、穴の闇の中に、七人の女性の顔が次々と浮かび上がりました。それを見た男は、くっと息を詰め、目を見開きました。

「あなたはこのひとたちを知っている。神は全てをご存じである。さあ、あなたの罪を述べなさい」天使が言うと、男はおろおろと穴の底を後ずさり、震えながらかぶりをふりました。「ち、ちがいますう。おれは、知らない。こ、こんな女、み、見たこともありません……」その答えに天使は眉をつり上げ、厳しく深い声で呪文を唱えました。すると闇に浮かび上がった女たちの顔が笑い出し、それぞれに彼がやったことをしゃべりはじめました。

「天使さま、彼は私の夫に金をつかませて、私を離縁させました。そして私が孤独になったところにつけこみ、みんなを使って卑怯な罠に陥れ、惨い女の地獄へと突き落としました」「ええ、ええ、そうですわ。私もそうされました」「私もです」「私も」「私も」「私のときは、彼は職場の女性社員数人を使って、私を酒場に誘い込みました。私は薬を混ぜた酒を飲まされて罠にはまり、ある役員の妾にされ、いいように弄ばれたあげく、用がなくなると捨てられました」「この人です、裏から手を回して私を殺したのは。私は一生懸命やったのに、仕事で何をやっても失敗しました。それは彼が、部下を使って裏で私の仕上げた書類を書き直させ、巧妙に私のミスを作ったからでした。そのために私は解雇され、愛していた夫さえもが彼の金に目をくらまされて私と離婚し、私は全ての希望を見失って、自ら死を選びました」。

女性たちは彼を取り囲み、がやがやと騒ぎながら彼の罪を責めたてました。男は、ひいひいと声を上げながら穴の底を這いまわり、「いやだあ、いやだあ、ちがう、ちがう、やってないよ。おれはやってない。ちがう、ちがう……」と言い続けました。そして彼が、いやだと言うたびに、穴はどんどん深くなっていきました。

少年が天使の背後で、ささやきました。「まずいですよ。このままでは彼、怪の地獄まで落ちてしまう」天使は再び手を踊らせ、闇に浮かぶ女性たちの顔を消しました。そして静かにも厳かな声で、言いました。
「罪びとよ。なぜあなたはちがうというのか。あなたはあなたゆえに知っている。あなたのしたことのすべてを。なぜそれから逃げることができようか。それなのになぜあなたはちがうというのか。答えなさい」すると罪びとはまた天使の前に手を組んで、頭を横に振りながら言いました。
「ちがいます、おれはやっていません。あの女ども、あれらはみんな嘘つきです。おれはいやだ。こんなのはいやだ。なんでなんだ。こんなのは無しだ。いやですよお。まってください。なんでこんなことになるんですか。おれはなにもやっていない…」

すると、穴は、ぐるん、と回転し、ずん、と重い衝撃を起こして一気に下に落ちたかと思うと、罪びとの足元にぱくりと穴が開き、彼はひいっと声を上げながらその向こうの暗闇に滑り落ちました。天使は一瞬迷いましたが、指をさしてそこから光の糸を出し、その糸で闇に落ちていく彼の腕を捕まえました。彼は天使の糸に片腕をようやく支えられ、闇の中にゆらゆらとぶら下がりました。男がほっとしたのもつかの間、やがて、眼下に広がる暗闇が、霧のように退いたかと思うと、うっすらと下に光が見え始め、彼の足のはるか下に、無数の蜘蛛やムカデのうごめく、怪の地獄が、見えてきました。罪びとはそれを見て、背筋がぞわりとし、天使の糸にすがりつきました。「た、たすけてくださあい!怪だ!怪だ!怪に食われる!」彼は叫びました。

天使は苦悩を表情ににじませながら言いました。「罪びとよ、これが最後のチャンスだ。もう一度問う。あなたはなぜ、ちがうというのか。あなたは、あなたのしたことを、すべて知っているのに、なぜ、知らないというのか」。
すると罪びとは言いました。「なぜ、なぜってそりゃあ、やってないからですよお!いやなんだ!いやなんだ!あんなことをやったら、おしまいじゃないですか。とおんでもないことに、なるじゃないですか。やってないですよ。やってないですよ。ほんとです。信じてください!おれはいやだあ。あんなことになるのは、いやだあ!」

罪びとの言葉に、天使は顔をゆがませ、ああ、と嘆く声をあげました。彼は一本の糸で彼を支え続けましたが、罪びとはただ、「自分はやってない」と言うばかりでした。少年が、たまらなくなって、天使の後ろから姿を現し、彼に向かって叫びました。
「お願いです!はい、と言って下さい!やった、と言ってください!そうでないと落ちてしまう。このままでは、あなたは怪に落ちてしまう!」しかし男は、少年の声には耳を貸しませんでした。

「いやです!おれはやってない。なんでって、おれはいやなんだ!あんなことをやって、全部罪を償えって、そんなのは絶対いやなんだ!おれはやってないいい!!」

そのときでした。彼を支えていた天使の光の糸がぷつんと切れ、彼は高い悲鳴を上げながら、まっさかさまに、怪の地獄へと落ちて行きました。

「ああ!!」少年が叫びました。天使が、目を閉じました。

「ちがああううううう!!!!」

男は、薄闇の向こうに見えるはるか深い怪の地獄の底に向かって落ちていきながら、まだ叫んでいました。



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2012-02-20 07:10:10 | 月の世の物語・別章

ある街角の、あるアパートの一室で、白い卵型の顔に、黒髪を丁寧に整えた一人の若者が、わきにスケッチブックを抱え、画材を入れたカバンを手に持って、上着の襟を整えながら、ひゅう、と口を鳴らしました。彼はこれから外に出かけ、近くの公園に向かい、噴水を囲む木々の風景をスケッチすることにしていました。

外に出ると、空は気持ちよく晴れて、風は春の薫りを運んできました。若者は、いろいろと苦労はあるが、人生はそれほど悪いものではないな、と思っていました。やれば、なんとかなるものなんだ。希望はある。つまずきはあっても、それほど運が悪いわけじゃない。チャンスはやってくるものさ。彼は一冊のスケッチブックに、将来への夢をこめて、明かるい舗道を公園に向かって歩きはじめました。

歩いているうちに、彼はふと何気ない舗道のでこぼこにつまずき、おっと、と言いながら倒れかけました。そのとき、彼はいきなりめまいを感じ、風景がぐらりとゆらついたような気がしました。しかし、すぐに気分を取り戻し、体勢を整えました。どうした?昨日の寝不足がたたったかな。彼はそう思いながら、また歩きだそうとしました。すると、目の前に、灰色の上着に黒いズボンをはいて、スケッチブックとカバンを持って歩いていく男の後ろ姿が見えました。彼は、あれ?と声をあげました。あれは、おれじゃないか。なぜおれが、あそこを歩いているんだ?…いや待てよ。おれはここにいる。じゃあ、あれは、誰なんだ?

