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慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

聖書の世界(4)

2018年09月14日 | 宗教
聖書は、編集に200年もかかった

正典聖書からはずされた文書
 ☆イエスの教えは、当初は口伝えで広まり、時とともに文書にされていった
 ☆書いたものが用いられるようになると、問題のある文書も現れ始める
 ☆キリスト教団では、それをなんとかしようという動きが出てくる
 ☆「正続な教えだけを伝えているもの」を選別する動き
 ☆BC200頃、正典を作ろうとの積極的な運動になった
イエスは「創造主の子か?」「人間の子か?」をめぐる戦い
 ☆キリスト教がローマ帝国で公認宗教のひとつに加えられた
 ☆公認したコンスタンテイヌス帝は、キリスト教にとりわけ目をかけた
 ☆こういうときの人間集団にはゆるみが出やすい
 ☆”新教説”を唱える者が、教団内でもてはやされたりする
 *「イエスは”優れた人間”「イエス人間説」だ
 *アレクサンドリアの司祭が唱える「イエス人間説」りわけ歓迎された
聖書の大きな柱「救い」の理論
 ☆「イエスの十字架死で、人間が天国に入れる道が開かれた」
 ☆「イエスは人間だ」というのでは、論理的に成り立たなくなる
第1回キリスト教公会議(ニカイア公会議)
 ☆「イエスは聖霊により受胎された創主の子」という結論が導き出された
 ☆アリウス派は異端と結論づけられ、教団から追放された
 ☆この事件で、正典を定めようという動きはさらに本格化するんだ
その後のカルタゴ公会議と「正典聖書」
 ☆「カルタゴ公会議」に参集され、正典の最終的な確認がされた
 *ユダヤ教の正典聖書を加えて、キリスト教の正典聖書が確定した
 *正典聖書は「新約聖書」27巻、「旧約聖書」44巻、計71巻
 ☆現在カトリックで使われている聖書完成


ルターが宗教改革での聖書
 ☆聖書を検討し、旧約聖書から五つの文書を取り除いてしまう
 ☆それが今日、プロテスタント教会で用いられているプロテスタント聖書
日本で読まれている聖書
 ☆日本での代表的聖書の訳書は5つ
 *『奮新約聖書』『聖書』『新改訳聖書』『現代訳聖書』
 *『新共同訳聖書』(プロテスタントとカトリックの神学者たちが共同で作成した)
 ☆聖書の原典は旧約聖書がヘブル語、新約聖書がギリシャ語で書かれている


知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『聖書が面白いほどわかる本』
(『聖書が面白いほどわかる本』記事より画像引用)


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次世代皇室&宮内庁の怠慢が目に余る

2018年09月14日 | 皇室
天皇陛下在位30年の式典の日は昭和天皇「大喪の礼」が行われた日

 ☆現状では、皇室と国民の距離は広がるばかり

公文書ファイルが行方不明に
 ☆終戦の日から73年、天皇、皇后両陛下は平成では最後となる全国戦没者追悼式に臨まれた
 ☆来年の式典臨席は皇太子ご夫妻になるが、両陛下の平和への思いはどこまで引き継がれるか
 ☆最近の宮内庁の怠慢と無神経は、目に余る
 *宮内庁書陵部が作成した公文書のファイルが行方不明になっている
 ☆天皇陛下の在位30年記念式典開催日、昭和天皇が「大喪の礼」が行われた日
 ☆皇族を地方訪問で迎えた自治体関係者がいう
 *宮内庁幹部の地方関係者に対する細かい指示が多すぎる
 *宮内庁は自分たちの不作為は棚上げし、神経質なくらい指示・要請してくる
 ☆皇太子殿下と雅子妃来年は天皇、皇后になる
 *責務に対する自覚が足りないという声は多い
 *宮内庁が、皇太子ご夫妻を甘やかせてきたツケが回ってきたとの指摘もある
東宮職が侍従職になる不安が
 ☆皇太子ご夫妻は夏の甲子園大会の開会式に臨席された
 ☆皇太子殿下は立ち上がって、球児を激励されたが、隣席の雅子妃は座ったまま
 ☆雅子妃は園遊会を始め、公的行事への出席は増えている
 *冒頭だけで出席し退席されることが多く、公務を十分に果たしているとはいえない
 *『出席』と伝えておいて急に取り止めることも多い
 *万端の準備をしていた人たちの労を無にする結果となる
 ☆問題は、現在の東宮職が核となり、侍従職に移行する
 *これまで皇太子ご夫妻に何もいってこなかった彼ら
 *天皇、皇后に就いたときにうまく仕切れるのか?
 *今後も『雅子妃ファースト』路線が続くのではないかと心配されている
小室氏には税金で警備もつき
 ☆宮内庁は、眞子さまと小室圭氏との婚約に対しても、傍観者的姿勢を貫いてきた
 ☆秋篠宮家の”私事”と、小室氏の身辺調査すらろくにしなかった
 ☆世間は小室氏の留学は、冷却期間を置いて婚約解消になるだろうと見ている
 ☆本誌が得た情報では、秋篠宮さまと眞子さまは、小室氏との結婚を諦めていないようだ
 ☆小室氏も簡単には諦め切れない
 *訪米の際もSPがついたし、ニューヨークでも警備体制が敷かれ税金が使われている
 ☆米メディアは小室氏インタビューを狙っている
 *自由恋愛を貫けない日本の皇室はおかしいとの論調
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『THEMIS9月号』