彼は、その後ろ姿を追いかけ、「おい」と声をかけました。すると男は彼を振り向き、彼そっくりの顔で、目を光らせながら、にやり、と彼に笑いかけると、そのまままた前を向き、行ってしまいました。彼はそれを追いかけようとしましたが、なぜかもう、そこから一歩も進むことができませんでした。

な、なんなんだ、なんなんだ、一体……。彼が茫然として、もう一人の自分の姿が、角を曲がって消えていくのを見送ったその時でした。どこからか、彼の名を呼ぶ声がし、ガシャン、ガシャン、と音がして、彼の周りを透明なガラスの壁が囲み、一瞬のうちに彼は立方体のガラスの檻の中に閉じ込められました。「愚か者よ」その声は言いました。「思い出せ。あなたは生まれる前、怪と契約した。今度の自分の人生をやるから、自分に最高の幸福を与えよと。あなたはこれから、その結果をその目で見なければならない」。

その言葉に、男は、はっとしました。ああ、そうだ!確かにおれはそうした。生まれる前、あのでっかい怪に会いに行った!生まれるたび、何をやってもいつも失敗して、結局は不幸なことになって死んでしまうから、今度こそこの地球で、決して壊れることのない大きな幸福を手に入れたかったのだ。でも、これはちがう。これはちがう。あれはおれじゃない。あれは、おれが生きているんじゃない!

また誰かの声がして、ガラスの檻の中に響きました。
「あなたは怪に人生を売った。だからこれからはあの怪があなたを生きていく。しかし彼がやったことは、神の道理によって、あなた自身がやったこととして計算される。あなたはもう何もすることはできない。彼はあなた自身をあなたとして勝手に生き、その人生を栄光へと導くことだろう。あらゆる敵を打ち破り、勝利していくだろう。それはすべて、あなたがやったことになる。見るがよい」
すると、ガラスの檻の壁に、ちらちらと光る数字の並んだ細長い長方形のメーターが現れました。そのメーターを見て、彼は目を見開きました。なんだこれは!
「愚か者よ」とまた声は言いました。「そのメーターの数値はあなたの罪の量を表す。あなたは怪があなたとしてこの地上で生きている間、そのガラスの檻の中から、全てを見ていなければならない」。

彼はちらちらと光りながらゆっくりと数値をあげていくメーターを見ながら、ガラスの檻をたたき、そこから出ようともがきました。しかしどんなに叩いてもガラスの壁は決して割れることはなく、彼の懸命の拳や蹴りを何倍もの力で跳ね返しました。彼はおろおろとしながら、檻の真ん中に立ちつくし、周囲を見回しました。早回しの映像のように、時はどんどんと進み、一瞬にして風景が変わり、彼は自分を生きている怪が、兵として軍に従事し、憎しみに燃えながら銃を打ち、何人もの敵を殺しているのを見ました。
「まさか、まさか、まさか、なんでなんだ。おれは、絵を描きたいんだ。兵隊になんかなりたくない。絵を描きたいんだ!」

彼は壁のメーターを見ました。すると前見たときよりも一段とその数値は上がっていました。ガラスの向こうの自分が銃を打つたび、数値はカチカチと音を立てて変わり、だんだんと増えていきました。「ちがう!おれがやったんじゃない!あれは断じておれじゃない!」彼は叫びました。しかし答える声はなく、ただ数を数えるメーターの音だけが響きました。

風景はまた変わり、彼を演じている怪は、病院の中にいました。彼はひとときそこで、戦いで得た体の傷を癒していました。ガラスの中の男はほっと息をつき、病室のベッドに横たわっている男に向かって叫びました。
「もうやめろ!もういい!あの契約はなしだ!おれにおれを返せ!おれがおれを生きる!返してくれ、返してくれ、おれの人生を!」
しかしその声は、ガラスの向こうの男に聞こえることはありませんでした。ガラスの中の男は、ベッドの上の男に、無数のムカデがとりついて、人形のように彼の体を操り、何事かを看護婦に語っているのを見つめていました。その話を聞いて、看護婦は目を見開きながら驚いていました。この人は普通じゃないわ、と看護婦は心の中で思い、恐れを抱いていました。

「ああ、ああ……」彼はあえぎながら力なく膝をつき、ガラスの壁を叩きながら、嗚咽をあげて泣き始めました。「出してくれえ、出してくれ!あれは、おれじゃない!おれが、あんなことを言うはずがない!」
しかし、誰も答えるものはいませんでした。

時がすぎました。しばらくの間、ガラスの檻の中に横たわり、ぼんやりと怪が生きる自分の人生を見守っていた彼は、ある時、彼が政治家になるために選挙に立候補し、人々に向かって高らかな声で演説をしているのを見ました。彼はその演説を聞き、もうたまらないというように、ガラスにすがりつき、言いました。ああ…、おれだ、おれが、おれがやっている。あんなことを、あんなことをやっている。メーターがカチカチと音を鳴らし、数値をあげていくのを、彼は振り向くこともなく、聞いていました。
民衆は彼の力ある演説の言葉に心ひかれ、彼は絶大な支持を得て、政治家としての道を歩み始め、だんだんと大きな権力を得てゆきました。

彼はやがて、大きくとても立派な家に住みました。家政婦をやとい、自分の世話をさせました。庭師もやとい、自分の好きな木や花を庭に植えさせ、暇なときにはそれを眺めて楽しみました。食べるものもたいそういいものになりました。異国から呼び寄せた調理人に、見たこともないような凝った料理を作らせ、彼はいかにもそれをうまそうに食べ、次第に太ってゆきました。

そして、地球の空を、暗雲が襲いました。姿の見えぬ怪が、神のまなざしを巧みによけたつもりで、人々の耳に地獄が来ることをささやきました。戦争でした。人々は互いに互いを妬み、憎み、殺し合いを始めました。そのとき、ガラスの向こうの自分は、もう国の最高の地位にいました。まさに、彼が生まれる前の夢に描いた通り、それはあたかも、最高の幸福のように見えました。誰もが彼の言葉に従い、人形のように彼に操られ、次々と戦場に向かい、惨い殺戮を行っていきました。

ガラスの中の男は、もう口をきくこともできず、ただ、メーターの数値が上がっていくのを、見ていました。数値はどんどんと跳ね上がり、やがてそのメーターでは計りきれなくなり、ボン、と破裂して消えたかと思うと、今度はもっと大きな数値を測れる新しいメーターが現れ、また数値をカチカチと打ち始めました。ガラスの中の男は、ひ、とひきつって笑い、よろよろとひざをついて頭を振りました。まさか、うそだ、こんなこと。おれはやってない、ここまでひどいことは、やってない…。できるはずが、ない……。

彼はガラスの外から、がりがりと言う猛烈な音が響いてくるのを聞いて、振り向きました。するとそこでは、鉄色の怪物のような戦車隊が、ある村を襲い、家々をひきつぶし、逃げまどう人々を追って砲撃を繰り返していました。村のそこここに、血にまみれ、体をつぶされた惨い死体がるいるいと横たわっていました。戦車は逃げる人々をどこまでも追いかけ、彼らが死に絶えるまで、攻撃をやめませんでした。

ふと風景が変わり、彼は、輝く紋章を描いた大きな旗の下で、自分が雄々しく手を挙げて、大勢の民衆のたたえる言葉に答えている風景を見ていました。彼は今や、独裁者でした。民衆の間を、怪が飛びまわり、彼らの脳を奪い、人々を群衆の暗黒の怪物へと変えてゆきました。人々の拍手に迎えられ、彼は大げさに手を振りながら、国の栄光を語り、自分たちが神とともにあると語り、だれも自分たちを負かすことはできない。われわれこそが、神に選ばれた人間だと叫びました。人々は狂気の中でそれを信じ込み、まっすぐに、彼の導く道を迷うことなく進んでいきました。

虐殺が行われました。彼らは、自分らとは違う、卑しく、正しくない、選ばれなかった人々を、次々に、生きていても意味もないからと殺していきました。人々は、それぞれに、人間が考えられる限りの惨いやり方で、いとも簡単に、殺されていきました。
ある者は、鉄のとげの生えた重い板に挟まれ、ある者は毒をまぜられた水の中に裸で放り込まれ、またある者は生きたまま薪と一緒に巨大なかまどに放り込まれて焼かれました。人の腕をちぎり、足をちぎり、目をつぶし、皮をはぎ、これほどひどいことをできるのかと、神も驚くほどのことを、人々は平気で、いとも簡単に、それほど変わったことでもないというように、やっていきました。

全ては、彼の命令で行われたことでした。ガラスの中で、彼は、信じられないという顔をしながらただ茫然とそれを見ていました。「神よ」彼はガラスの中にひざまずき、懸命に祈り、助けを請いました。「悔い改めます。まちがっていました。わたしは、まちがっていました。ゆるして、ゆるしてください……」しかし今更、何を言おうと無駄でした。

ガラスの向こうの彼は、一層栄光の上に登り、まさに新たに進化を遂げた真の人間として民衆の前に現れ、民衆の信仰を一身に浴びていました。彼は紋章の下、凛々しくも美しい衣装を身につけ、手を挙げて民衆の喜びに答えながら、新たな神のお告げを彼らに叫びました。

「人々よ!神はわたしに告げられた。殺せ。我々以外のものは、全て殺せ!なぜなら彼らは、神の導きによる進化の道からこぼれた、人類の失格者だからだ!」

メーターの数値が、跳ね上がりました。ガラスの中の男は、もう、耐えられませんでした。ガラスの壁を、手が砕けてもいいというほど何度も何度も、叩き、叩き、全身を切り裂かんばかりの声で、叫びました。

「やめろ! アドルフ!!!」



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2012-02-19 08:17:47 | 月の世の物語・別章

彼は、一面に鏡を敷き詰めた、どこまでも広い王宮の床のようなところで、常に手を鏡について頭を下げ、ひざまずいていました。頭上はるかな月は、その鏡に映り、いつも、そんな彼の様子を下から静かに見守っていました。彼は、もう何百年もの間、その鏡の部屋にひざまずき、頭を下げて、次々に目の前に現れる、誰かの足がはいた黒い皮靴を、自分の舌でなめて清めていました。

ひとことに皮靴と言っても、いろいろあり、中には表面にびっしりと画びょうを張り付けた意地悪な靴があり、彼はそれを、口から血を流しながらなめなければなりませんでした。また時には、童女がはくような小さな皮靴に、密かに毒がぬってあり、彼はその毒にあたって七日ももだえ苦しむことがありました。また時には、鏡に、靴の主のにやにやと笑う顔が映って見えることもあり、その顔は彼を見て嘲笑い、「馬鹿め、死ね」とののしりました。

彼はある人生において、ある国の、ある地方を治める武将でした。そのとき国は戦国の時代でした。たくさんの男たちが、国の覇権を争い、その知恵と力と誇りをかけて、戦っていました。彼はかなり知恵のある武将で、あるとき敵を巧みに罠にはめ、周りを取り囲んで一斉に攻め込み、あっけなく勝利をつかみました。しかし勝利の美酒に酔ったのもつかの間、敵も馬鹿ではありませんでした。彼の使った罠を逆手にとり、それを活用してもっと凝った罠をつくり、彼は自分の使った手と同じ手にはめられ、敵の小兵の放った矢に喉を突かれて死にました。彼の治めていた地方は、敵に占領され、民と兵たちは次々に惨い目にあわされて殺され、あるいは奴隷として扱われ、重い労役を課されたり、恐ろしく恥ずかしい仕事をやらねばならなくなりました。

そして死後、彼は、自分が駒のように扱い、その命と人生を奪ったたくさんの人々の前にひざまずき、その靴をなめねばならなくなりました。それは生前と、まったく逆の姿でした。生きている頃、彼の姿を見ると、人々は地に手をついて彼にひれ伏し、彼を恐れました。彼はその人たちを、とるにたらぬものだというように、これといって興味も示さず、通り過ぎて行きました。それがこんな結果になるとは、彼は思いもしませんでした。その地獄の管理人は、彼に深く教え込みました。
「よいか。ただおまえは、人に『歩け』と言っただけで、その人の誇りを奪ったことになったのだ。言葉には気をつけよ。人に『歩きなさい』と言えるのは、人間ではない。神と、人を愛に導く清らかな人の霊だけだ」
また管理人は、こうも言いました。
「人は少しでも人より強い知恵と力をつければ、すぐにそれに驕り、もっと良いものになろうと人を馬鹿にし始める。あなたもまたそうだ。馬鹿と言えば、馬鹿と返ってくるように、戦って勝てば、必ず負ける。人は常に人に勝つことを求めるが、常に勝つ者などいない。常に勝利するものがあるとすれば、それは愛のみだ。愛でなければ、何ものにも勝つことはできない。あなたは戦ったが、それは愛ではなかったのだ」

男は、何百年かの間を、ただただ人の前にひざまずき、靴をなめ続け、その性根をたたきなおされていきました。男は、最初の頃こそ胸に反抗の心を燃やし続けていましたが、年月が過ぎていくうちに、だんだんと、こうして人の前にひれ伏さねばならない人の屈辱感とつらさがわかってくるようになりました。自分のしたことがなんであったのか、彼はその賢さをようやく違う方向に向け始めました。確かに、まちがっていたと、彼は思いました。このように無理やり人に頭を下げさせることは、確かにまちがいだ。それだけならともかく、自分は彼らをもののように扱い、人と戦わせ、その命と人生の全てを奪った。それはすべて、自分の力と知恵の素晴らしさを人に見せつけ、敵を殺して勝つためだった。

彼は、ある日、靴をなめながら、ふうと息をつき、目から涙を流しました。そして心を変えて、すまなかったと謝りながら、心をこめて丹念にその靴をなめました。胸が震えて、涙がとまらなくなりました。その仕事が、とても大切な、幸せのように思えました。ずっとこうしていこう。全てに耐えて、皆に謝ってゆこう、彼がそう思った、その時でした。

ふと、周りの風景が変わり、彼は白い服を着て、いつしか果てもない砂漠の中に立っていました。そのはるか上空では、彼を見つめていた一人の青年が、魔法で翼ある天使に姿を変え、「ヤオ・フェイ・ライ」と彼を呼びながら、彼のそばに舞い降りました。いくつかの人生の中で、キリスト教徒として戦ったこともある彼は、思わずその姿の前にひざまずき、手を組みました。

「ヤオ・フェイ・ライ。あなたは何百年かの罪の浄化を行い、深く悔いた。そのため、次の段階に進むために、試験を課されることになった。見よ」天使は言いながら、砂漠のはるか向こうを指差しました。すると砂漠の中に、蛇のようにくねりまがった、一筋の白い道が現れました。天使は言いました。
「ヤオ・フェイ・ライ、あなたはこの道を進み、次々に問われる質問に、すべて『はい』と答えなさい。決して『いいえ』と言ってはならない。もしあなたが、質問に『いいえ』と言えば、そこで試験は中断され、すぐに元の地獄に戻り、また人々の靴をなめねばならなくなるだろう」ヤオ・フェイ・ライと呼ばれた男は、天使に祈りの姿を見せながら、素直に、はいと答え、その言葉通り、道を進み始めました。