天皇陛下在位30年の式典の日は昭和天皇「大喪の礼」が行われた日
(『THEMIS9月号』記事より画像引用)

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天下統一・南蛮船、・朱子学(3)

2018年09月14日 | 歴史
天下統一・南蛮船、・朱子学(3)

家康は関ヶ原後も東日本だけの確保を狙った
 ☆関ヶ原の3年後に家康は征夷大将軍となる
 ☆豊臣の天下から徳川の天下になったことを意味するものではない
 ☆公家や大名の間では、家康の将軍就任と秀頼の関白就任が同時との噂が流れていた
 ☆天下統一は、秀頼の成人と家康の存命という時間との競争
 ☆家康は、秀頼が関白になっても、東国を確保できる手立てを講じた
 ☆東西分割論が成立しなかったか理由
 *家康が長生きしすぎて欲が出てきた
 *千姫に子供が産まれなかった
 *家康と秀頼の二条城の会見での秀頼の成長
 *この会談の直後に、加藤清正、浅野幸長、前田利長らが次々と死去
江戸は、秀吉の命令で家康に押しつけられた
 ☆家康は、江戸が好きでなかった
 ☆江戸を関東の首府に決めたのは家康でなく秀吉
 ☆家康は、大規模な土木工事は趣味でもなければ得意でもなかった
 ☆関八州の主となってから駿府で死ぬまで江戸に滞在は5年間
 ☆2代将軍、秀忠は大坂にとって恩人
 *秀忠は大坂城の本格再建を決め、伏見城を廃城にした
 *徳川の西日本統治の中心を大坂、京都屋敷、朝廷の監視拠点は二条城に集約した
 *秀忠の決定がなければ、大阪は小田原のような地方都市になっていた
保科正之は名君ではなかった
 ☆家光は無能な人物で、強度の鬱で気まぐれ
 ☆女性に興味が持てず男色の世界にふけつて、全国の大名にも悪影響が甚だしかった
 ☆公家の息女が挨拶に来たのを見て女性に目覚め、彼女を側室にした
 ☆4代目家綱の時、何も変わらないのが理想という安定化路線が極地に達した
 *病弱な家綱将軍を、井伊直孝や秀忠の隠し子会津藩主・保科正之らが支えた
 *正之は水戸光囲、池田光政らと並ぶ「仁政」を行った名君との評価あるが?
 *幕府を深刻な財政破綻に追い込んだのは、正之が推進した支離減裂なばらまき政策
 ☆5代目の綱古は徳川15代のなかでも最高の秀才で知的能力は高かった
 *経済政策では、荻原重秀による貨幣改鋳が行われました
 *側用人 柳沢古保がいて、綱吉の気まぐれに適当に付き合う
 (軌道修正しながら29年にも及ぶ綱吉の治世を大過なく乗り切らせた)
 *綱吉の時代には、信賞必罰といった赤穂浪士による討ち入り事件もあった
 *儒教的な仁政への理想が暴走した「生類憐れみの令」等の悪評の政策もあるが 
 ☆6代将軍家宣は平几な人物
 *新井白石の思いこみの激しい政策を実行に移して混乱を招く 87
 ☆7代将軍家継は、就任後3年後に死亡
江戸時代と李氏朝鮮がよく似ている理由
 ☆江戸時代には朱子学が国教的地位を占めるようになる
 ☆戦国時代までは禅僧が秘書、家庭教師、軍師などを兼ね、朱子学は禅宗的教養の一部
 ☆藤堂高虎が捕虜として連れてきた官僚より、李氏朝鮮流の朱子学が伝授された
 *弟子の林羅山が家康に仕官
 ☆朱子学は、秩序が保たれることが主眼で、変化を嫌う
 *身分は固定されたほうが良い
 *男女はできるだけ接触せず女性が男性の領分に口出すべきでない
 *それぞれの身分や性別に応じて社会から求められることをするべきだ
 ☆朱子学では、社会は停滞しますし、差別はひどくなる
 ☆被差別については、江戸時代以前にもとして扱われた人々はいた
 *江戸時代になって固定化され、分かりやすく差別された
税制の失敗で一日に五合ずつ玄米を食べていた江戸の人々
 ☆江戸幕府にとり「中興の祖」である8代将軍吉宗
 ☆紀伊藩の財政破綻を藩主として吉宗は改善した
 ☆吉宗は、将軍として紀州でしたことと同様政策をとる
 *幕府領にとって猛烈なデフレ政策になる
 *財政収入を確保するために、必死で米価維持対策を展開する
 *幕府領の税収確保のために新田開発を盛んにする
 *米ばかりが安くなって、ほかの商品が高くなるのは当たり前
 ☆江戸時代中盤以降は人口3千万人で、米の生産は3千万石
 *玄米換算で、子供から年寄りまで、 1日5合ずつ米を食べていた
 *大量の玄米ごを、漬け物・味噌汁・小魚といった粗末な副食物で食べていた
知識・意欲の向上目指し、記事を参考・引用し、自分のノートとしてブログに記載
出典内容の知識共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介しました
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
詳細は、出典記事・番組・画像で確認ください
出典、『最強の日本史』


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