彼が、道を歩いてゆくと、しばらくして、行く手をさえぎるように、蛙の形をした石像が道の真ん中に現れ、目を光らせて彼を見つめ、言いました。「ヤオ・フェイ・ライ!この盗っ人め!よくもあんなことをやったものだ!」すると彼は、いつだったか、戦いの中で敵の穀蔵を襲い、そこから兵糧を全て奪ったことがあるのを思い出しました。彼は胸を突かれるように苦しい思いがしましたが、静かに「…はい」と答えました。すると蛙の姿はすぐに消え、再び目の前に白い道が現れました。

またしばらく道を行くと、今度は道の真ん中に猿の像が現れ、目を光らせて言いました。「ヤオ・フェイ・ライ!この嘘つきめ!よくも裏切ったな!」するとヤオ・フェイ・ライは、かつて密約を結んだ国を、戦の情勢が変わるや否や軽々と裏切り、敵側についたことがあるのを思い出しました。彼はそれを思い返すと恥ずかしさに身が縮み、消え入るような声で「…はい」と答えました。猿の像はすぐに消えました。

そうして、彼が道を進んでゆくたび、次々と、蛇や兎やイタチや蟹などの像が次々と現れ、彼に厳しい質問をしていきました。彼はそのたびに思わぬ過去の痛い傷をつかれ、眉に苦悩を見せたり、悔しさに歯をかみしめたり、恥に涙を流したりしながら、「はい」と答えてゆきました。

彼は、次々と質問に答え、やがて、ふと、そこから道が消えてなくなっているところまで来て、戸惑いました。上空を見ると、常に彼の様子を見守っていた天使が、硬い表情のまま静かに行く手を指差し、「進みなさい」と言いました。彼はそれに「はい」と答え、道の消えている向こうへ、一歩足を踏み出しました。すると突然、そこに大きな石の扉が現れました。その扉の上には、燃えるような目をした獅子の顔の石像があり、その獅子が、まさに吠えるような声で、彼に問いを投げつけました。

「ヤオ・フェイ・ライ!おまえなど、すべて馬鹿だ!!」

ヤオ・フェイ・ライは、ぐっと、黙りこみ、茫然と獅子の顔を見つめました。…馬鹿だと?おれが、賢いこのおれが、すべて馬鹿だと?

すると突然、頭骨を割るようなひどい叫び声が、脳裏に蘇りました。「この能無しめ!死ね!」
それはかつて、作戦に失敗した部下に向かって彼が発した言葉でした。主君の言葉が絶対だったその時代、その部下は彼の言うとおり、翌日自ら喉をついて死にました。

それは彼が、最も栄光を味わった人生でのことでした。部下の失敗で状況は不利に陥ったものの、彼は寸前に思いついた奇策で優勢を取り戻し、何とか敵に勝利して、自分の持つ壮大な宮殿へと、悠々と帰ってきました。多くの召使が彼の前にひざまずき、彼は食卓で上等な酒に酔い、遠く山海から運ばれた豊かな食材を使った豪華な料理に舌鼓を打ちました。そしてたくさんの美女たちが、玉の寝床に横たわり、薄布を脱いで白い裸体をさらし、誘惑のまなざしで彼を見つめました。しかしそれは、一瞬の夢でした。

彼は宮殿でしばしの憩いを得たあと、すぐに戦に向かい、今度は散々に敵に弄ばれ、命からがら逃げ帰りました。敵はさらに追い打ちをかけ、彼を追って彼の国を攻め始めました。町に、蟻のように敵の兵が攻め込み、彼の国は燃え上がりました。彼は必死に攻め返しましたが、運が彼を見放したように、彼の攻撃は敵に次々と打ち砕かれ、やがて火は彼の宮殿をも燃やし始めました。

炎の中で、多くの人々が死に、あるいは鼠のように彼を見捨てて逃げていきました。彼は敗れ、燃え上がる宮殿に一人残されました。負ければ、全ては終わりでした。やがて彼は敵の兵に捕らえられ、敵の将によって裁かれ、目をつぶされて、残りの短い人生を、寒い牢獄の中で、腐った飯を食わされながら、生きねばなりませんでした。

何のために、戦ったのか。あれは何のためだったのか。美女と寝るためか。うまい食い物のためか。豪華な宮殿に住むためか。

常勝の男とはだれだ。そんなものがいれば嘘だ。すべてに勝利して、すべてを組み敷いて、おれのみが勝つのだ、おれ以外はすべて負け犬だと、そんな男がどこにいる。それはおれか?馬鹿な!おれは負けた。いつも、いつもそうだった。何度かは勝って、何もかもがおれのものになったかに見えた。でもすぐにそれは消えた。おれは負けて、負けて、負け続けた!そしておれに集まるすべての人をそれに巻き込んで、死んだ!

なぜだ!? なぜ戦った!何のために!
彼は、幻を見ました。それは、玉に飾った光る鎧を身にまとい、駿馬を駆って、雄々しく剣を振るうかつての自分の姿でした。彼は目を見開きました。あれは誰だ?なんて格好をしている。なんであんなことをしている?
そのとき、頭の奥を、何かがかちんと割れる音がしました。ああ!彼は心の中で叫びました。わかった。あれは、あれは、…馬鹿だ。

ヤオ・フェイ・ライの心を、静かな風が吹きました。涙は、彼の頬を見知らぬ別の生き物のように流れ、砂漠の砂にほたほたと落ちました。遠い昔の雄たけびが、喉の奥にかすかによぎりました。やがて彼は、身にはりついていた重い鎧の影を脱ぎ、不思議に安らいだ笑いを見せながら、ゆっくりと獅子を見上げ、小さな声で、確かに、「はい」と、答えました。

すると獅子は、かすかに顔をゆらし、彼の顔を見下ろしながらしばし沈黙したと思うと、目をとじて静かにうなずき、扉を開きました。ヤオ・フェイ・ライは、いつしか、静かな緑の森の中にいました。

見ると、森の木々の一本一本には、薄い石の板で作られた扉が立てかけられてあり、それぞれに、小さな名札が貼り付けられていました。
「ヤオ・フェイ・ライ」天使の声が、かすかに遠ざかりながら聞こえました。「ゆく道を探しなさい。たくさんの扉の中に、あなたのゆく道がある。その道を自ら探し、扉を開きなさい…」
彼はその言葉に「はい」と答えて従い、森の木々の間を歩いて、一枚一枚の扉に貼られた名札の名を、ひとつひとつ、読んでゆきました。

シモーネ・ガブリエリ、ミヒャエル・フェスカ、カツラギ・ナオヒコ、アントニア・デニツ、ピエール・ヴィリオン、ムハメド・サドール、ユリアンナ・クリシコワ、シリル・ヒギンス、サリク・テトル、ヨナタン・デ・カーロ……。やがて彼は、その中に、ふと心を魅かれる名前を見つけ、その扉の前に立ち止まりました。

エン・クォ・メイ。

ヤオ・フェイ・ライは、その名に、どこか不思議な懐かしさを感じながら、自然に扉の取っ手に手をかけました。扉は彼のその手を引くように、勝手に開いて、彼を中に導きました。するとまた、いつしか、彼は見知らぬ家の中にいて、目の前で、作業台の上にうつむいて一心に土をこねている、広い背中の男を見つめていました。

彼はその背中に呼びかけました。「エン・クォ・メイさん」。すると男は、驚いたように作業台から顔をあげて振り向き、彼を見ました。その顔を見てヤオ・フェイ・ライは驚きました。どこかで会ったことがあるような気がしましたが、それはどうしても思い出すことができませんでした。エン・クォ・メイは、驚きながらも喜びを顔に表して彼に近づき、土だらけの手で彼の体を抱きしめて、言いました。
「来たのか!おまえも、来たのか!あの道を!」

エン・クォ・メイは自分が今、村で陶工をしていると告げ、一緒に仕事をしよう、とヤオ・フェイ・ライに言いました。ヤオ・フェイ・ライは、ただ「はい」と答えました。

こうして、ヤオ・フェイ・ライは、エン・クォ・メイの元で、しばらく陶器を作る仕事の手伝いをすることになりました。彼らは不思議に息があい、ヤオ・フェイ・ライは、もともとの賢さを発揮して、すぐに仕事を覚え、なかなか上手に器を作れるようになりました。
露草色の空の月に照らされながら、彼らはともに働き、時にお茶を飲みながら語り合い、少しずつ、静かに友情を深めていきました。

はるか昔、彼らが、国境を挟んで互いに剣を向け合った武将であったことがわかるのは、まだずっと先のことでした。


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2012-02-17 06:52:02 | 月の世の物語・別章

豆のさやの形の船に乗った少年は、露草色の空にかかる白い月を目指し、まっすぐに飛んでいました。彼の船の中には、石炭のように黒く曇った水晶の箱が置いてあり、それは、風も精霊の手も神の手も触れていないのに、こんこんと音を鳴らしながら、鼠がおびえているように震えてうごめいていました。

「ふう」彼は息をついて、ゆっくりと月に船を下ろしました。白いなめらかな大地の続く月の上に、月長石の小山のような地形がひとつあり、その山にはあちこちに、ガラスをはめこんだ四角い窓がたくさんありました。少年は船を山のすぐ前に下ろすと、後ろの席から例の黒い水晶の箱をとり、船から降りて山に向かいました。そして山の前で自分の名前と要件を告げると、すぐに目の前にガラスの扉が現れ、それが開いて、彼を中に呼び込みました。

そこは、月のお役所でした。彼は受付に出てきた若い役人の一人に、黒い箱を差し出して、言いました。「これです。例のもの。でも、どうしてなんです?けっこう便利だったんだけどな、いろんな魔法に使えて」少年が言うと、役人は「ふむ」と言って、黒い箱を受け取り、蓋を開けて中を確かめました。その中では、かつて、少年が地球上で友人からもらった地球の魔法玉が入っていました。小さな魔法玉は、触れるものの指を焼くほどの熱の光を放ちながら、心臓のようにどくどくと鼓動しつつ、触れもしないのに、箱の中をころころと転がっていました。役人は言いました。
「上部のご命令でね。月の世にある地球玉は全て回収するようにとのことなんだ。理由は言えない。君も最近は、これの扱いに、少々困ってたろう?」「…ええ、それは。ちょっと前からだったかな。だんだんと熱くなってきて、素手で触れなくなったから、手袋をはいて扱ってたんですけど…」少年は役人の持っている黒い箱を見ながら、まだ残念そうな顔をしていました。地球の魔法玉は、彼の船を動かす魔法の道具としてすばらしい働きをして、特に地球に向かって人や荷物を運ぶときなどは、それは早いスピードで船を運んでくれたものでした。

「ちょっと待ってくれたまえ」役人はそういうと、黒い箱を持って、受付の部屋から姿を消し、数分後、透明な水晶の箱を持ってきて現れました。「天の国の月長石だよ。あそこの職人が魔法を念入りに行って作ってくれたものだ。地球玉を提出したものは、代わりにこれをもらえることになっている」透明な水晶の箱の中には、厚い月光をたっぷり吸いこんだ、小さな光る月長石の玉が入っていました。それは地球玉のような熱の光は持っていませんでしたが、静かにも清らかな白い光を濃く放っていました。役人はそれを、箱ごと少年に渡しました。

「ありがとうございます」少年は水晶の箱を受け取りながら言いました。そして役人に挨拶をすると、静かにガラスの扉から出て行きました。少年は船に戻ると、水晶の箱から月長石の玉を取り出して、それを手にとってしばらく眺めました。「地球玉とはまるで違うなあ。あれは怖いくらい迫力があったけど、これはなんだか、きれいな女性が静かに笑ってるみたいだ。…どんなものだろう、とにかく使ってみるか」彼は、操縦席の舵の真ん中に描いてある紋章の中に、その月長石の玉を放り込むと、呪文を唱えてみました。すると、船はまるで重さがないかのようにふわりと浮かびあがり、舵を勝手に回して、船を動かし始めました。少年は、「おおっと」と言いながらあわてて舵を握りました。「お、軽いや」言いながら彼は舵を操りつつ操縦席にある幾つかのスイッチを押しました。すると船は彼の命令に従い、羽根のように軽く、月の風の中を飛んでゆきました。「…へえ、これもいいや」少年は満足して笑い、船のスピードを上げ、露草色の村に向かって、静かに下りてゆきました。

地球玉を受け取った役人は、お役所の中の廊下を何度か曲がり、奥の階段を上り始めました。そして最上階にある小さな扉の前に止まると、少々発音の難しい呪文を唱え、自分の名と要件を述べました。すると、扉は開くこともなく、中から一人の女性役人が扉を透いて現れて、役人の差し出した黒い箱を受け取りました。「では、頼みます」役人が言うと、女性役人は小さく頭を下げ、「わかりました」と答え、また扉の向こうへ、扉を開くこともなく、入って行きました。役人は、女性役人が消えていったのを確かめると、黙って扉に背を向け、自分の仕事場へと帰ってゆきました。

その部屋は、聖者以外の男性は決して中に入ってはならない部屋でした。黒い箱を受け取った女性役人がその中に入ると、そこには何人かの高い力を持つ女性役人がいて、それぞれに、知能器の前に座ったり、帳面に銀のペンでしきりに何かを書いていたり、月長石に吸い込んだ月光に呪文を振りこんではしきりに光の糸をひきだし、それで何かを編んでいたりしていました。

「新しい地球玉がきたわ」黒い箱を持った女性役人が言うと、ほかの女性役人たちが一斉に彼女を振り向き、それぞれの椅子から立ち上がって彼女の元に近寄り、箱の中の地球玉を覗きこみました。

「まあ、これはまた、変わってるわね」「ええ。前にここに来たものは、いつだったかしら」「ひと月前よ。あのときの玉はまだ、こんなに熱くはなかったし、震えてもいなかったわ」「…まるで、何かにおびえているみたい」

女性役人たちは、地球玉を取り囲んでしばし会話を交わしたあと、熱い地球玉には触れることなく指で魔法を起こして箱からふわりと取り出し、それを宙に浮かせたまま運んで、部屋の隅にある祭壇のような形をした大きな知能器の前の台に置きました。別の女性役人が、清めの呪文をつぶやきつつ、ある一連の詩のような複雑なパスワードをキーボードに打ち込みました。すると知能器の大きな画面に、緑の光を放つ美しい神の紋章が現れ、女性役人たちはその紋章の前に一斉に頭を下げ、祈りを捧げました。

「清らかにもお美しき神の御心に感謝します。愛なる光にとことわの栄がありますように」女性役人たちが紋章に向かって深く礼儀をすると、台の上で震えていた地球玉が突然鋭い光を放ち、悲鳴を上げるような、きぃ、という音を上げて、かちんとひび割れ、だんだんと光を弱めながら、小さくなり始めました。

一定の儀礼を終えると、女性役人はまた深く神への感謝を表し、再びキーボードを打って、神の紋章を消しました。そしてひび割れて小さくなった地球玉に、おそるおそる触り、手にとりました。玉は、ひび割れながらも、まだかすかに内部に光をともし、それはじくじくと痛む傷に耐えるかのように、点滅を繰り返していました。

「…ひびが入ったわ。これは何のおしるしかしら?」「わたしたちに、わかることではないわ。神が教えて下さらない限り。…推測はできるけれど」「ええ、おそらく地球玉は、今の地球に、何らかの筋道を通って共鳴しているのよ。水晶球を全て埋め終わってからよ、地球玉がこんな風になりだしたのは」

彼女らの仕事は、この地球玉のように、清らかなものと汚れたるものの複雑に入り組んだ、普通の魔法ではなかなか手に負えない汚れを、神の紋章の力を借りることによって清めることでした。今の地球上には、一言汚れといっても、さまざまなものがあり、一見清らかに見えるものが、奥の奥に恐ろしい汚れを秘めていることがあるものなどが、たくさんありました。それは時々、罪びととともに月の世に持ち込まれ、所々で人の目をくらまし、さまざまな害を及ぼすことがあったのです。

女性役人の一人は、とにかくひびの入ったその玉を、透明な水晶の箱に入れ、日付と採取した場所、測定した光度や清めの印などを書いたシールを箱に貼り、部屋の奥にあるもう一つの部屋の扉を開け、その中に入っていきました。数人の女性役人もその後を追いました。奥の部屋には、棚の上に、水晶の箱に閉じ込められた数々の地球玉が、見えやすいように斜めにたてかけられ、日付の順に並べられていました。

女性役人たちは、ひびの入った地球玉を、棚の一番端に立てかけると、呪文をつぶやいて手の中に帳面を出し、そこに書いてある地球玉の観察記録に目を通しました。そして棚に並んだ地球玉を注意深く観察していると、日を追って、地球玉がだんだんと小さくなり、光を弱め、代わりに何か、分厚い影のようなものが、表面に現れてきているのに気付きました。「これは何?」ひとりの女性役人が言いました。「玉の奥に潜んでいた地上の汚れが出てきたのね。普通は玉そのものの熱や光で常に浄化されているはずだけれど」「神の浄化を受けるとなぜか光が弱まって、汚れの方がきつく表面に出てきてしまう」「そうね。水晶球は確かに、何らかの影響を地球に及ぼしているのよ。それで神の浄化を受けると、地球の真実がこの小さな地球玉に見えてくるんだわ…」女性役人たちは会話を交わしながら、帳面に新たな観察記録を記すと、それを手から消し、奥の部屋から元の部屋へと戻りました。

「準備は着々と進んでいる」突然、ひとりの女性役人が、自分でも思いもしなかったことを、何かに操られたかのように言いました。ほかの女性役人は一斉に彼女を見ました。彼女らにはわかっていました。神が彼女の口を動かしたことを。こういうことは、この部屋では珍しくありませんでした。女性らしいきめ細やかな霊感を持ち、神のために己の座を空けることをしなやかにできる彼女らの魂には、あまりにも透明で傷つきやすい清らかな神の御手が、傷つくこと少なく、同じ段階の男性よりもかなり簡単に触れることができるからです。

「準備は着々と進んでいる?」ほかの女性役人が繰り返して言いました。だれかがため息をつき、額をもみながら、しばし何かを考え込んだかと思うと、指をぱちんと弾き、一息呪文を唱えて、部屋の真ん中の中空に、地球の幻を描きました。他の女性役人たちもそれを見つめました。女性役人たちは、地球の幻をくるくるとまわしながら、しばしその様子を観察していました。「埋められた水晶球によって、地球上の影が、清いものと分別されはじめているのだとすれば、地球玉の変化も納得いく…かしら」一人の女性役人が言うと、隣にいた女性役人が首をかしげつつ、言いました。「わからないわ。神のなさることは、理解できないことが多すぎる。こうして見たところ、地球上にあまり変化が見えるとは思えないけれど…」

と、ある女性役人が、ふと何かの霊感に打たれて、片方の瞳を紫色に変え、通常とは違う瞳で地球を見てみました。「待って、ちょっと地球を止めて」その女性役人が何かに気づいて言うと、目の前でくるくると回っていた地球が止まりました。「見て、ここ」彼女は指から光を出し、地球上のある一点を差しました。「水晶の陣の相当近くにあるところ。目に見えない火山がある」すると他の女性役人たちは、彼女と同じように片目を紫色に変え、その一点を見てみました。「まあ、ほんとう!」「これは、普通に見ていてはわからないわ!神のお導きね!一体なんなのかしら?」「活動をしているわけではないみたい。いや、まだしていない、というべきかしら」「ほかにはないかしら。探してみましょう」
女性役人たちはまた幻の地球を回し、同じような見えない火山がないか、探し始めました。そうして彼女らが地球を注意深く観察していくと、まだ火山というよりはその萌芽というべき透明な盛り上がりが、水晶の陣の近くに七つほど、現れているのがわかりました。
「おお!」と、彼女らは感嘆の声をあげました。「神はおやりなさっている!」「確かに、神の御業だわ。なんてことなの。これはどういうことなの?」

ひとりの女性役人が、知能器の前に座り、先ほど発見したばかりの、地球の見えない火山のデータをかき集め、知能器に放り込み、人類の進化度数と罪功数、そして地球玉の変化データを振りこんで分析を始めました。彼女はキーボードをカチカチと打って魔法計算をしてみましたが、知能器はある程度まで計算を進めたものの、突然硬い壁にぶつかったように、こん、と音をたてて画面が真っ白になり、「接触不可能」という青い文字が点滅しました。

「接触不可能?」「聖域だわ。これは、触れてはいけない神の秘密なのよ」「わたしたちでも、だめなの?わたしたちは決して秘密をもらしはしないのに」「きっとだめなのよ。でなければ神は教えて下さるはず」

「ちょっと待って」知能器の前に座っていた女性役人が言いました。「見えない火山を、地球上の見える火山に比喩して計算してみる」彼女は、一番発達した見えない火山を知能器の画面に呼び、それに一番よく似た地球上の見える火山に比喩して、再び同じ魔法計算を試みました。知能器は、かなり強引な比喩をやらされて、幾度か戸惑い、奇妙な音を出して驚きましたが、十数分もかけてなんとか正しい計算結果を吐きだしました。それを見た女性役人は、まるまると目を見開いて、一瞬、あっと声を飲みました。

「…なんてこと!これがもし、本当に起こったら、地球人類は壊滅してしまう!」周囲がざわりとうごめきました。誰かが叫ぶように言いました。「うそ!そんなことはあり得ないわ。神は人類は滅びないとおっしゃっているのに!」「これは比喩よ。データだってまだ少なすぎる。でもなんでこんな結果が出るの?」「見せて、わたしにも」女性役人たちは、画面に映る計算結果を一斉に見つめ、ほぼ同時に驚きの顔を見せました。そして、震えながら口を覆い、あるいは額に手をあてて首を振り、あるいは指を組んで祈りの姿を見せ、それぞれに受けた心の衝撃を表面に表しました。

「…こんなことになるの?地球は」「これはあくまでも比喩よ。現実に起こるはずはない」「そうよね。神は決して、地球をお見捨てにはならない。けれど、もし神がお見捨てになったら…」「そう、きっと、こうなるのだわ…」女性役人たちは、神の真実の恐ろしさを垣間見てしまったことに身の縮むような戦慄を感じ、震えていました。

「あの見えない火山を使って、きっと神は人類をなんとか救うおつもりなのよ」ある女性役人が、一筋の光を求めるように言いました。それを別の女性役人が制して言いました。「待って、…これ以上深く探るのは、やめましょう。わたしたちは見てはいけないものを見てしまうかもしれない」すると、皆はそれに一斉にうなずきました。しかし彼女らは、ショックから抜け出すことができず、茫然と息を飲み、苦しそうに顔を歪め、地球の幻を見つめました。

「なんてことをしたの!あなたたちは!」一人の女性役人が、青い地球の幻に向かって激しくどなりつけました。彼女は悔しそうに歯を食いしばり、ぽろぽろと頬に涙を流していました。
「こんな、こんなことになっているなんて……」彼女は手で顔を覆い、とうとう声をあげて泣き始めました。ほかの女性役人たちは困ったように顔を見合わせ、とにかく彼女の周りに集まり、なだめるように言いました。

「大丈夫、幻よ。全ては、計算上の幻」「そうよ。比喩だと言ったじゃないの」「でも、現実に起こっても、不思議ではないことなのね」「ええ、計算上に、神の愛という絶対のXがなければ」「…信じましょう、神を。神がわたしたちを裏切るはずがない。でなければ、なぜ今まで、わたしたちが地球のためにがんばってきたのか、わからない」「そうよ。真実は幻とは全く違う。神の真実はいつも、わたしたちの計算と予測をはるかに上回るもの」「愛が、人類を見捨てるはずはない」

女性役人たちは、泣き濡れている彼女を真ん中に、まなざしを交わしあい、手を取り合い、お互いの心を確かめました。やがて泣いていた彼女もその心に響き、「神よ」と天を見上げて指を組み、「地球をお救いください」と祈りました。

女性役人たちは、この部屋で見つけた透明な火山のことも、また幻の比喩計算の結果のことも、部屋の外の誰にも漏らさないことを、決めました。そして、必ず、皆でできる限りのことをして地球を助けようと、誓い合いました。

部屋の真ん中に浮かぶ幻の地球は、独楽のようにくるくると回りながら、何も聞かなかったかのような振りをして、冷たく覚めた幻の心を、彼女らの涙から背けていました。



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2012-02-16 07:20:17 | 月の世の物語・別章

月の世には、ただひとところだけ、罪のない人々が住むところがありました。そこには、やわらかな毛布をどこまでも広げてしきつめたような、はてもなくひろがる黄色い砂丘があり、勿忘草色の空に浮かぶ黄金色の月が、ほんのりと熱を含んだ月光で、常に砂丘を温めていました。

黄色い砂丘のあちこちには、透明な水晶の卵がたくさん散らばっていて、その中には、寒さに心を閉じた人々が、硬く目を閉じ、胎児のように自分を抱いて眠っていました。彼らは、地上で生きていたとき、魂が生きてゆくために必要な愛を与えられることが少なすぎ、それがために、あまりに寂しく、苦しく、深く傷つき、石の心の中に深く魂を閉じ込めてしまい、罪のないにも関わらず、どうしても月の癒しを必要として、死後この砂丘を訪れ、透明な水晶の卵の中に、魂の安らぎを求めて閉じこもっているのでした。

卵の間の所々には、たくさんの月色灯が細い立木のように立っており、月光とともに彼らの心を照らし、温めようとしていました。そして、たくさんの女性の導き手が、水晶の鈴をころころと鳴らしながら、美しい呪文の歌を歌いつつ、愛に飢えた氷のような人生を送ってきた人々の心を癒そうと、細やかに卵の世話をし、日々、彼らに愛を語り続けていました。

ある日、一人の導き手が、遠く砂丘の向こうに、蜃気楼のように、青い海が見えるのに気付きました。するとその導き手は、あるひとつの水晶の卵を探し出し、その中に眠っている一人の女に近づいて、そっとその耳にささやきました。
「さあ、出なさい」すると、卵の中の女は、何かに操られるかのように、うっすらと目を開き、何を見るでもない瞳を、ぼんやりと導き手の方に向けました。その瞳を見て、導き手の女性は、胸に激しい痛みを感じざるを得ませんでした。なんとひどいことをされたのか、あなたは。愛されて当然なのに、なぜ人々は、ひとかけらの愛さえ、あなたに与えなかったのか。

女は生きていたとき、染色を芸とする一人の職人でした。彼女が染めあげて布に描く絵は、それはそれは美しく、人々に感動を与えました。たくさんの人々が、彼女の才能をほめ、評価しました。しかし、本当に彼女が必要としていたものを、与える者は、誰もいませんでした。彼女は、布の中に、とても美しい理想の貴公子の姿を描くのが上手でした。そんな、地上にはありえない天使のような男性を布の上に描くことが、彼女の幸福でした。しかし、彼女は美しくはなかったため、地上の男性は決して彼女に愛を与えようとはしませんでした。そして、彼女を生んだ両親さえもが、彼女の才能を喜ぶよりも、密かに嫉妬して、表面上は温かな言葉をかけつつも、彼女のために必要な本当の愛を与えることをしませんでした。

彼女は、その鋭い芸術家の感性の中で、周囲の人々の嘘に敏感に傷つき、表面上は笑って嘘につきあいながらも、内面は深く傷つき、それは魂の奥に、氷の刃を受けたほどのひどい寂しさの病となってとりつき、彼女の人生を一層寒く、孤独にさせてゆきました。

そのようにして死後、彼女はこの黄色い月下の砂丘に降り、ひっそりと水晶の卵の中に閉じこもり、じくじくと痛む自分の魂の傷と語り合いながら、一人ずっと、己の卑しさと愚かさをかみしめつつ、ただ石のように動かず、眠っていたのでした。

導き手は、水晶の鈴をころりと鳴らし、女に微笑みかけました。すると女は、魔法にかかったように、手をその鈴にのばし、そのままするりと卵から抜け出しました。「さあ、いきましょう」導き手は女の手をとり、ゆっくりと立たせると、その体を支えるようにしながら、彼女に合わせてそろそろと歩き、女を蜃気楼の海辺へと連れてゆきました。

砂丘の丘を、一つ超えると、もう海風が吹いていました。海は瑠璃色で、はてもない向こうまで広がっていました。導き手は、女を海辺に座らせると、自分もその隣に座り、水晶の鈴をころころ鳴らしながら、やさしい呪文の歌を歌い、その魂に愛を深く語りかけていきました。
「さあ、そろそろおいでになりますよ」導き手は言いました。すると、海のはるか向こうに、小さな人影が現れ、それがだんだんとこちらに歩いて近づいてくるのが見えてきました。女は、ただ何もわからないというように、ぼんやりと海を見つめていました。

人影は、海の上をゆっくりと歩いてきて、岸辺にいる女の方へと近づいてきました。その人の姿が、すぐ目の前まで来たときになって、はっと、女は気付きました。その人は、背の高い細やかな体をしたとても美しい青年で、水色に透き通った長い髪をしており、青ざめたような白い額に、金に縁取られた丸い瑠璃の玉をはめ込んでいました。その瞳もまた深い瑠璃色で、天使のように美しい顔に、切ない愛の微笑みを表して、静かに女を見つめていました。

「ああ」女は声をあげました。昔彼女は、こんな風に、不思議に古風な服を着た、美しい若者の姿を布に描いたことがありました。目の前の人は、その絵の中の若者に、それはよく似ておりました。女はしばしただその人の美しい姿に目を奪われていました。その人は、女のまなざしをやさしく見つめ返し、そっと女の名前を呼び、「あなたを愛している」と言いました。しかし、その声は、石のように固まってしまった女の心の壁に阻まれて、その奥の彼女の痛い魂の傷にはまだ届きませんでした。

導き手が彼女の耳元に口を寄せ、ささやきました。「忘れましたか。彼はずっと、あなたを導いていた精霊です。あなたの芸術の霊感を助け、常にあなたを愛していた精霊です。ああ、悲しいことに、あなたの人生の中で、心よりあなたを愛していたのは、あの頃あなたの目には見えなかったこの方だけでした…」

女はただ沈黙して、精霊の姿ばかり見ていました。すると精霊は、右手を風の中に振りあげ、月光を一つかみ取ると、拳の中でしばしそれをもみこんで、それを女の目の前に突き出し、ゆっくりと手を開きました。するとその手の中には、小さな金の箱があり、精霊は彼女の目の前で、静かにその箱を開きました。見ると箱の中には、月光でできた金に、血のように赤い珊瑚の珠をはめ込んだ、細い指輪が入っていました。精霊は、その指輪を箱から取り出すと、女の小さな白い左手をとり、その薬指に、そっと指輪をはめ、もう一度、「あなたを愛している」とささやきました。

女は、ただ、精霊の顔ばかり見つめていました。そして、昔の自分の技を思い出し、右手で砂をかいて、美しい若者の顔を描き始めました。精霊はまた、「あなたを愛している」と言いました。そして、何度も、何度も、彼がそういうたびに、女の顔は、少しずつ、美しくなってゆきました。やがて彼女は、砂の上に、それは見事な、美しい若者の微笑みの顔を描いていました。

「あなたを愛している」精霊は言いました。そうして、その声は、やっと、彼女の石の心を破り、かすかにその魂に響きました。すると、彼女は、表情を凍りつかせたまま目を見開き、涙をほろほろと流し始めました。嗚咽が漏れ始め、彼女は手で顔を覆うと、幼女のように泣き始めました。導き手はその背中を優しくなでて、「いいのですよ、いいのですよ、それはあなたのものなのです。あなたが受け取って、当然のものなのです」と言いました。女は導き手の膝の上にくずおれ、ひとしきり、泣きじゃくりました。
ああ、ああ、ああ…

やがて、ふと風向きが変わり、水色の透明な髪をした若者が、空を見上げました。「ああ、そろそろゆかねば」彼は言いました。導き手に背中をたたかれ、女は泣き顔をあげて、精霊の方をみました。精霊はその顔にまた微笑み、「心よりあなたを愛している」と言うと、そっと背中を向けて、また海の向こうに向かって歩き始めました。

「大丈夫、また来てくださりますよ。あの方は決してあなたのことを忘れはしませんから」導き手が言いました。女はただ、砂の上に手をついて、海の向こうに消えていく精霊の後ろ姿を見送っていました。そしてその姿が、本当に海のかなたに消えて見えなくなってしまうと同時に、海も消え、もうそこには、はるかな砂丘ばかりが広がっていました。

「立ちましょう」導き手が言うと、女は黙って立ち上がり、彼女に体に支えられながら、砂の上を歩いて、また自分の卵の中に戻ってゆきました。金の指輪は、温かい月光を宿し、彼女の寂しさにそっと唇を近付け、愛していると、かすかな声で繰り返し、オルゴールのようにささやき続けました。

導き手は、女が前よりも少し美しくなり、幾分、魂の傷が癒えているのに、ほっと息をつくと、ふとまた、気配を感じて、振り向きました。すると今度は、砂丘の向こうに、はるかな緑の草原の蜃気楼が見えました。導き手は、卵の群れの中を探し、ある若者が閉じこもっている、少し青く染まった水晶の卵を見つけ出しました。

「さあ、出なさい」導き手は、水晶の鈴をころりと鳴らして、彼の耳にささやきました。すると彼はすぐに目を開けて、彼女の導きを待つこともなく、すぐに卵から出てきました。彼はかつて、地上で純真な愛を詠った詩人でしたが、真心で愛していた女性に、ひどい裏切りをされて見捨てられ、それゆえに魂に深い傷を負い、寒い孤独の病に落ちて、そのまま命萎えて死んでしまったのでした。

若者は命じられることもなく、自ら自分の左手に目をやりました。その薬指には、月光の金に青いトルコ石の玉をはめ込んだ指輪がありました。
「いきましょう。またおいでくださったわ」導き手が言うまでもなく、彼は草原を目指して歩き始めました。そして彼はもう知っていました。草原の向こうから、かつて彼の詩の霊感を助け、心より彼を愛し導いていてくれていた精霊が、ひたすら自分を目指して歩いてきてくれていることを。彼女は、銀の長い髪の間から、三本の紅玉の小さな角を生やしており、透き通った薄紅色の美しい瞳で、いつも彼の真実のまなざしを吸い込んでは、心から「愛している」と言ってくれることを。

「ああ、ああ」と、彼は子供のように笑いながら駆けだし、草原を目指しました。導き手は、慌てて彼を追いかけました。愛する人、愛する人、愛する人!彼は叫びながら走り、草原の端にたどりついて、はるかかなたからやって来るその人の姿を見つけました。
喜びが胸にあふれ出し、彼は、ああ、ああ!と空に響く声で、彼女を呼び続けました。精霊はその声にこたえ、細い手をあげて、彼に向かって振りました。

涙が若者の頬を流れ、その魂が、生き生きと息づいて光り出すのを、そばから導き手がそっと見守っていました。導き手もまた、彼のほおをなでる風に、そっと「愛している」という声をまぜて、その耳に忍び込ませました。

このようにして、まだ若くして弱く、ただ純真でありすぎるがゆえに、正直でありすぎるがゆえに、地上で深く傷つきすぎた人々の魂を、温かき砂丘の月の使いである女性の導き手たちは、水晶の鈴をころころと鳴らしながら、遠い遠いはるかな昔から、ずっと癒し続けているのでした。



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